黒の銃弾と黒い死神   作:夢幻読書

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 実は今話の登場人物は全員がどこかで既に一度登場してます。


第30話 観照

 

 

 

 

 

 顔中から噴き出した汗が、重力に従って蓮太郎の頬を伝う。

 

 服の下まで汗でびっしょりだが、その原因は単に日差しや気温のせいだけ(温熱性発汗)ではない。蓮太郎がかいている汗は、冷や汗(精神性発汗)だった。

 

「お兄さん……お兄さんの、もっとくらひゃい」

 

「報告:熱くて濃厚で、癖になる味。私も、もっと欲しい」

 

 蓮太郎の眼前には、目を閉じてキスをせがむように口を差し出す幼女が二人。

 そして周りには、こちらに視線を固定したまま口元を手で隠してひそひそと囁き合う民衆。中にはいつでも警察に通報できるようにか、携帯を構えている者までいる。

 

(どうしてこうなったんだ……?)

 

 蓮太郎は、人生最大の危機に直面していた。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 『不幸顔』。

 

 里見蓮太郎という少年の人相について言及する時、多くの人がそう口にする。しかも身近な人間だけでなく、初対面の相手から開口一番に言われたことさえある。

 蓮太郎の容姿は客観的に見ても十分整っているにも関わらず、誰もが彼の顔を見て真っ先に思い浮かぶ言葉が不幸顔なのである。

 

 『性格は顔に出る』という言葉があるが、これにはその人が普段動かす表情筋の癖や発達具合が関わっていると考えられている。

 

 蓮太郎の幼少期ははっきり言って、悲惨の一言に尽きる。

 

 ガストレア戦争で両親は生死不明になり、養子として引き取られた家では義理の兄たちからいじめられ、挙句には家に侵入してきたガストレアに右腕と右足、左眼を喰われ、何とか一命は取り留めるも、人工皮膚が普及していなかった当時は露出した義肢を気味悪がられたり好奇の視線に晒され周囲から孤立。

 

 そうして、藍原延珠という少女と出会うまで、ガストレアは元より、呪われた子供たちすら憎悪の対象として、負の感情を原動力に生きてきた。

 であれば、蓮太郎の顔が不幸そうなのは必然、当然の帰結なのかもしれない。

 

 とは言え、最近は純度100%の『不幸顔』の中に“苦労してそう"感が混ざり始めていた。

 

 ただでさえ6つも歳の離れた血の繋がらない少女と同棲していると言うのに、なんと向こうは異性として己に好意を持っており、時と場所を選ばずアプローチをかまして無自覚に社会的に殺そうとしてくるのだ。

 加えて、片手で数える程度しかない友人の一人であり恩人でもある室戸菫も、『私の数少ない生きる愉しみ』と称して蓮太郎の周囲の人間(主に延珠)を言葉巧みに誘導し、定期的に社会的に殺そうとしてくる。

 何ならつい一ヶ月前に晴れて天童民間警備会社の一員となったティナ・スプラウトも、友人(主に延珠)に触発されてこれまた無自覚に社会的に殺そうとしてきている。

 

 蓮太郎の悩みはこれだけではない。

 

 春先に起こった『蛭子影胤テロ事件』に、その翌月には『聖天子狙撃事件』。極めつけに一昨日聖天子から直々に聞かされたモノリスの白化現象。何とステージⅣガストレアであるアルデバランによってあと4日後にはモノリスが崩壊し、そこから現在結集している2000体のガストレアが東京エリアに雪崩れ込んで来るらしい。これに対抗するため、大規模な民警の部隊(アジュバンド)を組織することが決定し、蓮太郎は分隊長としてチームを結成することになった。

 

 ……なぜ、モノリスの磁場の影響を受けないステージⅤ(ゾディアック)ではないステージⅣ(アルデバラン)がモノリスに近づけたは謎だが、それはこの際置いておくとして。

 

 本当に勘弁してほしい、というのが蓮太郎の心境である。どうしてこうもエリア全体やエリアの国家元首(トップ)を巻き込んだ出来事が立て続けに起こるのか。それも月に一度のペースで。給料日かよ。

 

 恐ろしいのは、『蛭子影胤テロ事件』を切っ掛けにまるでドミノ倒しのように今後も月一のペースで死にかける事件が続くかもしれないのだ。悲観的にもなる。

 

