この世界にはウマ娘という存在がいる。
俺がいた前世ではそんなのはなく普通に馬がいて乗馬クラブがあり、競馬場には競走馬が走っていた。
だが、転生してしまったここでは馬と女の子が融合した存在が太古の昔からいて競馬場には、人の形をした馬、ウマ娘が走っている。
この世界に馬はいない。そのことに気づいたのは小学生のはじめの頃だった。
前世では馬が大好きだった。太陽の光にあたって輝く肌、風になびく素敵なたてがみ、走る姿の綺麗なフォーム。
それらが見ることのできないショックは長く続き、新しい人生でやりたいことも見つからないまま、高校3年生となった今でも続いている。
そんなことを想い続けている5月の今日。
日差しが暖かく、風も穏やかで雲も少なく過ごしやすい。
街の中心部から少し外れた、平日の昼少し前である河川敷は人通りが少ない。
勉強をする気になれず、学校から自主的に早退した俺は学ランを着たままで河川敷の堤防の上を目的なく歩いている。
川を見ながら、ぼぅっと歩き続けていると河川敷の草が生い茂っている斜面に立って、じっと静かに川を見ている女の子がいた。
その子はここらではあまり見ることのない制服を着ている。
ワンピースタイプの制服で上は薄い青を基調とし、下は白色に青いラインが入っているスカート、太ももまでの白いニーソックスを身に着けている爽やかな印象を持つデザインだ。服から見える白い肌はつい見とれてしまうほどだった。
横顔は無表情ながらも何かをあきらめているような、寂しげで人生がつまらなそうと思っている感じがした。
そんな彼女に少しずつ近づいて行くと、何か違和感が出てくる。
かなり長い髪だと思っていたが、明るい茶色の髪は腰までであり、頭の上にはふたつの緑色のリボンのようなもの。お尻のあたりからは馬の尻尾のようなものが出ている。
そを見て、人ではないと気づく。彼女はウマ娘と呼ばれる存在だ。
初めて近くで見るウマ娘。今までは意識的に避けていた。
段々と近づいていき、彼女の後ろまでいって通り過ぎようとしていた。
だけれど、足が止まってしまう。
普段は特に興味を持たないのにその子だけは妙に気になってしまった。
その子は俺が止まったとのに気づいたのか、俺へと振り向いた。
一目見た瞬間、その子は素敵な子だと気づく。
さっきまでリボンのようだと思っていたものは、前世だとメンコと言われる覆面に耳の覆いがついたものだ。その馬具の意味は音に敏感な馬につける馬具。
それがカチューシャタイプで頭の上に生えているウマ耳についていた。
無表情で見つめてくる薄緑色の目は俺に対してあまり興味がないものの、ちょっと警戒をしておくかといった様子だろうか。
高校生ぐらいの顔立ちで美人な彼女に対して俺の目は離せず、ずっと見つめてしまう。
一目惚れのようなものかと思ったが、なにかがちょっとだけ違うと思う。気分で言うなら、昔に惚れていた女の子と偶然出会ったかのような。
お互いに見つめあったまま無言でいると、目の前の女の子が口を小さく開く。
「……私に何か?」
俺の耳へとよく透き通る美しい声。
いつまでも聞いていたいと思いながらも、何か返事をしなきゃいけないと言葉を探す。
「どこかで見たことがある気がして」
「それならTVで見たのですね」
「ウマ娘が出る番組は見ないようにしている。嫌いとかじゃなくて、見ていると寂しくなるから」
「ではナンパというものでしょうか?」
彼女は首を少し傾げたものの、表情は一切変わっていない。
状況を見ると、ナンパというものになるのだろうか。……なるのだろう。
俺はウマ娘のファンでもなく、レースすら見たことがない。そういう考えにいたるのは当然のことだ。
「ただ気になっただけなんだ。君の邪魔をする気はないし、ナンパでもない。じっと見ていて悪かったね」
そう言って彼女から視線を外して歩き始めたが、すぐに彼女に呼び止められた。
「あの、だとしたら私の何が気になったのでしょう?」
足を止め、彼女へと振り向いて足の先から頭のてっぺんまで見る。
別に好みの外見をしているというわけでもなく、ウマ娘が間近に見られたからでもない。
そう、なんとなく理由もなく気になっただけだ。
「雰囲気が。なんだかずっと前から知っている気がして」
少し悩んだあとにそう言うと、彼女は俺から目を地面へとそらしたが、すぐにまた目を合わせてくる。
「あなたと出会った記憶はありませんね」
俺も目の前に会った記憶はない。だとしたら、俺のただの気のせいだ。きっとかわいい女の子がいたから、興味が出ただけなのだろう。思春期の男ならではの特徴という奴に違いない。
「そうか。変なこと言って悪かったね。あぁ、最後に名前だけ教えてくれないかな。すごくレースに強そうな雰囲気だったから、俺が興味を持ったかもしれないし。いつかTVでレースを見て君を見つけたら、応援するよ」
「それは嬉しいことですね。私の名前はサイレンススズカです」
「……サイレンススズカ?」
