仮面ライダーメルシャウム   作:fuki

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第五話:願いましょう、明日の奇跡を - 4(完)

   *

 

 型紙がラフに描かれたスケッチブックが居間のガラステーブルに置かれ、円形の絨毯に直接腰を下ろした部屋着姿の津島善子は、制服のままのルビィとともにそれを見ている。その周りにはルビィのボディガードである四人の黒服の男が立ち、長押に並ぶ一二枚の能面と共に、二人の挙動を見張っている。

「さすがにカオスね。これだけ顔が集まると」

「カオスなのは、能面だけだと思うけどなあ」

 ルビィの指摘を否定できず、善子は笑う。

 二人は黒沢家のリムジンで、学校から直接、津島家宅にやってきた。時間は午後四時を回り、ルビィの門限まで二時間ほどしかないが、一箇月というリミットが設定された以上はやれるだけやるしかない。

「まずこんな感じで、服を設計図にするんだよ」

 ルビィが指差すスケッチブックの画用紙には、ワンピースを来た女性と、そのワンピースが段階を踏んでバラバラになっていく絵が並んでいる。リムジンに乗っている間にさらさらと描いていたものだ。

「やっぱ難しそうだなあ」

「難しいよ。平面の布から立体の服を作るんだから。想像力勝負!」

「妄想力ならあるんだけど」

 善子が手で顔を覆うポーズをした。もちろん意味はない。

「でね、これが――」

 ルビィはスケッチブックの別のページから、折り畳んだ薄い紙を取り出した。

「――型紙ね」

「ルビィ様! それはダイヤ様が禁じて――」

「――衣装のじゃないよ! この服の! サイズもちっちゃいでしょ!?」

 ルビィが反論すると、黒服は引き下がった。

 手伝いをしていないかを監視するためとはいえ、お互いやりにくいそうだ。

「あんた、黒服相手だと普通に喋れるのね。男なのに」

 善子が問うと、ルビィは首を傾げた。

「うーん、男の人っていうか、≪黒服≫、だからかなあ」

「それはひどい」

 だが当人たるクルーカットに厳つい顔立ちの男たちは、眉一つ動かさない。似たような身長に似たような髪型の、画一的なキャラクター。その人間味のなさがルビィには安心なのだろうが、善子には逆に不気味に見える。

