どなたか、ひよいと現はれたら! といふ期待と、ああ、現はれたら困る、どうしようといふ恐怖と、でも現はれた時には仕方が無い、その人に私のいのちを差し上げよう、私の運がその時きまつてしまふのだといふやうな、あきらめに似た覺悟と、その他さまざまのけしからぬ空想などが、異様にからみ合つて、胸が一ぱいになり窒息する程くるしくなります。
太宰治『待つ』(『女生徒』収録)角川文庫、1954年
AV
バスはトンネルを走り、ほのかに灯る橙色の光を浴びて走って行く。
緩やかなカーブを描いた先に見える輝きに飛び込むと、抜けるような朝の空が出迎える。
眩しさに目が馴染む頃、バスは湾岸沿いの道を走っていた。
内浦湾。
静岡県は駿河湾、そのさらに奥の、幅たった一キロしかない湾だ。
紺碧と言うには鮮やかな青色の湾を中心に、その右対岸には内浦小海の街が、左対岸には長井崎岬の高台――通称みかん山が見え、その間にお椀をひっくり返したような淡島がぽっこりと浮かんでいる。
真っ直ぐな海岸通りに、対向車はない。後続車も先行車もない。凍りついたような時間の中で、係留された漁船とそこで足を休める白い海鳥だけが、波に揺れている。
胸まで届く髪を太陽に照らされた高海千歌は、バスの最後部座席からそれを眺めている。
物心がついた頃からあった、当たり前の街並。
高海家が代々暮らしてきた、歴史のある風景。
波に浚われる浅瀬のように、死に瀕する世界。
「諦めちゃダメなんだ……」
無意識に呟いた言葉が、イヤフォンから響く声に重なる。
荒削りな編曲、層の薄い演奏、低品質な録音、まともなボイストレーニングもしていない歌声。
焦燥感と希望に縁取られた、決意の歌。
小さな画面に映る、歌い踊る三人の少女。
その眩しさに胸が締めつけられる。
と、バスが僅かにスピードを落として、対向車線に割り込んだ。左から追い抜こうとする車両が来たらしい。
なんだろう、と思って振り返ると、バスに追いついてくる自転車が見えた。こちらに向かって大きく手を振っている。
千歌は動画を一時停止、後部シートを山側に移ると、立ち上がって窓を開けた。
「千歌ちゃーん! おはヨーソロー!」
「おはよー、曜ちゃん! 久しぶり!」
軽快車を片手運転で敬礼しているのは、幼馴染みの渡辺曜だ。ショートボブと制服のスカートを風になびかせ、バスに併走している。
「遅いじゃん! 朝練どうしたの?」
「寝坊しちゃった! 新学期いきなり!」
満面の笑みで失敗を語る曜に、千歌は思わず笑ってしまう。
「また泳いでたの? 夜!」
「違うよ! アレ見てたの!」
「アレ?」
千歌が問い返すと、曜は上半身を起こした。
「千歌ちゃんも見てないの!? 昨日あそこに――おおおお!」
風の抵抗をもろに受けた曜が一瞬引き離されていき、ややあって戻ってきた。
「気をつけてよー!」
「あとで言うよ! 行っくぞー! 全速前進ー!」
そう言うと曜は立ち漕ぎになり、お尻を振りながらバスを追い抜いていった。
「またあとでねー!」
クランクが回転するたびに、筋肉質の腿と短パンの裾がスカートから見え隠れしていて、千歌はその光景に懐かしさを覚える。
「次は、三の浦総合案内所。時間調整のため、少々停車します」
バスはスピードを落とし、利用者のいない停留所で一時停止した。
その間にも自転車は、海沿いのまっすぐな道を遠ざかって行く。
窓を閉め、シートに腰を下ろす。
バス停の名前でしか残っていない、≪三の浦総合案内所≫だった廃屋が目に入る。
