night(夜)+mare(海)=悪夢
夢を見ている。
今よりも、ずっと小さい頃の
芝が青々と生い茂る家の庭で、無邪気に笑いながら追いかけっこをしている二人の幼い女の子。短い手足を一生懸命に動かして庭を駆けまわっている白髪の少女は妹のナシロ。そしてそんな妹の背を追いかけている黒髪の少女は、他ならぬ
やっと追いついた小さい私がシロに抱きつき、勢いあまって二人で草の上に倒れこむ。大の字に寝転がったまま互いに顔を見合わせると、それがなぜだか可笑しくて、揃って噴き出した。
そこへ、どこか怪我をしていないだろうかと心配そうな表情を浮かべる男の人と、ニコニコと柔らかな笑みを携えた女の人が現れた。私たちのパパとママだ。
二人を視界に収めると、私とシロはパァっと顔を輝かせて両親の胸に飛び込んだ。
四人の笑い声が、風に運ばれて周囲に木霊する。
きっといつまでも、こんな幸福に満ちた日々が続いていくんだと、幼い私は無条件に信じていた。
だがそんな幻想は、ガストレアが世界を蹂躙したあの日、呆気なく打ち砕かれた。
前線で戦っていた自衛隊が押され始め、私たちが住んでいた地域もすぐに戦場になると予想され、内地への避難勧告が発令された。そして、私たちが防災グッズを詰め込んだバッグを手に、近所の人たちや護衛のために派遣された自衛隊と共に内地へ向かっていた道中。
私たちはガストレアの襲撃を受けた。
何の前触れも前兆もなく現れた化け物どもの存在と、平穏な日常の中では接することなどまずない『死』を前に人々はパニックに陥った。
恐怖は悲鳴や怒声となって伝播し、結果として起こるのは災害をテーマにした映画なんかでよく見られる群集事故。体重の軽い子どもは突き飛ばされ、足の遅い老人は背中を押された拍子に転んでしまい、その上を何十人という避難者が容赦なく踏みつけていった。
幸いにも私たちは集団から少し距離が開いていたおかげで被害に遭うことはなかったが、運が良かったのはそこまでだった。
まず初めにパパが死んだ。
ウイルスに感染してガストレア化した
シロと一緒にママに抱えられた私が最後に見たのは、巨大なカマキリみたいなガストレアにお腹を貫かれたパパの姿だった。
次にママが死んだ。
子ども二人を抱えた状態ではガストレアから逃げ切れないと判断したママは、私と妹を近くの民家のクローゼットに隠した直後に、大量の昆虫型ガストレアたちに食い殺された。
私たちに出来たことは、互いに恐怖で震える体を抱き合って、扉越しに聞こえる咀嚼音とママの断末魔を黙殺し、溢れそうになる嗚咽と悲鳴を押し殺して息を潜めることだけだった。
それから数時間後に、私たちはガストレアを殲滅しに来ていた自衛隊に保護され、そのまま内地まで護送された。不思議なことに、クローゼットの前で襲われたはずのママの遺体は……どこにも見当たらなかった。
自衛隊の人は決して私たちと目を合わせようとはしなかった。しかし、部屋の床や壁だけでなく、天井すらも真っ赤に染めあげた出血量から生きてはいないということだけは理解した。
内地に到着すると、私たちと同じように内地へ避難してきた人たちが列を作っていた。名前の確認をされ、私たちは一人用の仮設テントのみを渡された。おそらく、私が背負っていたバッグの中に飲料水や携帯食料が入っていることを考慮してのコトだったんだろう。
