黒の銃弾と黒い死神   作:夢幻読書

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第26話 獲れ得ど

  とれえど=Trade=取引

 

 

 

 

 ある高級マンションの一室。そこに一人の男がいた。

 

 掻き上げた金髪に、顔に掛けた丸眼鏡の向こう側には、その内面の神経質さを表したかのような吊り目。黒地のシャツに白のスーツ、黄色のネクタイをした30代くらいの白人。

 ナプキンを胸に掛け、男は椅子に背筋を伸ばして座り、黙々と卓上に置かれたグラスにワインを注ぐと、用意されたステーキを切り分け始めた。

 

 男の名前はエイン・ランド。彼こそ、日本の室戸菫、オーストラリアのアーサー・ザナック、ドイツのアルブレヒト・グリューネワルトら3人と共に『四賢人』と称された、アメリカ最高の頭脳の持ち主である。

 同時に、己の都合のために親を持たない呪われた子供たちを集め、強制的に機械化手術を施し、その彼女たちを道具のように扱うという、医者としての最低限の誇りすら悪魔に売り渡した外道でもある。

 

 エインはステーキを切り終えると、切り分けたうちの一つをフォークに刺し、口に運ぶ。

 

「…………む?」

 

 が、それを口に入れる直前に、懐の携帯が震える。

 食事を邪魔された不快感から舌打ちを一つ漏らして、ナイフとフォークを置いた。

 

 ディスプレイを確認すると、目に映るのはNo caller ID(非通知)の表示。

 エインは眉間に皺を寄せて、通話に出た。

 

「誰だ」

 

『初めまして、エイン・ランド。僕はハイセと言います』

 

「……黒い死神か。どうやって私の番号を調べたのかは知らんが、これから金毛牛のフィレと、上質な1990年産の赤を味わうところでな。食事の邪魔をされるのは好かん。切るぞ」

 

『そうですか。取引をしようと思ったのですが、仕方ありませんね』

 

 エインは目を閉じ、グラスに入ったワインを口にしようとして。

 

『引き続き、北京での暮らしを楽しんでください。では』

 

「待てい!!!」

 

 突然エインは立ち上がり、口から唾を飛ばす勢いで叫びながら、ワインも卓上にあった料理も全部払い除けて床にぶちまけた。

 

「……貴様、()()()()()()()()()ことを知っているっ」

 

 エインが思わず取り乱した理由。それは、本来であれば誰も知らないはずの自分の現在地を、あまりにも容易く特定されたからだ。

 

『それは大した問題ではありません。重要なのは、僕は貴方がどこに隠れていようと見つけ出せると言うことです』

 

 苛立ちを多分に含んだ疑問の声をさらりと流され、会話の主導権を向こうに握られている現状に癇癪を起こしそうになるも、ナプキンをむしり取るように外し、深呼吸することでどうにか堪える。

 

「……取引と言ったな。何が望みだ」

 

『ティナ・スプラウト、および天童民間警備会社に手を出すな。当然、我々にも』

 

「断ればどうなる」

 

『貴方の居場所を世界中に拡散します。今回の聖天子狙撃事件を含めた貴方がこれまでに行った悪事の詳細と一緒に。ありとあらゆる場所から、貴方に恨みを持つ方々がやって来るでしょう』

 

「はっ、それがどうした? 有象無象がいくら群がったところで、私が作り出した"ハイブリッド"には手も足も出せまい」

 

 ハイブリッド。

 呪われた子供たちでありながら、機械化兵士としての能力も併せ持つ存在。

 

 手術の際にはバラニウム製の器具を用いて呪われた子供たちの驚異的な再生能力を封じるのだが、それによって治癒力は人間以下に落ちるため、成功率は人間に施す機械化手術よりも遥かに低い。

 しかし、いやだからこそと言うべきか、手術に成功した"ハイブリッド"の実力は並の機械化兵士やイニシエーターを大きく上回る。民警の序列は100番台で人間を辞めているレベルと言われているが、"ハイブリッド"の第一世代であるティナの序列は98位。そして、彼女の()()()の序列はそれ以上である。

 

