黒の銃弾と黒い死神   作:夢幻読書

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 これが今年最後の投稿です。なんとか間に合いました(白目)
 それでは皆さん、良いお年を。


第17話 数える人

 カウンター=反撃

 

 

 

 

 夜の病院というものは本来とても静かな場所なのだが、今はその静寂を蹴散らすように慌ただしい足音が響き、怒声が飛び交っていた。

 

 出血で全身を赤黒く染め、白目をむき、小刻みに何度も痙攣を繰り返すカネキを乗せたストレッチャーが、車輪の音と共に手術室の向こうに消えていく。

 

 薄暗い廊下には、ストレッチャーからこぼれ落ちた血痕がパンくずのように病院の入口から手術室まで続いていた。

 カチリ、カチリと。秒針が時を刻む虚しい音だけが空間に木霊する。

 

 クロによって屋上から投げ落とされたカネキは、思わず耳を塞ぎたくなるような凄惨な音を立てて蓮太郎たちのすぐ近くの地面に激突した。むせ返るほどの血臭は蓮太郎と里津の意識からシロの存在を完全に欠落させ、二人は致命的な隙を晒した。

 

 けれどシロは、血まみれのカネキを一瞥すると茫然自失とする蓮太郎たちを放置して踵を返した。

 目的を達成したと思ったのだろう。当然だ。地上二十階建ての高層ビル屋上からの自由落下、加えて血の海に沈む当人は呻き声すら上げず、微動だにしない。これで生きていると考える方が異常である。駆け寄った蓮太郎たちでさえ、カネキの生存は絶望的だと思っていた。

 

 彼の胸が呼吸に合わせて、わずかに上下していることに気づくまでは。

 

 そこから先はあっという間だった。午前中のリムジンの中でカネキに教えられた護送ルートから現在地を割り出し、そこから最も近い病院が室戸菫が根城にしている勾田大学病院であったことを思い出すと蓮太郎は即座に彼女に連絡。自分たちが到着し次第すぐに手術が可能なように手配させ、合流した保脇たちに聖天子の護衛を任せて病院に直行し、今に至るわけだが……。

 

(護衛対象を放置して壁役(護衛)の命を優先するなんて、民警として失格だな……)

 

 カネキを、大切な仲間を死なせたくないと、ただ必死だった。

 

 だがこうして、冷静に己の行動を振り返ると思わず呆れてしまう。なにせ自分たちは護衛の身でありながら、つい先ほどまで戦闘が起こっていた現場に本来であれば守るべき対象(聖天子)を置き去りにしてここにいるのだから。

 

 とはいえ、シロが撤退したあの場で蓮太郎たちに出来ることなどほとんどなく、遅れてやってきた護衛官たちが聖天子を建物の中へ誘導したことで手持ち無沙汰になっていたのも紛れもない事実。反省こそすれ、後悔はしていない。

 

 だが、保脇卓人をはじめとした聖天子付護衛官からしてみれば『任務を途中で投げ出すような輩は不要だ』と、前々から気に食わなかった蓮太郎たちを排除するための大義名分を与えられたようなものだ。しかも悔しいことにそれは正論であり、仮に保脇がそこを突いて自分たちを任務から締め出そうとしても反論できないだろう。

 

 だが意外にも、そんな職務放棄に等しい行為を実行しようとしていた蓮太郎たちに対し、保脇は何一つとして咎めなかった。むしろ彼は現場に到着した警察官の一人を説得し、移動手段としてパトカーまで確保してくれた。嫌味を言ってくるならば無視し、妨害行為をしようものなら冗談抜きで殴り倒す心算であった蓮太郎は、僅かに彼の評価を上方修正した。

 あれで顔面を蒼白にしたり、軽くパニックに陥っていなければさぞ様になっていたことだろう。

 

「……蓮太郎。カネキのやつ、大丈夫かな……」

 

 瀕死のカネキが手術室に運び込まれてから三時間。誰一人として言葉を発しなかった……否、発せなかった廊下で、最初に沈黙を破ったのは延珠だった。

 しかしその声は、その場にいる全員が判るほど不安に揺れていた。

 

 廊下に設置されているソファーに浅く腰掛け、ぼんやりと虚空を見つめていた蓮太郎はそんな彼女を安心させるように微笑み、手術室の扉を心配そうに見つめる延珠の頭にそっと手をおいた。

 

「心配すんな。先生はちょっと……いやかなり変わってるけど、昔は『神医』って呼ばれてたくらい凄い医者なんだ」

 

 先生とは無論、菫のことである。現在彼女は執刀医として、自身の『患者』であるカネキの治療に尽力している。

 

「でも……」

 

「大丈夫だって。先生が執刀した『患者』で死んだやつは一人もいない。俺が今、生きてここにいるのがその証拠だ。カネキは、絶対に助かる。だから……」

 

 蓮太郎はそこで延珠から視線を外し、向かいの壁際で膝を抱えて座り込む少女に声をかけた。

 

「そんなに自分を責めるな、里津」

 

 ビクリと、里津の肩が微かに震える。少しの間をおいて、里津は言葉を紡いだ。

 

「……覚悟は、してたつもりだった」

 

 ゆっくりと、かすれた声で。

 

「民警として戦う以上、いつ命を落としてもおかしくないって。戦場じゃあ常に冷静さを保てって。アイツに口うるさく、何度も言われ続けてきた」

 

 自分の口から発せられた音が震えないように、必死に、溢れそうになる感情を押し殺しながら。

 

「でも……ぼろぼろになったカネキを見たら、頭の中がぐちゃぐちゃになって……アタシ、相棒を助けることもっ、約束を守ることもできなかった……ッ!」

 

