黒の銃弾と黒い死神   作:夢幻読書

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第20話 食後の茶菓

 デザート(desert)=報い

 

 

 

 

「ネ、スト……」

 

 驚愕に目を見開きながら、橘は目の前にいる、本来なら絶対にここにいるはずのない男の名前を口にする。

 

 対して、黒のロングコートに深紅の手袋とネクタイという出で立ちの美青年───ネストは僅かに瞠目し、しかしすぐに面白そうに目を細めた。

 

「あるえぇえ? 貴女と直接顔を合わせるのはこれが初めてのはずですが、どうしてぼくがネストだと?」

 

 無意識に、橘はクロたちを守るように一歩前に出た。二人はネストが放つ異様な雰囲気に怯え、小刻みに震えていた。

 あれほど鳴っていた警報は、もう止まっていた。

 

「私を組織に勧誘した電話の男と、貴方の声が同じだったからよ。……それにしても、あの時とは随分と雰囲気が違うのね」

 

 初めてネストと会話したときに抱いた彼への印象は『普通』だった。橘が組織に与することで得られるメリットとデメリット、それらを丁寧に、真摯に、理路整然と並べる。

 好感が持てるわけではなかったが、さりとて不快とも感じない。良くもないが悪くもない、まさに『普通』な人物だと思った。

 

 だが、目の前の男はあの時と声は同じなのに、それ以外のすべてが『異質』だった。

 

「アレはいわゆる仕事モードってやつです。ぼく、仕事とプライベートは区別(わけ)るタイプなので。あんな堅苦しいしゃべり方、仕事以外の場面でも続けるなんてとてもとても」

 

 ネストは肩をすくめ、やれやれと首を振る。

 

「まるでここには私用で来てるみたいな言い方ね」

 

 警戒を隠そうともしない橘の問いに、ネストは「にぱー☆」と笑う。

 

「もちろん仕事ですよー。というかこんな血なまぐさい場所に仕事以外の用事で来るわけないじゃないですか。ぼくグロいのとか超苦手なので」

 

「仕事、ね……確か貴方の役割は上からの指示を下の人間に通達し、裏切り者や任務に失敗した人間を処分することじゃなかったかしら。なのにどうしてここに……」

 

「あなた方の働きぶりをその目で確認してこいってクソ上司共……偉い方々がうるさくって、たまたま視察に来てたんですよー。まったく、ぼくは単なる連絡役だっていうのに、ホント上は人使いが荒いんだから」

 

 ぷんぷんと、擬音を口にしながら頬を膨らませるネスト。

 

「そ・ん・な・こ・と・よ・りぃ〜……ご自分が何をされておいでか、理解されてます?」

 

 だが、再び最初の時のような穏やかな笑みを浮かべる。

 この短時間でころころと表情を変えるその様は、クロとシロはおろか橘ですら不気味さを感じずにはいられなかった。

 

 人懐っこい笑顔を浮かべながら、ネストが一歩踏み出した。

 

「…………ひっ」

 

 たったそれだけで、幼い少女二人は声にならない悲鳴を上げた。もはやクロとシロの目には、ネストは得体の知れない化け物にしか映っていなかった。

 

 そして二歩目を踏み出そうと足を持ち上げた瞬間。

 

「───動かないで」

 

 毅然とした声で、橘は懐に隠していた拳銃を抜き放ち、片足立ちになっているネストに照準を合わせた。

 

 グロック26。

 オーストリアの銃器メーカー、グロック社が開発した自動拳銃であるグロック17。その直系のコンパクトモデルであるグロック19をさらに小型化した超コンパクトモデル。

 その軽さと高い携帯性から、橘はそれを護身用として常に持ち歩いていた。

 

「クロナちゃん、ナシロちゃん。この男は私が足止めするから、貴女たちは私のカードキーを使って残りの子どもたちを解放して脱出しなさい」

 

 言いながら、けれど決してネストから視線は外さず、橘はバトンを渡されるのを待つリレー選手のように自身の背後にカードキーを持っていく。

 

「え……そ、それじゃあ……っ」

 

「橘さんは……?」

 

 二人の問いに、橘はわずかに間を空けて答えた。

 

「……大丈夫よ。私もすぐに追いかけるから。だから、行きなさい」

 