 故に、エインは鼻で笑ったのだ。その程度、脅威でも何でもないと。誰にも自分を害することなど出来ないと。

 

『確かに、貴方の言う通りです。並の人間がどれほど集まったところで、序列20番台のイニシエーターすら保有する貴方には触れることすら出来ないでしょう』

 

 なんてことないように、自身が有する最高戦力(リタ・ソールズベリー)の情報を掴んでいることを仄めかされ再び苛立つも、全体的にエインの言っていることを肯定する発言に気分を良くする。

 

 が。

 

『では、その後は?』

 

「………は?」

 

 何を言っているんだ? とエインは一瞬ぽかんとした。

 

『貴方に復讐しに来る人間をすべて返り討ちにして、その後はどうするんですか? まさかそれで終わりだなんて思っていませんよね?』

 

 淡々と、感情が一切読み取れない声に、ぞくりと背筋に悪寒が走る。

 

『どれほどの被害が出るかは実際に起こっていないので何とも言えませんが、確実なのは貴方が抵抗すればするほど世間から見た貴方の脅威度は跳ね上がるということ。さらに複数の名義を使って複数のイニシエーターと契約し、しかも契約しているイニシエーターたち全員が単身で超高位序列者に至るほどの実力を持っていることが露呈すれば、もしかしたら"10番台"が派遣される事態になるかもしれませんね』

 

「……ふっ、ふざけるなァ! 貴様、そんなことをしてただで済むと思っているのか!! 今すぐ私の作品たち(ハイブリッド)に殺させてもいいんだぞ!!」

 

『そうなるか、ならないかは貴方の返答次第です。さあ、どうしますか?』

 

 エインは顔を真っ赤にしてパクパクと口を動かし、やがて俯きながら返答した。

 

『取引成立ですね。では、失礼します』

 

 プツンと通話が切れた瞬間、エインは頭を掻きむしりながら絶叫し、携帯を思いきり床に叩きつけた。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 ふう、と一息ついて、カネキは携帯を仕舞い、何の気なしに空を見上げる。

 

「……本日は晴天なり」

 

 どうしてか脳裏に浮かんだ、誰かがよく言っていた気がする言葉をそのまま口に出し、カネキは青空を視界から外して歩き出した。

 一週間分のインスタント食品を詰めた袋を左手に提げ、青信号になった横断歩道を渡る。

 

 昼間という時間帯も合わさって、どこに視線を向けても人の姿が目に映る。

 スーツを着た男性。ベビーカーを押す女性。学生服を着崩した若い男女。手を繋ぐ親子。杖をつく老爺と、それに寄り添う老婆。

 どれもこれも、ありきたりな日常の一コマ。誰もこの日常の裏で、東京エリアの国家元首の命を巡った攻防や、喰種同士の殺し合いがあったなど夢にも思わないだろう。

 

 安久姉妹との決着……あの後味の悪い幕切れから3日が過ぎた。そしてそれは、奇しくも()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()でもあった。

 後で聞いた話だが、あの日別の場所でティナ・スプラウトの襲撃を受けていた蓮太郎たちは、護衛対象である聖天子を守り抜くだけに留まらず、何とそのままティナの撃破まで果たしたという。

 

 大阪の国家元首である斉武宗玄とのニ度目の非公式会談。その会談の場に赴いた際に再び襲撃を受けた蓮太郎たちは、一旦近くのビルの地下駐車場に避難した。

 そこで延珠が真っ先に、機動力の高い自分が単身でティナを倒すと突撃しようとしたが、病院でカネキにされた忠告を思い出した蓮太郎がそれを却下。自分も一緒に行くと機械化兵士の力を使う決意を固めるが、今度は夏世が二人を引き留めた。

 

 地下駐車場の入口周辺を監視するように浮遊する、球状の物体(シェンフィールド)に気づいたからだ。

 

『状況的に、あれはほぼ間違いなく敵の偵察用ドローンです。狙撃手の傍で操作しているのか、それとも違うところから行っているのかは分かりませんが、恐らくあれを使って我々の位置を捕捉しているんだと思います。私たちの行動は、相手に筒抜けになっていると考えるべきでしょう。加えて敵が何人いるのかも、依然不明のまま。無闇に突っ込むのは危険です』