 思えば、昨日の朝から憂鬱な気分だった。一昨日の夜に里見家にお泊まりに来たティナが、誤解を招く発言(文字通り)をしたことで木更には通報されかけ、その直後にニュースで呪われた子供たちが殺人事件を起こしたことを知り、延珠たちの立場が今以上に悪化するであろう事実に気が滅入った。

 案の定というべきか今朝の報道で、呪われた子供たちの基本的人権の尊重を求めた『ガストレア新法』が棄却され、代わりに『戸籍剥奪法』と俗称される法案が異例の速度で衆議院を通過したことが発表された。

 

 昨日の夜遅くまでアジュバントを組むための勧誘をしたがすべて手酷く断られたこともあって、『戸籍剥奪法』のニュースを見た蓮太郎の気分は朝から絶不調だった。

 おかげで学校に登校すれば、自分の顔を見た生徒が皆ぎょっとした表情で道を開ける始末。自分ではどんな顔をしていたのかは分からないが、余程酷い顔をしていたのだろう。

 

「───おいおい、これからオレっちたちと()り合うってーのに、考えことたぁ随分と余裕じゃねえかボーイ」

 

 向かい合って立つ男の声に、蓮太郎の意識が現在に引き戻される。

 

「……なんつーか、何事も思うように行かねえもんだなーと思ってな」

 

 そう言って、蓮太郎は横目でちらりと隣に立つティナに視線を向け、すぐに正面に戻し、これから戦う敵を視界に収める。

 

 蓮太郎の瞳に映るのは、髪を金色に染めた男と少女。

 男の歳は20代前半。黒のカーゴパンツとフィールドジャケット、ハーフフィンガーグローブというチンピラのような出で立ちに、飴色のサングラスで目元を隠している男は、長身で筋肉質な体型から威圧的な雰囲気を発しており、蓮太郎は彼に将監の姿を一瞬幻視した。

 少女の歳は10歳。二の腕に切れ目を入れたようなデザインの白シャツに、黒エナメルのサロペットスカートのような服。スレイブチョーカーにエンジニアブーツと、パンクなフッションの活発な少女である。

 

 敵の名前は片桐玉樹と片桐弓月。兄妹で民警を経営している、序列1000番台の実力者である。

 

 そんな彼らと蓮太郎たちが対峙している理由は、アジュバントの勧誘のためである。

 学校帰りに片桐兄妹の元へ足を運ぼうと考えていた蓮太郎は「そう言えばティナに東京エリアを案内したことなかったな」と思い立ち、せっかくだからとティナを連れて東京エリアを散策。その後予定通り片桐兄妹の事務所(自宅)を訪れたのだが。

 

『オレっちは自分より弱い奴の下にはつかねぇ』

 

『オレっちたちに勝つことが出来たら、アジュバント加入の件、考えてやるよ』

 

『テメェも男なら、タマがついてるってところをオレっちたちに証明してみろやッ!』

 

 思い返すのは、片桐民間警備会社で玉樹から投げられた、挑発にも似た決闘の申し出。

 

 何も二つ返事でアジュバントの加入を了承してくれると思っていた訳ではない。だが、交渉の過程はあくまで平和的な対話に終始すると考えていた。

 

 それがどうだろう。蓮太郎たちは現在、市民体育館で臨戦状態の片桐兄妹と対峙している。

 

 蓮太郎はティナに対して申し訳ない気持ちになった。自分は天童式戦闘術を使った近距離戦を得意としている。つまり、己の身体こそが武器であり、徒手空拳であることに問題はない。

 

 だがティナは違う。彼女は狙撃に特化した遠距離型のイニシエーターであり、加えてティナがその戦闘性能(スペック)を十全に発揮できるのは夜だ。

 そして現状、彼女の手に狙撃銃はなく、太陽はまだ沈んでいない。その上、敵である片桐兄妹もまた近接戦を得手としている。ティナだけが、相手の土俵で戦わなければならないのだ。これはすべて、偏に蓮太郎が戦闘を想定していなかったことに起因している。

 

 ちなみに、それまで体育館で健全に運動を楽しんでいた善良な市民たちは、玉樹の「散れ! ガキは家に帰ってゲームでもしてろ!」という暴論によって追い払われ、話を聞きつけた他の市民と共に出入口でギャラリーと化している。