「で、どうやって想像すればいいのよ」

「うーん、ルビィはぬいぐるみとか小物みたいな単純な形から入ったし、型紙本は読んでたから、すぐピンとくるんだ。でもヨハネちゃんはそんなことしてる余裕、ないもんね」

 なら、とルビィは、黒服に持ってこさせた紙袋をガラステーブルの脇から差し出した。

「なによこれ」

「ルビィが買ったスクドル衣装本! ここから衣装に似てる服を探して、型紙をパクるの!」

「ええ……」

 善子は渋い顔で本の束を眺めていたが、結局は一冊のムック本を抜き出す。

「オリジナルの衣装なら、オリジナルの型紙じゃないといけないんじゃない?」

「その衣装だって、μ'sの衣装のリファレンスだよ」

「そうなの?」

「たぶん」

 善子は自分でクリンナップした衣装を眺める。善子も人並みにμ'sの楽曲は知って(叩いて)いるが、映像となると詳しくない。

「それに、前にマルちゃんが言ってたよ、『巨人が肩の上に乗ってると遠くが見える』とかなんとか」

「あー、誰だっけ、それ言ったの。ニュートンとかだっけ?」

「ヨーロッパの人だった気がするけど、ニュートンさんってヨーロッパ人?」

「アメリカじゃない?」

「って、肩にちっちゃい巨人乗せてんのかい!」

「どしたの?」

「なんでも」

 無駄口を叩きながら、善子は本をペラペラめくり、プリントアウトした衣装と照らし合わせ始める。

「袖って、細長い布をクルッと丸めて作るんだ、そっか、そりゃそうだよね。……でも今回はノースリーブだから関係ないか。胴の作り方、胴、胴……」

「身頃だよ」

「え? 桜?」

「胴の部分は“身頃”って言うの。前身頃と後ろ身頃」

「あ、じゃあこれが胴か。へえ……」

「分かんない単語があったら言ってね、ヨハネちゃん。専門用語を覚えておけば、調べる時とか便利だから」

「りょーかい」

 善子はブツブツと音読しながら、ノートに単語を書き出していく。

「身頃はジャケットみたいなのでいいのかな。襟……衿? はワイシャツっぽいけど」

 そんな様子に満足したか、ルビィはソファに腰掛け、スケッチブックを抱えてなにかを描き始めた。自分で作る小物かなにかだろう。

「そうだ、一応聞いておきたいんだけど」

 と、ルビィが顔を上げて言った。

「なに? 締め切り? 予算?」

「ヨハネちゃんの本名って、善子ちゃんでいいんだよね?」

 善子はポカンと口を開け、次いで、思わず笑い出してしまった。

 “ヨハネ”という領域について、こんなにも真剣なトーンで問うた人は、初めてだったからだ。

「な、なによう」

 ルビィは頬を膨らませたが、笑っていた。

「ああ、いや、うん、そうよ。津島善子。それが現世(うつしよ)におけるヨハネの真名(まな)―― よろしくね、ルビィ」

 今さらな自己紹介に、「うん!」とルビィは満面の笑みで頷いた。

「私は黒澤ルビィです! 初めまして、善子ちゃん! これからよろしくね、善子ちゃん!」

「ちょ、ちょっと、真名なんだから、気安く呼ばないの! ヨハネでいいのよ!」

 気恥ずかしくなってしまい、善子は本に意識を戻した。

 ルビィはスケッチブックで口を隠して、まだクスクスしている。

「もう、なにがそんなにおかしいのよ」

 そういう善子自身も、さっきの大笑いで頭が火照ってむずむずする。

「まったく。次、リボン。……リボンは?」

「似たのがあったと思うよ、春のおしゃれ可愛い系に」

 やっと落ち着いたか、ルビィは抱えたスケッチブックをさらさらとシャーペンで撫で始めた。

「春のおしゃれ可愛い系……春のおしゃれ可愛い系……春……春……」

 善子はムックの表紙をパタパタ見ていくと、「ワンポイントで個性を演出! 春から始めるスクドル特集!」と銘打たれた型紙本が見付かった。

「これか。……あれ?」

 気付けば、さっき身頃を確認していたムック本を見失ってしまった。表紙を思い出そうとするも、どれも似たようなパステルトーンの背景に、卒業アルバムのような笑顔を浮かべた見分けのつかない女子高生ばかりで、判別がつかない。

「こりゃ無理ね。黒服さん、付箋取って」

 善子は戸棚を指差し、黒服の一人から付箋を受け取る。

「ありがと」

「いえ」

 と答えたあとで、黒服は目を瞬かせた。何故従ってしまったのだろう、と言いたげで、そのリアクションの人間臭さに善子は安心する。

「ねえ、あんたの名前も教えなさいよ。私の真名を聞いたんだしさ」

「守秘義務がございます」

 そう言って定位置に戻る黒服に、

「さすが黒総警、ガードが堅いわね」

 善子は楽しそうに口を尖らせる。

「まあ、いいわ。ヨハネのリトルデーモンに、名前は必須じゃないしね」

 善子は咳払いをすると、右手の三本の指先で顔を隠し、左手で黒服たちを順に指差した。

「この堕天使ヨハネが、天国でも地獄でもないこの現世で活動する際に使役するのが、≪リトルデーモン≫。あなた方四人は、その栄えある一号から四号に選ばれたのよ――」

「今、一号なの?」

「うるさいわね!」

 ルビィの指摘に思わず素に戻るが、すぐに、ふんと演技臭く鼻を鳴らす。

「いいでしょ、ルビィ。私がリトルデーモンたちを使役しても」

「黒服さんたちのこと? ……そんな厳しいお願いじゃなければ、いいけど」

 その返答を想定していなかったか、黒服がざわつく。

「宜しいのですか? お嬢様」

「え、うん……?」

「じゃ、お願いね、リトルデーモン?」

 その有無を言わさぬ響きに、黒服たちは視線を交わしたが、最終的には頷くしかない。

 

   *

 

(うう、お腹痛い……)

 善子はちょくちょく『ねえリトルデーモン○号!』と黒服を呼んでは、複数の型紙本を広げさせたり、ポーズをとらせたり、飲み物を取りに行かせたり、脛をもませたり、と指示をエスカレートさせていった。

 黒澤ルビィはスケッチブックを開きながらも、その様子をハラハラしながら見ていた。

 当然だ、ルビィのボディガードである黒澤総合警備保障の四人が、形だけとはいえ、今や≪ヨハネのリトルデーモン≫と化してしまったのだから。所詮は友人宅にいる間のお遊びと思おうとしても、黒服たちがあとでどのように報告書にするのか考えると、ルビィは胃が痛くなるのをとめられない。

(“形だけ”が一番怖いってお姉ちゃんに言われてるのに……)

 とはいえ、黒服を使う善子は、お姫様気質なのか、ロールプレイ慣れしているのか、ルビィから見ても様になっていた。黒服も満更ではないようで、善子のきびきびした指示で動く彼らの一体感は、ルビィをただ護っている時よりも、よほどそれらしい。

(でも、それってボディガードじゃなくて、執事だよね)

 つまり、お姫様?