 膝に顔を埋めたまま呟く里津の頬に、再び涙が伝う。

 

 誰が見ても憔悴しきっているのは明らかな里津だが、これでもだいぶ落ち着いた方である。

 数時間前、瀕死のカネキを視界に収めた里津はほとんど錯乱に近い状態に陥っていた。パトカーで移動している間もずっと、カネキの残っている左手を握りながら泣き叫ぶように彼の名を呼び続けていた。

 もしもシロに自分たちを殺害する意志があったなら、彼女は真っ先に殺されていただろう。

 

 しかしそれは仕方のないことだろうと、蓮太郎は思った。確かに自分は、屋上から落下したカネキを見て数秒ほど思考が止まったがすぐに意識を切り替えることができた。だが仮に、あの時とまったく同じ状況で、瀕死の重傷を負っていたのが延珠だったら、果たして自分は冷静でいられただろうか?

 

 そして、それとほぼ同じことを延珠も考えていた。もし、死にかけていたのがカネキではなく蓮太郎だったら、と。

 

 里津の痛ましい姿は、民警の世界ではごくありふれた、単なる悲劇の象徴ではない。いつか起こり得るかもしれない、未来の自分たちの可能性の姿でもあると、蓮太郎と延珠は直感した。

 

 すると、いつの間にか座り込む里津の前に立っていた夏世が、静かに口を開いた。

 

「里津さん、己の不甲斐なさ、至らなさを嘆く気持ちはよく分かります。しかし嘆いているだけでは、現状は何一つ変わりません」

 

「夏世……」

 

 淡々と、出来の悪い生徒に問題点を一つひとつ指摘する教師のような言葉に里津は顔を上げ、わずかに目を見開いた。

 逆光と照明が暗いせいで目を凝らさなければ見えないが、夏世の頬には確かに涙の跡があった。そして何より、彼女の眼は燃えるように赤かった。

 

 呪われた子供たちや喰種は意図的に力を解放したときか、怒りや憎しみといった激しい感情に呼応して瞳が赤く染まる。

 

 カネキたちが死闘を繰り広げている間、夏世は入院()()()()()将監と談笑していた。何も知らず。その影で想い人が死にかけていたことに気づきもせずに。

 

 悔しくないはずが、なかった。

 

「立ってください、里津さん。敵の狙いがカネキさんなら、彼女たちと再び衝突することは避けられません。今あなたがやるべき事は、過去の行いを悔いて泣き言をこぼすことじゃない。立って、顔を上げて、いかにしてそのクソ野郎どもの横っ面をぶん殴るかだけ考えればいいんです。それがあなたの取り柄でしょう?」

 

 うじうじと悩んでいるのは似合いませんよ、と夏世は手を差し伸べる。里津はその手をしばらく茫然と見つめ、やがて袖で涙と鼻水をぬぐうと夏世の手を握って立ち上がった。

 

「あー……、その、ありがと……夏世」

 

「友達ですから。このくらい当然です」

 

 里津は気恥ずかしさから目をそらし、夏世は差しのべた手を振り払われなかったことに安堵の笑みをこぼした。

 

「にしても、まさか襲撃者の正体が喰種とはなぁ」

 

 最近、夏世の言葉遣いが少し自分に似てきつつある事実に親として嬉しいような悲しいような、そんな複雑な感慨を抱きながら将監は話題を変える意味合いを込めて、壁に寄りかかりながら呟いた。

 

「それも二人なんて……喰種って滅多にいないんじゃなかったの?」

 

 蓮太郎から連絡を受けて事務所から飛んできた木更が、顎に手をやりながら至極もっともな疑問を口にする。蛭子影胤テロ事件が解決した折に、カネキは将監や蓮太郎たちに自身が喰種であることを改めて打ち明けた。

 一応カネキが喰種という情報は国家機密扱いなのだが、本人は大して気に留めている様子はなかった。

 

 当然、それまで都市伝説と思われていた存在が実在すると知った彼らは様々な質問を投げつけた。

 

 なぜ片眼だけが赫く染まるのか。なぜ呪われた子供たちの瞳の色と微妙に異なるのか。その腰から生えた触手で一体どんなプレイをしているのか。喰種は他にもいるのか。体内侵食率はどうなっているのか、等々。……誰がどの質問をしたかはご想像にお任せしよう。

 

 まあそれはともかく。

 

「いいえ木更さん。あの時カネキさんは、『ウイルスに感染した人間が喰種になる確率は、ゴルフでホールインワンを出す確率とほとんど一緒』と言っただけです」

 

「お、お主の記憶力は相変わらず凄まじいな……」

 

 これだけ聞けば、木更が口にしたように喰種とはさぞや稀少な存在だと思われるかもしれない。が、実際はそうでもない。10年前、つまりガストレアがまだ存在していなかった頃の世界人口はおよそ80億人。そこからガストレア戦争によって世界人口は約8億人にまで激減させられた。

 だが、勘違いしてはならない。奴らはただ人を殺すだけではなく、ウイルスを送り込んで仲間にしながら人類の総数を減らしていったのだ。そして、ガストレアウイルスに感染して喰種になる確率は0.016パーセント。

 

「単純計算で128万人。現在の世界人口と照らし合わせると、およそ600人に一人が喰種ということになります」

 

 にも関わらず彼らの存在が輪郭の不鮮明な都市伝説という姿でしか世間に認知されていないのは、各国の上層部が彼らの情報を握り潰し、また喰種たちも自身の正体を隠して社会に紛れているからだ。