 

「名乗るわよ里見蓮太郎! 序列1850位、モデル・スパイダー、片桐弓月!」

 

「同じく序列1850位、片桐玉樹」

 

 まさか自分たちを体育館から無理やり追い出したチンピラのような男とその連れの少女が高位序列者であるとは夢にも思わなかったのだろう。片桐兄妹の名乗りにギャラリーが息を呑んだ。

 それに玉樹は慣れた様子で手を振って応え、白けた表情で鼻を鳴らす。

 

「ヘイボーイ、お前のイニシエーターは確かもっと小うるさいバニーガールだったよな。即席の非正規ペアでオレっち達に張り合うつもりかよ」

 

 玉樹のこちらを見定めるかのように細められた瞳を、蓮太郎は真っ直ぐに見返す。彼の目に宿る感情───嘲り、そして仄かに揺らめく怒りを読み取った。

 

 ───舐めているのか、と。そう思われているのだろう。

 

 なら、その思い込みを利用させてもらおう。

 

「そうだな───()られるイメージは全くないな」

 

 蓮太郎はニヤリと口角を上げて、玉樹を挑発した。

 

 先に言っておくと、蓮太郎は片桐兄妹のことを一切舐めていない。彼らに対して油断や慢心を抱えたまま戦えば、一瞬で敗北するという確信すらある。

 

 ただ、それでも。

 

 脳裏に浮かぶのは、カネキや将監、里津や夏世たちとの模擬戦。特にカネキと里津、そして時折乱入して来る華織との模擬戦は、常に死を意識させられるほどのもので。

 

 彼らと比較すると、片桐兄妹からは殺られる(負ける)というイメージが、毛ほども湧かないのである。

 

 付け加えるなら、これはカネキの教えを実践した形でもある。

 

『蓮太郎くん。格上との戦いで、もっとも簡単に相手を弱体化させる方法は何だと思う?』

 

『答えは挑発だよ。冷静な判断力を失ってしまえば、それだけで人は格段に弱くなる』

 

『え? 逆に強くならないのかって? 延珠ちゃん、残念だけどそんなのは創作の中だけだよ。例え現実で同じようなことが起こったとしても、それは怒ったから強くなったんじゃなくて、その人がもともと強かっただけだよ』

 

 だから、挑発できる時はどんどんしていこう。

 そう言って、冗談めかして笑った男を。まだ自分や木更を避けていなかった頃、まだ自然に笑えていた青年の顔を、ふと思い出した。

 

「ッ! 上等だぜボーイ……!」

 

 どうやら挑発の効果は覿面だったらしい。額に血管を浮かび上がらせ、歯を剥き出して獰猛に笑う玉樹。拳を握る手に尋常ではない力が入り、彼の手甲に巻き付いているチェーンがミシミシッ! と悲鳴を上げていた。

 

 しかし。

 

「───スゥ、ハァ……今すぐおっ始めてもいいんだが、まだそっちのプリティガールの名乗りを聞いてねぇからな。テメェの玉ァ潰すのはその後にしてやる」

 

 短く息を吐いて、玉樹はティナを見遣る。その表情は冷静そのもので、先程までの激情が演技だったのではと錯覚するほど。その切り替えの早さに、蓮太郎は内心で舌を巻いた。

 

 それはティナも同じだったのか。かつての彼女の序列を考えれば圧倒的に格下である玉樹を見る目に、油断はなかった。

 

「では、お言葉に甘えて名乗らせてもらいます。私はモデル・オウル、ティナ・スプラウト。序列は剥奪中なのでありません。お手柔らかにお願いします」

 

 蓮太郎の挑発に本気で激昂し、されどすぐに冷静さを取り戻した玉樹だったが、ティナの名乗りによってそれは瞬く間に驚愕に塗り替えられた。

 

「序列剥奪中、だと……?」

 

「ちょっ、ちょっとアンタ、それって……」

 

 片桐兄妹の動揺も当然である。序列を剥奪される序列剥奪処分は、民警の処罰の中でも重罰にあたる。

 その職務の性質上、民警になる人間は暴力や闘争を好む者が多い。最初はそうでなくても、民警として長く身を置けば置くほど、そういった面は強くなる。人喰いの化け物と日夜戦い続けるなど、闘争を愉しめなければ精神が持たないからだ。

