黒の銃弾と黒い死神   作:夢幻読書

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第21話 選手

 プレイヤー=prayer=願い

 

 

 

 

 不規則に明滅を繰り返す蛍光灯が弱々しく照らすとある独房。そこには一人の少年がいた。

 

 髪は白く、それとは対照的に黒く染まった爪を持つ少年は、ともすれば死体だと見間違われかねないほど生気の宿らない瞳で部屋の隅にもたれ掛かっていた。

 

 少年には、一体いつから自分がここにいるのかもはや把握できていない。この施設に入ってから最初の一週間くらいまでは日付を数えていたような気がするが、今となっては何故そんな無意味な行為にあれほど熱意を注いでいたのかも思い出せない。自分はどうして、あれほど必死になっていたんだっけ?

 

 徐に、少年は自分の手足に視線を落とした。まるでバラニウムのように黒い爪。視界の端で微かに揺れる白い髪。

 自分の髪や爪は、もともとこんな色だったっけ?

 

 少年はクロたちが施設に入るずっと以前からここで『管理』されており、そしてそんな彼の精神は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 彼はもう、昨日の出来事すら朧げにしか思い出せない。

 心が砕けた少年は今日も無慈悲に痛めつけられ、泣き叫び、その涙の意味すら忘却して眠りにつく───はずだった。

 

「………………?」

 

 鉄の扉越しでもはっきりと聞こえてくる警報音に、少年は訝しげに顔を上げた。

 なんの音だろうかと不思議に思っていると、続けてパタパタと軽い足音と幼い少年少女たちの声が扉の前を通り過ぎていく。

 

 独房の外で何が起きているのか気にはなったが、どうせ何をやったところで無意味だと、自分でもよく分からない諦観の念が押し寄せ、結局動くことはなかった。

 

 そうしてしばらくすると、警報も足音も声も聞こえなくなり、少年は再び鳴り止まない静寂に包まれた。

 

 ああ、なんだか眠たくなってきた。やけに体が重くて、立ち上がるのすら億劫だけど、今日なにかしたっけ?

 ……だめだ、思い出せない。思い出せないということはきっと、大したことじゃないんだろう。

 

 少年は欠伸を一つして、壁に背を預けたまま眠ろうと瞼を下ろし始めた。

 

 その時だった。

 

 ガシャン! という音と共に鉄の扉が開き、逆光を伴って誰かが入口から入ってきた。予想外の事態に少年の肩がびくりと震えた。

 

「はぁ……はぁ……っ! きみ、大丈夫!?」

 

「え……あ、えと、君こそ大丈夫?」

 

 突発的な強い光に目を焼かれたせいで顔はよく見えないが、声の調子から判断してとてもつらそうだと少年は思った。

 

「わたしの、ことはいいからッ、それよりきみのコト! 立てる!?」

 

 そう言って手を差し出す少女。ようやく光に目が慣れて、目の前の彼女の顔が見える。

 黒いショートボブの、整った顔立ちをした女の子だなと少年は思った。

 

「う、うん……でも何のために?」

 

「ここから出るために決まってるでしょう!? いいから早く!」

 

「ちょっ、ちょっと!」

 

 少女はいつまで経っても自分の手を取ろうとしない少年に痺れを切らし、強引に手を掴んで引っ張り起こした。

 そして少女は、少年の手を握ったまま外に飛び出した。

 

「シロ、そっちは!?」

 

「こっちはもう大丈夫! あとはその人だけだよ、クロ!」

 

 部屋の外に出ると、そこには目の前の少女と瓜二つの容姿をした、少年と同じ白髪の女の子がいた。なぜかは分からないが、ひどく焦っているようだった。

 

「早く行こう! 橘さんもあとで追いかけるって言ってたけど、わたし達が脱出しないといつまで経っても逃げられないよ!」

 

「そんなの分かってるよっ!」

 

「……ねえ。その橘って、だれ?」

 

 二人の会話から、髪が黒い方の名前がクロ、白い方がシロだというのは何となく理解していた。では、彼女たちが口にしている橘とは一体誰のことなのか、単純に気になった。

 

「わたし達を独房から逃がしてくれた恩人だよ。かなり遠いから見えづらいと思うけど、あそこに()()()()()()()()()()? 手前にいるのが橘さんで、奥にいる男の人を足止めしてくれてるの。だからわたしたちは、自分たちのためにも橘さんのためにも、急いでこの施設から脱出しないといけないの───ってうわあっ!? 床からなんかフード被った変なのが出てきた!?」