いつまでも変わらないと思っていた千歌の世界は、五年前に一変した。
海沿いの街からは人が消え、漁船のいない桟橋が増え、商店街はシャッターを閉めたままの店が着実に増えていく。仲の良かったクラスメイトは一人ずつ転校していき、進級するにつれて囁かれるのは統廃合や廃校の噂。
学校まで向かうバスの朝夕特別便も廃止となり、このバスにも千歌一人しか乗っていない。
千歌の心にはいつの間にか“終末感”という言葉が芽生え、ゆっくりと、だが確実に育っていた。
アナウンスが聞こえ、バスが発車する。
首にかけたままのイヤフォンを耳に入れ、電話の再生ボタンを押す。
三人の少女のダンスが動き出す。
それを初めて見た、三年前を思い出す。
数センチの画面がいっぱいに広がり、千歌の世界を飲み込んでしまった時のことを。
空っぽだった千歌が、初めて手を伸ばしたいと思った夢のことを。
瞬きを一つ。
滲んだ睫の間に、指の長さにも満たない三人の姿が見える。
電話を持つ、小さな手が見える。
一年間を独走した彼女たちは伝説となり、千歌はあの時の魔法のような気持ちをポケットにねじ込んで過ごしてきた。
こんな死にゆく街で、なにができるのかと。
それでも、一六年間見続けてきた景色を終わらせまいと願う反発心は、否応なく育っている。
「あとで、か」
曜の言葉が、今さらながら頭にしみ込んできた。
あんな風に誰かと約束するなんて、いつ以来だろう。
岬に建っているコンクリートの目的地は、気付けばだいぶ大きくなっていた。
A
「お化けだよ! お化けが出たの!」
「え」
感情を込めて言う渡辺曜に、千歌はフラットな驚き声を返す。
「ノリ悪いなあ。もっと驚いてよ」
「いや驚いたけど……。なんでお化け?」
曜は自転車にまたがって、みかん山を巡る海沿いの道を走っていた。クルマ通りはない。後ろの荷台には、海岸通りのバス停で拾った千歌が横乗りしている。
「深夜にあんなところに明かりがあるなんて、普通じゃ考えられないよ」
「あんなところって?」
「あの辺」
曜は片手で海を指差す。彼女が指し示すラインは内浦湾をちょうど縦断していて、真正面に千歌や曜の住む三津があった。
「私たちんチ?」
「湾の真ん中! ぽわーんって青白く光るものがさ、船もなく浮いてたの!」
「だからお化け? 人魂?」
「で、それが不気味でさ、思わず着替えて探しに行っちゃったんだよ」
「泳いで? 不気味なのに?」
「当然じゃん」
この返答に、千歌の釈然としない表情を浮かべているに違いない、と曜は笑う。
「結局なんだったの?」
「分かんない。てか水が冷たすぎて無理だった」
「そりゃそうだよ、今一〇度くらい?」
「しょうがないからウチの屋根から双眼鏡で見てたんだけど、一時間くらいしたら、パッと明るくなって、また暗くなっちゃって」
「なんで?」
「分かんない。電池が切れちゃったのかも」
「電動お化け!」
「なんかやらしいぞ」
「なんで?」
「あー、なんでもない」
千歌は首を傾げたか、曜の背中に頭を預けた。
曜はしばらく黙々と自転車を漕ぐ。時々歩いている同級生や先輩に声をかける以外は、通り過ぎていく白線と、朝日を反射する湾の海面だけが、動くものだ。その生徒たちも、去年に比べるとまばらなように思う。新年度が始まるタイミングで、また少なくない人数が転校して行ったのだろうか。
一日が、一年が始まるにしては、静かすぎる朝だ。