 

 なにせ人間の大半は、こと異端や異物と言った存在を極端に忌避し、そのくせソレが自分より社会的立場が低い弱者だと知れば嬉々として迫害しようとする生き物だ。そして喰種は、そのほとんどが成人であるためそう言った人間の負の側面を十分に理解している。

 故に彼らは、年齢も精神も幼い『呪われた子供たち』とは比べ物にならないほど慎重で用心深い。はっきり言って、ふつうに生活していれば喰種が正体を見破られることなど本人が自己申告でもしない限り不可能なのだ。

 

 それこそカネキのような、『ガストレアに街や村を襲われたが()()()()()()()()()()()』を一人ひとり丁寧にリストアップして、尻尾を出すまで監視したり、拉致して尋問でもしない限りは、だが。

 

「おや、なんだい。全員来ていたのか」

 

 その声に、廊下にいた全員の視線が手術室の扉付近に集中する。声の主は言うまでもなく菫である。

 菫は蓮太郎たち一人ひとり軽く挨拶をした後、最後に将監に声をかけた。

 

「やあ将監くん。義肢の調子はどうかな?」

 

「問題ねぇよ。……悪かったな、わがまま言って」

 

「構わんさ。私も自分の腕がなまっていないことを確認できたからね」

 

 左手で自身の()()に触れる将監に、菫は気にするなと肩をすくめた。

 

「菫! カネキは!?」

 

 不安そうに、油断すれば今にも泣いてしまいそうな顔でそう尋ねる里津に、菫は優しく微笑みながら言った。

 

「私を誰だと思ってるんだい? 安心したまえ、手術は無事終了した」

 

 菫の言葉を聞き届けた瞬間、里津は糸を切られた操り人形のように崩れ落ちそうになる。それを菫が優しく受け止める。

 

「おっと」

 

「里津!?」

 

「心配する必要はない。極度の緊張状態から解放されて、安心して寝てしまっただけさ」

 

 そう言って菫は、蓮太郎と延珠が譲ってくれたソファーに里津を寝かせると、空いたスペースに腰を下ろした。

 

「それにしても連絡を貰ったときは流石の私も驚いたよ。カネキくんが重傷を負ったというだけでも信じられないのに、ついでに傷口が再生しないときた。まあ、実際は生命を維持するのに最低限必要な臓器を集中的に治癒し、骨折や裂傷といった命に支障がない損傷を後回しにしていただけだったみたいだが。おかげで想定していたよりもずっと楽な手術になったよ」

 

『え………?』

 

 菫の口からさも当然のように吐き出された言葉に、彼女以外の全員が困惑した。

 

「……悪い先生。今の言い方だと、まるで()()()()()()()()()()()()()()()()()()ように聞こえたんだが」

 

「うん? ()()()()()()()()()()()()? 彼は自力で致命傷を完治させられないほど弱っていたみたいだったから、その手助けをしてあげただけさ」

 

 驚愕のあまり、菫以外のその場にいた全員が言葉を失う。開いた口が塞がらないとはまさにこの事だろう。ふつうの人間を相手にするのとは(わけ)が違う。

 菫の言ったことが真実ならば、彼女は再生が起きていない箇所をフォローするように立ち回りながら、一人でに再生する肉体の部位を見極め、その再生速度を完璧に予測しながら再生を阻害しないようにソレに合わせて手術をしていたことになる。まさに神業だ。

 

(とはいえ、もし蓮太郎くんの言葉通り彼の再生能力がまったく機能していなければ。あるいはカネキくんの到着があと一分でも遅れていたら、私にもどうすることも出来なかっただろうな……)

 

 不幸中の幸い、九死に一生。カネキがどうにか命を繋ぐことができたのは単純に運が良かったというのもあるが、彼自身が無意識にとった行動によるところが大きい。

 カネキは地面に激突する直前、赫子をクッションにして衝撃を分散させていたのだ。自身と地面との間に赫子を挟み込むという、とっさの機転がなければカネキは間違いなく即死だっただろう。

 

「あれ? みんな来てたんだね、こんばんは」

 

 と、そこで。菫の助手として手術のサポートをしていた楓が、数分前の彼女と似たようなことを口にしながら手術室から出てきた。

 太陽のように明るい笑顔を浮かべながら挨拶をする彼女に対し、蓮太郎たちもそれぞれ楓に挨拶を返していく。

 

 一息おいて、蓮太郎はメンバーを代表して菫に尋ねた。

 

「先生、帰る前に一度カネキの様子を見て行きたいんだけど───」

 

「駄目だ」

 

 一言。けれどその中に含まれる明確なまでの拒絶の意思に、蓮太郎たちは面食らう。

 

「駄目って……どうして?」

 

「今のカネキくんは非常に危険な状態にあるからだ。少なくとも()()()()()()()()()()()()()()し、麻酔で無理やり眠らせているから意識もない」

 

「な、何を言ってるんだ、先生?」

 

 見えない障壁に阻まれているかのように、菫の言葉が何一つとして脳に届かない。危険? 隔離? 手術は無事に終了したのではなかったのか?