「で、でも───」

 

「───行きなさいッ!!!」

 

 なおも食い下がろうとするクロに怒鳴るように声を荒げた。

 その剣幕におされクロは一瞬だけ怯み、思わず泣きそうになった。

 

 重なったのだ。自らの命を犠牲に、身を呈して自分たちを守ってくれた両親の姿と、目の前の彼女の背中が。

 が、なんとかそれを堪える。ここで泣いちゃダメだ。今はまだ、泣くときではない。

 

 クロはカードキーを奪うように受け取ると、シロの手を引いて奥へと走っていった。

 

「……あのぉー、ぼくは一体いつまでこの格好でいればいいんですかぁ?」

 

 そう言ってネストは、荒ぶる鷹のポーズを決めながらへらへら笑う。

 

「そうね……私が貴方から銃口を下ろすまで、でどう?」

 

「あはは───

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

 

 

 

 パチン、とネストが指を鳴らした。

 

 直後、彼の背後の床が爆発した。否、床を破壊しながら何かが飛び出したのだ。

 ソレは粉塵を纏いながら床の上に着地すると、ネストの斜め前に立った。

 

 床から飛び出したという事実とソレの体に付着している大量の返り血から察するに、ソレは陽動のために地下四階で放ったガストレアを処理し、そのまま天井を突き破ってこの場所に来たのだろう。そんな怪物染みた所業を成した眼前の存在に、橘は我が目を疑った。

 

「なんなのよ、それは……」

 

 だが、突然の乱入者を観察すればするほど橘の眉間には皺が寄り、その眼に宿るものは今や驚愕ではなく、人を殺せるのではと思えるほどの険呑さ。

 

「……答えなさい」

 

 グロック26を握る両手が震えた。

 

「一体なんなの、その()()はッ!?」

 

「おぉ、一発でコレの正体を看破するなんて、さっすがは橘さん!」

 

 激昂する橘に、ネストは馬鹿にしたような拍手を送る。橘の声は怒りで震えていた。

 

「貴方たちは、生きている者だけでは飽き足らず、死んだ者すら弄ぶというのッ……!」

 

「うわぁ、まるでぼくたちは悪人で貴女は善人みたいな言い方ですね───超笑えます。今まで散々、娘の死を言い訳にして親を失くした少年少女たちの体を切り開いていた悪魔のセリフとは思えない」

 

「…………ッ!」

 

「まあでも良いと思いますよ、そういうの。どこまでも身勝手で、偽善的で、見るに堪えないほど醜悪で。笑いすぎてお腹が痛くなるほど滑稽ですが、実に人間らしくて素敵じゃないですか。好きですよ、貴女のような人間(道化)。観ていて飽きません」

 

 そこで一度、ネストは橘に向けていた視線を切り、自身の斜め前に陣取る『死体』を見やる。

 

「今回の視察、ここの職員の働きぶりを見るっていうのは実は建前みたいなものです。本命は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……ぅ………ぇ……」

 

「生きていたころの名残か、時々何かぶつぶつと呟きますが……まあこの様子を見る限り特に問題はなさそうですね。仮に問題が生じたとしても、今のコレの出力ならぼくでも十分対処できますし」

 

 そうしてネストは、『死体』に向けていた視線を未だにこちらに照準を合わせ続ける橘に向けた。当然、銃口は下ろされていないのでネストは今も荒ぶる鷹のポーズを維持している。

 しかしその顔は、勝ち誇り、明らかに橘を嘲笑していた。

 

「形勢逆転……デス!」

 

 パンッ! 銃声が、廊下に響き渡る。空薬莢が排出され、数回床を跳ねて、沈黙。

 弾丸はネストの頬をかすめ、浅く裂けた皮膚からは静かに血が流れた。

 

「……へ、ちょっ、エーッ!? 撃ちます? ふつう今の流れで撃ちますか!? ここは圧倒的な戦力差に絶望して、涙を流しながら"せめて命だけは〜"ってみっともなく土下座する場面でしょう!?」

 

 予想外の展開に慌て、動揺し、先ほどまで浮かべていた余裕の表情は見る影もない。

 対して橘の顔は、氷のようにどこまでも冷え切っていた。

 

「噂には聞いていたけど、まさかすでに完成していたとはね」

 

