よく言いますよね。「世の中は思いがけないことの連続だ」と。
それは、身近なようで身近ではないこと。
それは、身近ではないようで身近なこと。
キィ……、キィ……
義務教育から解放された年。
迎えた最初の夏は、茹だる様な暑さが絶え間なく続いている。
日が射し始めれば蝉の鳴き声も絶えない日々を、学生の身分の時にだけ許された長期の休みとして過ごすのも終盤に差し掛かっていたある日。
「なんだかな~。……流石にこれは予想していなかった」
どこか他人が発したようにも聞こえる無味乾燥とも呼べるような声で呟いて、俺は眼前に広がる光景の一部から始終までをただ漠然と認識していた。
言わずもがなだが、この世界で生きていれば唐突で予想外な出来事なんてものは吐いて捨てるほどあるし、それらに自身が遭遇する可能性なんてものも同様だろう。天気予報に於ける一ヶ月後の予想天気図が見事的中するのと程度的には大差ないかもしれない。
要するに、どんな出来事であれ、現実に起こりうる事態だとある程度頭の隅にでも認識しているのならば、それがどのような事態であれ重大な危機に陥ることなどはほぼ無いように思える。対処する場合もそうだが、完璧とはいかなくとも相応の行動程度ならば存外に問題なく出来ると思ってはいたのだが……どうやら認識が甘かったらしい。
目の当たりにし、現実におかれた状況から思い知ったのは、頭で分かっているのと実際に当事者として関係するのとではやはり大きく異なると言うこと。その上、これが普通に生活する中では予想することすらも殆ど在り得ない自体ともなると、正直言って本当に反応に困ることになる。
現実的な状況も度を超すと非現実的になる。
現実の定義がその人の持つ常識と理解に収まる出来事と言うならば、自身が唐突に出くわしてしまった状況のあまりの現実の突拍子さを受け止めきれず、逆に非現実さを感じて即座に反応が出来ないのは当然で、そうやって出来事を非現実化したものと受け止めることで人は己の精神の安定と防衛を図っているのだろう。
だから、我ながら本気で驚いた。
最初の衝撃。受け止めきれなかった心への衝撃が和らいだすぐ後、状況が何であろうともまずは自身が対応可能な目先の事柄への対処を優先すべきだと、そんな冷静な結論を俺は早々に導き出していたのだ。
大した混乱も困惑もなくその思考に至ったのは、俺の生来の人間性の問題なのか、はたまた俺自身が自分で思っていた以上に冷静で実利的な思考と対応が出来るタイプの人間だったからなのか。……どうでもいいことか。
兎にも角にも、今の俺にとっては最優先となる事項は既に確定していた。
いや、正直に言おう。
最優先となるべきこと以外の全てに関してが俺にとっては二の次三の次以下でしかなく、極めて些事以外の何物でもなかった。
何にも勝って優先すべきたったひとつのこと――――俺のすぐ横に居て、このあまりにもあんまりな事態に同時に遭遇するはめになってしまった彼女の様子を窺うこと。ただそれだけだった。
行動は迅速に。すぐさま視線を真横へと動かす。
そしてすぐに行きつく結果。
巡り逢った結果は案の定なのか、それともここはやはり予想外と言うべきだったのか。
俺より幾分か年下の彼女は、目の前で起きている状況に対して明らかな動揺を晒すこともなく、傍から見ただけの印象で言えば多少は普段にあまり見る機会がない渋めの表情をしているにとどまっていた。
なんと言えばいいのだろう。
彼女のその立ち姿は平素に彼女へと抱くイメージと何ら変わらず、凛然とした雰囲気のままで目の前の光景を、現実を、微かに揺れ動く様を眺めていた。
キィ……、キィ……
俺が知っている彼女の性分としては至極当然な反応とはいえ、今のこの通常では考えられない事態が進行している状況の中、まがりなりにも年上であるはずの俺と言う存在に頼るような素振りすら見せず、それどころか視線すら一切向けてくれていなかったことに対して多少なりと残念で不甲斐無い気持ちになる。
普段から頼られることが少ないのは事実だし、俺自身頼りがいがある方ではないのも否定はしないが。
掛けるべき言葉に悩み。そのタイミングに悩み。その後の対応に悩む。彼女に対しては何故か悩むことばかり。
自嘲の渦に呑まれそうな気分だが、意外にも自己嫌悪までいかない。これが何故かと言えば、妙な話だが彼女との関係の深さ故なのかもしれない。これは惚気と言うよりは、単純な事実でもあるが。
ふと、視線を正面に戻す。
揺れ動く現実は俺と彼女の繋がりでもある。
最初の出逢いは十年以上前。二人の付き合いはそこから続いていた。
共に過ごした幼い日々はいつしか遠くなり、一瞬でも転機があったのは数年前。俺が両親の離婚という子供には抗い様もない理由もあって引っ越すこととなり、一時期は連絡も取り合わないくらい疎遠になってしまった時期であろうか。数年後にはまた運良く交流が再開されることになったが。