 

「室戸医師、説明を要求します」

 

「もちろんだとも。君たちにはその権利がある。里津ちゃんには後日私から伝えよう」

 

 夏世の言葉に菫は組んでいた脚を一度組み替えると、真剣な表情で話し始めた。

 

「喰種は瀕死……正確に言えば極度の飢餓状態に陥ると、肉体の損傷や不調を治すために、或いは空腹を満たすエネルギーとするために本能がガストレアウイルスを求めて暴走する。具体的には、ウイルスを保菌しているガストレアや呪われた子供たち、人間が近くにいれば見境なく襲うようになる」

 

「なっ……!?」

 

 まるで鈍器で殴れたような衝撃が、蓮太郎の頭を駆け抜けた。それは他の面々も同じようで、全員が目を見開いて絶句していた。

 

「い、いいや、待ってくれ先生! 喰種がガストレアウイルスを摂取するためにウイルスを保有しているガストレアや呪われた子供たちを襲うのは……理屈としては理解できる。けど、なんで人間を襲う? だって人間の体内にはガストレアウイルスなんて存在しないはずだろ?」

 

 延珠たちの手前ということもあって、蓮太郎は慎重に言葉を選びながら率直な疑問を口にした。

 

「良い質問よ、里見くん。これには『呪われた子供たち』が生まれてくるプロセスが密接に関わってくるの」

 

「妾たちが?」

 

「生まれてくるプロセス?」

 

 応答したのは楓だった。彼女はコテンと首をかしげる延珠と夏世の背後に回って、二人をむぎゅっと抱きしめながら言葉を続ける。

 

「そう。ガストレアの血液に含まれるウイルスは、気化すると空気を通して人間の体内に入り込むの。それでウイルスに感染するってことはないんだけど、空気中に漂うウイルスが妊婦の口から侵入してその毒性が胎児に蓄積されて生まれてくるのが『呪われた子供たち』。ここまではいい?」

 

「はい」

 

「う、うむ……」

 

 難しい顔を作って唸る延珠に楓が苦笑いしていると、菫があっさりと結論を口にした。

 

「つまり人間もガストレアウイルスを体内に保有しているわけだ。だから近くにガストレアも呪われた子供たちもいない状況になると、喰種は人間にも襲いかかる。人間から摂取できるウイルスの量など雀の涙ほどしかないが、そんなことは理性を本能に塗りつぶされた状態の彼らには関係ないからな。もっとも、生物としては人間よりもはるかに優れる喰種が瀕死になることなど滅多にないし、そんな状況が起こりかねない戦場には我々とは比べ物にならない量のウイルスを持つガストレアがわんさかいるから、人間には見向きもしないがね」

 

 菫は早口にそう言うと、徐に立ち上がり蓮太郎たちに背を向ける。

 

「説明は以上だ。彼に会いたい気持ちはわかるが、今日はもう帰りなさい」

 

 それだけ言うと、菫はその場を後にした。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 ピッ……ピッ……と。一定の間隔をあけて繰り返される電子音に、カネキの意識が浮上する。

 

(……こ、こは………?)

 

 自分が置かれている状況を確認しようと目を開けようとするが、たったそれだけの動作があまりにも億劫だった。

 ほとんど痙攣に近い動きを何度か繰り返し、少しずつ、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。

 

 焦点が定まらず、不安定に歪んでいた景色が徐々に正常な姿を取り戻していく。己が見ているモノが、病院の天井であると脳が理解するのに10秒も掛かった。

 

「目が覚めたか」

 

 視線をわずかに左に動かせば、白衣のポケットに両手を突っ込んでこちらを見下ろす菫の姿があった。

 

「何があったか覚えているか?」

 

「…………はい」

 

 大阪エリアとの非公式会談の帰り道に狙撃されたカネキたちは、突如現れた二人の喰種と交戦した。そして死闘の末、カネキは敗北した。

 

「それは結構。ではなにか訊きたいことはあるかな?」

 

「僕は、どれくらい眠っていたんですか?」

 

「今日でちょうど一週間だ」

 

「一週間も………」

 

 菫の言葉がゆっくりと頭蓋に浸透し、脳の隅々まで行き渡った瞬間、カネキは疑問に思った。

 

 どうして自分は、()()()()()()()()()

 

「どうかしたか?」

 

「いえ、その……どうして僕は殺されずにこうして生きているのかな、と」

 

 クロとシロの目的は、本人たちが語った通りならカネキを殺害することである。そしてこの一週間、カネキは意識不明の状態にあった。殺さない理由が思い浮かばなかったのだ。

 

「ああ、簡単な話だよ。私が君の死亡診断書を偽造したからだ。蓮太郎くんたちから事情は聞いていたからね。実際、私以外の人間が君の治療に当たっていたらあの診断書が本物になっていただろうがな」

 

 手近な椅子をベッドに寄せ、それに腰を下ろしながら菫は言う。

 

「自分で言うのもアレですけど、確かあの時の僕って再生力が人並みの状態で内臓をかき混ぜられたりビルの屋上から落とされたりで、色々とかなり絶望的だっと思うんですけど……」

 

「これでも『神の如き医者(神医)』って肩書きを背負ってる身なんでね。死人以外ならどんな人間だろうと助けるよ、私は」

 

 『神医』。いつからか周囲が勝手に呼び始めた、多くの医者たちからの尊敬と賞賛が込められた自身の二つ名。勝手に呼ばれるようになったとは言ったが、菫はこの二つ名に誇りを持っているし、この名に誓って自らの戦場(手術室)では誰も死なせるつもりはない。

 

 だが、この世に絶対はない。それはいい意味でも、悪い意味でも。

 

 昨日まで笑顔で花を売っていた少女が、翌日には冷たくなってカラスに死肉を啄まれているかもしれない。

 

 生きるために奪い、盗み、殺す道しか選べなかった人殺しが改心し、数年後には誰かにとっての命の恩人になっているかもしれない。

 

 プロのパティシエに弟子入りし、夢を叶えるために頑張っていたあの子が、志半ばでその生を終えてしまうかもしれない。

 