それから仮説テントで幾度もの夜を越えて、水と食料が尽きかけたある日。私たちは、自分たちと同じように親を失くした大勢の子どもたちと一緒に児童養護施設に連れてこられた。
当時の私は周りの子どもたちを見て……ほんの少しだけ、安堵していた。
ガストレアの侵略によって帰る家をなくし、大好きだった両親も奪われた。
でも私は、他の子たちと違って独りぼっちじゃなかったから。パパとママにもう会えないと思うと悲しくて、両親がいない未来を想像すると怖くて不安で涙が零れそうになったけど、私の隣には
門の前で、微かに身体を震わせるシロの手を握りながら尋ねる。
「こわい?」
シロはふるふると首を横に振り、私の手を握り返した。
「こわいけど、クロナと一緒だから」
私たちはお互いの手を強く握り合い、笑って門をくぐった。
そこが、これから始まる長い長い地獄の入口だったなんて、夢にも思わずに。
◆◇◆◇
「あアああアああァあぁぁああアアァああああああアアアアアアアああああっっ!!!??」
結論から言えば、クロたちが入れられた施設は児童養護施設などではなく、人為的に喰種を生み出すための研究施設だった。
クロたちのようにガストレア戦争で家族を失った孤児という存在は、人間の喰種化という非常に成功率の低い実験のモルモットにするには都合がよかった。
なにせ幾ら実験に失敗し、大量の被験体がガストレアになろうとも、当時の日本には
「も、もう……やめて……お願い、しますっ……」
そして、
爪を剥がされた。指を切られた。皮膚を溶かされた。歯を折られた。骨を砕かれた。舌を抜かれた。喉を潰された。眼球をくり抜かれた。手足を挽かれた。
そしてそれらは妥協を知らない職人のような手際で、じっくり、丁寧に行われた。
当然、実験にはバラニウム製の器具が用いられた。
これにはガストレアと同様にウイルスによる再生を阻害する意図と、そもそも喰種は基本的にバラニウム製の武器以外では傷一つ付けられないからだ。
しかし喰種たちの再生力はバラニウムの再生阻害を押し返し、時間の経過に伴って徐々に傷口を修復させていった。加えて、短期間で肉体の破壊と再生のサイクルを強引に引き起こされた結果、彼女たちの再生力は飛躍的に上昇し、裂傷や骨折の類は数秒、内臓の損傷であれば長くても数分で完治するようになった。
故に、常人であればとうに死んでいるであろう傷をどれほど負おうと、彼女たちは死ぬことすら許されない。
仮に、これが彼女たちから何らかの情報を入手するための拷問であったならまだ救いはあった。なにせ彼らの求めている情報さえ渡せば、それがたとえ『死』という形であっても終わりを迎えられるのだから。
だが、彼女たちの拷問に終わりはない。これを地獄といわず何と言うのか。
血で汚れた白衣を着た大人の一人が、無機質な瞳でクロを見下ろしていた。
その手に電動ノコギリを持って。
モーターが唸りを上げ、円形の刃が高速で回転する。
「ひっ!? や、やめてっ、それだけは! い、いやだっ、やめ───がっああああぁぁああああ!!!??」
振り下ろされた凶器が容赦なくクロの身体を切り刻んでいく。少女の絶叫と機械の騒音が手術室に響き渡り、手術台の下には血溜まりが形成されていく。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!