 

『それじゃあどうする。こっちの動きが読まれてるんじゃ、ぐずぐずしてたらティナに逃げられる。アイツをここで逃すわけには……人を殺させるわけにはいかない、絶対に。今すぐ何か対策を立てないと』

 

『……一つ、私に考えがあります』

 

『考えって?』

 

『里見さん───鳥になってみる気はありませんか?』

 

 夏世の考えた作戦。それはティナがいるビルよりも高い別のビルから飛び移り、蓮太郎が奇襲を仕掛けるというものだった。

 仮に敵がティナ以外にもいた場合を想定して、夏世がバックパックから閃光手榴弾を蓮太郎に渡す。優先すべきは狙撃手であるティナのみ。彼女を撃破次第、即撤退するためである。

 

 囮役には聖天子や蓮太郎たちが乗っていたバンと、駐車場に置いてあった車から適当に選んだ軽自動車。そして延珠。

 夏世と将監は万が一に備え、聖天子の傍で待機。

 最後に作戦の要である蓮太郎は、軽自動車の運転席に出来るだけ姿勢を低くして乗り込んだ。

 

 作戦開始の号令と共に、一人でに走り出すよう細工したバンを地下駐車場から通りへ送り出し、まず狙撃の初弾を受けてもらう。その隙に蓮太郎の乗った車が通りに躍り出ることで、バンが囮であり、後続の車が聖天子を逃がすための本命であると思わせる。

 次弾を装填し、通りを50メートル進んだかどうかの距離で2射目が車を停止させたと同時に、今度は延珠が通りへ飛び出し、ビルの屋上へ駆け上がって一直線にティナの元へ向かわせることで、彼女の意識を延珠一人に集中させる。

 

 そして、夏世から電話で合図を受けた蓮太郎は、車から降りると即座に右脚のカートリッジを炸裂させ、延珠が跳んでいるビルの通りとは別の道を時速150キロ近い速度で疾走した。

 ティナに気づかれることなく目的のビルに辿り着いた蓮太郎は、エレベーターと階段を使って一気に屋上に上がると、これからやろうとする行為に恐怖と緊張で暴れ回る心臓をどうにか落ち着かせ、義眼を解放した。

 屋上に設置されている柵に向かって走り出し、それを踏み台にして飛び、同時に右脚のカートリッジを撃発。

 

 蓮太郎は鳥になった。

 眼下に広がる東京エリアの夜景。翼を羽ばたかせるように何度もカートリッジを撃発させ、彼は空を飛んだ。

 

 そして落ちた。

 重力に従って、弧を描くように落ちた。

 

 その時まさに、屋上で延珠と対峙していたティナの真上に。

 

 ティナが蓮太郎の存在を察知した時には既に遅く、カートリッジで再加速した蓮太郎の蹴りが、容赦なく彼女の顔面に突き刺さった。

 完全な不意打ちで受けたダメージは大きく、多少の抵抗はあったものの、蓮太郎たちは特に危なげなくティナを制圧した。

 

 これが、神算鬼謀の狙撃兵との決着。

 

 ちなみに人生史上最大の大ジャンプを成功させた蓮太郎は「もう二度と御免だ」とげんなりし、実は蓮太郎の到着があと少しでも遅れていたら、四方のビルに設置されていた遠隔操作が可能な重機関銃で蜂の巣にされていたと知った延珠は「もう二度と妾一人で倒すとか言わない」と真顔になったとか。

 

 とは言え、万事解決とまではいかなかった。

 

 聖天子暗殺の依頼人と思われる斉武は、動機はあっても証拠が一つもないためお咎め無し。実行犯であるティナが捕まると、聖天子側の情報管理の杜撰さをこれでもかと非難して会談を打ち切り、大阪エリアに帰って行った。

 後に非公式会談に関する情報を外部に漏らしていた内通者が、聖天子の側近の一人だったことが判明した際には、斉武からの叱責も合わさって聖天子は少なくないショックを受けたらしい。

 