 無論そうでない人間もいるが、義務感や使命感だけで民警を続けられるのは、それこそ極一部の天才的な戦闘センスや、血の滲むような努力の果てに獲得した戦闘スキルを持つ者だけだろう。

 

 程度や自覚無自覚の違いはあれ、民警の多くは闘争に愉しさを見出している。それ故に、民警同士の小競り合いは珍しいことではなく、死人が出ることさえ日常茶飯事である。

 そして、日常茶飯事であるからこそ、例え小競り合いで相手の民警を殺害したとしても()()()()()()()()()

 

 理由は簡単で、その程度のことで序列を剥奪していては瞬く間に東京エリアから民警がいなくなるからという、赤子も失笑するような事情のせいである。

 

 序列剥奪処分を受けるのは、『自己又は他人の生命に危険が無いにも関わらず、一般人に対する積極的な加害、殺人、あるいは殺人未遂を行なった者』に限定される。

 

 その一例が、民警時代に大量殺人を行った蛭子影胤である。

 

 蛭子影胤テロ事件によって、影胤がかつて民警であったことと、序列を剥奪された経緯については民警の間ではすでに共有されている。

 

 序列の剥奪と聞いて、片桐兄妹は真っ先に影胤の事例を想起した。

 

 目の前の少女(ティナ)は、あの狂人に匹敵する所業をしでかしたのか?

 

 困惑、警戒、疑念。

 様々な感情が、片桐兄妹の心中で交錯し、やがて。

 

「……すみません、お兄さん。私が余計なことを言ったせいで、お兄さんの挑発が無駄になってしまいました」

 

 気を引き締めた表情で、構えを取る片桐兄妹。それを見ながら、ティナが申し訳なさそうな声で謝罪する。

 

「大丈夫だ。挑発には乗ったけど、玉樹は冷静なままだったしな。ただ……何でわざわざ序列が剥奪されてることを明かしたんだ?」

 

 蓮太郎は純粋に疑問だった。

 

 ティナは優しく、律儀で、礼儀正しい少女だ。だが同時に、生きるために手段を選ばなかった人間でもある。

 

 例えそれが、選択の余地などほとんど無い(殺すか殺されるかの)強制されたものだったとしても、蓮太郎に敗北したあの日までの自身の罪を『自ら選んだ』と断言し、いずれその罪を清算する時が必ずやって来ると確信しているほど真面目で責任感もあるが、そういった()()()()()を戦場に持ち込まない冷徹さも併せ持っている。

 

 ───魂が死なないと人間は殺せない。

 

 ティナが狙撃手として、序列98位まで上り詰める過程で辿り着いた持論である。

 

 だからこその疑問。

 

 『勝てば官軍、負ければ賊軍』という明治維新の際に生まれた言葉があるが、ティナの戦闘に対する基本理念はこれに近い。戦場での敗北は即ち死を意味する。勝つ(生き残る)ための手段を選り好みして負ける(死ぬ)のでは、そもそも何のために戦っているのか分からない。

 

 そんな彼女が、わざわざ敵に自身を警戒させるような発言をしたのは何故なのか。

 

「もし、この決闘の目的が命の奪い合いであったのなら、私は序列剥奪の件を黙っていたでしょう。彼らは間違いなく、私を脅威とは認識していませんでしたから」

 

 ティナはポケットから、手首部分に金属製の小さな輪っかが付いた特殊な黒い手袋を取り出し、右手に装着する。それは、内部にピアノ線が仕込まれた暗器だった。

 

「しかし、今回の決闘の目的はあくまで格付け。よって殺し合いには発展しません。なので、これはチャンスだと思ったんです」

 

「チャンス?」

 

「はい。手の内が分からない(初見の)相手との、全力の戦闘。そういった経験は実戦以外では滅多に出来ません。そして大抵の場合、実戦ではどちらか片方、あるいは両方が命を落とします。ですが今回の決闘は『誰も命を落とす危険がなく、かつ限りなく実戦に近い』という、これ以上ないほど恵まれた内容です」

 

 ティナは蓮太郎の目を真っ直ぐに見た。

 