 

 少年は突然取り乱し始めたクロを不審に思いつつも、先ほど彼女が指差した先を見た。そう、見てしまったのだ。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()姿()()

 

 少年の横で、クロが何かを叫んでいる。それは彼女の表情から少年に向けてのものだということは容易に想像できたが、肝心の少年の耳には全く届いていなかった。

 彼女らの存在は、もはや少年の中には入っていなかった。

 

 視線の先で『大人』たちが何か話し合っている。

 ───どうでもいい。

 

 手前にいる『大人』が奥にいる『大人』に向けて銃を撃った。

 ───どうでもいい。

 

 奥にいる『大人』が手前にいる『大人』のことを笑っていた。

 ───どうでもいい。

 

 どうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいい。

 

 そんな事はどうだっていい。重要なのは、自身が憎悪して止まない復讐の対象───どんな手を使ってでも殺すべき存在が目の前に二人いるということ。

 

 それだけで、いい。

 

 今まで溜め続け、蓋をし、封じ込め続けてきた負の感情が指向性を獲得して噴出し、爆発した瞬間。

 

 腰の部分から、まるで少年の憎悪に応えるかのように一本の触手が肉を突き破って飛び出した。

 

 そして少年は、そのまま前のめりに上体を倒し、全力で床を蹴って踏み砕きながら駆け出した。

 

「──────ッ!」

 

 誰かの叫び声が聞こえた気がしたが、少年にとってそれは足を止める理由になりはしなかった。

 

 殺すべき対象は二人。ならばどちらから殺す? 決まっている。確実に殺せる方から殺す。つまり───

 

 ───()()()()()()()()()()

 

 死ね。そう頭の中で念じれば、腰から生えた赤黒い触手はまるで命令を遂行するかのように手前にいる『大人』へと一直線に伸び、背中から腹部にかけて貫いた。

 

 『大人』の体から溢れる赤い液体。苦痛に呻く声。それらすべてが少年の空っぽになった心を満たしていった。

 

「まずは……一人……ッ!」

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 背中から腹部を貫通していた赫子が引き抜かれ、支えを失った橘の体は糸の切れた人形のように床に倒れ込む。

 

「だから言ったでしょう、"後ろ"って。ぼくの言葉を信じて素直に"過去(後ろ)"を振り返っていれば、こうなることぐらい簡単に予想できたでしょうに」

 

 水の入ったバケツに穴を開けたように、橘の傷口から血が溢れ、床に広がっていく。

 

「助けられた子どもたち全員が貴女に感謝の言葉をかけてくれると思いましたか? 温かい笑みを浮かべて、優しく抱きしめてくれると期待してましたか? ざぁんねぇんでぇしたぁ!! これが現実、そして現実は非情なーので〜す」

 

 ふぅ、やっと両足で立てますよ、と愚痴を溢しながら、ネストは橘の元へ歩み寄ろうとした。

 

「うーーん? 君、まぁだ居たんですかぁ?」

 

「………………」

 

 ネストの前に、白髪の少年が立ち塞がる。少年の顔は俯いているため前髪でよく見えないが、微かに口を動かしていることから何事か呟いているのだろう。だが、それはあまりにも小さい上にそもそもネストには聞く気がないため彼の耳には断片すら届いていない。

 

「生憎ですが、君に構っている暇はないんです。用がないなら───」

 

 その時、ネストはサッと上体を後ろに逸らした。眼前を通り過ぎる赫子に対し、それでもネストは微笑みを絶やさなかった。

 少年が顔を上げる。彼の右眼は、赫く染まっていた。

 

「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺」

 

「こわー」

 

 並の人間なら即座に失神するであろう殺気を受けながら、ネストはへらへらと笑っていた。

 

「完全に正気を失っちゃってるじゃないですか、コレ。なんでこんなのを処分せずに管理を継続しようと思っちゃったかなぁ、ここの責任者は」

 

「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇぇぇぇぇええええええ!!!!」

 

「あーもう、さっきからうるさいんですよチミィ。───と言うわけで、『L.D.O.(エル・ディー・オー)』。()()()()()()()()()()()()

 

「…………!」

 

「プギュ───ッ!!??」

 