 加えて、聖天子付護衛官。

 ティナ撃破後、彼女を連れて蓮太郎たちが地下駐車場へ戻ると、保脇を筆頭にした護衛官数名と将監が険悪な雰囲気で対峙していた。

 具体的には、聖天子の身の安全や、護衛官と民警の身分の違いを引き合いに出して罵倒する保脇に対し、決して大らかの気質の持ち主とは言えない将監が、青筋を顔のあちこちに浮かび上がらせながらも黙って耐えているというものだった。

 この時、疲労困憊だった聖天子は夏世と別の護衛官数名に連れられ、奥の方で休んでいたため、保脇の暴言を止めることは出来なかった。

 

 保脇は蓮太郎たちの存在に気づくと、開口一番に聖天子の傍を離れたことを非難し、彼に抱えられた意識の無いティナを見てなぜ殺していないのかと激昂したが、突然何か思いついたように薄ら笑いを浮かべた。

 

 直前に、将監という自分より体格の優れている相手に対し精神的優位に立てたことで、気を大きくしていたのだろう。加えて聖天子が近くにいないことも不味かった。

 何と保脇は、蓮太郎とティナは裏で通じており、今回の事件はすべて蓮太郎の自作自演であるとして、二人をこの場で射殺すると言い始めたのだ。

 

 曰く、狙撃犯であるティナを殺さなかったことがその証拠、と。

 

 宣言通りこちらに銃口を向ける保脇に対し、延珠は瞳を赤熱させ、将監もとうとう堪忍袋の緒が切れ掴み掛かろうとするが、それらを牽制するように放たれた「抵抗すれば貴様らだけでなく、貴様らの関係者も反逆罪で処刑だ」という言葉に、延珠たちの体が硬直する。

 保脇の言葉がはったりではなく本気だと直感し、全員が脳裏にこの場にはいない大切な者たちの姿を思い浮かべてしまったが故に。

 

 その隙を、保脇が見逃すはずもなく。

 悪辣に笑いながら、引き金に掛ける指に力を込めた。

 

 蓮太郎は咄嗟に横にいた延珠を抱き寄せ、保脇に背を向けながら腕に抱えたティナ諸共覆い被さるように地面に伏せた。

 数瞬後に訪れる激痛に耐えるため、蓮太郎は歯を食いしばった。そして。

 

『───一体、何をしているんですか?』

 

 冷静な……否、絶対零度とでも言うような声を発しながら、夏世が現れた。その顔は無表情ではあったが、普段のどこかぼんやりとしたものではなく、怒りの感情が振り切った者のみが見せる、そういう類のものだった。

 

 保脇の怒声は奥の方にいた夏世たちのところにも微かに聞こえていた。

 何があったのか確かめるため、夏世は聖天子と共に護衛官たちの制止を振り切り、来た道を戻った。そして道中、保脇が将監を侮辱していることに気づいた。

 

 この時点で夏世はかなり頭に来ていたが、同時にまだ冷静でもあった。

 仮にも相手は三尉。民警には『疑似階級』と呼ばれる自衛隊と同じ階級が適用されているが、あくまで疑似。命令権はあるが指揮権はなく、そもそも夏世たちの階級は三尉よりも下だ。命令することは愚か、むしろ命令されれば逆らえない立場にある。

 故に怒りに身を任せたりせず、落ち着いてその場を収めるよう努力するつもりだったのだが、友人である蓮太郎たちをあまりにも理不尽な理由で害そうとしているのを見て、この場を穏便に済ませようという考えは一瞬で吹き飛んだ。

 

 結論から言うと、夏世は保脇のメンタルを廃人一歩手前まで追い込んだ。それも言葉だけで。

 

 相手が逆上したり会話を拒絶したりしないよう絶妙に調整しながら、夏世は正論で保脇を殴り続けた。保脇はついに泣き始めたが、それでも夏世は殴るのを止めなかった。むしろ「何泣いてるんですか?」とさらに追い打ちを掛けた。

 そうして、あと一押しで精神が崩壊しそうなほど憔悴した保脇の肩に、夏世はぽん、と手を置いて。

 

『ですが、貴方は何も悪くありません』

 

 そう、優しく微笑んだ。

 