 自らの意志で両眼を潰し、偽物の笑みを貼りつけて物乞いをしていた子どもが、ある日現れた顔も分からない何者かに拾われて、今は年相応の笑顔を浮かべているかもしれない。

 

 しかし結局のところ、それら偶然や運などと呼ばれるモノは所詮当人や周囲の人間が選んだ結果の積み重ねでしかない。地獄が日常の裏にではなく影に潜むこの世界において、悲劇を回避し、幸福を掴み取るための最善の方法は『選ぶ』ことだ。

 

「そう、ですか。あ、そういえば先生」

 

「うん?」

 

「僕を殺そうとしたクロって子が言っていたんですが、喰種はガストレアウイルスをいくら摂取してもガストレア化することはないそうですよ。それと『梟』の情報もデマらしいです」

 

「……情報の信憑性は?」

 

「かなり高いかと。……というか今思ったんですけど、僕が眠っている間に赫包を勝手に調べたりしなかったんですか? ちょうど一週間あったことですし」

 

「……君には科学者としての側面ばかり見せてきたからそう思われても仕方ないが、私は科学者である前に一人の医者なんだ。本人の了承もなく患者の体にメスを入れるような真似はできない」

 

 だから、菫は()()()

 

「……すみません、無神経な発言でした。ですがそういうことなので、とりあえずガストレアの遺体を用意して欲しいんですが」

 

「悪いがそれは許可できない。リスクが大きすぎる」

 

「ッ! この期に及んでまだそんなことを言ってるんですか……! いいですか? 今の僕じゃ、逆立ちしたって彼女たちには勝てない! 多少のリスクを負わなければ待っているのは死だけだ!! それがどうして───」

 

「だから、コレを代わりに」

 

 カネキを救うことを。

 

「……なんですか、コレ」

 

 菫が手渡してきたもの。それは真っ赤な薬液が入った一本の小型の注射器だった。

 

「ガストレアウイルスの原液だ」

 

「え、は? いや、でもさっき……」

 

「ソレは私が楓くんと共に君の膨大な過去の戦闘データから『君が』一度に摂取したガストレアウイルスの量を解析し、そこから『君が』絶対にガストレア化しない量を算出して作ったモノだ。ソレ一本だけなら、君は決してガストレア化することはない。量は少ないが、無いよりはマシだろう」

 

 カネキがその手に持っている注射器はいわば、菫の裏切りの証だ。彼女はカネキが死にたがっていることを知っているし、本人の前ではその考えを否定するような態度を滅多に見せないようにしていた。だからカネキはこれまで菫にだけは素で接していた。

 だが当の菫はカネキの自殺願望にはかけらも賛同していなかった。むしろどうしたら彼の歪な生き方(死ぬ為に生きている)を正すことができるかを考え続けていた。

 

 ところがその答えが出るよりも前に新たな問題に直面した。喰種としての驚異的な再生力を活かした無茶な戦い方をし続けた結果、彼の身体は急激な勢いで老化していたのだ。

 このままでは心を救う前に寿命が尽きてしまう。

 

 解決する手段はある。カネキにガストレアウイルスを摂取させればいいのだ。しかしその代償に、彼を決して死ねない化け物にしてしまう可能性を負うことにもなる。

 だから菫は、どうしたらウイルスをより安全にカネキに摂取させられるかを考えた。

 彼女がカネキに手渡したモノはまだ未完成で、せいぜい身体能力が並みの喰種になる程度だ。しかし完成した暁には、カネキの寿命は人並みにまで戻すことが可能となる。

 

「君は運がいい。もし楓くんの転勤があと一日でもズレていたら。あるいはそもそも楓くんがいなかったら、その注射器はそこに存在していなかっただろうからな」

 

「……素朴な疑問なんですが、一体どういう経緯でコレを作ろうと思ったんですか?」

 

 目を細め、声のトーンを一つ下げ、疑っていることを隠そうともしない態度でカネキは尋ねる。

 

「ガストレアウイルスの摂取を禁じたときから、いつかこうなると予測はしていたからな。私のわがままで君が目的を果たす前に斃れられてしまっては寝覚めが悪い。だがそれはそれ、これはこれだ。死んだら死んだで君のことは貴重な研究材料兼同居人として私の城に永遠に住まわせてあげよう。喜べ」

 

「………まあ、自分が死んだ後のことは正直興味ないので僕の遺体をどうしようと構いませんけど」

 

 それだけ言うとカネキは、本当に何の感情も浮かんでいない顔で手元の注射器に視線を戻した。その様子を見て、菫はどうにか誤魔化せたことに内心で安堵していた。カネキに自分の本当の目的を知られてしまえば、今日まで費やしてきた時間も、貴重な睡眠時間を削ってまで手伝ってくれた楓の努力も、すべてが水泡に帰してしまう。それだけは、何としても避けなくてはならなかったから。

 

「それじゃあ私は蓮太郎くんたちに連絡を入れたら地下に戻るとしよう。ああ、そうだカネキくん」

 

 部屋の扉を開け、出て行こうとしていた菫は急に足を止め、カネキに顔を向けることなく言った。

 

「里津ちゃんも蓮太郎くんも……みんなが君のことを心配していたよ」

 

 それだけ言うと、菫は今度こそ病室から去っていった。

 

「………嘘つきめ」

 

 そう呟いた彼の顔が歪んでいたのは、きっと、窓から差し込む朝日が眩しかったからだけではないだろう。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 先生が地下室に戻ってからほどなくして、僕の病室にみんなが来た。わざわざお見舞いに来てくれたのは素直に嬉しかったけど、その代わり色々と大変だった。