「確かに、私が序列剥奪中の身であることを隠したまま戦った方が決闘は有利に運んだはずです。彼らを味方に引き入れるためには敗北は許されませんから、私の行動は軽率に映るかもしれません。ですが実戦において、相手が必ず油断してくれる保証なんてないんです」

 

 ティナの言い分は理解できた。異論もない。自身の出自を知るため、大切な人たちを理不尽から守るための強さを求めてカネキに師事している蓮太郎としては、むしろ彼女に感謝したいくらいだった。

 

 ただ───

 

「負けたら、木更さんにどやされるな」

 

「ええ。なので、勝ちましょう」

 

「……下手したら減給されるかもな」

 

「……絶対に勝ちましょう!」

 

 期せずして決して負けられない理由が出来た二人。鬼気迫る表情で、互いに構えを取る。

 

 それが開戦の合図となった。

 

「さあッ、踊ろうぜボーイ!」

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 決闘の行方は、蓮太郎たちの勝利という形で幕を閉じた。

 

 決め手となったのは、初動の()()

 戦闘の開始と同時に、玉樹たちが動き始めるよりも前に、蓮太郎は先手を制した。

 

 天童式戦闘術、一の型八番『焔火扇(ほむらかせん)』。

 玉樹たちとの間にあった五メートルの距離を、カネキの指導のもと改善された天童流に共通する足捌きで瞬く間に詰め、放たれるは渾身の右ストレート。

 

 人工皮膚に覆われた鋼鉄の拳。しかしそれは、玉樹の顔の数センチ手前で止まる。

 寸止めをした訳ではない。近くに寄り、注視しなければ分からないほど細い粘性の糸が、蓮太郎の腕に絡みついていたのだ。

 

 糸の発生源は弓月の指先。彼女が交差して突き出した両手を起点に、まるで壁のように片桐兄妹と蓮太郎の間にクモ糸が張り巡らされていた。

 

 強気な笑みを浮かべる弓月。冷や汗を流し、頬が微かに痙攣していなければさぞ様になっていたことだろう。

 

 弓月には蓮太郎の動きはほとんど見えていなかった。攻撃を防げたのは偏に、蓮太郎が動いたと認識した瞬間、思考を一切挟まず反射的にクモ糸による防御を選択していたためだ。

 

 それは、片桐弓月のこれまでの戦闘経験が導き出した無意識の最適解だった。

 

 糸が無ければ直撃していたであろう眼前の拳に、妹と同様に引き攣った笑みを浮かべる玉樹だったが、彼の頭は勝つための戦術を冷静に組み立てていた。

 弓月のクモ糸はその強靭性と粘性、玉樹のサングラスを通さなければ明確に視認することができない不可視性から、即席の罠や、相手の周囲に糸を張り巡らせ自身に有利な環境を作り出せる。

 

 距離さえ取ってしまえば、何度でも勝機を狙える。

 

 ───その判断が間違っていたことを悟ったのは、距離を取るために身を引こうとした自身の胸倉を、突き出していた拳を解いた蓮太郎に掴まれた時だった。

 

 蓮太郎は静かに、空いていた左手を玉樹の腹に優しく添えた。

 

 天童式戦闘術、一の型十二番『閃空瀲艶(せんくうれんえん)』。

 震脚による反作用で生じた運動エネルギーを、接触している部位を通して相手の全身に伝える浸透勁。

 

 この技は、反作用や外部からの衝撃などによる運動エネルギーがあれば体勢を問わず、接触さえしていれば掌からだろうが背中からだろうが相手に衝撃を伝達させることが出来る。

 その上、『閃空瀲艶』の打撃は一過性の鋭いモノではなく、防具を素通りし、全力で打ち込めば内臓に深刻なダメージを与えることすら可能である。

 

 天童流の本質は、(運動量)を用いた相手の打倒・無力化にある。対象に剄を過剰に流しての内部破壊などは残酷な技とされ、天童流を破門される。

 

 『閃空瀲艶』はその性質から、この技を体得して初めて天童式戦闘術の使い手と認められる。同時に『閃空瀲艶』は天童流の道を外れるか否かの分水嶺としての役割も担っている。

 天童式戦闘術の使い手は、『閃空瀲艶』を体得することで勁の扱いが格段に上達し、連鎖的に他の技の威力も強化される。それに伴って一時的に『自分は何でも出来る』『誰にも止められない』という攻撃的な全能感に襲われ、更なる強さを求めるようになる。