『確かに貴方の人生は間違いばかりでしたが、それは貴方が正しいと信じていたことが間違っていただけなんです。そして今、貴方には何が本当に正しいことなのか分からなくなってしまいました。さぞ不安でしょう。さぞ心細いでしょう。でも大丈夫───私が、貴方を"正しい"道へ導いてあげますから』

 

 保脇は号泣した。

 夏世は保脇には見えない角度で冷笑した。

 そして蓮太郎たちは、そんな二人のやり取りを見て引いた。

 ついでにカネキも、その話を初めて聞いた時は思わず引いた。

 

 こうして蓮太郎たちは、序列98位の殺し屋を相手にしながら、一人も犠牲者を出さずに暗殺を防いでみせた。そして、暗殺の任務を強制され、挙句その任務に失敗した途端すべての罪を背負わされ切り捨てられたティナは、『聖天子預かり』という異例の措置によって、現在聖居にて軟禁、事情聴取が行われているらしい。命を狙われた当人であり、また東京エリアの最高権力者でもある聖天子が味方についているなら、彼女の処遇は決して悪いものにはならないだろう。

 

「………?」

 

 不意に、右目から一筋の涙が流れる。

 気付かないうちに目に小さいゴミでも入ったのだろうか。手袋を着けた右手で目元を拭い、そこに視線を落とす。

 

「……………」

 

 右手に向けていた視線を前に戻すと、ちょうど目的地が見えてきた。

 

 勾田公立大学附属病院。

 カネキが今、左手に持っている食料の届け先である。

 

 だが、何もそれだけの為にここに訪れた訳でもない。

 

 受付を済ませ、ロビーで待つことしばらく。奥にある診察室から出てきた里津が、こちらに気づく。

 

「よっ、お待たせ」

 

 軽く手を挙げながら歩いて来る里津に、カネキも同じように手を挙げて応える。

 

「僕も今来たところ。それより、検査の結果はどうだった?」

 

 カネキの問いに、里津は肩をすくめる。

 

「前の時と一緒だったよ。体内侵食率も、奥の手を使ったからちょっとは上がってるかもって思ったけど、全然」

 

「そっか」

 

 ん、と検査結果が記載された診断書を差し出され、カネキはそれを受け取るとさっと目を通す。

 健康状態に関する項目はどれも正常値を示しており、里津の身体が如何に健康か物語っていた。

 

 やがてカネキの視線が、体内侵食率の項目に辿り着く。

 

「……うん。里津ちゃんの言う通り、前回と変わらず、だね」

 

 占部里津

 ・ガストレアウイルスによる体内侵食率29.8%

 ・担当医コメント───『回帰』による体内侵食率の上昇が懸念されましたが、『回帰』の使用が短時間だったこともあり、ウイルスの進行はほとんど見られません。引き続き、負傷や『回帰』の多用は避けてください。

 

 ほっ、と息が漏れる。

 耳元で響いていた鼓動の音が波のように引いていく。

 

 どうしても、里津の体内侵食率を確認する直前は、心臓が胸の内側で暴れ回り、診断書を持つ手は微かに震える。

 もう何度も繰り返してきた筈なのに、未だにこの感覚には慣れない。

 

「やあ、カネキくん。どうやら里津ちゃんから検査結果は聞いたみたいだね」

 

 声のした方に顔を向けると、里津の検査のために珍しく地下室から出てきていた菫が、白衣のポケットに両手を突っ込んで立っていた。

 

「はい。ちょうど今、診断書にも目を通していました」

 

「そうか。なら、一応私の口からも伝えておこう。カネキくん、里津ちゃんにも言ったんだが、これからも『回帰』の使用は可能な限り控えろ。()()()()()()()()

 

「……ええ、分かっています」

 

「はいはい」

 

 里津の『回帰』は身体能力を大幅に強化するが、その分肉体に掛かる負荷も尋常ではない。

 呪われた子供たちという器の上限を超えたその膂力は、里津自身の身体を破壊し、そして破壊された身体を呪われた子供たちの再生能力で治癒する。里津が『回帰』を発動している時、常にこのサイクルを繰り返しているため、必然的に体内侵食率は呪われた子供たちの力を行使する時以上の速さで進行する。

 