「よし、まずここまでかな!」

 善子の言葉で、ルビィは日が陰っているのに気付いた。掛け時計は五時四〇分を指している。

「どんな感じ? ヨハネちゃん」

 善子は絨毯に積まれた型紙本を指差す。

「とりあえず、一通り読んだわ」

「全部? もう読んじゃったの!?」

「まあね」

 だが言われてみれば、善子が型紙本に目を通していくスピードは速かった気がするし、質問も矢継早だった。積まれた本から「前ミゴロ」「ミカエシ-スカート」などと書かれた付箋が大量に飛び出しているのを見れば、読解精度の不安もないと思える。

 では、必要な型紙のベースは出揃ったと考えよう。

「なら、次は型紙制作なんだけど。できそう?」

「自動で設計してくれるアプリなんて、ないわよね?」

「無料じゃあ、ないかな」

「なら実際に紙を切って、感じを掴むしかないわね」

 それが一番大変なのだ、とルビィは心の中で思うが、それは善子の言う通り、実体験で掴むしかない。

「じゃ、ルビィはそろそろお暇するよ、門限も近いし」

 ルビィはスケッチブックを閉じ、ソファで一つ伸びをした。新しい小物はデザインとざっくりとした型紙設計まで終わったので、次回以降は自分の道具を持ってこようと思う。

「ルビィ、明日は?」

「んん?」

 善子の言葉に、ルビィはあくびが漏れかけていた口を閉じる。

「ヨハネちゃんがよければ、今日と同じ感じで来ようと思ってたけど、なんで?」

「ううん、なんでってわけじゃないんだけど」

「心配しないで、ルビィ、衣装が完成するまで全力サポートするから!」

「お嬢様」

 と、黒服の一人がルビィに声をかけた。

「明日は弓道の稽古がございます」

 言われて思い出した、明日は火曜日、≪紅谷流≫弓道の練習日だ。

「今からじゃ、変えられないよね?」

「はい、今週は、火曜と金曜に師範をお呼び立てしております」

「変える必要なんてないわよ」

 ルビィと黒服の会話に、善子が入ってきた。

「週二で練習があるんでしょ? だったら、どっかは一人でやんないといけないじゃない。同じことよ」

「でも――」

 と善子に申し訳ない顔を向けると、善子はルビィの腕をぽんぽんと叩いた。

「――代わりと言っちゃなんだけど、これ、全部置いてってくれない?」

 善子が指差したのは、黒服が今まさに紙袋に入れようとしていた型紙本たちだ。

「勉強するの?」

「熟睡したいの」

 そう言って笑う心配りが嬉しくて、ルビィは逆に涙が浮かんできてしまう。

「もちろんいいよ!」

 それを誤魔化すように大きく頷くと、堕天使もにっこり笑った。

「あ、じゃあ、できればリトルデーモンたちも――」

「――それはダメ!」

 

   *

 

「鍵は高海が持ってるか?」

「うん、センセはいつ来るか分からないでしょ?」

「水泳部もあるしな。曜、明日明後日はそっちだからな」

「分かってますって」

 信代が去り、渡辺曜は千歌と二人で部室に残された。

「あーあ、担任も水泳もスクールアイドルも、全部笠木センセなんだもんなあ」

「曜ちゃんが頼んだんじゃん」

「頼みやすいんだよ」

 信代は、本来は水泳部の顧問である。去年の今頃、水泳部立ち上げをもくろんでいた曜が、受け持っていた吹奏楽部が廃部になって暇をしていた信代に頼んで顧問になってもらったのだ。

 今回も同じ流れだったが、音楽系という点では水泳部より資質にあっていたようだ。それは移動式の黒板に雑に引かれた五線に並ぶ、やはり雑な音符が表わしていた。

 千歌はオタマジャクシの連なりを見ると、長机に投げ出した腕の上で、にんまりと笑う。

「いやあ、まさか私がねえ。こんな、それっぽいヤツを作れるなんてねえ」

 千歌が電話を操作すると、録音された歌が再生される。

 それは千歌が初めて産み出した、八小節、一〇秒間のフレーズ。

 嬉しくて、活発で、走り出したくなるエネルギーが、千歌の歌声から溢れてくる。

「これ、絶対ライブ一曲目だよね」

「当然! 絶対盛り上がるよ!」

 梨子が書いた曲と合わせて三曲しかないが、曜と千歌の中では同じセットリストが組み上がっていることだろう。

「あー、いいなあ。いいなあ」

 千歌は自分の声を繰り返し再生しては、恥ずかしいのか嬉しいのか身体をねじっていき、とうとう長机の上に仰向けになってしまった。

「なにやってんの、千歌ちゃん」

 曜が千歌のおでこを押すと、千歌は水浴びした犬のように身体を震わせ、起き上がった。

 信代が黒板に書いたフリーハンドの五線譜とオタマジャクシを、曜と千歌は電話で撮影した。

 いつ消されてもいいように、と考えてのことだったが――

「あ、あ、消しちゃうの?」

 ――千歌はなんの躊躇もなく、譜面を綺麗にしてしまった。今後の予定を書いたカレンダーだけが残された。

「せっかくセンセが書いてくれたのに」

「ここにあるもん」

 千歌は電話で胸を叩いた。

 いや、胸で電話を示した?

