るうず=lose=敗北
喰種同士が会敵した場合、自身に勝機が有るか無いかを判断する方法は大きく分けて二つある。
一つは赫子の相性。
喰種には『赫包』と呼ばれる赫子を発生させ、ガストレアにとってのウイルス
肩まわりに赫包を持ち、羽や翼のように赫子を展開し、4種類の中で最も俊敏だが、持久力に乏しい『羽赫』。
肩甲骨下付近に赫包を持ち、金属質で頑丈な赫子を形成し、耐久力に優れるが、その重量のせいでスピードで劣る『甲赫』。
腰付近に赫包を持ち、鱗に覆われた触手のような赫子を生やし、赫子の中でもトップクラスの威力を誇るが、同時に他のどの赫子よりも脆さを有する『鱗赫』。
尾てい骨辺りに赫包を持ち、尻尾のように伸びる赫子を発生させ、攻守・敏捷・
赫子の相性をまとめると、機動力はあるが攻撃の軽い『羽赫』は『甲赫』の頑丈さを崩せず、鈍足の『甲赫』では装甲ごと貫通させる威力を持つ『鱗赫』の的になり、赫子が脆い『鱗赫』は隙のない『尾赫』を攻めきれず、器用貧乏で決定打に欠ける『尾赫』は『羽赫』のスピードに翻弄される。
ただしこれはあくまで相性であり、状況や実力次第で容易に覆すことが可能である。
もう一つは赫子の質だ。
喰種の強さは、彼らの武器である赫子にそのまま反映される。それは赫子の数であったり、形や大きさなど様々だが、相手と自分の赫子を見比べればある程度は彼我の実力を把握できる。
さて、前置きはこのぐらいにしてそろそろ本題に入るとしよう。
まずカネキとクロの赫子は双方ともに鱗赫。よって相性による有利不利は除外する。
次に赫子の質だが、大きさも形もそこまで違いは見られない。ならば数ではどうだろう。カネキの赫子は全部で4本、対してクロの赫子はその半数である2本。
であれば必然、勝機があるのはカネキの方だ。
しかし……。
「ゴボァッ……!!」
「どうした。私が邪魔なんじゃなかったのか?」
クロが振るう赫子に殴り飛ばされ、水飛沫を上げながら無様に屋上の縁を沿うように転がるカネキ。誰が見ても明らかなほど、クロがカネキを圧倒していた。
(駄目だッ、目で動きは追えているのに、身体の反応が遅い……!)
「そら、休んでる暇はないぞ」
「チィッ……!」
まるで蛇のように襲い掛かる2本の赫子に、四肢を地に着けた状態のまま、カネキもまた自身の赫子を鞭のようにしならせ迎撃する。
だが、互いの赫子が激突した瞬間、カネキの操る4本の赫子すべてが呆気なく霧散する。かろうじて威力が相殺されたおかげでクロの攻撃が届くことはなかったが、その様子にカネキは「またか」と苛立たしげに舌打ちしながら立ち上がる。
(力負け……いいや、違う。確かに鱗赫は他の赫子と比べて脆いけど、ただ赫子をぶつけ合っただけで崩壊するのはおかしい。たぶん、僕の赫子の強度が以前よりも落ちてる。加えて……)
ちらりと、カネキは自身の体を一瞥する。まず外側だが、致命傷と思われるほどの大怪我は負っていないものの、彼の全身は打撲や裂傷で血まみれだ。内側に至っては、
これらの傷を負ってからすでに三分が経過しているが、未だに折れた骨どころか頬の切り傷すら
つまるところ、今のカネキの肉体はおよそ喰種とは程遠い、ただの人間とほとんど変わらないくらいに弱体化していた。
「…………ああ。そう言うことか」
クロのなにか納得したような呟きに、カネキは視線を僅かに上げる。
「お前、一体いつからまともに
「………………」
「どうして分かった? って顔してるな。簡単だよ。今のお前とまったく同じ状態の喰種と会ったことがあるからさ」
先程まで淡々とした様子だったクロの表情に変化が生まれる。
