市街地にて蛭子親子と会敵した僕は、すぐさま戦闘を開始した───なんてことはなく、適当な建物の一つに身を隠し、気絶した将監さんの手当てをしていた。
(……よし、傷の縫合と止血完了)
傷口を塞ぐための縫合糸と針、それから止血のための包帯と止血剤をウェストポーチにしまうと、僕は寝室だったと思われる二階の部屋で、安堵の息をこぼした。
将監さんの体に突き刺さっていた小太刀は、致命傷をぎりぎり逸れていたため見た目ほど大したことはなかった。問題だったのはその出血の酷さで、まさに一刻を争う状態だった。
だから、何やら長々と語りはじめた影胤さんを無視して、無防備だったその顔面に
開幕早々に、それも屋外でスタングレネードを使ってくるなど想定していなかったのか、蛭子親子の「え?」という間の抜けた声は、太陽の200倍以上の光を放つ強烈な閃光と、凄まじい爆発音に掻き消された。
起爆する直前に、ご自慢の斥力フィールドを展開していたが問題ない。人体に少なくない影響をもたらす爆発音や衝撃はそれで防げるかもしれないが、光までは防げない。
スタングレネード本来の用途は"建造物内や室内の制圧において、敵の注意を逸らす"ことであるが、だからと言って屋内でしか使えないというわけではない。確かに屋内と比べれば多少威力は落ちるが、それでも目くらましには十分だ。保険として
懐から携帯を取りだし、着信履歴を確認する。未踏査領域に降りてから、まだ一度も
「これは……きついな」
合図がないということはつまり、もし影胤さんたちと再度遭遇した場合、僕は赫子を使わずにユキムラだけで彼らの相手をしなければいけないわけだ。
……無理ゲーすぎる。影胤さんの斥力フィールドは対戦車ライフルの弾丸を無効化し、工事用クレーンの鉄球すら物ともしないんだぞ。そんなのを相手に近接武器で挑むなんて自殺行為以外のなにものでもない。
「閃いた。合図があるまでここで大人しくしていればいいんだ」
埃を被った椅子に座り、この部屋に引きこもることを決意する。急ぎの用事があるわけでもないのだ、問題ないだろう。え? 夏世ちゃん? 今ごろ里津ちゃんと合流してるから彼女の生存は確定だ。
「はあ……。
「───見ぃつけたぁ」
振り返っている余裕などなかった。咄嗟にユキムラを自分の首元に持っていけば、耳を
「ぐぅッ……!?」
窓を突き破り、仰け反った体勢のまま通りに弾き出される。
空を泳ぐ術を持たない僕に、重力に逆らうなんて芸当が出来るはずもなく、ただ落下する以外に選択肢などない。だが、
「『エンドレス』───」
落ちる直前。聞き覚えのある声を耳朶が捉え、戦慄が走る。反射的に下を見れば、腰を落として構える影胤さんの姿。右手に燐光が収束し、巨大な槍を形成していた。
「『スクリィィイム』ッ!!!」
時の流れが何十倍にも圧縮され、世界が減速する。天へと昇る光の柱。緩やかに、
理屈ではなく、本能で理解した。
避けなきゃ死ぬ。避けなきゃ死ぬ。避けなきゃ死ぬ。避けなきゃ死ぬ避けなきゃ死ぬ避けなきゃ死ぬ避けなきゃ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死死死死死死!!!??