いつからこうなっていたのかは覚えていない。漠然とした停滞感に覆われた内浦が、曜にとっての日常だった。
「久しぶりだよね、こういうの」
「え? どういうの?」
「二人乗りで学校行くの!」
横乗りしたままの千歌が曜の腰に抱きついてきた。
「ちょっと千歌ちゃん!」
「あー曜ちゃんあったか~い!」
「人を自販機みたいに!」
「なになに? あったかい飲み物出てくるの?」
「出ないよ!」
だが千歌の言う通りだ。高校に入学してからの一年間は、毎日水泳部の朝練で、千歌と同じ時間帯に登校することは滅多になかった。それでも抱き付いてくる千歌の温かさは、記憶の通りだ。十数年の幼馴染みの感触は、少しのブランクでは忘れられないらしい。
と、二人が車道でじゃれていると、流れるような走行音とともに、ロードバイクが隣に並んだ。
トライアスロンで使われる水陸両用のトライウェアを着た人物が、横目で曜たちを見た。
「おはヨーソロー、果南ちゃん!」
「おはよー!」
声を上げる二人に、松浦果南は「や」と左手を小さく広げて見せた。海水に湿った黒いナイロンに緑のラインが入ったスポーツウェアは、とても登校する生徒には見えない。
「久しぶりだね、果南ちゃん!」
千歌が手を伸ばし、果南の左手に触れた。
「久しぶり、千歌。元気そうでなにより――って、髪。だいぶ伸びたね」
「そうかな」
「伸びてるよ」
曜も同意した。少し前まで曜と同じくらいの短いボブだったのが、少し見ないうちにロブと言ってもいいほどに伸びていた。
「そうかなあ」
認めたがらない千歌に、曜と果南は笑った。ずいぶん前に伸ばしていた時もそうだったのを、曜は覚えていた。
果南の高く長いポニーテールは、今は流線型のヘルメットの下で窮屈そうに揺れている。登下校時に毎日海水を浴びるにもかかわらず、海藻のように艶やかな髪は傷むことをしらない。
「曜とは久しぶりじゃないね」
その果南に水を向けられ、曜は頷いた。
「大会で会ったもんね」
「大会って?」
「曜の高飛込の。千歌、来なかったでしょ?」
「あー、うん、ちょっとウチの仕事が忙しくて」
千歌の家は旅館を経営している。曜が出場した大会は三月の春休み中で、誘いのテキストには断りの返信が届いていた。
「だからその分イチャイチャしてるんだ、朝っぱらから」
「してないって」
「あったかいんだよう、曜ちゃんのお腹」
「へええ。今頃そこには千歌ちゃんの子供が――」
「――だから!」
曜はペースを上げ、ニヤニヤ笑う果南の前に出ようとする。
だが果南も変速機を操作し、するするとスピードを上げてくる。
「いやあ、お似合いのカップルだと思うよ。高飛込ジュニアオリンピックカップチャンピオンに、それを待つ田舎の健気な彼女」
「え、私? 健気かなあ」
「男女逆転してる!」
「『オリンピックが終わるまで、君には会えない! 分かってくれ千歌!』」
「え? えっと、『分かったわ、曜さん! 私待ってる! あのみかんの採れる山で! 金メダルは仏壇に飾りましょ!』」
「うるさあい!」
「うわあ!」
小芝居を聞いていられず、曜は立ち上がってペダルを漕いだ。
グンとスピードが乗り、風を破る抵抗が増す。
千歌の声が景色とともに後ろに流れていく。
軽快車とロードバイクでは決まっている結果だが、勝負をかけずにはいられない。
緩やかなカーブを抜け、直線に入る。
みかん山を登る坂道への分岐路が見えてくる。
そこがゴールだ。今決めた。
対向車線に膨らみ、進入角度を調節。
スピードを殺さず坂道に進入!