 そんな曜の疑問を余所に、千歌は中庭の方に目を向けた。

「もうこんな暗くなっちゃったんだ。帰ろっか」

 ゾンビ・フォーメアの一件を経て一面の芝が植えられた中庭は、もう夜闇と雲に覆われていた。

「じゃ、机、端に寄せておこう」

 曜も立ち上がる。

「いいじゃん、明日も来るんだし」

「私、来ないし、使ったら片付けなきゃ」

「また、お母さんみたいなこと言ってえ」

「じゃあついで、そろそろ髪切れば?」

「切らないのー!」

 曜はパイプ椅子を畳んで、壁際に寄りかからせた。

 そのあと、二人で長机の両側を持ってパイプ椅子のそばに寄せる。

 目が合って、なんとなく笑い合う。

 それが、曜にとっては奇跡だった。

 曜は、高飛込の道に進んだ。幼馴染みの中で、それを選んだ子は多くない。

 だから千歌と果南の道はもう、“幼馴染み”という以上に交わらないと思っていた。

 なのに今、彼女らはこうして、一つの目標に向かって頑張ろうとしている。

 ババ抜きの時に、むつが言った通りだ。

 私は、千歌ちゃんと一緒に、なにかしたかったんだ。

 そう思えば、新しい友達が指揮するスパルタな歌の練習も、耐えられるだろう。

 この活動が、一つの実も結ばなかったとしても、私はきっと、満足するだろう。

 千歌ちゃんと一緒なら。

 片付けはすぐに終わり、曜はスクールバッグを肩にかけた。

 中庭へのサッシ戸をガリガリ開け、涼しい海風を背に振り返る。

「帰り、なにか食べてく? 松月の五月の新商品って――」

「――なにか書いてある」

 だが千歌は、黒板を見ていた。

「どしたの?」

「なにか書いてあるよ」

「消し忘れ?」

 薄汚れた黒板の中央に、黒板消しで乱暴に拭いたらしき跡がある。

「ううん、これ、元々裏だった方」

 カレンダーの面を隠すように、キャビネットに向けて黒板を裏返していたのは、先ほど曜も見ていた。

 だから今、曜たちが見ているのは、今日、信代が引っ張り出してくるまでキャビネットに向いていた面ということだ。その証拠に、表面にはなかった楽譜用の五線が三段並んでいる。

 五線譜?

「笠木センセ、こっちの面のこと、知らなかったのかな」

 信代は千歌が作ったフレーズを譜面に起こす時、わざわざ五線を書いた。裏返せば、それ用の面があったのに。

 つられて思い出す。

 信代が職員会議について話した時、「ウチのスクールアイドルが一回失敗してるのは知ってる」と言った。それは曜もよく知っている。

 だが昼休みの生徒会室、ダイヤは千歌たちのスクールアイドルを「三度目の正直」と言ったはずだ。

 その齟齬はなんだろう。

「“Aqo”で始まる単語ってある?」

 曜の物思いは、千歌の呟きで中断された。

「アコなんとか? ……すぐには思い付かないけど、なんで?」

 千歌は答えず、黒板に途切れ途切れに残されたチョークの軌跡を、触れないよう、指でなぞった。

 

   *

 

 夜一〇時を回り、厨房は静まり返っていた。

 調理師たちは明日の下準備を終え、もう誰もいない。ここから旅館≪十千万≫は、明日の朝早くに目覚めるまで短い眠りに付く。

 畳敷きの廊下を、宿泊客の子供が走る音が聞こえた。昔はこの時間帯なら、年輩の客や社員旅行らしき集団が騒がしくやっていたものだが、その層は客足は遠退いて久しい。だから今日のように、長期休暇明け、連休明けの平日となれば、入りがさびしいのも当然だ。

 それでも、母はそこにいる。

 普段着の臙脂色の和服に割烹着を羽織り、厨房の丸椅子に腰を下ろした枝海は、心なしか小さく見えた。父が作ったまかないの丼に箸を伸ばしているが、ステンレスの作業台に置かれた、館内の映像が映し出されたタブレット端末に指を走らせる様を見れば、味わっているとは思えない。

 だから廊下に立つ高海千歌は、たった五メートルの距離を踏み込めずにいた。

 この旅館を背負う女将に、これからするお願いのことを思えば。

「なあに?」

 結局、その距離を詰めたのは、箸を置いた枝海だった。

「もう、気付いてるなら言ってよ!」

 千歌は乱暴に足を踏み鳴らしながら、厨房に入った。

「声を落としなさい」

 枝海はお手拭で口を拭いて、千歌の方に丸椅子を座り直す。

 年齢より若く見える母は、隈の浮いた険しい顔をしていた。

「用がある側が声をかけるのが、礼儀ですよ」

「いやあ、ごはん食べてたしさ」

 軽く言いながら、千歌は言葉を探す。

「今日は何組?」

「三組五名様よ。一名様は明後日まで、二組様は明日までのご宿泊です」

 やはりさびしい客入りだ。

 子供の足音が、むしろ寂寥さを強調する。

「あのね、お願いがあるんだけど」

「小遣いの前借りはダメです」

「まだ言ってないじゃん!」

「言うつもりだったでしょう」

 図星だ。

 顔に出ていたか、枝海は鼻息を漏らした。

 過疎化する街で旅館経営を続けること自体がそもそも困難なのに、登録有形文化財の建物を個人で維持する負担はただごとではない。そんなことは千歌だって分かっている。ただの子供の小遣いの前借りだからといって、それが家計を圧迫することに変わりはないのだ。