「こういう仕事をしていると、同族と遭遇するのも珍しくなくてな。でも、いざ戦闘になっても向こうの赫子は一回叩きつけただけで霧散。中には赫子すら出せないヤツも居たな」
片側の頬を吊り上げ、口元に笑みを作る。
「そいつらがガストレアを長い間食べてないと知って、不思議で堪まらなかったよ。だって私たち喰種は
それは冷笑だった。
「"人間として生きたいから"だとさ。嗤うしかないだろう。化け物が人間らしくって時点でそもそも無理な話なのに、しかもそんな喰種を殺すように依頼したのは、そいつの存在を疎ましく思った周囲の
口の中に溜まった血を吐き出し、カネキは視線を鋭くしながら返答する。
「……生憎だけど、僕が奴らを食ベないのはウイルスの過剰摂取でガストレア化しないためだ」
この世界において、多くの人間にとって喰種とは数ある都市伝説の一つに過ぎない。だが、自国に喰種を『所有』している一部の者たちにとっては、喰種とは『呪われた子供たち』以上に強力な兵器であり、同時に稀少な研究対象でもあった。
そして彼らは、各国でその存在を確認されたカネキを含む計8体の喰種を、機械化兵士たちと同様に戦場に投入。喰種を認知していた数ヶ国は独自のネットワークを形成し、喰種に関する互いの研究データを共有した。
そのデータの中には、ガストレアとの戦闘中にウイルスを大量に取り込み、ガストレア化した喰種の情報も記録されていた。
ガストレアへの憎悪に燃えていた当時の室戸菫は必要な犠牲と割り切っていたが、戦争が終結したことで正気に戻った彼女はカネキをガストレアにしない為に、彼が帰国してからはウイルスの一切の摂取を禁じた。
頭を下げ、涙ながらに何度も謝罪する菫の姿を、今も鮮明に覚えている。
「まさかとは思うが、お前が言ってるのはドイツで暴走した『梟』のことか? アレは裏の人間が喰種の情報を占有するために流した
「なんで、いや、は……?」
一瞬、なぜ『梟』の情報を知っているのか反射的に尋ねようとして、直後に彼女が続けた言葉に思考が停止する。
『梟』。それはドイツで発見された女性の喰種の通称であり、彼女が持つ赫子が羽毛のように見えたことからその名がつけられた。
ただでさえ少ない喰種の中でも殊更に貴重な、身に纏うような赫子を有する赫者でもあり、仮に喰種に序列のようなものがあったなら間違いなくトップに君臨していたであろう存在。
しかし彼女は、ガストレアウイルスの過剰摂取によって赫包の貯蔵容量を超えた結果、全身を赫子で包まれた巨大な四足歩行の怪獣のような姿に変貌し、暴走。周囲にいた存在すべてを敵味方の区別なく殺害、あるいは捕食し、ドイツ軍に甚大な被害をもたらした。そしてその後、日本から派遣されたとある人物によって『梟』は駆逐された。
これらの情報が、嘘で塗り固められた虚妄であると、目の前の女はそう言ったのか?
「今ごろその『梟』とやらはどこかの組織に雇われて大暴れしてるか、研究材料にされてるかのどちらかだろうな」
「その情報が本当だっていう証拠はっ……」
「無いな。だが、この情報をくれた奴は
至って冷静に、理路整然と語るクロの言葉にカネキは押し黙る。そもそもの話、『梟』の記録の真偽は菫に頼んで彼の身体を……より正確には赫包を
たかが一週間くらいと思うかもしれないが、少しでも早く蓮太郎に強くなってもらいたいカネキにとっては惜しすぎる時間だった。
『蛭子影胤テロ事件』、そして現在進行中の『聖天子狙撃事件』に続く三つ目のイベントである『第三次関東会戦』。おそらくそれ以降も、蓮太郎には様々な脅威が降りかかるだろう。もし今の彼がその脅威と対面したとして、果たして大切な人たち全員を守りきれるのか?