交流が再開された最初の頃は彼女の母親も笑顔で俺と彼女との交流を見ていたと思う。ただ、時が経過すると共にハッキリと顔を顰め始めたのも憶えている。
正確にいつ頃だったのかはもう曖昧だが、少なくとも彼女の母親の反応が顕在化し出したのを俺自身が感じ始めたのは、俺と彼女の関係性が普通よりも深く親密なものになり、今にも俺達がある一線を越えてもおかしくない段階にまで迫った辺りからだろう。彼女の母親が気付く切っ掛けとなったものが俺達二人の間に漂う雰囲気の変化からなのか、それとも二人が過ごした痕跡やら何かしらの残滓から推測したのか、実際のところは永遠の謎であるが。
自分自身のことであるという事実を差し引いて考えてみても、彼女の母親の気持ちもわからないわけではない。まだ大人とは程遠い年齢の大切な一人娘に悪い虫が付いたのだから、心配や不安は当然だろう。その対象となる相手に関しても、いくら産まれた時からの知った存在である俺であろうとそんなことは一切関係ないだろう。
どうして受け入れられないことを受け入れるのは難しいのだろうか。
罵倒、嫌悪、忌避……哀しくよりも辛さが勝る。本当に泣きたくなったのは一体誰だったのだろう。
キィ……、キィ……
問い掛けたくなる。今のこの瞬間には泣きたくなる気持ちがまるで湧かないのだ。情愛も親愛もあるはずなのに。
余りにも無残な末路。唐突に眼前に晒されたそれは、俺の中でのその存在に対する感情をも失わせるに足る衝撃だったのか。
「しかし、どうするかな……」
依然として続く現実感の喪失。それでも、月並みな困惑の呟きを発しながら思い浮かべるのは三桁の番号。最後の数字が『0』の場合と『9』の場合の二つあるけれど、この場合は一体どちらに電話すればいいのやら。一応、両方に掛けておくのが無難だろうか。
手に取ったスマホのディスプレイを眺めて、本日初めての鬱な気分になった。一介のしがない学生の身の上では当然ながら公的機関に連絡することなど皆無な人生だった。その初体験にしてはあまりにも重すぎる。その上、状況が状況なだけに殊更気が滅入る。
これは罰か。
こっそりと息を吐く。自分の中の欝々としたものが少しは発散された気がした。
覚悟を決めて電話を掛けるしかない。時間が経てば電話に気付いた彼女が「自分が電話する」と言いだし、尚且つ至極冷静に対応してしまいそうだ。そうやって何もかもを彼女に任せてしまうのは流石に男としても年上としても情なさすぎる。
「ねぇ」
思わずスマホを放り投げそうになった。
本日最も心臓に負担を与えた不意の呼び掛けの声は、季節を象徴するように常に耳に届く蝉の鳴き声の中、特に張り上げているわけでもないにも関わらず不思議と確実に聞き取れた。
常に全身に纏わり付く不快な夏の暑さで汗が滲む中、何故か肌が粟立つ。
呼吸は浅く、心臓の脈打ちが加速している。
不思議な感情だ。不安定な感情だ。不謹慎な感情だ。俺は俺に向けられているこの声に感情が掻き立てられていた。
再認識した己自身。そんな俺を彼女はどんな風に見るのだろう。
見慣れた部屋の奥にある窓の僅かに開いていた隙間から風が流れ、不快しか与えない生暖かい風が汗ばんだ皮膚を撫でる。夏柄のカーテンと共に揺れが少しだけ大きくなったのは気のせいではないのだろう。
「とりあえず、床に下ろすのを手伝って」
キィ……、キィ……
反吐の込み上げてくる気配に侵された風に揺られて、静かに揺れていた身体がほんの少しだけ大きく動いた。
彼女の発した呟きは苦虫を噛み潰したかのようで、それはひどく珍しい声だった。
現状からあまりにも乖離したどうでもよい感想を得ていた俺の心中など察することもなく、彼女は自身をこの世界に産み落としてくれた母親の揺れ続ける身体を見上げている。
ほんの一瞬、横合いから覗き見えた彼女の瞳は、何故か驚くほど綺麗だった。
風物詩である蝉の大合唱が一時たりと休むことをまるで恐れるかのようにより盛大に響く中、彼女は己の内に溜めていた様々なもの全部を吐き出すかのような深い吐息を吐いた。皮肉と言うべきか当然と言うべきかは迷うところだが、その仕草はほんの少し前の俺自身に重なって見えた。そして、一拍の間。
不思議な話だ。この事態に遭遇前にも彼女の顔は見ていた筈なのに、此処に至って漸く俺の方へと向けられたその顔に俺は今日初めて彼女の顔をしっかりと見た気がした。
目が覚めるような感覚の中、静かに注がれた視線。
それは、知っているようで知らなかった。
それは、見ているようで見ていなかった。
彼女の視線。
「聞いてる? ――――兄さん」
その刺し貫く視線に、俺は息を――――――――。
世の中の思いがけないことが善いことばかりなら、それは一体どんな世界なんでしょうかね?