 でも、言わなければ。

 赤点回避だ進級記念だ、などと調子に乗って、みかん食べ放題で散財したことを、この前指摘されたばかりだけど。

「あ、いたいた、千歌」

 そこに姉の美渡が厨房に入ってきた。耳を出した短い髪をバスタオルで包み、身体から湯気を立てている。

「今、温泉空いてるよ。チャンスチャンス」

「美渡! またお客様の湯に入ったの!?」

「いいじゃん、誰もいなかったんだもん。看板娘の出汁が入ってれば、男湯に切り替わったら――」

「――お姉ちゃんも、聞いて!」

 千歌に遮られ、美渡はムッとした顔をしたが、すぐに頬を上げた。

「なに、また前借り?」

「違うって! 私、私ね!」

 千歌は息を吸い、吐き、もう一度吸った。

「スクールアイドル、始めるから!」

 子供の足音がやむ。

 一拍の静寂、そして、

「あは、あははは!」

 美渡が笑い出した。

「また言ってんの? まだ言ってんの? 高二でしょ? もう、ちょっと勘弁してよ!」

「今度は本気だもん!」

「ムダだよムダ! なるようにしかなんないんだから、廃校なんて!」

 千歌は美渡に歯を剥き出したが、美渡はタオルで頭を拭きながら、手を振って廊下を去っていった。

「みんなでやるんだよ! 曜ちゃんと、梨子ちゃんと、果南ちゃんと、ヨハネちゃんで! みんなを笑顔にして、この街を護るんだよ!」

 千歌は枝海に顔を戻す。

「だけど、学校はまだ部って認めてくれなくて、だから、衣装を作る部費も足りなくて、だから――」

「――千歌」

 かちり、と音がした。厨房の扉に、美渡のくすんだシルバーリングが当たった音だ。

 千歌は振り返りたくなかった。高海家の次女はどうせ、『千歌がやったって、失敗するに決まってる』と茶化すに決まっている。

「私はとめたよ」

 もう一度、足音が遠ざかる。

 目を伏せる。

 心配されてしまった。

 当たり前だ。

 高海家の三女に、今さらなにができる?

 時機を逸した、生徒会長もそう言ってたじゃないか。

 みんな諦めたんだ。

 そんなの分かってるんだ。

 でも。

 目を上げる。

 枝海の視線を受け止める。

「お願い、お母さん! 三途の川の六文銭だと思って、前借りさせて!」

 頭を下げる。

 私はまだ、諦めてない。

 ヨハネちゃんが生徒会長に啖呵を切った時、嬉しかった。

 幼馴染みでもライダーでもない後輩も、同じ気持ちだと知ったから。

 だから、ここで立ち止まるわけにはいかない。

 なにも始めないで諦めるなんて、死んでもごめんだ。

 枝海の細い息がした。

「いくら必要なの?」

 上目遣いで母を見ると、真っ白な割烹着の上に重ねた両手が目に入った。

「正確にはまだ分からないけど、でも、二箇月分は欲しいです!」

 その人差し指が、ゆっくり手の甲を叩いている。

「収支は記録なさい。報告が正当なものであれば、高海家は部費として計上します」

「え? じゃあ……」

 小遣いの前借りではない?

 頭を上げる。

「我が子に冥銭を持たせるつもりはありません」

 枝海は千歌を見据える。

「大丈夫ね? 千歌」

 大丈夫。

 その言葉が口にされたなら、約束を違えることは許されない。

 だからこそ。

「大丈夫!」

 千歌は断言した。

 絶対に実現する。

 たとえウソでも、本当にしてやるんだ。

「なら、飾先生のところにも行ってらっしゃい。最近、道場に顔見せてないんでしょう?」

「ああー! せっかく忘れたのに! またしばかれるよう!」

 身をよじる娘を前に、母はようやく口元を綻ばせた。

 

   *

 

 内浦湾と江浦湾の海岸線に沿って北上し、沼津御用邸記念公園を通り過ぎて沼津市内に入り、狩野川を渡るとリムジンは西を目指す。音も振動も車内に伝えない客席は、まるでリアルな映像を車窓に表示するアーケードゲームの筐体のように、現実感がない。