その名前は俺にとって凄く大事な名前だ。印象が強く記憶に深く残り、目が離せない存在だった。
ただし、この世界ではなく前世で。
前世のサイレンススズカは栗毛で、顔にある白い大きな流星の形が綺麗な馬だった。レース時は顔全体を覆う緑色のメンコをつけていた。
目の前の彼女に、前世のサイレンススズカはよく似た外見的特徴がある。
特にカチューシャとしてつけている緑色の耳覆いが。
サイレンススズカは多くの人を熱狂と興奮に巻き込んだ。レースの走り方の最初から最後まで前を走り続ける姿には感動したのをよく覚えている。
レース中に怪我を負って亡くなったことも。
自然と俺は前世でのサイレンススズカと目の前の彼女を重ねて見てしまう。
そして、死ぬ原因となった左の膝を。
「君は……あぁ、サイレンススズカって呼んでいいか?」
「はい。そういう名前ですから」
「じゃあ、サイレンススズカ。左の膝は悪くないか? 何か違和感は? 無理な運動をしていないか?」
堤防の上から見下ろす形になっていた俺は、斜面にいる彼女に1歩近づく。
だが俺の勢いが怖かったのか、彼女はちょっと後ろに下がって警戒した目をする。
「何も。何も問題はありません」
「そうか。ならいいんだ。よかった、本当に」
名前を聞いた瞬間につい迫ってしまったが、何もこの世界のサイレンススズカが大きな怪我をすると決まったわけではない。名前が同じで、外見が似ているだけの別の存在だ。
一安心して、俺は元の位置へと戻るが彼女はさっきよりも俺に興味を持ったようで少し近づいてくる。
「なんであなたは悲しそうな顔をしているの?」
「俺が、悲しそう?」
「ええ。涙を浮かべて、今にも泣きそうに見える」
俺はすぐに自分の目へと手をやり、いつのまにか涙が浮かんでいたのを知る。
その姿が恥ずかしく、ズボンのポケットへと手を突っ込むがハンカチはなかった。それなら上着の袖でぬぐおうかと思ったが、俺の目の前に、薄緑色をしたハンカチが差し出された。
「……サイレンススズカ?」
どうして俺へとハンカチを差し出すのだろうか。初対面の人間に親切すぎるのは危ないと思う。こんなかわいい子が好意を持っているなんて誤解をしてしまう。
俺が彼女の名前を呼んだだけで受け取りもしないでいると、すぐ目の前までやってきては目元の涙を拭ってくれる。
手の動きは優しく、小さな笑みを浮かべてくれた。
「私にはあなたが何を思って泣いたのかはわからない。けれど、こんなに私のことを想って泣いてくれた人はあなたが初めてよ」
俺は返事をすることもできず、彼女を見つめることしかできない。
目の前の彼女はサイレンススズカ。
サイレンススズカがこの世界にもいる。
彼女が走るのなら、その姿は美しく、誰よりも先に先頭を行き続けるのを見るのはきっと感動するだろう。
彼女を知った今なら、俺はひとつの趣味を持てる。
今まで興味がなかった、ウマ娘とこの世界の競馬。TVで新聞で雑誌で。彼女の姿を追い続けるということを始めよう。
前世でも今世でも、俺はサイレンススズカが好きだ。きっと走る姿が見れただけで泣いてしまいそうだ。
「落ち着きましたか?」
彼女がハンカチをしまい、元の無表情に戻るがそれさえもさっきと違ってかっこよく見える。
クールな美少女にしかもう見えない。
「ああ。ありがとう。……涙を拭かれているあいだ、君のことを考えていたよ」
「いったいどういうことを?」
「君を見続けていきたいと。最後の瞬間まで」
そう言われた彼女は落ち着かない様子で俺から視線を外したが、少ししてまた目を合わせてくれる。
「それはプロポーズというものですか?」
プロポーズ?
さっき言った自分の言葉を思い出し、考えると確かにそう聞こえなくもない。いや、むしろそうとしか聞こえない。
初対面である彼女に告白だなんて!
逆の立場だったら、きっと変な人だと俺なら思う。
「違う。それは違う。純粋に君を、君の走る姿が見たいと思ったんだ。決してプロポーズや恋人にしたいとかそういう変な意味ではない。誤解しないでくれ」
早口で言う俺を見て、彼女は楽しそうに小さな声と笑みを浮かべる。
「はい、わかりました。……ここには気晴らしで来ましたが、今日はいい出会いがありました」
「俺もだよ。君に、サイレンススズカに会えて本当によかった」
「機会があったらまた会いましょう」
「ああ。また変なことを言うかもしれないけど、足を大事にしてくれ」
「ええ。帰ったらお医者様に見てもらいます。学園を抜け出して時間が結構立ったので、今日はもう帰ります。それでは」
彼女は斜面から上がると、俺に背を向けて尻尾を小さく揺らしながら歩いていく。
その後ろ姿に俺は小さく手を振って、彼女の後ろ姿が小さくなるまで見続けていた。
そうして満足するまで手を振ったあと、俺も彼女とは反対方向に歩き出す。
ここに来たときとは違い、この世界での人生に生きる意味を持って。
彼女を、サイレンススズカというウマ娘を見続けるために。