 まるで食器についた汚れを洗い流すかのような気軽さで放たれた『命令』。そしてそれは、速やかに実行に移された。

 ここまで銅像のように不動を貫いていた『L.D.O.』と呼ばれた『死体』が高速で動いた。『死体』が行った動作は至ってシンプル。『死体』はネストに飛びかかろうとした少年の前に立ち塞がり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 衝撃で生まれたクレーター。無造作に叩きつけたブレードを持ち上げれば、水に濡れた雑巾を絞った時のように大量の血が滴る。

 

 少年だった『モノ』は、原形すら留めていなかった。

 

「さ〜て、ようやく邪魔者も消えたわけですし? ちゃちゃっと生死を確認して上に報告しますかねぇ?」

 

 目の前で文字通り地面の染みになった存在には一切目もくれず、ネストはスキップしながら橘の元へ向かった。が、そこには───

 

「はぁ〜〜……ちょっと、いい加減にしてくれません? こちとらとっとと仕事を終わらせて定時には帰りたいんです。なので───さっさとそこ、退いてくれません?」

 

 彼の目の前には、地に伏す橘を庇うように覆い被さるシロと、そんな二人を守ろうと両膝をがくがく震わせながら立ち塞がるクロの姿があった。

 

「退かない…………」

 

「そんな生まれたての子鹿みたいに震える体でなぁにが出来るって言うんですかぁ? さっき頭のネジがぶっ飛んだガキとぼくらの戦闘を見てたでしょう? 君たちもああなりたいんですか?」

 

 つい数秒前まで少年だった床の染みを指差し、冷笑するネストにクロは一歩後ずさり、シロは恐怖に泣いた。

 それでもクロは勇敢にもネストを睨み返し、シロは橘の傍を離れなかった。その反応に、ネストは呆れたように首を振った。

 

「理解できませんね。ぼくらと対峙すれば確実に死ぬと分かっていて、それを心の底から恐れているのに、どうしてそんな死に損ないのために命を張るんです?」

 

 その問いに、クロは震えながら答えた。

 

「理由なんて、わたしにもよく分かんないわよ……でも、例え次の瞬間あなたに殺されるとしても、わたしの死がなんの意味もないものだとしても……わたしは、わたしや妹を助けてくれた人を見殺しになんかしたくないッ!!」

 

 助けてもらった。だから助けたい。絶対的な死を前にして、クロとシロがそれでも逃げ出さなかったのは、そんな、人間として当たり前の理由からだった。

 さすがのネストもこの返答は想定外だったのか、虚をつかれたような顔をして固まった。そして、そんな絶好の機会を見逃さなかった人間が一人、この場にいた。

 

 

 

 

 

「───そう。なら……私も、もう少しだけ……足掻いてみようかしら」

 

 

 

 

 

 カチッ、と。何かのスイッチが押される音がした。それはクロの背後、正確にはシロが覆い被さっていた橘の元から聞こえた。

 

 直後、施設全体が大きく揺れた。

 

『…………!?』

 

 轟音と振動は下から、つまり地下四階から徐々に上へと駆け上がってくる。

 

 はっとして、ネストはクロの背後を、シロが覆い被さっている橘へと向けた。正確には、彼女がいつの間にかポケットから取り出し、左手に握っていた小さな装置を。

 

「ま、さか……起爆装置!?」

 

「…………ご名答……」

 

 出血の影響で顔色は最悪で声も弱々しかったが、それでも彼女は悪辣に笑っていた。

 

「正気ですか!? 下手をすれば施設に残っている人間が、貴女を含めた全員が生き埋めになるんですよ!? だいたい、爆弾なんていつの間に───」

 

 ネストの言葉を遮るように一際大きな爆発。廊下の天井が次々と崩れ、瓦礫の雨となってその場にいた全員に降り注ぐ。

 

「きゃああああああああああああ!!!」

 

「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬぅッ! こんなの絶対死んじゃうよぉぉぉおおお!!」

 

 クロとシロがパニックに陥り、それでも橘を置き去りにはできず、彼女にしがみつきながら絶叫したその時、特大の瓦礫が隕石のように天井から落下した。

 激突の衝撃で体重の軽いクロたちは宙に浮きかけるが、橘が最期の力を振り絞って二人を抱きしめて吹き飛ばされないように踏ん張る。

 

 そして衝撃が過ぎ去った後、拮抗する力が消失したことで文字通り死ぬ気で踏ん張っていた橘は、クロたちを抱きかかえたまま横向きに倒れた。

 

「かっ、けほ……二人とも、無事……?」

 

「はぁ、はぁ……な、なんとか……」

 

「い、生きてます……」

 