 

 力への渇望は時に人を惑わし、容易く外道に誘う。

 己を律し、力への誘惑を跳ね除けられる者だけが、天童流を名乗れるのだ。

 

 そして蓮太郎は、今も天童流である。

 

 まともに『閃空瀲艶』を受けた玉樹は白目を剥いて膝をつき、ドサリとうつ伏せになって倒れた。

 そうして、弓月の意識が自身の兄へと向かった瞬間、彼女の視界の外から回り込んでいたティナが背後を取り、ピアノ線を首と腕に巻き付けた状態で組み伏せた。

 

 打つ手なしと判断した弓月は敗北を認め、晴れて片桐兄妹は蓮太郎のアジュバンドに加わることとなった。

 

 余談だが、ティナが決闘後にこっそりと片桐兄妹に自身の剥奪前の序列を明かすと二人揃って驚愕し、是非自分たちのアジュバンドに入って欲しいとティナが頭を下げたところ、直前まで「私なんか仲間になっても迷惑だよね……」と意気消沈していた弓月から「ティナやん好きー! お嫁さんになってー!」と何故か猛アプローチを受けた。

 

 弓月はかつての延珠と同じように、自身が呪われた子供たちであることを隠して学校に通っている。ただ、延珠がクラスメイトと積極的に交流していたのに対し、弓月は呪われた子供たちだとバレないようにクラスメイトとは常に距離を置いていた。

 

 孤独から来る寂しさ。

 秘密がいつ発覚するか分からない不安。

 それ故の他者への警戒。

 

 大人でも耐え難いストレスに晒され続けた弓月は、いつしか年相応に笑わなくなり、常に険しい表情を浮かべるようになったという。

 

 出来ることなら、友達を作りたかった。

 

 次の日には忘れているような、なんて事ない話で盛り上がって、笑って。

 くだらない理由でケンカして、怒って、泣いて、仲直りして。

 

 そんな関係を何度も夢想した。

 

 けれど、自身が呪われた子供たちだとバレた時のリスクを考えれば、とてもそんな関係を築く勇気など持てなかった。

 

 もしも───呪われた子供たちであるという立場を気にする必要がなく、対等に接してくれる相手がいたなら。

 

 ティナに抱きつき、楽しそうに笑う弓月からは、もはや決闘前まではあった刺々しい雰囲気が完全に無くなっていた。むしろ、今の状態こそが彼女の素なのだろう。

 

 ちなみに蓮太郎は、しれっと復活し自身の横でその光景に静かに涙ぐみながら事情を語る玉樹のタフネスさに「こいつ本当に人間か……?」と密かに戦慄していた。

 

「お兄さん、次はどんな人を勧誘しに行くんですか?」

 

「ん? ああ、言ってなかったか。アジュバンドの勧誘は玉樹たちで最後だ」

 

「そうなんですか? じゃあ今、私たちはどこへ向かっているんですか?」

 

 市民体育館を後にし、商店街を歩いていると、ティナが蓮太郎を見上げながら尋ねる。

 

「いい加減、ティナに先生を紹介しようと思ってな。本当はもっと早く会わせるつもりだったんだが、この一ヶ月、色々と忙しかったからな」

 

 ティナを木更が引き取る手続きを手伝ったり、民警の仕事が入らないからバイトの掛け持ちを増やしたり、カネキたちに稽古を付けてもらったり、39区の子供たちに木更と共に教鞭を取ったり。

 

 実に慌ただしい一ヶ月だった。

 

「シェンフィールドのメンテとか……開発者が違うから出来るかどうかは分かんねぇけど」

 

「ふふ」

 

「な、なんだよ」

 

「いえ、お兄さんが私のことを思って色々と考えてくれてたことが嬉しくて、つい」

 

 花が咲くように笑うティナに、蓮太郎は不覚にもドキリとした。

 

「……迷惑じゃなかったか?」

 

 そんな内心を悟られないよう、なるべく平静を装いながら話を振る。

 

「お兄さんと一緒なら、喜んでどこへでも行きます。それに……ドクター室戸とは、いずれ会わなければならないと思っていました」

 

「……そうか」

 

 含みのある言い方だと、蓮太郎は思った。

 

『実戦において、相手が必ず油断してくれる保証なんてないんです』

 