 

 里津ちゃんと夏世ちゃんは部屋に入ってくるなり泣きながら僕が寝てるベッドに飛び込んでくるし、それを見ていた延珠ちゃんが欲求不満を爆発させて蓮太郎くんに抱きつくし、そんな彼女を引き剥がそうと木更ちゃんが奮闘し、騒ぎを聞きつけて苦情を言いに来た患者さんが将監さんを見て腰を抜かすし、偶然その場を通りかかった看護師さんが通報しようとするのを志摩吹さんが必死に説得するという事態に発展するしで……まあ、うん……大変でした。

 

 とりあえず一言。

 

「延珠ちゃん、次からは自重しようね?」

 

「妾は悪くないぞ! 里津と夏世が見せつけてくるのが悪いのだ!」

 

「「別に見せつけてたわけじゃねぇよ(ありません)!!!」」

 

 華麗なる責任転嫁を発動する延珠ちゃんに対し、責任をなすりつけられた当の二人は顔を真っ赤にして全力で否定する。

 

「あと木更ちゃんもね」

 

「え、私!?」

 

「好きな人を独り占めされた気持ちになって対抗心を燃やしちゃうのは仕方ないけど、君は延珠ちゃんよりもお姉さんなんだからもう少し余裕を持った態度をとらないと。そうじゃないといつまでも振り回されるよ」

 

「ば!? す、すすす、好きな人!? わ、わた、わわ私は別に里見くんのことなんて好きでも何でもないわよ!? だって里見くんよ? お馬鹿で甲斐性なしで、最弱の里見くんよ!?」

 

「いや、うん……だからそういうところだよ」

 

 ちらりと彼女の背後を見れば、延珠ちゃんは満面の笑みでガッツポーズをとり、蓮太郎くんは死んだような目でどこか遠くを見つめていた。

 

 ふと、延珠ちゃんと目が合う。彼女はニシシと笑った。…………最近の幼女は(したた)かですね。

 

 そっと視線を正面に向ければそこにいたのは何と普段着のタンクトップを着た将監さん。繰り返そう。普段着姿の将監さんだ。

 

「将監さん、もしかして退院したんですか?」

 

「まあな。お前が目覚めないって言うんで、代理として俺と夏世が聖天子の護衛をするかもって話になったらようやく夏世が───」

 

「将ぉ監さぁん?」

 

「…………やっぱなんでもねぇ。カネキ、お前は何も聞かなかった。いいな?」

 

「アッ、ハイ」

 

 考えるよりも先に口が勝手に動いていた。将監さんが入院していた件に夏世ちゃんがどう関わってくるのか少し気になるけど、それは今度、彼と二人きりの時にでも訊こう。………なぜか背筋がぞわっとした。やっぱり訊くのはやめよう。

 

「それにしても凄まじい回復力ね。体力的にもあと三日は目覚めないと思っていたんだけど」

 

 そう言って機械の調整をしてくれているのはこの場の一番の苦労人、志摩吹さんである。勘違いしてはならないが、彼女は現在も看護師としてお仕事中である。

 

「鱗赫持ちの喰種は回復力だけが取り柄なんですよ」

 

 軽い冗談のつもりで口走った僕の言葉に、先程まであんなに和気あいあいとしていた空気が凍りついた。……ちょっと迂闊だったか。

 

「カネキ、その……腕は大丈夫なのか?」

 

 蓮太郎くんが気まずそうに尋ね、全員の視線が僕の右腕に集中する。

 それに対し、僕は苦笑いしながら自身の右腕を見る。まるで赫子を腕の形に変化させて移植したような、そんな右腕を。

 

「うん。痛覚も触覚もあるから、日常生活にも支障はないかな。でも外を出歩くときは、夏でも手ぶくろをしなくちゃいけなくなっちゃったね」

 

 右手を開いたり閉じたりしながら、場の空気を何とか軽くしようとおどけてみるも一向に重いままだ。自分で蒔いた種とはいえ、無性に溜息を吐きたくなる。

 うーん、なにかみんなの意識をそらすような話題はないものか……。あ、そうだ。

 

「蓮太郎くん、そういえば次の非公式会談の日程は?」

 

「……今日だ。今日の、午後8時から深夜」

 

 首をめぐらして壁にかかってる時計を見て現在の時刻を確認すれば、ちょうど午前8時を回ったところだった。

 

「今からきっかり12時間後か……いけるか?」

 

「いけるわけないでしょこのバカっ!」

 

「ごるぱ!?」

 

 左手であごに触れながらそんなことを言えば里津ちゃんに頭を叩かれた。いや、殴られたと言ったほうが正しいかもしれない。それくらい痛い。

 

「じょ、冗談だよ。先生にも今日は一日安静って言われてるから。すみません将監さん、夏世ちゃん。仕事を押しつけることになって……」

 

「気にすんなよ。こちとら今まで入院生活で退屈してたんだ。しかも『あんていく』の社員としての初仕事が国家元首の護衛なんて、血が騒ぐってもんよ」

 

「将監さんの言う通りです。護衛任務は私たちに任せて、今はゆっくり休んでください。任務が終わったら、全員でオセロ喰種打倒に向けての作戦会議です」

 

「お、オセロ喰種?」

 

 なんだそのシェイクスピアの四大悲劇の一つみたいな名前は。

 

「襲ってきた喰種の服装の色と、互いを『シロ』『クロ』って呼んでたから、かな?」

 

「疑問形で言われても困るよ……」

 