「果南ちゃん!」
慣性で坂を登りながら振り向くと――
「いやあ曜は速いね。叶わないなあ」
――果南は気負わぬスピードで曜を追い抜いていき、そのまま低速ギアで坂道を登り始めた。
「じゃ、またあとでね」
からかわれた、と曜は気付いた。
「あー! 曜ちゃん! 果南ちゃんに負けちゃうよ! ダッシュ! スタートダッシュ!」
横座りのまま前を指差す千歌に、
「頭からっぽだなあ、私」
曜は返答ができない。
*
始業式は滞りなく行われた。
そして今年度最初のホームルームも終わった。去年と同じ担任に、去年と同じ教室、そして何人か減ってしまったが去年と同じクラスメイトで。≪私立浦の星女学院高校≫は明日から、去年と同じサイクルに入っていくのだ。
「あと一年か」
松浦果南がそう呟くと、
「首の皮繋がったね。とりあえず私たちの卒業までは」
スクールバッグを漁っていたクラスメイトが、嬉しそうに話しかけてきた。
「これで受験勉強に専念できるね」
「水を差すなあ、果南ってば」
ぼやくクラスメイトに別れを告げ、果南はバッグを手に教室をあとにした。
噂になっている統廃合や廃校は、今年度中はない。
理事会から公式に発表されたためか、浦女の空気はいつになく明るく感じられた。
そんな廊下を歩く果南は、制服のスカートを心細げにつまみながら、早くトライウェアに戻りたいと思う。制服を着るのもあと一年の辛抱だが、逆に程度に楽しんでおかなければ後悔するだろう、とも思う。日常でスカートをはく機会など、果南にはないからだ。
教室棟を一フロアあがると、果南は二年生の教室を目指す。
曜とイチャイチャしていた、今朝の千歌を思い出した。仲良さそうにしている二人の幼馴染みを見るのも、あと何度あるだろう。来年彼女らが三年生になっても、この学校は存在しているのか。
二年一組の教室で、幼馴染みは帰り仕度をするでもなく、窓際から一つ教室側の席に座り、机の上に突っ伏していた。
「潰れてるねえ、千歌」
いつもの席、いつもの姿勢だ。
グルリと頭を回転させた千歌は、横目遣いで果南を見上げた。
「果南ちゃんか」
「曜は?」
「お花摘み」
「ああ」
千歌の頭がまた回転し、窓の方を向く。窓際の席には曜のバッグが無造作に置かれている。
「果南ちゃんは?」
「トイレ? 別に」
「違うよ。暇なの?」
「暇と言えば暇かな、今日もお店に予約は入ってないし。潜りに行こうかな」
と、千歌がガバッと顔を上げた。
「お化け!?」
「は?」
「お化けを探しに行くの!?」
その単語で、昨夜の電話を思い出した。
「ああ……曜が言ってたアレ? そういうつもりじゃなかったけど。なに、気になるの?」
「気になる!」
なにが発火点になったのか、千歌はもう、席から腰を上げていた。
「行き先決めてないなら、行こうよ! トレジャーハンティング! ……ゴーストハンティング?」
「お化けだったらこの時間は出ないと思うけどね。曜も誘ってみようか」
千歌は紅潮した頬で笑ったが、不意にしゅんとした顔をした。
「でも私、もうお小遣いないんだった。まだ寒いよね……」
「器材? もうすぐ点検期限の器材あるから、むしろ使ってほしいけど」
「ほんと!? じゃあ潜る!」
また笑顔に戻る。忙しい幼馴染みだ。
「オッケー。船の準備はこれからだから、のんびり来てよ」
と踵を返そうとした果南は、
「分かった!」
と荷物をバッグに乱雑に詰め込んだ千歌が、自分を追い抜いて教室を飛び出して行ってしまったのを見た。
「曜を誘ってほしかったんだけど……まあいいか」
下級生の教室に取り残された果南は、愛想笑いを振りまきながら廊下に出た。
「さて、と」
トライウェアの待つ更衣室に向かいながら、防水加工された電話を耳に当てる。
「あ、祖父ちゃん? ……うん、レンタル器材、二セット備してくれる? そうそう昨日のあれ。……うん? 二セット。……違う違う、千歌の分。久しぶりでしょ。……うん、元気そうだよ。……ありがと、じゃあよろしくね」