涙が頬を伝い、口からは血がこぼれ、視界が明滅する。
過ぎ去る気配のない激痛の嵐に、クロは喉の奥からせり上がってくる血に溺れながら絶叫し続けた。
やがて喉が涸れ果てたのか、クロの声が掠れ、もはや聞こえるのは刃が回転する音と肉が裂ける音だけになった時だった。
電動ノコギリを持った男が、スイッチを切った。
するとそれまで男の作業を見守っていた他の大人たちは、
「……ぃ……ぎ………」
「………損傷した内蔵の修復、および切断された四肢の再接着を確認しました。教授」
「素晴らしい! わずか四日でレベルⅢ相当の再生能力を獲得するとは! 残すは赫子の発現のみだが……ふむ。確か、黒い死神は初めから赫子を扱えていたんだったな?」
「はい。報告によれば、黒い死神はウイルスを注入された直後に赫子を発現させ、その場で感染源ガストレアを駆逐したそうです」
「やれやれ。喰種の再生能力を効率よく強化する方法が確立できたのはいいが、赫子の発動条件が分からなければ話にならない。まったく、天童菊之丞め。あの男さえいなければ、今ごろ黒い死神は
黒い死神。
それは実験が始まってから大人たちが度々口にするようになった、とある喰種の通り名。
クロにはその黒い死神がどういった存在なのか、詳しいことは分からなかった。なぜなら彼らが黒い死神の話題を出すのは、決まってクロが
気を失わないようにするだけでも精一杯なのに、ましてや大人たちの会話をすべて聞き取る余裕などなかった。
だがそれでも、断片的に耳にした大人たちの会話からいくつか分かったこともあった。黒い死神のことだけでなく、自分たちのことも。
一つ。黒い死神は歯をむき出しにしたようなマスクで顔を隠し、戦闘においては自身の負傷を顧みない。
二つ。相手が数秒前まで
三つ。どうやら大人たちは、その黒い死神を喰種にしたガストレアの遺体から抽出、培養したウイルスと自分たちを使って、新たな黒い死神を作ろうとしているらしい。
(一体、いつまで続くんだろう……)
クロの意識が薄れていく。徐々に闇の中へ沈んでいく感覚に身をあずけながら、絶望に淀んだ瞳で虚空を見つめていると、偶然こちらを見下ろす大人の一人と目が合った。
目が合うと思っていなかったのか、わずかに見開かれる双眸。
その反応にクロは思った。もしかしたらこの人は、他の人たちとは違うのかもしれない、と。
少なくとも、自分を見下ろす彼女の瞳は、他の大人たちのように実験動物を見るような目ではなかった。
だからだろうか。
「……ぁ………す……け…ぇ……」
「──────」
かすれた声で、今にも消えそうな声で。クロが彼女に、助けを求めてしまったのは。
「む? どうかしたかね、橘くん」
「………いえ、別に」
橘と呼ばれた女性は、教授の問いにそう短く返すと反射的にクロから目をそらした。
すると教授は、手術台の上に拘束されているクロを決して見ようとしない橘と、そんな彼女に縋るような目を向けるクロを順に見た。
「………ああ、なるほど。君は
「………………」
「まぁ気持ちは分からなくもない。なにせコレらの外見は人間と大差ないからね。でもね、コレは人じゃあない。
「私は………」
教授の言葉に結局彼女はそれ以上なにも言えず、そこでクロの意識は完全に闇に溶けた。
クロたちはその日の実験が終わると、食事の代わりにウイルスを餓死しない程度に与えられてから個別の部屋に戻される。いや、部屋というよりは独房と呼んだ方が正しいかもしれない。部屋には窓はなく、あるのは古びたベッドと異臭が漂うトイレのみ。部屋と外をつなぐ唯一の扉はバラニウム製で、子どもの膂力ではとても壊せそうにない。
「967番、入れ」
「ぁ、ぐっ……!」
乱暴に背中を押され、思わず床に倒れこむ。直後、ガシャンと音を立てて背後で扉が閉まった。
今すぐ泥のように眠ってしまいたかったが、クロは薄汚れた床に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。そしてふらついた足どりで扉に向かい、碌に力も入らない両手で押した。
が、当然扉が開くはずもなく、かくいうクロ自身も期待などしていなかった。ただ、無意識に体が動くほど何度も繰り返して習慣になってしまっていただけ。