 桜内梨子は夜の闇に流れるライトを眺めながら、この近くに、沼津滞在中に通うはずだった高校がある、と思い出した。ブランキアとなってこの街で初めて戦った日、最初の“検査”の帰り道に、父が教えてくれたのだ。その時、父は『偉い人の指示で学校が遠くなって悪かった』と謝ったが、そんなことが起こらなければ、千歌たちと出会っていなかったわけで、今の梨子に不満などない。

 その“偉い人”に直接テキストでお願いして、手配してもらったリムジンは、自宅からゆったり四〇分ほどかけて目的地の正門をくぐった。

 大諏訪にある≪静岡小原総合工業株式会社≫――通称≪静岡OGI≫へと。

 オフィスと住宅が入り混じる街に立つ、三階建ての白い建物は、沼津に数多く存在するOGIグループ関連企業の中でも小規模だ。午後一〇時を回った今も、ほとんどの窓から明かりが漏れているが、不夜城といった悪目立ちはしていない。

 リムジンは社屋を通りすぎ、地下駐車場に降りて停車した。

 警備員にドアを開けてもらい外に出ると、視線の先のエレベーターの前に別の警備員が見える。まるで美術館の順路のように、梨子を目的地まで案内するつもりようだ。

 ふんわりとしたチュニックの裾を整え、駐車場を歩く。時間が遅いからか、空調は弱いし、アンビエントBGMも流れていない。コンクリートの寒々しい灰色だけが際立つ地下空間は、まるで、ブランキアとして“検査”を受けるあの部屋のようだ。

 エレベーターに乗ると、警備員の操作で三階に上がる。その警備員の先導で短い廊下を歩き、何種類かのセキュリティを越えた先に、一部屋八畳ほどのオフィスがガラスで区切られたフロアが現れた。

 目的地はすぐに分かった。警備員が立っているオフィスに近付くと、後頭部まで禿げ上がった白衣の人物が、ガラスの向こうで狼狽と笑顔の中間の顔を示した。

「お父さん」

 父の桑介は『梨子』と口を動かした。だが音が届かない。すぐに空気が抜けるような音がしてドアが開いた。

「入りなさい、梨子」

「お父さん、大事な話があるの」

「待て待て」

 と、桑介がデスクのコンソールを操作すると、透明だったガラスが磨りガラスのように不透明になる。去っていく警備員の不鮮明なシルエットを見て、アメリカの映画のようだ、と思う。

「どうしたんだ、≪スフィア≫の経過観察は土曜日だぞ? ≪セディーユ≫のデータは十分だし、≪ハーチェク≫だって――」

「――そんな話じゃないの」

「イヤになったのか? 最初に説明しただろう? 最低でも、スフィアのデータが採り終わる一箇月は――」

「――そうじゃないって!」

 大声を出した梨子に、桑介は不思議そうな顔をした。

「でも、大事な話だって」

 苛立つ。娘の言う「大事な話」が自分の仕事に関係していると疑わないのか。

 いや、落ち着かなきゃダメだ。

 父の職場に、しかも仕事中に押しかけたのは自分なんだから。

 今さらながら流れてきたアンビエントBGMに身を委ね、息を吸う。

「私、体験入学生だったの? お父さん、“転校”って言ってたよね?」

 桑介は、「ああ」と口を開けた。

「浦女のことか。体験入学生だけど、転校でも体験入学でも学校生活は変わりなく送れるはずだよ。理事会にはそう説明されたけど。……梨子? どうした?」

 梨子はゆるゆると首を振った。

 生徒会長の言ったことは正しかった。

「どうして?」

 短い問いの言葉に、

「久しぶりだな」

 と父は苦笑する。

「梨子が言ったんじゃないか。海のそばはイヤだって、この街にはいたくないって。だから、小回りを効かせたんだよ。検査は最短で一箇月って言われていたから、すぐに戻れるようにね。梨子だってそのつもりだったんだろう? だから荷解きだってほとんど――」

「――分かった、分かったから、ごめん」

 梨子は父の言葉を遮り、頷くように頭を下げた。

「学校でなにかあったのか? 無理に行く必要はないんだよ。話があるなら、お父さんが行ってもいいけど」

「違うの、お父さん。あのね」

 顔を上げる。

 状況ははっきりした。

 きちんと転校手続きをすれば、梨子は部員として参加できるということだ。梨子が頭数として数えられるならば、理事長代理の名前を借りている必要はなくなり、果南は部活に戻ってくる。

 それで、すべてが正しい方向に回り始めるはずだ。

 梨子が転校しさえすれば。

 なのに。

「……あのね」

 言葉が出てこない。

 なにを考えていた?