「お、おおぉぉおあぁぁあああああッ!!!」
一瞬の先に訪れるであろう己の死に、恐怖が臨界点を突破する。遮二無二にユキムラを振るい、絶叫を上げながら槍の側面に叩きつけた。
『攻撃の軌道を』逸らすためではなく、攻撃の軌道から『自分を』逸らすために。
確かな手応えと同時に恐ろしい反発力が全身を襲う。たまらず吹き飛ばされ、上下の感覚が曖昧になるほど何度も視界が回転する。
「ごッ……!!?」
三半規管が麻痺した状態で受け身など取れるはずもなく、僕の身体は背中から地面に激突した。
「……フィールドの特性を逆に利用することで、我が奥義から逃れたか」
自身の掌を見つめながらそう呟くと、影胤さんはこちらを向いて笑い出した。
「……フフ、フハハハハハハッ!! おもしろいッ、やはり君はおもしろいぞカネキケン! 我が奥義を、それも足場のない空中で躱したのは君が初めてだ!!」
僕が落下した窓から、蛭子小比奈が音もなく影胤さんの横に着地する。そして、ふと疑問に思った。
「……どうして僕の居場所がわかったんですか?
「うちの娘は勘が鋭くてね。煙幕が晴れると一直線に君が隠れていた建物に向かっていったよ」
思わず言葉を失う。勘、勘だって? そんなふざけた理由で特定されたっていうのか。
影胤さんはシルクハットの位置を直すと、ホルスターから二挺の銃剣を抜き放った。
「さあ、始めようか黒い死神。心行くまで、思う存分に殺し合おう!!」
外套を脱ぎ捨てて、ユキムラを構える。深呼吸を一つして、影胤さんたちを見据える。
合図は、まだない。
◆◇◆◇
数秒の睨み合いの末、先攻を制したのはカネキだった。
影胤が瞬きをしたタイミングを狙って、5メートルの距離を常識を逸脱した速度で詰めると、己の得物を白貌の仮面に振り下ろした。
もっとも、それで決着がつくと思うほどカネキは楽観的ではない。
「無駄だ」
影胤が呟くと、瞬時に展開したドーム状のバリアによって、上方からの一撃は呆気なく弾かれる。
だが、カネキの動きは止まらない。攻撃が弾かれる度に、弾かれた方向に身体を回転させることで手首への負担を軽減し、遠心力を上乗せした斬撃をあらゆる角度から舞うように叩き込んでいく。
(……23……31……39……57)
「無駄だということが分からないのかね。小比奈」
「はい、パパ」
一向に攻撃の手を緩めないカネキに、業を煮やした影胤は
左右から挟み込むように振るわれた斬撃を、両足を限界まで開きながら、上体を斜めに反らすことで回避。そのあまりに人間離れした動きに、小比奈の目が驚愕に見開かれる。そして、無防備になった小比奈の鳩尾に、カネキは躊躇なく掌底を打ち込んだ。
「かはっ!?」
カネキが放った掌底は、衝撃を余すことなく小比奈の全身に伝え、その小さな体を僅かな時間だが空中に固定させる。流れるような動作で体勢を立て直したカネキは、小比奈を影胤に向けて蹴り飛ばした。
「ぐっ、小比奈!」
(斥力フィールドの展開持続時間は不明。現時点で分かることは、フィールドが展開中は内側から攻撃することも、外に出ることも出来ないということだけか……ジリ貧だな)
一見するとカネキが優勢に見えるこの状況だが、実際にはその逆。優勢なのは影胤たちの方であり、むしろカネキは追い詰められていた。
(イニシエーターは大したことないけど、あのバリアは厄介だな)
実のところ、カネキにとって小比奈は初めから脅威ではなかった。政府の評価によれば、モデル・マンティスである彼女は「ある程度の刃渡りがある刀剣を持たせれば『接近戦では無敵』」とのことだが、どれだけ強かろうが
脳裏によぎるのは、初めてあの人と手合わせしたときの記憶。初動が見えず、先を予測できない攻撃というのはそれだけで恐ろしい。それも相手が自分より遥か格上の存在なら尚更だ。彼との訓練の思い出はカネキの心に深く、トラウマレベルで刻み込まれている。
「殺し合いの最中に考え事とは、随分と余裕だね」
いつの間にか接近していた影胤が
カネキが銃を払いのけるのと、影胤が引き金を引くのは同時だった。視界の端で
左手はユキムラで逸らし、右手は今しがた弾いた。影胤の胴体はがら空きだった。即座に脇腹から肩に向けてユキムラを走らせる。
「君も学習しないな」
だがまたしても、影胤のフィールドが斬撃を阻む。つまるところ、カネキが彼らに対して優勢になれない原因はここにある。
近接戦闘がどれほど彼らを凌駕していても、決定打を持たないカネキに影胤たちを制することは出来ない。
(まだなのか、木更ちゃん……!)