 決闘の時もそうだったが、ティナは何か焦っている。あの言葉は過去の経験から来るものではなく、今よりも先の未来を想定したような口振りだった。

 

 しかしそれを、蓮太郎は今すぐ聞き出す気にはならなかった。その件も含めて、おそらくティナは菫と会ってから話すつもりなのだろうと思ったからだ。

 

 真剣な表情で前を見据えるティナに倣うように、蓮太郎もまた顔を正面に戻そうとして。

 

「え?」

 

「? どうしたティ、ナ……」

 

 目を丸くし、何か驚いたような声を出すティナに釣られて、蓮太郎は彼女の視線を追った。

 

 そして、奇妙な物が目に入った。

 

 それは、商店街の道の脇に設置されたベンチに座る、一人の少女だった。

 色が抜け落ちたような白髪に、褐色の肌。瞳は黒。年齢はティナや延珠たちと同じくらいだろうか。

 

 何も蓮太郎は、少女の容姿を指して『奇妙』と評した訳ではない。確かに日本で白い髪に褐色の肌の組み合わせは珍しいが、問題だったのは少女の格好。

 

 少女は───パジャマ姿だった。

 

(おいおい……)

 

 既視感。

 圧倒的な既視感。

 

 蓮太郎の脳裏に、ティナと初めて邂逅した時の光景が過ぎる。

 

 直感的に厄ネタの気配を感じた蓮太郎は、少女を素通りすることを決めた。

 ティナの時だって、本当なら関わるつもりはなかったのだ。日中で半覚醒状態だった彼女が不良に絡まれていなければ、蓮太郎がティナを助けることはなく、彼らの間に縁は生まれなかった。

 

 見る限り視線の先にいる少女の意識は明瞭のようだし、世の中にはパジャマでコンビニに行く人間もいる。きっと少女もそういう類の人間なのだろういやそうに違いない。

 

 少女の履き物が室内用のスリッパであることから全力で目を逸らしつつ、蓮太郎はそう結論づけた。

 

 蓮太郎は隣を歩くティナの手を取り、歩調を早めた。突然手を握られたティナは「お、お兄さん!? だ、大胆すぎます……」と顔を真っ赤にしていたが、生憎今の蓮太郎にはそれに気づけるほどの余裕はなかった。

 

 視線は正面に固定し、足早に少女の前を通り過ぎる。その直後。

 

 ────ぐうぅぅぅ……。

 

 思わず足を止めてしまうほどの腹鳴。

 つい、首だけ動かして背中越しに少女の様子を窺う。

 

 変わらずベンチに腰掛け、虚空を真っ直ぐに見つめていた少女の顔が、音の発生源であるお腹に向く。

 

 ───ぐうぅぅぅ……。

 

 再び、少女の腹が鳴る。

 

 そして、不意に顔を上げた少女と目が合った。徐に、少女の口が開き。

 

「説明:お腹が空いているだけ。気にしないで欲しい」

 

 蓮太郎は一度ティナの方を見て、彼女が優しい微笑みと共に自身を見上げていることに気づくと、空いてる方の手でがしがしと頭を掻いた。

 

「……たこ焼きは好きか?」

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 そうして、冒頭の状況に至る。

 

 事の発端は人数分のたこ焼きを買って来た蓮太郎がそれぞれに手渡そうとすると、いつかと同じようにティナが食べさせて欲しいと言い出したのだ。

 

 当然、最初蓮太郎はこれをやんわりと拒否した。目が醒めているのなら、ちゃんと自分で食べろ、と。

 だが、断られたティナは目に見えて悲しそうであり、結局蓮太郎は罪悪感に負けてたこ焼きを食べさせてあげることにした。

 

 するとそれまでそのやり取りを無表情で見ていた少女が、静かにティナの隣に並び、無言で口を開いた。まるで自分も食べさせて欲しいと言わんばかりに。

 蓮太郎は混乱した。少女とはこれが初対面である。普通、初対面の人間に、それも歳の離れた異性に物を食べさせてもらうという行為には抵抗があるものではないのか。

 

 どういうつもりだと問い掛ける蓮太郎に対し、沈黙と不動をもって答えとする少女。

 最終的に根負けした蓮太郎が、ティナと同様に少女にたこ焼きを食べさせることになったのだが。

 

(まずい……! このままじゃ、冗談抜きで本気で通報される!)