 分厚い粉塵に視界を塞がれ、数十センチ先にいる互いの姿しか見えないが、三人が三人とも、一先ず生き残れたことにほっと胸を撫で下ろした。

 しかしそれも一瞬。橘は即座に気を引き締め、首を巡らせて周囲を警戒する。

 

「……ネストは?」

 

「……分かりません。でも、無事ではないはずです。わたし達ですらああでしたから」

 

「そうですよぉ……あぁ、死ぬかと思ったぁ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「───いやぁ、ホントですよー」

 

 

 

 

 

 

 

 

「「「!?」」」

 

 じゃり、じゃり、と。視界がほとんど遮断されているこの状況で、確実に自分たちの方へと近づいてくる気配。

 

「まさか組織の監視を欺いて施設のあちこちに爆弾を設置するなんて。橘さん、貴女ホントにただの科学者なんですかぁ? 実は『我々』を潰すために送り込まれたどこぞの工作員でした、なんて言われても今なら全然驚きませんよ?」

 

 姿は見えない。だが、確かに奴は接近しつつある。つい数分前に、橘を守るためにあの男と対峙したときの恐怖が蘇り、クロとシロを襲う。

 今の二人の心境を一言で表すならば、絶望の二文字が相応しいだろう。

 

「……クロナちゃん、ナシロちゃん」

 

 その時、弱々しい小さな声で自分たちを呼ぶ声が聞こえた。

 反射的にそちらを向いて、二人は息を呑んだ。

 

「た、橘、さん……?」

 

「そ、それ……」

 

 二人は震える指で、彼女の背中を指差した。橘は億劫そうに自身の背中に視線をやった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……あぁ、これね。さっき天井が落ちてきたときに破片がたくさん飛んできてたのよ」

 

 何でもないことのように言ってるが、今の橘の状態ははっきり言って危険……いや、もはや手遅れな状態だった。

 

「そ、んな……」

 

「わたしたちを、庇って……?」

 

 クロたちは目の前が真っ暗になるような錯覚に襲われた。自分たちのせいで、橘はすでに瀕死だった体に鞭打ち、さらに深手を負ったのだ。

 自責の念が、二人の胸を容赦なく抉った。

 

「気に、することじゃないわ……どの道、あの子に後ろから刺された時点で、助からないのは……分かってたことだし……」

 

 その直後、橘は大きく咳き込み吐血した。

 

「橘さん!?」

 

「喋らないで、傷口が開いちゃう!」

 

「いいから、聞きなさいッ……」

 

「「……ッ!」」

 

 その声は小さく、相変わらず弱々しかったが、彼女の必死な形相に二人は押し黙った。

 

「この施設の地下四階には、用済みになったガストレアや、処分が決定した孤児を……廃棄する排出口が、あるの……地上は……おそらく封鎖されてるわ……でも、あそこなら……」

 

 徐々に、言葉の間隔が開いていく。温もりが薄れていく。彼女の体から、何かが離れていく。

 不意に、橘の手がクロとシロの頬に触れる。

 

「不思議ね……顔も声も、違うのに……貴女たちを、見ていると……どうしてか、あの娘を重ねてしまうの……ふふふ……なんで、かしら……ね」

 

「そ、れは……」

 

 彼女の独り言とも取れる疑問に、クロたちは言葉に詰まった。それは自分たちも同じだったからだ。

 人間の死者に対する後悔や執着といった『未練』が生み出す、今を生きる者に失った大切な誰かを重ねるという愚行。橘が助けを求めるクロの中にかつて救えなかった娘を見たように、クロたちもまた、亡き母の姿を彼女の中に見ていたのだ。

 

「……ねぇ。貴女、たちに……一つだけ、お願いが、あるの……」

 

「な、なに……っ?」

 

「シロたちっ、なんでもするよ……!」

 

 クロとシロは泣いていた。おそらくコレが、彼女が自分たちへ残す最期の言葉(遺言)だと、理解したから。

 

「身勝手な、ことなのは、分かってる……貴女、たちに……こんなこと、言える資格なんて……ないこともっ」

 

 橘の頬を涙が伝う。

 

「……だけど、どうか……お願い……私の、ことは……許さなくて……いい……一生、恨んでくれて、も……いい、から……」

 

「恨むわけないよぉっ!!」

 

「許すからぁ! わたしたちにしてきたことっ、全部許すからぁっ!!」

 

 限界だった。二人は橘の手をそれぞれ握り、しがみついた。

 