電話を切ると、果南は溜め息をついた。
「あーあ、一人でサクッと潜ろうと思ってたのにな」
残念そうな言葉とは裏腹に、その声は喜色を帯びていた。
*
内浦湾と江浦湾の境界に当たる、一六五平方メートルの淡島。その東岸に位置するダイビングショップ≪ファビュラス・ダイバー・ボーイズ≫から、クルーザーが出港した。
「そうそう、こんな排気ガスの匂いしてたー! 懐かしー!」
「一年半ぶりだもんね、千歌ちゃん!」
渡辺曜が千歌と一緒にこの船に乗るのは、中学三年生の夏休み以来だった。
「なにか言ったー!?」
コクピットの中の果南が振り返って言った。果南には後部デッキにいる千歌たちの言葉は届かなかったようで、曜は頭の上に両腕で大きな丸を作った。ハンドシグナルで「OK」や「平気」の意味だ。
果南は座席で操舵する彼女の祖父――松浦節三を見て、首を振った。
白髪交じりの髪より肌の方がよほど黒い海の男たる節三は、微かに肩を揺すった。笑ったのかもしれない。
松浦家の所有する全長
千歌はコクピット上のタワーコントロールに上がり、辺りを見回した。
「やっぱりそうなんだよ! 始まりの鼓動、感じてるよー!」
千歌が両腕を広げ、わけの分からないことを叫んだ。
曜は幼馴染みの視界を求めて、左舷から進行方向を覗く。
左手には曜や千歌の家がある三津が、右手には岬の上の高校が辛うじて見えた。正面は三津と長井崎岬をつなぐ海岸通りだ。淡島は背後に遠ざかり、内浦湾は足の下。
普段は外側から見ていた景色を内側から見ているのだと、曜は気付いた。
四人が向かっているのは、この街の中心だ。
そう思い至れば、ワクワクせずにはいられない。
と、どるどるとエンジン音が下がり始めた。
「え、あれ?」
千歌がきょろきょろする中で、船は慣性航行に入り、やがて完全に停止する。
「曜、この辺りが座標だけど、あってる?」
コクピットから出てきた果南が言う。
曜は淡島のエレベーターや長井崎岬などのランドマークとの距離を指で測ってから、
「うん、この辺り!」
と足元を指で示した。
「祖父ちゃん、投錨、お願い」
「アイ・マム」
節三が揚錨機のリモコンを操作すると、モーターの駆動音と共に、錨鎖が下されていく。
「もう到着?」
耳まで赤くなって千歌が、タワーコントロールから顔を出した。
「うん、準備しよ」
曜が言うと、千歌はそそくさとハシゴを下りてきた。叫んだのが恥ずかしかったのだろうか。
「気温:一七・七、風:南南西の三、水温:一五・四。ドライだな」
「早く暖かくなってほしいね」
果南は祖父と話ながら、ダイビングの準備を始めた。登下校の普段着でもあるトライウェアの上から着ていくのは、紺と緑のドライスーツだ。頭と手を除いて完全防水で、厚い生地のものなら真冬でも海に潜れる。
曜と千歌も制服を脱ぎ、下に着てきたスクール水着にドライスーツを着る。曜は紺と青、千歌は紺と橙。どちらもレンタルだ。
節三の営むダイビングショップで働き、インストラクターを目指すだけあって、果南は手際よくスーツに頭を通した。曜も体力作りのために夏場はしょっちゅう潜っているため、着るのに困ることはない。
だが千歌は、スーツに両脚を入れたところで、上半身部分を着ようと悪戦苦闘していた。
「引っ張るよ、千歌ちゃん」
「ありがと」
曜が後ろからサスペンダーを肩にかけてやると、千歌は袖に腕を通した。さらに怪獣の着ぐるみを着せるように、お腹側からスーツを持ち上げ、広げた襟ぐりに千歌の頭を押し込む。
「首が折れるう……」
「もうちょっと!」
すぽん、と首が通り、千歌は鋭く息を吐いた。
「よし! 変身完了ー!」
「まだだよ」
両腕を広げてポーズをとる千歌の後ろに回り、腕から腕へ背中を横断して伸びるファスナーを閉めた。
「よし」