否、不可能だ。今の蓮太郎では確実に誰かを失う。そしてその都度、彼は己の無力を呪い、苦しみ、踠き、やがて磨耗する。カネキは蓮太郎に、そんな辛い思いをさせたくなかった。
だからこそ彼は、
「さて、ここまでお前の質問に律儀に答えてやったんだ。今度は私の質問に答えてもらうぞ。殺す前に、これだけはどうしても確認しておきたいんだ」
「………何ですか?」
ちらりと、左側の足元に広がる
「お前は本当に、あの黒い死神なのか?」
「なに………?」
しかし、クロが投げかけたその疑問に、カネキは訝しげに眉をひそめた。なぜそんな情報を、このタイミングでわざわざ確認するのか、と。
「一応依頼人からはお前が黒い死神って情報は伝えられていたんだが、やっぱり不安でな。宝くじで10億円が当たっても現物を受けとるまで信じられないだろう? それと同じでさ、ぬか喜びとかしたくないんだ」
「……そんなことを知ってどう───」
瞬間、眼前に迫る赫子。一つを首を逸らすことで避け、もう片方をユキムラで流せば、いつの間にか肉薄していたクロが全体重を乗せた頭突きを食らわす。
「づぁッ……!」
視界が白く染まり、衝撃で一歩退がろうとするカネキの右足を踏み抜き、固定。胸ぐらを掴み、自身に引き寄せながら鳩尾に拳をめり込ませる。
内臓が口から飛び出そうな感覚と共に、血と肺の中の空気を無理やり吐かされる。そして、前のめりに倒れそうになるカネキを、胸ぐらを掴んでいる手で引き寄せながら自身の体を反転させ、自分と位置を入れ替えるように背後の床に叩きつける。
「ごっ、か、はァッ……!!」
「無駄口を叩く必要はないんだよ。お前が口にしていい台詞は『はい』か『いいえ』、二つに一つだ。さっさと答えろ」
ここまでクロは何度か口で挑発をしてきたが、それとは逆に攻撃の手は徹底的に感情を排他したように機械的で、理性的だった。
だが、今しがた彼女がカネキに浴びせた攻撃は、明らかに感情的なモノだった。その変貌ぶりに、カネキは先の質問がクロにとってどれほど重要なものなのかを理解する。
「………ああ。黒い死神の正体は、僕だ」
「───────」
嫌な沈黙だと、カネキは思った。まるで嵐の前の静けさ、あるいは噴火する直前の火山のような……。
「ふ───ふふっ、ひはは……」
ぞわり、と全身の肌が粟立つのを感じた。
「あははははははははははははははッッ!!!」
大きく肩を揺らし、振り続ける雨のことなど気にもとめず、夜空を見上げながらクロは哄笑する。
「あぁ、そうか……そうかッ……!」
狂気に歪んだ笑みを浮かべながら、クロはその双眸に、憎悪と怒りをごちゃ混ぜにしたようなどす黒い感情を宿らせ、カネキを睥睨する。
「会えて嬉しいよ、黒い死神。じゃあ挨拶も済んだことだし死のうか。言っとくけど楽に死ねると思うなよ。全身の骨を一本残らずへし折って、末端の部位から肉すり潰して、最後にその頭蓋を噛み砕いてのうみそぐぢゃぐぢゃにしてぶちごろじえやるあらァッ!!」
パキパキ、と薄氷が砕ける音が響く。それに合わせて、クロの身体に4本の腕が……いや、腕の形に変化した赫子が生え、顔には上半分を覆うような多眼の面が生成される。
「ギィィ……!」
「赫者……いや、全身を覆ってるわけじゃないから半赫者ってところか。まあ……」
本能が警鐘を鳴らし、それに従って横に飛べば、先程まで自分が立っていた場所が轟音を上げて陥没する。
爆心地には、「ニィ……」と歪な笑みを向けるクロの姿があった。
ツゥー……、と攻撃を掠めた頬から血が流れる。
「どっちにしろ、
◆◇◆◇
赫者とは、言うなれば喰種の最終形態だ。夥しい量のガストレアウイルスを体内に取り込むことで、赫子が全身を包むように発達し、これによって攻撃力や耐久性、俊敏性などのあらゆる戦闘能力が爆発的に上昇する。
それに対し半赫者は、全身ではなく体の一部までしか覆えない不完全な状態である。