 父の言う通りじゃないか。

 水が苦手で、潮の匂いが苦手で、海なんて見たくない。

 音ノ木坂には帰れないし、でも内浦にも居場所はない。

 それが私だったはずだ。

 なのに、この街でスクールアイドル活動に参加するなんて。

 そのために、わざわざ転校扱いにしてほしいと思うなんて。

「どうして?」

 せっかく理事長代理にリムジンを出してもらって。

 こんな時間に、わざわざ沼津市内までやってきて。

 私はなにをしてるんだ。

「梨子、もう少しなんだ、もう少し、お父さんに付き合ってくれ」

 言葉を区切った父の手が、梨子の肩に触れる。

「あと二週間もすれば、この街を出て行ける。お母さんにも会えるんだ。な?」

 頷く。

 父は笑顔になった。

「じゃあ、今日はもう帰りなさい。うかうかしていると――」

「――鬼か蛇が出ますね」

 セキュリティがかかっているはずのドアが開き、男性が入ってきた。

「こんにちは、依田さん」

 梨子が挨拶すると、義森は頬を持ち上げた。

真蛇(しんじゃ)の面。ご存知ですか? 梨子さん。耳のない般若(はんにゃ)、と言えばイメージできるでしょうか。『聞く耳を持たない』ほどの嫉妬に駆られ、もはや蛇となってしまった、罪深き鬼女の面です」

 三〇代らしい男性だった。清潔だが使い込まれた白衣の胸に「依田義森」と書かれた社員証がとまっている。『お父さんより若いのに、≪静岡OGI≫のμ-フォーム関連事業の主任なんだ』と桑介から何度か聞かされていた名前だ。だが梨子は今回で五度目なのに、その顔と声が覚えられない。

「旧約聖書やコーランにおいて、アダムとイヴに知恵の実を食べるようそそのかし、天界を追わせたのも、一匹の蛇ですね。その蛇は≪サマエル≫と同一視されることがあり、サマエルはさらに、のちに堕天する≪ルシファー≫とも同一視されます。面白いでしょう。日本の鬼と、西洋の堕天使は、蛇という点で繋がるのですよ」

 義森は梨子の前まで回ってくると、チュニックに隠された胸のふくらみの間を見る。

「ですが、蛇に至る鬼化が『聞く耳をもたない』が理由とあれば、両者は同一ではいられないかもしれませんね。完全に鬼と化した女は、もしかしたら、目も鼻も口もない、角だけが生えたノッペラボウになってしまうかもしれません。それはそれで、かわいらしい気もしますが」

 そう言って笑う義森の顔が、梨子には蛇に見える。

 いや、鬼か。

 分からない。

 同じなのか?

「梨子、胸を出しなさい」

 父が言った。

「よろしいのですか? 桑介さん。本日は経過観察日ではありませんが」

「被験体と主任がいるのですから、目視だけでも意味はあるでしょう」

 桑介の言葉に、義森は唇の端を上げ、梨子を見た。

 チュニックの裾をまくりあげる。

 空気の流れが、身体を通り抜ける。

「蛇に『裏切り者』のイメージがあるのは、脱皮をするからだ、と言う説がありますね。常に着脱可能な仮面を被り、自分の心は決して見せない」

 露になった上半身に、視線が絡み付く。

 だが義森は、梨子の肉体を見ていない。

「梨子さんが、もし、誰が鬼で、誰が蛇かを知ったなら――」

 彼は振り返り、父を見た。

「――断罪されるのは、誰になるのでしょうね」

 後頭部まで禿げ上がった貫禄のない父は、最後まで表情を変えなかった。

 

   *

 

「ただいまー」

 居間のふすまから光が漏れているのを見て、津島幸子は小さく声を投げた。

 日付は変わり、深夜の〇時一一分だ。普段のこの時間なら善子は、寝ているか、自室でネット配信をしているのが常だが、

「お帰りー」

 返答は珍しく、居間からだった。

「入っていい?」

「いいよ」

 ふすまを開けて様子を覗くと、居間一面に広げられた雑誌が目に入った。

「どうしたの、こんなに」

 四〇冊はあるそれらは、能面や筆置きや色々なものを重しに開かれている。近付いて見ると、すべて服飾の本だと分かった。

「借りたの。踏まないでよ」

 娘はビデオカメラを手にして、それらを前に立っていた。

「なに、服でも作るの?」

「まあ、うん」

「ゴシックとかロリータとか?」

「うん、まあ……うん、そうかな」

「欲しい服があるなら言いなさいよ。最近はもう、買っちゃった方が安いんだから」

「分かってるって」

「ボタンなんて、もう、一つ一〇〇円くらいするんだから」

「分かってるってば」

 と、善子の側頭部にシニヨンを見つけ、髪が濡れていないことに気付いた。

「お風呂入ってないの? この前も徹夜してたでしょ。早く入りなさい」

「いいよ、先入って。沸かしてあるから」

 応対がぞんざいになってきた娘に、話したがっていない空気を察する。

「……じゃ、お母さん、先入るからね」

 廊下に出て、ふすまに手をかけ――

「ダイヤさんに会ったよ」

 ――幸子は息をとめる。

 うわんうわん、とねじれるような音が、遠くから近付いてくる。

 活動を再開した暴走族のバイクが、エンジンを吹かして大通りを走り抜けた。

 幸子は振り返る。

「生徒会長さん、なんだっけ?」

「うん」

 真蛇の能面が、正面から幸子を見ている。

 靴下の足から、冷気が這い上がってくる。

「どうだった?」

「ん……。普通の人だったよ。案外」

「そっか」

「うん」

 ふすまを閉め、廊下を薄暗く染める橙色の光の下に立つ。

「会っちゃったか」

 呟くその声は、灯りと同じくらいに沈んでいる。

 だがそれは、幸子が望んだことなのだ。

 