このままでは合図が届く前に体力が尽きる。やはりここは、離脱と奇襲を交互に繰り返して時間を───
「た、たすけて……」
その声に、カネキはぞっとして振り返る。
衣服を血と泥で汚した一人の少女が、力なく地べたを這い、泣きながらこちらに手を伸ばしていた。少女の位置は
そして、カネキが少女へと注意を向けた僅かな時間。その隙を見逃すほど、蛭子影胤は間抜けではなかった。彼は素早くカネキの側面に回り込むと、右手を前に掲げて指を弾いた。
「『マキシマム・ペイン』ッ!」
「!? しまっ───」
己の失態を悟るも時すでに遅し。青白いフィールドは瞬く間に膨張すると、凄まじい勢いでカネキに殺到する。人間を容易く圧殺せしめる技が至近距離で発動した。回避も防御も、不可能。
「あがッ!?」
横殴りの衝撃に、カネキはビルの壁に叩きつけられる。コンクリート製の壁に亀裂が走り、徐々に体が沈み込んでいく。
だが突然、己の肉体を潰さんとしていた圧力が消失する。それはつまり、数多の人間を圧殺してきた『マキシマム・ペイン』の一撃を、カネキが耐え切ったことを示していた。
「連発ができないと言った覚えはないが?」
「───ッ!!!??」
一度消えたはずの斥力フィールドが再び膨れ上がり、壁から崩れ落ちそうになったカネキに襲いかかる。
夜の街を青白い光が照らす度、カネキの体は壁に深く埋まり、壁の亀裂が大きく広がっていく。それを何度も繰り返した。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
肉が潰れ、骨の砕ける音が聞こえた。
(……血……頭が割れて、はちみつみたいな味がする……)
26度目の閃光。カネキの体はついに、分厚いコンクリートの壁をぶち破った。ぐちゃり、と果物が潰れたような音を立てて、カネキは埃だらけの床にその身を打ちつけた。
「まったく……
かつかつ、とわざとらしく靴を鳴らしながら、影胤は独り言のように呟いた。
カネキの傍まで来ると、影胤は苛立ちと失望の込もった瞳でカネキを見下ろす。
「何故だ。どうして赫子を使わなかった」
返事はない。かろうじて呼吸音が聞こえることから、生きてはいるのだろう。意識があるのか定かではないが。
「かつて"もう一人の死神"と評され、第一次関東会戦の影の英雄と謳われていた『黒い死神』である君と、私は死力を尽くして
影胤の声が、握りこんだ拳が震える。
「私は君の強さに憧れた! 人間よりも遥かに強大な存在であるガストレアを一方的に蹂躙する君の力にッ! だが君は、我々を相手にしていながら一度も
影胤の手に青白い光が収斂し、周囲の暗闇を払う。
「さらばだ、黒い死神。己の慢心をあの世で後悔するがいい」
光の槍を影胤が放とうとした次の瞬間。ブルルル、と何かが振動する音を影胤の耳は捉えた。
音の正体はすぐに分かった。カネキの懐から顔を覗かせる携帯に着信が入ったのだ。
一体誰から? 自然と視線が携帯へと吸い寄せられ、カネキから意識を外した。
それは、コンマ数秘にも満たない刹那の時間。本来ならとても隙とは呼べない僅かな空白だった。油断していたわけでも警戒を解いたわけでもなかった。相手がただの人間なら容易に対処できる。それだけの実力を影胤は持っていた。
故に、この結末は必然だった。
「───パパァッ!!!」
鬼気迫った形相で、小比奈が影胤を横から突き飛ばす。直後、風を切り裂く音と共に小比奈の右腕が切り飛ばされた。