とはいえ、威力もスピードも通常時とは比べ物にならないという点は赫者と同じであり、どちらも脅威であることに変わりはない。むしろ半赫者は赫者より精神が不安定になりやすい面もあるため、周囲への被害を考えれば半赫者の方が危険度は高い。
「ガァぁねぇェギぃィィッッ!!!」
「っ……!」
「おまえが、オマエお前おマエおあえがッ!!」
敵から殺意を向けられるのは慣れている。そもそも戦場で一々殺意に脚を震わせていては生き残れない。
けれどこれは。
『返してよぉ……私の、お父さんとお母さんを返してよぉっ!』
『なんで、もっと早く助けに来てくれなかったんだ……?』
『感染、してる? え、いや待ってくれ、俺は人間だ! ガストレアじゃないっ!!』
まるで。
『あんたの、せいだ』
『化け物!』
『人殺しが』
『お前が……ッ、お前が死ねばよかったんだ!!!』
『死ね死ね死ねっ、みんな死んじまえ!』
『ゆる、さない……! 絶対に、お前を見つけ出して、この手で殺してやるッ!』
ずっと昔から、戦場で嫌というほど聞いてきた、被害者たちが理不尽に向ける
バキッ、とカネキは慣れ親しんだ動作で指を鳴らす。意識を切り替え、溢れ出る怨嗟の声に蓋をする。
(今は、目の前の相手に集中しろ。余計なことは考えるな)
脇道に逸れた思考を一旦リセットしつつ、半赫者となったクロから一定の距離を保ちながら、カネキは屋上を時計回りに疾走する。背後に回り込み、一気に距離を詰めようと足に力を入れようとした瞬間。
クロの姿が視界から消えた。
「!?」
死角から迫る攻撃を空気の揺れと雨粒の音で察知し、上半身を前に倒しながら右側にユキムラを薙ぐ。
それと同時に頭上を二本の
カネキがカウンターとして放った一撃は、クロがユキムラの軌道上に滑り込ませていた3本の右腕に阻まれていた。
「ああああああああああッッ!!!」
「ふぅッ……!」
右腕に浅く食い込むユキムラを払いのけ、咆哮を上げながら嵐のような猛攻を繰り出すクロに対し、カネキは時に躱し、時に流すことでそれらすべてを最小限の動きで、辛うじて回避していく。
そう、
理由は単純。それまでのクロは相手の動きを観察し、先読みやフェイントを織り交ぜた戦い方をしていたが、今の彼女は狂気に身を委ね、
だから避けられる。
そして、一向に攻撃が当たらなければ必然、苛立ちは増して。
(大振りになる───!)
「ぜめぇぇえぇえええ!!!」
クロは右腕を赫子で覆い、巨大なハンマーのような形状に変化させ、思いきり振りかぶる。
それは、ここにきて彼女が見せた初めての隙だった。
(ここだッ……!)
起死回生の一手へとつなげるため、カネキはクロの懐へ一気に踏み込む。同時に、ユキムラの刀身が閃く。
狙うは面に存在する多眼すべて───ではなく、その左半分の多眼のみ。理由としては、視界を完全に絶ってしまえば混乱し、手当たり次第に暴れまわる可能性があり、行動の予測が難しくなるからだ。
故に、敢えて半分だけ視界を残す。
「シッ───!」
すれ違いざまに7つの眼を正確に斬り裂き、ついでに右腕も3本まとめて切り落とす。
「かぁ……!?」
右足を軸に体を反転させ、振り向きながらユキムラを残った左腕に走らせ───
「ばかやろうう」
直後、まるで砲弾でも発射されたような音と共に、ハンマー状に変化した赫子がカネキの胴体に突き刺さった。
先程まで間違いなく背中を向けていたクロはしかし、確かにこちらに顔を向けていた。
はっきりとした手応えを感じたクロは歓喜に口元を歪めた。彼女の体内から嫌な音が響くが、カケラも気にしていないようだった。
「ハァ……はぁ……やたったぞ。殺した、やっと……!」
「───誰を殺したって?」
「ッ!?」
その声に、クロは思わず動揺した。不完全とはいえ仮にも赫者である自分の攻撃をまともに食らって、再生力もおおよそヒト並みにまで落ちているはずなのに、なぜ、と。
「なんで、生きて……」
そこまで口にして、クロはようやく気づいた。自分が放った
(コイツ、4本を一つに纏めることで赫子の脆さを補強したのか……!?)