 それ故に、奥の手であり、諸刃の剣なのだ。

 

 だが、菫の言葉に真剣な面持ちで頷くカネキに対して、当事者である里津は聞き飽きたと言わんばかりの顔である。

 そんな里津に対し大人二人は渋面をするが、同じような内容を一年以上何度も言われ続けていることを考えれば、仕方のない反応かもしれない。

 

「あのさ、二人ともアタシのこと馬鹿にしてんの? 何で奥の手を使っちゃいけないかくらい、最初に説明された時にきちんと理解したよ」

 

「でもその後すぐに血が飲みたくなって、柄の悪い人たちにわざと絡みに行ったよね?」

 

「あー、そんなことも、あったっけ……?」

 

「カネキくん。この顔は本気で覚えてない顔だぞ」

 

「通報を受けて駆けつけた差別主義者の警官、説得するのかなり大変だったんだけどなぁ……あ、そういえば」

 

 一瞬遠い目になるカネキだったが、ふと思い出したように菫に持っていた袋を見せる。

 

「とりあえず、一週間分はあります」

 

「助かったよ。ここ暫く、君と蓮太郎くんはもちろん、楓くんも忙しかったから、誰にも買い出しを頼めなくてね。危うく飢え死にするところだったよ」

 

 なら飢え死にしそうになる前に自分で買ってくればいいのでは───なんて、カネキは思わなかった。

 菫は重度の引き篭もりである。里津や延珠の検診の時などの例外はあるが、それがなければ備蓄していた食料が尽きても地下室から出ようとはしない。理由は地上には大嫌いな人間が跋扈してるからとか、空気が汚れてるからとか色々言うが、実際はそんな他責的な理由ではない。

 

 ガストレアへの憎悪に狂っていた、蓮太郎に出会うまでの自身を人外とし、そんな存在は陽の光がある場所に居るべきじゃないと、光が届かない深淵に自分を閉じ込めたのだ。

 その覚悟は生半可なものではなく、過去に何度か本当に餓死しかけている。彼女は、決して自分自身のためには外に出ない。

 

「さて、では私は地下室に戻るとしよう。ここは外に比べれば幾分マシだが、それでもこのケバい女の香水とおっさんの体臭を混ぜたような臭いは私には耐えられそうにない」

 

 菫は袋を受け取ると、白衣を引きずりながらカネキたちに背を向けて歩き出す。しかしすぐにその足は止まり、徐にこちらを振り返った。

 

「彼女たちに、会っていくか?」

 

 無理強いはしないが、と菫は続ける。

 彼女たち、というのが誰を指しているのか、カネキたちは知っている。永遠に引き取り手の現れない、菫の新たな同居人となった、ある姉妹のことである。

 

 一度だけ、カネキと里津は顔を合わせ、再び菫の方を向いた。

 

 わざわざ口にするまでもなく。

 答えは、決まっていた。

 

 地下へと続く階段を降り、地下室の扉を開ける。

 

 部屋に入ると、目的の姉妹はすぐに見つかった。並ぶように安置された二人と対面すると、カネキはそっと手を合わせる。

 

 髪色以外、異なる点がほとんど見当たらないその顔立ちは、とても穏やかな表情をしている。ともすれば、今にも目を開けそうなほど、その顔は生気に満ちていて。

 

「───勝手に殺すな」

 

 突如、遺体を乗せる台車の上に横たわっていたクロの目が、ぱちり、と開く。

 その光景は、部屋の雰囲気と相まって、何も知らない人間がこの場にいれば悲鳴を上げて腰を抜かしたことだろう。

 

「ああ、良かった。てっきり先生に剥製にされたんだとばかり」

 

「おい、せめてもう少し冗談に聞こえることを言ってくれ」

 

 むくり、とクロが上体を起こすと、隣の台で寝ていたシロも起き上がる。

 

「実際に乗ってみて分かったけど、この台、寝心地が最悪だね」

 

「て言うか、何で死体のフリなんかしてんのさ」

 

「だって菫が『私が留守の間に誰か来たら、死体になってやり過ごせ』って言うから。それにまあ、私たちって()()()()()()()()()()()()()()

 