「…………どう、か…………生、きて……幸せ、に…………な………っ、て…………」

 

「待ってぇ! 約束するから! だからお願い、いかないでぇ!!」

 

「わたしたちをっ、シロたちを、パパとママみたいに置いていかないでよぉ!! 橘さん!!」

 

 二人の少女は何度も彼女の名を呼んだ。けれど、いくらその名を叫ぼうと、彼女が答えることはない。

 いくら体を揺すっても、彼女の安らかで、優しく、穏やかな寝顔が歪むことはもう二度と、ない。

 

「止めを刺しに来たつもりでしたが、どうやらその必要はないみたいですね」

 

 背後から投げられた声に、ビクリと肩が跳ねる。

 振り返ると、不気味に微笑むネストが佇んでいた。

 

 クロとシロは橘の亡骸を守るように立ち塞がり、瓦礫の破片を手にネストを睨みつけた。

 それを見て、ネストはケラケラ笑う。

 

「うっはぁ、めっちゃ敵意向けられてるー。ぼく、貴女たちに何かしましたっけ?」

 

「ふざけないで! 橘さんが死んだのはあなたの……お前のせいじゃないか!」

 

「───は? ちょっと意味不明なんですけど。どうしたらそういう結論になるんですか? 確かにぼくは彼女を殺そうとはしましたが、実際に彼女を後ろから刺し、殺したのは()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「「……!?」」

 

 それまでどんな状況だろうと決して絶やすことのなかった笑みを消し、能面のような無表情で淡々と、事実のみを口にするネストの言葉は、幼い少女たちの心を容赦なく抉った。

 

「さて、と。本来ならぼくの仕事は彼女が死んだ時点で終わりだったんですが……」

 

 ネストは大げさに崩壊した施設内を見渡した。

 

「これはよくない。非っ常ーによくない。施設の機能がほとんどダウンしてしまっている……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 まるで三日月のように、ネストの口元が裂ける。

 

「収容できないということは捕まえたところで意味が無いということになります。そして、捕まえる意味がないということはつまり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ぞわり、と。全身の毛が粟立つ。歯の根が合わない。体の震えが止まらない。

 逃げたい、逃げなければならい。それなのに自分の足は、震えるばかりで決して動いてくれない。

 クロとシロの心は完全に恐怖に支配され、もはや自分の意思では瞬きさえ出来なくなっていた。

 

「貴女たちも憐れですねぇ。黒い死神なんて存在がガストレア戦争で活躍していなければ、今ごろ"普通の人間"として過ごせていたでしょうに」

 

 ネストはゆっくりとコートを脱ぎ、袖を捲った。

 

「では、さようなら」

 

「え───?」

 

 気がつけば、ネストがすぐ目の前にいた。

 

「ボールを相手のゴールにシュゥゥゥーッ!!」

 

 ゴグシャア!! という轟音が炸裂した。

 踏み込みの衝撃で床が陥没するほどの勢いで放たれた蹴りが、弧の軌跡を残してシロの横腹を捉えたのだ。

 蹴り飛ばされたシロはそのまま砲弾のような速度で廊下の壁に叩きつけられ、地面に落ちるとそれきり動かなくなった。

 

「……ッ!? ナシ───」

 

「超! エキサイティン!!」

 

 クロが妹の名前を呼び終えるより前に、ネストの拳が彼女の鳩尾に突き刺さり、その華奢な体軀を宙に浮かび上がらせる。ふざけた掛け声とは裏腹に殺人的な威力を誇る彼の拳打は、その凄まじい運動エネルギーを余すことなく伝達し、クロの体内を蹂躙し、暴れまわる。

 骨が折れ、内臓が破裂する音が耳朶を叩いた。

 

「ご、ばぁッ……!」

 

 明滅する視界。口内に広がる鉄の味。苦悶と共に吐き出された真っ赤な液体。それをネストはひょい、と横に回避する。

 全身の力が一気に抜け、意識が遠のいていく。

 

(ごめん、なさい……橘さん、約束……守れ、なか……っ、た……)

 

 その場に崩れ落ち、心の中で橘に謝罪しながら、クロの意識は闇に沈んだ。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「それにしても、羨ましいくらい満足そうな顔で死んでますね」

 

 脈を確認し、確かに絶命していると理解した上で念には念を入れて既に停止している心臓を完全に潰した後、ネストは血で汚れた手をハンカチで拭いながら橘の顔を見下ろして呟いた。

 