次の瞬間、カネキの赫子がクロの左腕に巻きついた。
「……あまり舐めるなよ、後輩」
「しまっ───」
カネキの意図を理解した時にはすでに手遅れだった。腕に絡みついた赫子に数メートルの高さまで持ち上げられ、そのまま背負い投げされるように屋上に叩きつけられる。
「か、ふっ……!」
ろくに受け身をとれなかったせいで、落下した際の衝撃が容赦なく内臓に浸透する。
「ヌゥ、ガアッ!!!」
カネキが駆け出すと同時に、クロもふらつきながらも立ち上がり、何とか赫子で迎え討つ。だが、所詮は苦し紛れに放った直線上の攻撃。加えて今のクロが操る赫子はたった二本。躱すのは容易だった。
屋上の床を蹴りつけ、すでに前傾姿勢の体をより前へ倒して加速する。赫子が虚しく宙を切り、クロの目が驚愕に見開かれる。
一気に懐に踏み込んだカネキは、がら空きになったクロの胴体に目掛けてユキムラを振り抜いた。
(
肉が引き裂かれる音が響き、そこから鮮血が噴き出す。そして、
「───は?」
カネキの右腕が、くるくると宙を舞った。
◆◇◆◇
「ぐ、があああぁぁぁぁああ!!?」
右腕が消失したことを知覚すると同時に、凄まじい
(熱い熱い熱いっ、熱っ熱い熱い……!!!)
傷口を左手で押さえ、歯を食いしばる。視界の端で、ユキムラと一緒に僕の右腕が地上に落下していくのが見えた。
今の攻撃はクロが放ったモノじゃない。じゃあ一体誰が? 決まってる。
「ティナっ、スプラウトぉッ……!!」
油断していた。クロとの戦闘に注意を向けすぎて、僕らが乗っていた車を狙撃した彼女の存在を、完全に意識の外に追いやってしまっていた。
でもどうして? 彼女の暗殺リストに僕の名前はなかったはずなのに。
「……まさか
背後から聞こえた呟きに振り返れば、眼前に迫る回し蹴り。とっさに左腕で防ぐも、クロの脚はそのまま腕にめり込み、僕を蹴り飛ばした。
目が回るほど何度も地面を転がり、ちょうどうつ伏せの姿勢になった時にようやく停止する。頭がぐるぐるして、まるで地面が揺れてるみたいだ。
こりっ、と口の中に固い感触がして、不思議に思って血と一緒に吐き出す。
「………歯……?」
それは僕の奥歯だった。どうやらさっき蹴られたときに折れてしまったらしい。反射的にそれを拾おうとして、気づいた。
(……あぁ。感覚がないと思ったら、こっちも折れてたのか)
あらぬ方向へ折れ曲がる左腕を見て、どこか他人事のようにそう思った。おそらく失血の影響だろう。ふわふわとして、意識が朦朧としてきた。
バシャ、と耳元で水がはねる音。視線を上に向ければ、クロが僕を見下ろしていた。そして彼女は赫子で僕の首を掴むと、そのまま宙吊りにした。
何をするんだろう、と疑問に思うのも束の間。答えはすぐにわかった。
彼女は自分の左腕を、僕の
「が、がああああああああばばばばばばば!!?」
体の内側を、内臓を、文字通りかき混ぜられる。口から溢れ出す血と絶叫とは裏腹に、痛みは不思議と感じなかった。
……いいや。たぶん逆だ。痛みを『感じない』んじゃなくて、痛みが限界を超えて脳が処理しきれなくて『感じられない』んだ。うん、それなら頭が働かないこの感覚も、異様な眠気にも納得できる。
「まだ生きてるのか。腐っても喰種だな」
「……ぁ…………が……っ……」
「……そう言えばここは20階建てのビルだったな。いくら喰種でも、この高さから落ちれば死ぬだろ」
ずるずると、どこかへと体を引きずられていく。なにを言っているのか、ほとんど分からなかったけど、これだけは理解できた。たぶん、僕は今から死ぬ。
………………………死ぬ?
誰が?
───僕が。
どこで?
───ここで。
いつ?
───今。
死ぬ?
───死ぬ。
…………冗談じゃ、ない。こんなところで死ぬわけにはいかない。
そんな身勝手は許されない。
そんな無恥は許されない。
そんな
「い、ぁだ……まだ……死ねな、ぃ……」
「もう遅い」
直後、僕はビルの屋上から投げ出された。重力に背中を引っ張られ、やがて頭が下を向く。
「……人生終了、ご苦労さま」
意識が暗闇に呑まれる直前、そんな吐き捨てるような声が聞こえた気がした。