 クロたちが濃縮バラニウム弾と狙撃されたあの時。即死だと思ったカネキたちは、初め彼女たちを置いて立ち去ろうとした。

 が、その直後クロが吐血し、シロの方も僅かに息があることに気がついた。

 

 生きていたのだ。二人とも。

 それは、まさに奇跡としか言いようのない幸運が幾つも重なった結果だった。

 

 まず第一に、クロたちの再生レベルがⅣには程遠いものではあったが、Ⅲよりも僅かに高かったこと。その証拠に、クロがカネキに二発目の濃縮バラニウム弾を撃たれた直後にはすでに、()()()()()()()()()()()()。これは施設で人為的に再生レベルをⅢまで上げられた以降も、彼女たちが過酷な経験をしていたことに起因する。

 第二に、二人が鱗赫持ちだったこと。いつかカネキが病室で蓮太郎たちに語ったことだが、鱗赫持ちは喰種の中でも再生能力が優れている。もしクロたちが鱗赫持ちでなければ、生き残ることは出来なかった。

 第三に、撃たれたのが脳でも赫包でもなかったこと。仮に赫包を潰されてから心臓を、もしくは脳を破壊していれば、二人は間違いなく死んでいた。少なくとも、再生レベルがⅢとⅣの中間くらいでなければ、脳が破壊された時点で再生は行われず、確実に絶命する。

 

 もっとも、いくら僅かに息があったからと言って、再生能力を持つ瀕死の喰種を治療するノウハウを有する医者がいなければ何の意味もない幸運だったが。

 

「とは言え、いつどこでネストに見つかるか分からないし、多分見つかったら次は本当に消されるから一生外には出られないけど」

 

 クロとシロは、自分たちを死んだことにして殺し屋から逃れた。だが、向こうが一体どうやって自分たちを見つけ出したのかは、今も分からない。

 濃縮バラニウム弾を使ったことからクロたちが喰種だと知っていたのは間違いない。そしてそのことを知っているのはネストと、彼が所属している組織だけである。

 

 しかし、肝心のネストが何者なのか、彼が所属している組織が何なのかは依然不明のまま。顔無しにも頼んで調べてもらったが、収穫はゼロ。彼の情報網にすら引っ掛からないのなら、カネキたちに出来ることはない。

 そして組織の全容を把握できない以上、奴らの目と耳はどこにあってもおかしくはなく、不用意にこの地下室から出れば、クロたちは今度こそ殺されるだろう。

 

「でも、不満とかはないよ。外には出られないけど、ここにいる限りは安全ってことだから」

 

「今までは、ネストに見つからないようにいつも転々としてて、安心して眠れたことなんてなかったしね」

 

「アンタらマジ? アタシは一日中菫と一緒の生活より誰かに命狙われてる方が楽だと思うんだけど」

 

「里津ちゃん、それはさすがに言い過ぎ……いや、そうかも」

 

「そうかそうか。君たち、そんなに私に解剖されたいんだな?」

 

「「すみませんでした」」

 

 こうして新たに二人、地下で暮らす住人が増えた。

 其処は暗く、滅多に人も寄りつかない、死者を安置する奈落の底。

 

 ネストか、クロたちを狙撃した人間を見つけて情報を吐かせ、組織を潰さなければ彼女たちが永遠に陽の光を浴びることはない。

 だが不思議と、彼女たちの目に悲観の色はなかった。

 

 ならば、それでいいのかもしれない。

 

 雑談に興じ始めたクロや里津たちを見ながら、カネキは思う。

 図らずも、クロとシロの身の安全は保証された。これで心置きなく、自分のやるべきことに集中できる。

 

 聖天子狙撃事件の終結後に起こる、第三次関東会戦。ずっと待ち望んでいた終わりが、すぐそこまで迫っている。

 

 何をすべきかは分かっている。その為の準備もしてきた。あとはその日が訪れるのを待つだけだ。

 

 ただ、一つだけ、疑問があるとするならば。

 

 

 

 

 

 どうして自分は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 




 次回から第三次関東会戦編に突入します。

 ちなみに前話でカネキ君が里津の説得を無視して安久姉妹を殺すとルートが分岐します。
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