「え、うそ、無視? もしかして図星を突かれたから拗ねちゃったんですか? でもだからと言って無視はよくないと思いまーす! イジメはんたーい! いじめ、カッコ悪い!」

 

「ソレ、貴方の命令がなければ『作動』しないのでしょう? だったら形勢はなにも変わらない。あの子たちが逃げ延びるまで、その無様な姿を晒し続けなさい」

 

 ネストの聴くに値しない戯れ言を黙殺し、底冷えするような声で橘は命令する。だが───

 

「───分かってないなぁ」

 

 やはりネストは、嗤っていた。

 

「貴女、最初から負け(おわっ)てるんですよ?」

 

「……なんですって?」

 

「そもそもの話ぃ、組織に対する忠誠心を一切持たず、いつ裏切るかわからないような犬を放し飼いにすると本気で思ってたんですかぁ?」

 

 まるで辺り一帯の温度が急激に下がったかのような感覚が橘を襲う。

 ネストは満面の笑みを浮かべた。

 

「監視してたに決まってるじゃないですかぁ! もちろん貴女だけではありません。組織にいる、貴女のような人間ぜーいんですっ!」

 

 エヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘ、エヘヘヘヘへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへ。

 

 楽しそうに、下らなさそうに。面白そうに、つまらなさそうに。ネストは笑う、哄笑う、嘲笑う、嗤う、凶笑う。

 

 もはや不気味と呼ぶにはあまりにも禍々しい、人間の悪意を煮詰めて凝縮したような邪悪な笑みだった。

 

「先陣きって地上に飛び出した実験体たちは今ごろドナドナされてると思いますよ?」

 

「……べらべらとよく舌が回るわね」

 

 しかし、そんなネストの勝利宣言に等しい言葉に対し、橘の動揺は小さかった。

 どうやら目の前の男は自身が監視されている可能性を考慮しなかったと思っているようだが、それはひどい勘違いだ。

 

 橘はとっくに監視に気づいていた。だから敢えて事前に計画を立てず、傍から見れば『あと先も考えず一時の感情に身を任せた愚かな行動』を選択した。そうすれば、組織の対処も多少は遅れると思ったから。

 

 無論、下準備は済ませてあった。施設の警備スタッフ全員とそれとなく会話をし、その人となりを把握し、ある日突然協力を要請しても受諾してくれる人材を選別した。

 そして今日、子どもたちを逃がす前にスタッフ数名を買収した。彼らは今回の騒動のあとは姿を消し、しばらく身を隠すだろう。誰も犠牲にはならない───はずだった。

 

「あ、言い忘れてましたが貴女が騒動を起こす直前に買収したスタッフは全員処理する予定なので安心してください」

 

「……ッ!?」

 

 見誤っていた。見くびっていた。想定が足りなかった。

 彼女の所属していた組織は、たった一人のちっぽけな人間が出し抜けるほど甘い相手ではなかった。

 

「……ハッタリね」

 

「ところがどっこい、ハッタリじゃありません。ですがまあ、考え方は人それぞれなのでそう思っていただいてもぼくは全然構いませんよ」

 

 お前の考えなど正直どうでもいいと、言外に告げているネストの態度に、橘は今すぐ回れ右してすでに地上に向かっているであろうクロたちを追いかけたい衝動に駆られた。

 だがそんなことをすれば、ほぼ確実に自身はこの場で絶命するであろうことは容易に想像できた。

 

 どうする……どうするっ……!

 

「いや〜、貴女も()()()()()()()()()。もしも計画を実行するのが明日だったら、または昨日だったら。もしかすれば貴女の勝ちだったかもしれませんねぇ」

 

 

 

 ───あなたが気に病むことじゃないわ。あの娘は……運がなかったのよ。

 

 

 

「……ふ、ざけるな……!」

 

 『運』。そのたった一文字を脳が認識した瞬間、悔しさと怒りが同時に込み上げてきた。

 娘の病気を治すため、娘を救うために奔走した橘の努力は報われることなく、当時12歳だった一人の少女は想像を絶する苦痛の果てにこの世を去った。

 

 お前が無能だったからと、努力が足りなかったからだと罵倒され、責められたほうが遥かにマシだった。

 

 だが現実は、周囲の人々は橘を慰めた。運がなかった、間が悪かったんだ、と。

 

 冗談じゃない。運などと、そんな不確かな要素のせいで娘が死んだなど、断じて認められない。認めない。認めてたまるものか。

 

 あの娘の死を、『仕方がなかった』で終わらせていいはずがない。

 

 そんなもはや、ある種の復讐に近い執念によってここまで歩いてきた。そしてまた再び、『運』が彼女の道程を阻む。

 

(また私は、見殺しにするのか……!)