 それから、今も施設内に断続的に発生する揺れに嘆息する。

 

「やれやれ。優秀な研究員の喪失に、実験体の脱走、施設は半壊。これはどうやっても粛清は免れませんね。責任者と末端の人材の何人かは確実に消されるでしょうし、研究は他のところに回され、この施設もおそらく廃棄される。ま、責任者とその他数名を消すのはぼくの仕事なんですけどね、面倒なことに」

 

 両手の掌を上に向け、肩をすくめる。責任者の姿は(四階)で確認済み。他何人かは見せしめの意味合いが強いため正直に言って誰でもいいのだが、わざわざ取捨選択するのも面倒なので責任者の側にいる人間を適当に処理すればいいだろう。

 

 とは言え、わざわざ下に足を運ぶ必要はない。橘の意図にもよるが、仮に彼女がこの施設を破壊するつもりで爆弾を仕掛けたのなら、放置しても彼らは生き埋めになるだろう。

 逆に地下四階で放ったガストレアと同じように陽動が目的なら、施設は崩れず、彼らは生存本能から安全な地上を目指すはずだ。もしそうなったなら、施設の玄関からバッティングセンターのボールのように外に飛び出す彼らを一人ひとり殺していけばいい。

 

「であれば、取りあえずぼくも地上を目指しますか。あ、そう言えば確か二階は研究エリアでしたね。せっかくなので、余裕があったら寄って行きましょう。そうと決まれば善は急げ。『L.D.O.』、行きますよ。はー、忙しい忙しい!」

 

 そう言ってネストは、脱いだコートを着直し、『死体』と共にその場を後にした。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 埃っぽいにおいと、鉄っぽい味がする。砂でも入ったのか、口の中がジャリジャリとしていて気持ち悪い。

 

「───ッ、───!!」

 

 誰かが、泣きながら自分の体を揺すっている。待って、すぐ起きるから。だからあと少しだけ、この穏やかな微睡みの中にいさせて。

 ……だけど、なんだろう。何か大切なことを、忘れているような……

 

「クロナっ! クロナぁっ! 起きてッ、起きてったら!! お願いだから、目を開けてよぉ! お姉ちゃん!!」

 

「ナ、シロ……?」

 

 鉄のように重い瞼をゆっくりと押し上げると、そこには瞳を潤ませながら目を見開く妹の姿があった。

 

「よかったぁ……! もうぅ! どんなに揺すっても叩いても全然起きないから、本当に死んじゃったかと思ったんだよ!?」

 

「死ぬ、って……いや待って。そう言えばわたしはどうして、ここ、に───」

 

 その時、クロの瞳に橘の遺体が映った。一時的な記憶の混濁が解消されるには、それだけで十分だった。

 

「……そっか。わたしたち、あのネストって男に……」

 

「うん。多分あの人、動かなくなったわたしたちを見て死んだと勘違いしたんじゃないかな。実際、人間だったら死んでたと思うし……」

 

 クロは改めて自分のお腹に手を当てる。骨は折れてないし、内臓の痛みもない。あの男に与えられた必殺の一撃は、完全に治癒していた。

 

 これが、喰種の再生力。

 

 けれどクロもシロも、その事実を素直に喜ぶことができなかった。そもそも自分たちが喰種にされなければ、こんな目に遭わずに済んだのだから。複雑な感情が二人の胸中を覆い尽くした。

 

「……シロ、肩貸して」

 

「……うん」

 

 だけど今は、その感情は置いておく。そんなことを考えるよりも、先にやらなければいけないことがある。

 

 シロの肩に手を回し、支えてもらいながらクロは橘の元へと向かった。

 

「橘さん。わたしたちは、あなたのことを忘れません」

 

 涙は流さない。きっと彼女は、それを望まないから。

 

「"生きて幸せになる"って約束、シロたちが果たせるかどうかは……正直わかんないけど」

 

 だから、なんとかして笑ってみせる。笑って別れを告げる。きっと彼女は、それを望んでいたから。

 

「だけど、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 二人は橘の両側に回り、彼女の手を胸の上で組ませた。

 

「助けてくれて、ありがとうございました」

 

「さようなら。それから……おやすみなさい」

 

 クロとシロは一度頭を下げた。立ち上がり、もう少しだけ傍にいたい思いをどうにか押し殺して、二人は彼女に背を向けて歩き出した。

 

 命を賭して助けてくれた、恩人との約束を守るために。

 

 

 

 

 


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