「あ、ああああああぁぁぁああああッッ!!!??」
切断面から血が噴き出し、それを残った左手で押さえながら小比奈は絶叫した。
「小比奈っ!」
痛みに泣き叫ぶ我が子を見て、影胤は切断された右腕をすぐさま拾い上げて小比奈に駆け寄った。蛭子影胤は大量殺戮者だが、父親として娘を愛する一人の親でもある。
例えその愛情がどれだけ歪んでいようとも、彼が娘を大切に思っていることに変わりはない。今の影胤の目には小比奈しか映っていなかった。
だからこそ、先ほどまで文字通り"肉塊"も同然だった男が、何事もなかったかのように小比奈の背後に佇んでいたことに気づかなかった。
「……ごちゃごちゃ」
男の腰から伸びる赤黒い4本の触手。それが一つにまとまり、巨大な鉤爪に変化する。遅れて影胤がはっと顔を上げた。
「───うるせえんだよ」
横薙ぎに振るわれた巨大な鉤爪を視認するなり、影胤は冷静に『イマジナリー・ギミック』を展開した。自身の存在意義でもある機械化兵士としての能力、『最強の盾』とまで形容される斥力フィールドに防げないものは無い。破れるものなら破ってみせろ。
フィールドと鉤爪が衝突。そして───
進路上にあった壁は貫通し、小さい建物はなぎ倒しながら文字通り市街地を横断する。距離にしておよそ60mの大移動の果てに、影胤たちはようやく停止した。
「がぁっ、ごぷッ……!?」
「パパァ!」
仮面を外し、両手を地面について何度も血を吐く影胤。フィールドが殺しきれなかった衝撃はそのまま影胤へと伝達する。たった一撃でこれほどのダメージ。もしも『イマジナリー・ギミック』を展開するのが少しでも遅れていたら……。
口元を拭い仮面をつけ直すと、影胤は己を心配そうな眼差しで覗き込む小比奈を見やる。正確には小比奈の右腕を。
大丈夫、腕はきちんと繋がっている。傷跡もない。
それを確認すると、影胤は立ち上がって自分が飛んできた方向、正面を睨む。
「……ついにその気になったか、黒い死神」
「…………」
無言で、凄まじい殺気を叩きつけながらカネキが近づいてくる。小比奈は生まれて初めて恐怖を体験していた。叫び出しそうになる衝動を必死で抑え、無意識に退きそうになる足を無理矢理地面に縫いつける。決してあの男を視界から外してはいけない。次に目を離せば、今度は腕ではなく首が飛ぶ。そんな嫌な妄想が頭の中を埋め尽くした。
足を止め、カネキはどこまでも暗く冷たい瞳で影胤を射抜いた。
瞬間。カネキの姿が消えた。
「パパっ! 上だよ!!」
影胤たちの真上に跳躍したカネキは空中で体を捻り、鉤爪状の赫子を鞭のようにしならせ、彼らに叩きつけようとしていた。
「『イマジナリー・ギミック』ッ!!!」
赫子とフィールドが再び激突する。青白いドームが数センチ地面に沈み、影胤はまたもや膝をついた。屋根の上に軽やかに着地したカネキは、影胤を見下ろしながら言った。
「……さっき、僕と本気の殺し合いがしたいとかどうとか言ってましたけど」
両肩で息をしながら影胤は顔を上げる。
「ゴミが粋がってんじゃねえよ」
「貴、様ぁッ……!!」
(あとは主人公に任せて夏世ちゃんの所へ行こう)
ここでの目的は達成した。
くるりと影胤たちに背を向けると、カネキは将監を回収するために跳躍した。
影胤は、機械化兵士になってから初めての敗北を前に、拳を地面に振り下ろした。
好きな言葉を入れてください。
「◯◯◯◯◯◯」
「貴、様ぁッ……!!」