「いや、俺が連中の特徴を夏世に教えたらあいつがいきなり『じゃあもういっそのことオセロでいいんじゃないですかいいですねオセロと呼びましょう』って言い出したから断言できねぇんだよ」

 

 困ったように眉を八の字にする蓮太郎くんに僕はなにも言えなかった。まあその、なんていうか……うん、いいか。呼び方なんて大して重要じゃないし。

 

 それはそうと、僕には蓮太郎くんに何か言わなければならないことがあったはずだ。なんだっけ……確かみんながお見舞いに来るまでは頭の中にあったはずなんだけど。えーっと……そうだ思い出した。

 

「蓮太郎くん、狙撃手についてなにか分かった?」

 

「いや、まだ何も」

 

 みんなの意識が夏世ちゃんたちに向いている間に終わらせてしまおう。

 

「一応言っておくけど、もしも延珠ちゃんが何らかの事情で狙撃手に単騎で挑まざるを得ない状況に陥っても、絶対に一人で行かせたら駄目だ」

 

「……理由は?」

 

「聖天子様を抹殺しようとしてる狙撃手は凄腕だ。彼女はクロとの戦闘で常に動き続けてた僕の右腕を正確に撃ち抜いたんだ」

 

「冗談だろ。あの狙撃手ほんとに人間かよ……って、彼女?」

 

 おっと。無意識にティナ・スプラウトの性別が代名詞に表れてしまった。

 

「……違和感があるなら別に彼でもいいけど?」

 

「ああいや、なんか彼女の方がしっくりくるからそのままでいい」

 

 よし。なんとか誤魔化せたな。

 

「とにかく、延珠ちゃんには口うるさく言っておいて」

 

「あ、ああ。分かった」

 

 ふぅ。これで延珠ちゃんがティナ・スプラウトに拉致されるかもしれないという懸念が消えた。残る懸念事項はあと二つ。うち一つはオセロ喰種の打倒。これは夏世ちゃんたちが任務から帰ってきたらみんなで作戦を練る予定だから保留として、もう一つは……。

 

「? カネキ、お前の携帯鳴ってるぞ」

 

 タイミングがいいな。

 

 蓮太郎くんに一言礼を言って廊下に出る。扉を閉め、部屋二つ分の距離を置いてから電話にでる。

 

「もしもし?」

 

『やあカネキくん、久しぶりだね。元気?』

 

「……教えてほしいことがあります」

 

 僕は"彼"の親しげなあいさつには取り合わず、今一番知りたいことを尋ねる。本来僕たちはそういう関係だ。

 

「単刀直入に訊きます。安久黒奈……彼女はあなたの『お客さん』ですか?」

 

『うん、そうだよ』

 

 ノータイムで返ってきた答えに「やっぱりか」と舌打ちする。

 

『舌打ちされても困るよ。ぼくは情報屋だよ? "お客さん"に情報を求められればそれを提供するのがぼくの仕事なんだ。もっとも、ぼくは人の好き嫌いが激しいから気に入った子しか"お客さん"にはなれないけど』

 

「別にあなたを責めてるわけじゃありませんし、あなたの好みにも興味ありませんよ」

 

 僕が舌打ちしたのは単純に、一番当たってほしくない予想が当たってしまったからだ。彼は望めば基本的にどんな情報でも……それこそ核の発射コードといった国家の最高機密レベルのものから、道端に落ちていたガムを踏んだ人間の数といった心底くだらないレベルのものまで、文字通り何でも提供してくれる。

 

 ただ一つ、他の『お客さん』の情報という例外を除いては。

 

 以前顔無しさんに、なぜ『お客さん』の情報は提供しないのかと尋ねたことがある。その時の返答は至ってシンプルで、曰く「フェアじゃないから」らしい。

 

「あー、それじゃあ……安久黒奈に関する情報で、あなた以外の人間でも調べれば出てくるものを教えてください」

 

『うーん、そうだねぇ…………』

 

 とはいえ、その例外にも抜け道(例外)は存在する。

 

『彼女には安久奈白って名前の妹がいる』

 

「他には?」

 

 要するに、彼の言う『お客さんの情報』とは僕で例えると『金木研は黒い死神である』というような、普通の人間ではまず知りようもない情報のことだ。

 逆にいえば、仮に僕が求めているものが『お客さんの情報』だったとしても、顔無しさんが"時間さえかければ誰でも入手できる"と判断すればあっさりと教えてくれる。クロたちが同じ『お客さん』である僕を待ち伏せできていたのもそういう理屈だ。

 

『彼女たちは戦争孤児だったんだけど、10年前のある日にその孤児院が潰れてからの消息は不明だ』

 

「……そう、ですか。あ、それじゃあもう一つだけ」

 

『なんだい?』

 

「東京エリア限定で、範囲は都心から徒歩で一時間以内にあるアパート。そこに一週間前……いえ、二週間前から住み始めた二人組の女性のリストを全部ください」

 

 オセロ喰種の打倒はみんなが帰ってきてからと言ったな……あれは嘘だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、こんな時間からどこに行くつもりなわけ───カネキ?」

 

 時刻は午後7時半過ぎ。僕の目の前には、病院の玄関前で腕を組んで仁王立ちする里津ちゃんの姿が。わけがわからないよ。

 

 あれ? 里津ちゃんが自宅からお泊りセットを取ってくるって言って病室を飛び出してからまだ五分しか経ってないんだけど? 病院から家まで往復で15分くらいかかるはずなのに何でもう足下にトランクが置いてあるの?