   次回予告

 

鞠莉 「これで衣装の(くだり)は一段落ね」

ダイヤ「黒総警の人員をヨハネさんが使役するのは、法令順守として問題がありますけれど」

鞠莉 「相変わらず、ダイヤは気にしィなんだからァ。大目に見てあげましょ」

千歌 「いやいやいや、梨子ちゃんと曜ちゃんと果南ちゃんの件は? なんにも解決してないんだけど」

ダイヤ「梨子さんが言っていたではありませんか、『今考えても仕方ない』と」

鞠莉 「気長に待ってあげましょォ! 二年くらい!」

千歌 「二年……? じゃあ取り敢えず、次回、仮面ライダーメルシャウム第六話、『大切なこの場所で』」

ダイヤ「情感たっぷりな表題ですが……」

鞠莉 「安心させる気なんてないわよォ!」

 

   C

 

 雲の切れ間から覗く、欠けた月。

 黒く波打つ水面で、笑顔のように揺れている。

 松浦果南は、ジュール丸の縁に足をかける。

 ダイコン(ダイブコンピューター)を手首から外す。

 ゴーグルをスノーケルごと外し、ドライスーツを脱ぐ。

 一糸まとわぬ裸体を、冷たい夜風に晒す。

 手にしたのは、直径三センチほどの球体。

 月光にきらめく正八面体の結晶を内包する、光る泡。

 手を伸ばし、揺らめく月に、その輝きを重ねる。

 海。

 すべての生命の母、容赦なく選別を強いる揺り籠。

 地表を優しく撫で、時に根こそぎ破壊し尽くす指。

 彼女は言った。

 『もし神様がいるんなら、一番近いのは海よねェ』

 彼女は言った。

 『水は形を持たない故に、型を問わないのですわ』

 どちらも間違いだ。

 何度水面を覗き込んでも、自分の顔が反射するだけ。

 何度海に身体を浸しても、自分の形にしかならない。

「今までは、かな」

 手放した球体が、海面に落ちる。

 それを追って、ヘッドファーストエントリー。

 暗く冷たい大気が、暗く冷たい海中にとって代わる。

 スクーバの器材を持たない、文字通り、スキンダイビング。

 素足でキックする泳力だけが、浮力に対抗する推進力だ。

 夜と海の相性はいい。

 何十万キロの真空と、十数メートルの水の隔たり。

 それが、等価となる間隙。

 球体は先導するように、明滅しながら沈んでいく。

 火照る肌から冷たい水に、熱量が急速に奪われる。

 水に圧迫される肺は、復路の酸素を残していない。

 バジャウ族という漂海民族がいる。

 一生を海の上で過ごし、海底を歩いて獲物を捕る人々。

 ドライもウェットも着ず、ゴーグルも付けずに。

 海で生活すべく進化した、憧れの存在。

 その彼らでさえ、最後の境界で海に拒絶される。

 ヒトである限り。

 そして。

 球体の降下速度が落ち、水中で停止した。

 水深を合せ、キックで身体を起こす。

 ぼう、と海水が揺らぐ。

(や)

 冷たくなった片手を開いて見せる。

 淡く輝く球体に。

 その向こうからやってきた存在に。

 見下ろすように突き出した吻。

 鎧のような鱗で覆われた腹。

 垂直に起き上がった身体。

 慎ましく点在するヒレ。

 渦を巻いて揺れる尾。

(非日常、か)

 曜の言葉を思い出す。

 街をおびやかす、怪人、廃校。

 対抗する、仮面ライダー、スクールアイドル。

 集まり続ける、非日常の記号。

 果南には、その感覚がない。

 日常とは海であり、非日常とはそれ以外。

 海をおびやかすものが、対抗すべきもの。

 だから、手に入れるんだ。

 球体が明滅する。

 その振動が、海水を伝わる。

 持続する高音が。

(じゃ、遊ぼうか)

 果南の応えに、球体は穏やかに染まる。

 ジュール丸の船底と同じ、花緑青色に。

 直後、果南は解き放たれた。

 冷え切った皮膚も、酸素に喘ぐ肺も、泡と消え。

 境界を越えた世界に、果南の存在は反転する。

「どこまで潜れるのかな。私は」

 海は真の意味で、果南の日常となった。

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