二人は両手と頭以外をすっぽりと覆われた状態になった。ドライスーツは身体との間に断熱層としての空気を含んでいるため、ウェットスーツよりはダブついたシルエットだ。そのおかげで、海風に晒される船上でも、制服よりスクール水着より暖かい。
「私の、閉めてくれる?」
背中を向けた曜のファスナーを、今度は千歌が閉めた。
「はい、いいよ」
「祖父ちゃん、二人をチェックして」
とっくに準備の終わっている果南の指示を受け、節三は千歌と曜の背中を順にチェックして「問題なし」と二人の肩を叩いた。
ドライスーツを着たら、器材のセッティングだ。三人分の器材を出すと、狭い後部デッキがさらに狭くなる。
BC――浮力調整器にタンクを固定し、レギュレーターを繋ぐ。ブーツをはき、ダイビングナイフの代わりの水中ハサミを左脛に固定し、ウェイトベルトを締める。クリップを外した髪を、丁寧にラバーキャップにしまう。
「潜るまでが大変なんだよー」
「集中して、千歌」
三人でお互いの器材をチェックしながら準備していくにつれ、千歌が含み笑いを始めた。つられて曜も笑顔になる。この三人や千歌の姉たちと何度も潜っていた小中学校の頃の記憶が蘇ってきたからだ。千歌が確認漏れや注意不足のミスで怒られていたことも、今となっては笑える記憶に分類されていた。
今日は貴重な部活休みだったが、こんな嬉しそうな千歌が見られるだけでも、お化け探しに乗った価値がある、と曜は思う。
「これで準備完了だよね、果南ちゃん」
足ヒレでペタペタとクルーザーのデッキを叩き、千歌が言った。
「うん、身体に叩き込まれてるみたいで安心したわ。曜は――」
「問題ないであります!」
曜はフル装備で敬礼し、
「――みたいね」
果南はようやく笑顔を見せた。
曜はクルーザーの縁から海面を見る。波は少なく、太陽の光を反射して海中はよく見えない。それでも水の透明度が低く、レジャーに適した水質でないのは分かる。
果南は右手の腕時計型ダイコン――ダイブコンピューターをチェックしている。三人のレギュレーターに接続された水深やコンパスを表示するゲージと同じく、矢に射貫かれた時計を模したロゴが刻まれたそれは、OGIグループの製品だ。
沼津の小原家に端を発したOGIグループが保有する、耐環境性を付与するラギダイズ技術は、今や様々な分野のデファクトスタンダードとなっている。耐水耐圧加工を要するダイバー機器も例外ではない。
「千歌」
と、果南が千歌に呼びかけ、右手を手のひらを上に向けて軽く握ってみせた。
曜にはそれが、ハンドシグナルで「OK」または「OK?」のサインだと分かる。と同時に、果南が千歌に「ブランクがあるけどハンドシグナルは平気?」と聞いているのだと察した。
「覚えてるよ、もちろん!」
千歌は自信満々に二種類のOKサインを作り、続けてパパパッといくつかのサインを見せた。
「へっへーん。解の公式は忘れたけど、ハンドシグナルは忘れないね」
「それは困るなあ高校生。ウェイトはどう?」
「前より重い気がするよ」
「ドライだからね。さっき言ってた体重が正確なら、それで沈めるはず」
「た、たぶん」
果南は、曜には目配せをしただけだった。二箇月前にドライスーツで潜ったログでウェイトを決めたからだろう、曜の体重が滅多なことでは増減しないことを、果南は知っている。
果南がクルーザーの後部デッキからプラットフォームに降り、エグジット用のハシゴを海中に展開した。
と、曜の鼻が空気の変化を捉えた。西の空を見ると、僅かに雲の層が見えている。
「果南ちゃん、もうすぐ曇ってくるよ」
「ほんと? 祖父ちゃん?」
「ああ、だいたい一時間後から雲がくる。風向きも西南の七になるか」
タブレット端末を操作する節三が言った。
「錨鎖には近付くな。お化けはいないと思うが、危険なものを見つけたらフロートを上げろ」
「オッケー」
「『危険なもの』には水死体も含まれますか!」
曜が手を挙げ、
「当然だ」
節三が頷いた。
「え、水死体!? そんなのあるの!?」