 

「い、いや、違うよ? 別に僕は病院から逃げ出そうとしたとかそう言うんじゃなくて、ただ夜の散歩を……」

 

「ただ散歩するだけならどうしてわざわざアタシが()()()()()()()()()()()()()()()に出てきたの?」

 

「………………」

 

 ぐうの音も出ない。すべてお見通しだったってわけか。僕は観念したように重く息を吐き出し、近くのソファーに座った。

 

「降参だよ、僕の負けだ。里津ちゃんの予想通り、僕は病院から抜け出そうとしてた」

 

「………なんで?」

 

 荷物を片手に僕の傍まで来た里津ちゃんは、足下にトランクを置いて僕の隣に座った。

 

「…………クロたちを、倒すため」

 

「違うよ……アタシが訊いてるのは、なんで一人で行こうとしたのかってこと。今朝アンタの病室で話したじゃん、この任務が終わったらみんなで倒そうって。なのに、なんでまた、そうやって……!」

 

「だって、彼女たちの目的は僕一人だけだから。僕なんかのためにみんなに迷惑はかけられない」

 

 直後、視界がブレる。先程まで自分の膝や床だけを映していた僕の目が、鮮やかな翡翠色に染め上げられた。

 その涙で濡れた翡翠色の瞳と首筋の痛みから、胸ぐらを掴まれて無理やり顔を里津ちゃんに向けられたのだと、僕は遅れて理解した。

 

「ふざけんなっ!!」

 

 周囲の視線が自分たちに集まっているのが分かる。

 

「そうやっていつも一人で全部抱え込んで、ボロボロになってッ、なんの相談もされないアタシたちの気持ちを一度でも考えたことあんのかっ!!?」

 

 ぐずぐずと鼻を鳴らし、嗚咽を漏らしながら、それでも彼女は力強く僕を睨みつけた。

 

「頼ってよ……お願いだから、もっとアタシたちに迷惑かけてよぉ……」

 

「………………」

 

 泣かせてしまった。その事実に、どうしてかひどく胸が痛くて、苦しくなった。

 無意識に、彼女の背中に回そうとしていた自分の手に気づき、それを静かに下ろす。

 

「…………ごめん」

 

 すがりつくように泣く里津ちゃんを抱きしめることもせず、彼女が泣き止むまで、僕にはただ謝罪の言葉を繰り返すことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はい、鼻かんで」

 

「……ぐすっ………うん……」

 

 涙でびしょびしょになった里津ちゃんの顔をトランクの中に入っていたティッシュで拭いていく。

 

「大丈夫?」

 

「……うん、大丈夫───じゃない! 危うく有耶無耶にされるところだった!」

 

「うわぁ!?」

 

 突然大声を出す里津ちゃんに思わず仰け反る。先ほどからずっと生暖かい視線に晒されているが、心なしか視線の量が増えている気がする。え、気のせい? そう……。

 

「アタシの全力の説得を受けても、まだ一人でアイツらのところに向かうつもり?」

 

「あ、さっきの説得だったんだ……」

 

 あれは説得というより今まで蓄積されてきた僕に対する不平不満が噴出しただけだと思うんだけど。……いや、それはそれで問題なんだけど。

 

「えーっと……確認なんだけど、里津ちゃんはシロって子と戦ったんだよね?」

 

「それが?」

 

「勝算はあるの?」

 

 僕が真剣な声で尋ねると彼女は目を閉じ、眉間にしわを寄せながら唸った。

 

「…………………………場所による」

 

 長い沈黙の末に絞り出した答えが答えだけに、僕は眉間を指で揉みながら嘆息した。

 

「それじゃあ前回と同じ場所で戦った時の勝率は?」

 

「かなり低い。でも()()()を使えば五分五分以上にまで持ち込める。それに……」

 

「それに?」

 

「あのシロってヤツは標的以外は殺さない主義だって言ってた。だからそこを徹底的に攻める」

 

「……うっかりで殺されるかもしれないよ?」

 

「向こうが主義を曲げる前に決着をつける」

 

 ぴしゃりと言い切った里津ちゃんに、僕はとうとう折れた。

 

「分かった。はあ……勝てないと判断したら即撤退だからね?」

 

「それはこっちの台詞」

 

「まったく……」

 

 実に嬉しそうな笑みを浮かべて生意気なことを口にする相棒に苦笑いする。

 

「さて、と。それじゃあ一回家に帰らないと」

 

「え、服や武器ならここにあるよ?」

 

 ソファーから腰を上げて玄関に足向ける僕に、里津ちゃんは訝しげにトランクを指差しながら言う。それに対し、僕は何でもないことのように告げる。

 

「生憎だけど、僕が今もっとも必要としているモノはそこにはないんだ」

 

 里津ちゃんは僕の言葉にポカンとして、考えるように顎に手を当てることしばらく。

 

「あ! もしかしてアレ?」

 

「うん、たぶん正解だ」

 

「でもなんで今さら? もう二年ぐらい使ってないでしょ?」

 

 二年……そうか。もうそんなに経つのか……。

 

「今回は相手が相手だからね。色々と派手にやるから、一般人に顔を見られるとマズイんだよ」

 

「ああ、なるほど」

 

 納得した様子の里津ちゃんを横目にトランクを持ち上げる。彼女が自分の隣に並ぶのを確認して、一緒に玄関をくぐる。

 

 懐から取り出した注射器が月光を反射してきらりと光る。僕はそれを躊躇なく自身の首に突き刺した。ウイルスを注射した箇所から血が沸騰しそうなほどの熱が全身に駆け巡っていく。四肢に活力が戻る。空になった注射器に映る僕の左眼は、血のように赫かった。

 

 さあ───反撃の時間だ。

 

 

 

 

 


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