ぐったりと扉に背をあずけ、膝を抱える。
「………シロも、わたしと同じコトされてるのかな」
今まで無意識に考えることを拒んでいた疑問が、ふと口から漏れた。
クロの脳裏に浮かび上がるのは、大切な妹が自身と同じように全身を切り刻まれている光景。
嫌な汗がどっと噴き出し、体が震えた。
「なんでっ、なんでわたしたちがこんな目に……ッ」
涙がこぼれた。それは理不尽への怒りからか、または無力な自分に対する悔しさからか、はたまた決して目覚めることのない悪夢への恐怖からか。
いずれにせよ、一つ言えることは。
「あけろ……あけろ……っ!」
服の袖で乱暴に涙を拭った彼女の瞳は、まだ絶望に屈してはいなかった。未来を諦めてはいなかった。
ガンッ、ガンッ、と。扉に何度も拳を振り下ろすが、その勢いはあまりにも弱々しかった。いくら喰種の高い再生力のおかげで傷が完治するとはいえ、クロは一日近くも拷問されていたのだ。肉体的、精神的な疲労は計り知れない。
脳と身体が休息を取れと、そんなことをして何になると訴えてくる。
それを、知ったことじゃないと心が拒絶する。お前たちの意見に従ったところで、待っているのは拷問の日々だけじゃないか。たとえこの行為に意味なんかなくても、無駄な足掻きだったとしても。
扉を叩く右手の皮が破れ、血が流れる。焼きつくような痛みが手から走るが、ちょうどいいと考えを改める。おかげで眠らずに済みそうだ。
「わたしは、諦めないッ。絶対に、ここを出てッ。シロと……ナシロと一緒に幸せになるんだ! パパと、ママの分まで……!」
そんな彼女の思いを、神が汲み取ってくれたのか。血の滲む右手を振り上げて、再び振り下ろそうとした瞬間。
扉が、開いた。
「あ───」
当然ながら、扉を叩くために振り下ろされた拳はそのまま空を切り、バランスを崩したクロは床に思いきり顔面を打ちつけた。
「〜〜〜〜ッッ!!??」
心の準備もなく、唐突に訪れた痛みにクロは悶絶した。両手で顔を押さえ、小さく床に蹲りながら彼女は思った。
(待って。扉が開いたということは、それはつまり───)
扉の鍵を持つ人物。すなわち大人がいるということ。そしてそれは、再びあの手術室へ連れて行かれることを意味していた。
ゾワリ、と全身の毛が粟立つ。蹲っている場合じゃない。早く逃げないと、またあそこへ連れて行かれる。
クロはふらつく足にムチ打って廊下へ飛び出すと、扉を開けた人物になど目もくれずに手術室とは反対方向へと体を向けようとして───
「クロ!」
横合いから誰かが抱きついてきた。その勢いはもはやタックルに近く、まともに食らったクロは今度は背中を床に強打した。目尻に涙を溜めながら、自身に覆い被さっている下手人に視線を向け───思考が停止した。
「ナ、シロ……?」
そこにいたのは、名前と同じように白い髪を持った少女だった。顔や体は記憶の中よりも痩せこけているが、間違いなく彼女はクロナの妹のナシロだった。
「よかった……やっと、クロナにあえた……!」
「ナシロ、え、でもどうやって……」
困惑、そして疑問。確かにクロもずっとシロに会いたいと思っていたが、今は再会を喜ぶ気持ちより懐疑の気持ちの方が大きかった。
どうしてシロがここにいるのか、と。
さらに、首の位置を少しずらしてシロが走ってきた廊下を見れば、自分と同じくらいの年齢の子どもが大勢いた。
一体なにが起こっているのか。泣きつくシロを優しく引き剥がし、手を引っ張って起こしてもらうと、クロは子どもたちを見ながら尋ねた。
「……ねえ、シロ。シロはどうやってここに───」
「あー、感動の再会にあまり水を差したくはないんだけど、こっちも時間がないんだ」
自身の背後から届いた声にクロは勢いよく振り向いた。そこにいたのは、柔和さなど微塵もない鋭い表情が特徴的な女性。
だが、クロにとってそんな情報はどうでも良かった。彼女にとって重要だったのは、女性の声が数時間前に手術室で聞いたとある大人のモノと酷似していたこと。
「あなた、は……もしかして」
「そんな意外そうな顔しないでよ。助けを求めたのはあなたの方でしょう?」
そう言って女性───橘は、自嘲するような笑みを浮かべた。