「お化けを探しに行くんだから、あるかもね」
「イヤだなあ」
千歌は顔をしかめ、ペタペタと足ヒレを鳴らした。
「長居はするな」
「分かってる。九分五五秒で戻るわ」
果南は祖父に言いながらゴーグルをかけ、クルーザーの縁から背中から海に倒れこんだ。バックロールエントリーだ。果南は仰向けのまま海中を数メートル泳ぎ、海面から顔を出した。
「千歌、曜、おいで!」
「う、うん!」
「アイ・マム!」
曜は千歌から少し距離を開けて、ゴーグルを押さえてバックロールエントリー。
タンクの重さに引きずられるように、八〇センチ下の海面に着水する。そのまま身体を伸ばすと脚が海中に沈み込み、身体が垂直に起きる。BCとドライスーツ内の空気で浮力が保たれているので、潜行は始まらない。
「バランスは平気そうね」
千歌も同じくエントリーを済ませ、果南に姿勢を見られていた。
「ウェイトが足りなければサインちょうだい。多めに持ってるから」
「分かった」
「了解!」
「フィートファーストで行くよ。千歌、意味は?」
「足から潜る!」
「オッケー、英語的にはダメだからね」
曜は笑っている二人の方に近付き、三角形を描くようにフォーメーションを組む。
「全然ブランクなさそうだね、千歌ちゃん」
「当然!」
「はいはい。じゃ、潜ったら冷静にね。死体を見つけても、いきなりハグしないでよ」
「分かってるよ! 子供じゃないんだよ!」
「ならあとで解の公式の導出、聞かせてね」
「あー、子供でいいかな」
眉を寄せた果南の「潜行」のサインとともに、三人はレギュレーターをくわえて沈んでいった。
*
BCから空気を抜いて一拍あけて、身体が重くなっていく。さらに肺の空気を出しきると、器材の重さが浮力に打ち勝ち、松浦果南の身体は潜行状態に入った。
曜も同じペースで潜っている。これは予想通り。ダンプバルブから一気に空気を抜いての潜行は、二人が普段からやっていることだ。
千歌はなかなか沈んでこない。BCの空気をインフレーターで調節して潜行しているらしい。
千歌もダンプバルブ組だったが、ブランクで慎重になっているようだ。先行した果南たちに焦って追いつこうともしていない。一つのミスが命取りになるダイビングにおいて、いい傾向といえる。
果南は水深一メートルほどで曜に「水深維持」のサインを出すと、一旦BCに空気を入れ、中性浮力を得て静止した。
やがて千歌が肩のダンプバルブを操作して、果南たちの水深に降りてきた。果南は潜行開始の旨を改めて伝え、BCから排気する。ここからが本番だ。
耳抜きを繰り返して水深五メートルに到達、潜り続ける。
世界から赤が薄れ、穏やかな緑と青の光に満たされる。
海中は細かな泡や塵が舞っているが、見通しは悪くない。
海水の圧力に反発する鼓膜に、届く音は僅かだ。
深くゆっくりした呼吸と心音、泡の動く音、船の発電機。
一年半のブランクがある千歌の様子も、問題ない。
レギュレーターから出る呼気は、始めより落ち着いている。
経験本数や精神状態が反映されるのがダイビングだが。
千歌は復帰一本目の一分で、勘を取り戻したらしい。
水深一〇メートルを通過した。
緑色の成分もだいぶ消えた。
海底がぼんやり確認できる。
さらに水深一五メートルほど。
肩関節の軋む音が耳に響く。
呼吸音と心音は意識外に消えた。
千歌の目と頬は笑顔のまま。
本番に強い心臓は相変わらずか。
水深一五メートル。
海底は目の前。
砂に覆われた岩場。
BCに断続的に給気。
潜行速度を調節。
二人から離れ。
姿勢を前傾させ。
指先で海底に、
着底。
(ふう)
心の中で息を吐き、張り詰めていたテンションを緩めた。
(まずはオッケーね)
穏やかな青に彩られた、エッジの滑らかな光景を見回す。
日光の一部しか届かない、人間を拒む世界。
日常の裏側にある異世界。
だが果南にとってはここが“世界”であり、地上の如何なる場所よりも落ち着く場所だった。
(さて、二人は?)