 

 蓮太郎は、影胤やティナと戦った時と同じくらいの恐怖と焦燥を感じていた。

 社会的な死を前にして、蓮太郎の脳は義眼を解放した状態に匹敵するほどの思考速度に達する。

 

 極限の緊張状態、高速で回転する思考。

 その二つが合わさることで、蓮太郎から雑念が取り払われていく。

 

 明鏡止水。

 長い年月を修練に費やした、道の極みに立つ者だけが得る心の境地。蓮太郎は今、そこに至った。

 

 そして───蓮太郎は一つの結論を出した。

 

 

 

 別に何の問題もないのではないか、と。

 

 

 

 自分はただ、少女たちの要望を受けて、彼女たちの願い通りにたこ焼きを食べさせているだけである。仮に本当に通報されたとして、きちんと説明すれば逮捕などされるはずがない。だって、疚しいことなど何もないのだから。

 

 危機を脱したと確信した蓮太郎は思わず笑みを浮かべ、ティナと少女に最後のたこ焼きを食べさせようとして。

 

「あ、もしもし警察ですかっ? 今、目つきが悪くて死神のような顔の男がニヤニヤ笑いながら女の子二人を誘拐しようとしてて───」

 

 前言撤回。潔白であれば逮捕されないなら、冤罪は生まれない。

 

 蓮太郎は常人では視認すら出来ない速さでたこ焼きを少女たちの口に放り込み、手を引いて迷わずその場からの逃走を選択した。

 

 そして最寄りの公園に駆け込み、追っ手がいないことを確認すると。

 

「これじゃあ本当に誘拐犯みたいじゃねぇか……」

 

 蓮太郎はがっくしと項垂れた。

 

「私はちょっと楽しかったです。何だかロマンス映画や恋愛ドラマのワンシーンみたいで」

 

「勘弁してくれ」

 

 両手を後ろに組んで、下から覗き込むように自身を見上げながら笑うティナに、蓮太郎が疲れたように溜息をついていると。

 

「疑問:私のことは置いてきても良かったのでは?」

 

 温もりも冷たさも感じられない声で、淡々と少女が尋ねた。

 

「悪い、つい勢いで連れて来ちまった」

 

「訂正:何か目的があってあの場にいた訳ではないので問題はない。ただ、連れて来られた理由を確認したかった」

 

「そ、そうか……」

 

 独特な口調と、全く変化しない少女の表情と声音。伽藍洞のように虚な瞳。まるで機械か人形と会話をしているような気分だった。

 

「ところでお前、何でパジャマなんだ?」

 

「回答:これが普段着」

 

「…………」

 

 蓮太郎は納得できなかったが、目の前の少女が冗談を言う人間にも見えなかったので、渋々追求するのをやめた。

 

「謝罪:行くところがあるので、ここで失礼する」

 

 ちょうど会話に空白が生まれたタイミングで、少女が蓮太郎たちの横を通り抜ける。

 

「感謝:たこ焼き、美味しかった」

 

 去り際に、そんな言葉を残して、少女は行ってしまった。

 

「……お兄さん」

 

「ああ、気づいてる」

 

 少女が去った方向を見つめながら、蓮太郎とティナは言葉を交わす。

 

あいつ(あの人)強いぞ(強いですよ)

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「───報告:リストに載っていた人物二名との接触に成功」

 

 懐から携帯を取り出し、誰かとやり取りしながら路地裏に入り込む少女。

 

「既存の戦闘データと比較。評価の上方修正が必要と判断」

 

 携帯を持っていない方の手で、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 外したカラーコンタクトレンズを適当に投げ捨て、閉じていた目を開く。

 

 赤く熱を帯びた、呪われた瞳。

 

 ふわりとした風が吹き、少女のパジャマが靡いて腹部が露わになる。

 少女のお腹、正確に言うなら臍の上あたりに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()が刻印されていた。

 

 里見蓮太郎とティナ・スプラウトが初めて会った時の状況を可能な限り再現するために着用していたパジャマ(擬態)をスルリと脱ぎ捨て、足を止めることなく予め路地裏に用意されていた衣服に袖を通す。

 

「任務完了。『ファイヤーフライ』、次の指示を待つ」

 

 

 

 

 

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