 

 奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばった。

 

(それなら……そうなるくらいなら!)

 

 さまざまな葛藤の末に、橘はある決意を固めた。その時、ネストが静かに語りかけた。

 

「そこで一つ、提案があります」

 

「提案、ですって?」

 

「正確には『取引』と言ったほうがいいかもしれませんね。ちなみにこの取引は一回こっきりのものなので、慎重に考えたほうが賢明ですよ?」

 

「……言ってみなさい」

 

「今ここで、改めて組織に忠誠を誓っていただきたい。二度と我々に逆らわない、と。そうすれば、今回の一件は上には黙っていてあげましょう。ついでに昇進もさせてあげます。新参者とはいえ、いつまでも自分より頭の悪い人間の下で働きたくはないでしょう? 貴女をトップとした新しいチーム、それに研究施設も誂えましょう」

 

「拒否したら?」

 

「もちろんこの場で処分します」

 

 予想通りの返答に橘は思わず笑ってしまった。

 

「はっ、よくもまあそんな一方的な要求を『取引』だなんて言えたものね」

 

「これでもかなり譲歩しているんですよ? 貴女もご存知とは思いますが、我々の組織において裏切り者は基本的に極刑です。裏切りが発覚した時点で、即刻、その場で、問答無用に。にも関わらず、ぼくが貴女にこんな取引を持ちかけたのは貴女が非常に優秀な人材だからですよ。かの四賢人の一人、日本最高の頭脳と評された室戸菫の()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「───私の前であの女の名を口にしないで。非常に不愉快だわ」

 

 室戸菫。その名前がネストの口から出た途端、橘は不快そうに顔を歪めた。

 

「おやおやぁ? 学生時代、貴女は彼女にとって同性で唯一の友人であり、その仲もかなり良好だったと聞いていましたが、どうやら今はそうでもないご様子。何があったか、気になるなぁ」

 

 そしてそれを見て、まるで新しいオモチャを手に入れた子どものようにはしゃぐネスト。

 

「羨望ですか? 嫉妬ですか? 劣等感ですか? そりゃありますよねぇ。日本が誇る天才、室戸菫の次に優れた頭脳を持つと言ってもその間には絶対的な差が、決して埋められない圧倒的な開きがある。真の天才には所詮、秀才止まりの凡人では届かない。だから───」

 

()()

 

 しかし、そんなネストの煽りに揺さぶられることなく、橘は静かに、されど明確に否定した。

 しばし探るように、ネストは刀のように鋭い橘の眼を見る。橘もまた、感情も思考も読めないネストの目を睨み返す。

 

「ではどうしてそこまで室戸菫を敵視しているんです?」

 

「それを貴方に教える義理はないわ」

 

「つれないなぁ……ま、いいです。ぶっちゃけそれほど興味ないんで。んで、話を戻しますが……お返事、聞かせてもらえます?」

 

 にっこりと笑うネスト。橘は一度、目を閉じた。

 

 彼の話はその慇懃無礼な態度を除けば非常に魅力的なモノだった。自身の夢、ガストレアウイルスのメカニズムを解明し、医療に応用すること。

 ここの施設の教授は無能ではなかったが、自分に言わせれば非効率で無駄が多い。あれでは遅すぎる。

 

 だが、自分だけのチームと研究施設を手に入れることができたなら……。

 

「……決めたわ」

 

「それで?」

 

 橘はゆっくりと目を開けた。

 

「クソくらえよ」

 

「交渉決裂、ということですね。残念ですねぇ、いやーとても残念です」

 

 言葉とは裏腹に、ネストの口元は見る見るつり上がる。

 

「ですがまぁ、これも仕事なので。本当はこんな事したくありませんし、胸が張り裂けそうなほど苦しいですが、立場上戦いますねえぇぇぇえええ!!」

 

(来る……ッ!)