果南の世界に、少し遅れて闖入者が訪れる。
曜は海底に指先を押し当て、姿勢を維持した。
千歌は果南に手を振ると、海底に人差し指をあて――
(千歌!)
――そのままフィンが地面に落ちて、砂が巻き上がった。
(最後の最後で。着く魚先を濁すなあ)
砂煙の中で手が「助けて」のシグナルで振り回され、ぼこぼこぼこ、と多量の泡が頭上へ抜けていく。
果南は指に力を込めて海底から離脱、一メートルほど浮上したところで中性浮力を得ると、千歌の手を上から静かに握った。
千歌はすべきことを理解したようで、すぐに浮き上がり、果南の前で静止した。両手を合わせて「ごめん」らしき表現をするが、そんなハンドシグナルはない。
果南は曜にOKのサインを見せ、ダイコンを確認した。
水深一五・六メートル、二分二七秒経過、ブランクのある千歌を含めてならまずまずのペースだ。
九分五五秒でエグジットするなら、浮上に余裕をもって二分、安全停止に三分として、探索時間は二分二八秒か。
(そう、探索だよ)
潜水中は意識していなかったが、これは「お化け探しダイビング」なのだ。
千歌は忘れていなかったようで、BCのポケットからLEDライトを抜き、三人の輪の外側に光を向けた。
曜もそれに続き、果南から離れる。
果南は海面を見上げた。ほぼ真上に、微かにクルーザーの花緑青色の船底が見え、アンカーロープが離れたところに降りている。この辺りが、曜が指示した座標と考えていいだろう。
(でもね……)
数百メートル離れた三津から算出した座標だから、誤差はある。“お化け”が沈む過程で(水死体から浮き上がる過程で?)潮に流された可能性もある。
そして巻き上がった砂煙は収まっておらず、海底付近の視認距離が短すぎる状況で、なにかを探すことはできるだろうか。
(仕切り直した方がいいかな)
ダイビングでもっとも危険なことは、“焦り”だ。焦りは呼吸を乱し、エアの消費を早める。エアの減少ば焦りを産み、悪循環となる。ダイビングショップとして二人を引率する身としては、それは避けなければならない。
だが指示を出す前に、千歌の口から、ぼこり、と泡が出た。
そして、ライトが一点を向いて止まる。
(なに?)
ライトの円錐は、砂煙に浮かび上がっている。
その先にははなにも見えない。
だが千歌は、なんのためらいもなく、フィンをキックして砂煙に飛び込んだ。
(曜、あっち行くよ)
果南は曜に移動方向を示すサインを出したあと、慎重に周囲を見回し、あおり足で接近する。
砂煙を抜けると、千歌は着底地点から離れた岩場でフィンを漂わせていたが、やがて身体を起こし、こちらに握った手を伸ばした。
果南は「危険」のサインかと思ったが、そうではない。
開いた手のひらに乗っていたのは、小さな球体だった。
(これが“お化け”?)
どのような仕組みか、穏やかに明滅を繰り返している。
近付いてきた曜は、息を吐きながら球体を指差した。
(これが?)
その答えを二人が持っているとも思えず、果南は「浮上」のハンドシグナルを見せるしかなかった。