 

 橘はネストに照準を合わせたまま、しかしいつでも回避できるように両足に意識を集中させた。

 未だかつてない生命の危機を脳が直感したのか、橘の思考が平時とは比べ物にならない速度で回転する。

 

 橘は停滞する世界というものを生まれて初めて体感し、同時に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()事実に焦燥しながら、目の前で微動だにしない『死体』について説明していたネストの言葉を思い出す。

 

『生きていたころの名残か、時々何かぶつぶつと呟きますが……まあこの様子を見る限り特に問題はなさそうですね。仮に問題が生じたとしても、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 彼は誇張でも虚勢でもなく、当然のように"対処できる"と言った。それはすなわち、コンクリート製の床を容易く粉砕するような怪物が目の前に二体いるということ。

 不安はある。自分の手に収まっているグロック26はガストレア戦争前から身に付けている代物のため、その銃弾はバラニウム製ではない。()()()()()()()()()()()()()()

 

 橘の勝利条件は二つ。ネストが『死体』に命令を飛ばす前に彼を無力化するか、逃走するか。

 だがどちらの条件も容易とは言い難い。相手は仮にも『死体』に対処できる人間。スポーツや武術に多少の心得はあっても殺し合いなど生まれてこのかた一度も経験したことがない橘には、目の前の男に対して自身が手に持つ拳銃がただの気休めにしか感じられなかった。

 

 ならば、と。

 

 一か八かの賭けになるが、現状打破するためにはもはやコレしかない。橘はポケットからある物を取り出そうとして───

 

「───と思いましたが、どうやらその必要はないみたいですね」

 

 先ほどからネストが一歩も動いていないことに気がついた。同時に、今しがたまで減速していた世界が本来の時間を取り戻す。

 

 橘は彼の発言の意図が理解できず、彼らへの警戒はそのままに反射的に尋ねた。

 

「どういう意味?」

 

「後ろ」

 

 そう言って橘の背後を指差し、酷薄な笑みを浮かべるネスト。

 

「…………はぁ」

 

 呆れた。いくら自分が素人だからと言って、そんな明からさまな手に引っかかると本気で思っているのだろうか。馬鹿にするにも限度がある。思わず溜息が漏れる。

 

「そんな子供騙しに、私───」

 

 

 

 

 

「───橘さん、逃げてぇぇええええっ!!!」

 

 

 

 

 

 まず、悲鳴が聞こえた。聞き覚えのある、つい数分前に話していた幼い少女の声だった。

 次に、何かが背中にぶつかる衝撃があった。それはなにかとても鋭利なモノで、焼けるような痛みを伴って肉を掻き分け、骨を裂き、腹部から顔を覗かせた。

 

 それの正体を、彼女は知っている。

 

「ま、さか……()()ッ───ごふっ……!」

 

 喉の奥からせり上がってくる何かをそのまま吐き出せば、それは温かくて真っ赤な命の証明だった。

 

「だ、れなの……ッ」

 

 激痛のあまり叫び出しそうになるのを必死に堪え、傷口から溢れ出る血など気にも留めず、橘は懸命に首を動かし、背後にいるであろう己を刺した犯人を見やった。そして───

 

 

 

 

 

 ───橘の呼吸が死んだ。

 

 

 

 

 

「……………………」

 

 そこにいたのは一人の少年だった。

 

 少年はクロたちと同じ病衣を着ていて、真っ白な髪をしていた。しかしそれはシロの髪色のような自然なものではなく、まるで色を無理矢理洗い落としたかのような印象を受ける。

 さらにその白い髪と同じくらい目を引くのは、そんな彼の髪色とは真逆に黒く変色した爪。

 

 そんな少年の瞳に宿る感情は絶望と苦悶、憤怒と憎悪、そして濁りきった殺意。少年は鬼のような形相で、涙を流しながら嗤っていた。

 

 橘はその少年のことを知っている。否、知っていなければならない。

 

 なぜなら彼は、他ならぬ彼女が『仕方がない』と見捨ててきた、数多の犠牲者の一人なのだから。

 

「まずは……一人……ッ!」

 

 棚上げにし続けてきた罪が、最悪の形で牙を剥いた。

 

 

 

 

 


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