仮面ライダーメルシャウム   作:fuki

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第六話:大切なこの場所で - 2

   *

 

「ただいまー」

 ヘルメットを被ったままのよしみが店内に入ってきて、カチューシャの代わりに三角巾を結んだ井藤むつは、電話の画面から顔を上げた。

「お疲れ、よしみ。配達、もう一軒入ってるよ」

「聞いてる聞いてる」

 むつがカウンターの向こうから出した袋を受け取ると、よしみはエンジン音を鳴らしたままのスクーターを店内から一瞥する。

「交代する? 気晴らしに」

「いいよ、私、インドア派だから」

「バカなことを」

 笑って出て行くよしみに手を振り、背の高いカウンターチェアに腰を下ろしたむつは、また電話の画面に目を落とした。

 よしみの父親が店長を務める菓子屋≪松月≫は、絶賛開店休業中だった。

 内浦のメインストリートたる県道一七号線に面した立地だが、クルマ通りがなく、近所の利用者が高齢化で配達に頼るようになった現在、店舗を訪れる人は少ない。せいぜいが、店内の飲食スペースを喫茶店代わりに使う学生くらいのものだ。

 中学校時代にはその立場だったむつが、バイトという名の暇つぶしで店に入ったのが一年前。すぐにバイト自体が暇以外のなにものでもないと気付いたものの、友達のよしみでズルズルと続けていると、去年の秋口、個人経営だった店はOGIグループに買収されてしまった。オーナーとなったOGIが採算度外視で事業継続を決めていなければ、このバイトさえ消滅していただろう。

 そんな経緯を経験していたから、近付いてきたエンジンは配達用のスクーターだと疑わなかったし、自動ドアが開いた時、

「どうした? 忘れ物?」

 と禿頭の中年男性に話しかけてしまったのも、一概には責められまい。

「す、すみません、いらっしゃいませ!」

 むつが背筋を伸ばすと、

「ああ、いえいえ、お気になさらず」

 男性は気のよさそうな笑顔で恐縮した。

「なにしてんのよ、むつ」

 飲食スペースから先輩たちの野次が飛んできて、むつはそちらにしかめ面を向ける。

 そうしている間にも、男性は禿げ上がった頭頂部をこちらに見せて、カウンター兼ショウケースを眺めている。初めて見る人だが、見覚えがある気がする。

「ご旅行ですか?」

 声をかけると、男性は貫禄の感じられない顔を持ち上げ、曖昧に頷いた。

「ええ、そんなところです。娘と少し滞在することになりまして」

「あ……ああ、梨子ちゃんのお父さん!」

 男性が眉を大きく上げたので、それが正解だと分かった。

「私、クラスメイトなんです。そっか、梨子ちゃんの!」

「はい、娘がお世話になっています」

 薄い頭を下げられ、今度はむつが恐縮する。

 桑介と名乗った梨子の父は、和菓子をいくつか注文した。むつはそれを手早く箱に詰め、ビニール袋で手渡す。

「小学校の近くに越してきたんですよね? 学校で噂になってますよ」

「噂? なんのです?」

「誰も住んでないはずの家に、ボウッと光が浮いてるとか、夜な夜なピアノの音が聞こえるとか」

「ああ……梨子ですね」

 梨子の父は苦笑した。

「ですよね! 新年度からだから、絶対そうだって言ってるのに、みんなお化けだって。ね、センパイ!」

 飲食スペースに声を投げると、

「桜内が住所を教えないのが悪い!」

 と先輩は笑って返した。

「すみません、仕事で挨拶回りもできずに」

「いえいえ――あ、すみません、引き留めちゃって」

 梨子の父は和菓子を入れたビニール袋を手に笑っているものだから、ついつい雑談してしまった。

「じゃあ、僕はこれで」

「はい、またいらして……って、少し滞在? なんです?」

 帰ろうとしていた桑介は、むつに向き直る。

「ええ、今月末には、東京に戻る予定ですよ」

「そっか、だから梨子ちゃん、部活はお手伝いだったんですね」

「部活? 梨子が?」

「ええ、作曲のお手伝いを……って、知りませんでした?」

 言ってはまずかったか、とむつが思った時には、

「そうか、それは困ったな……」

 桑介は小さな声で独りごちながら、店から出て行ってしまった。

 自動ドアが閉まるのを待って、飲食スペースから先輩が一人やってきた。

「どしたの? スクドルのこと、内緒だったの?」

「口軽いなあ、私……」

 

   *

 

 内浦湾に浮かぶ、お椀をひっくり返したように盛り上がった緑色の塊――淡島。

 遠目には植物に覆われた二〇〇メートルほどの小さな島だが、島の外周部には様々な施設が点在している。

 北東には、黒澤グループが経営する淡島の顔、≪あわしまマリンパーク≫。

 北には、OGIグループが経営する高級リゾートホテル、≪ホテルオハラ≫。

 東には、日本一のカエル展示数を誇る≪カエル館≫と、松浦果南の祖父が経営するダイビングショップ≪ファビュラス・ダイバー・ボーイズ≫。

 波に浸食された天然の彫刻や、点在する銅像、山をくりぬいて作られたブルーケイブ。

 高海千歌は、それらを繋いで外周を巡る遊歩道を歩いている。

 午前の陽光が容赦なく地面を焼き、外気温が上がってくるのが肌で分かる。遊歩道の外れの鳥居をくぐり、島内部に入る石段の参道を登り始めると、じっとりと汗が出てきた。直射日光を防ぐ木々のトンネルも、羽織った長袖のシャツをはためかせる海風も、あまり効果がない。

「あっついなあ……」

 紙袋を持った手で額を拭い、身体を見下ろす。胴を四つ裂きにするように大きく“チ”と書かれたTシャツの胸元に、一筋の汗が染みを作っていた。スクールアイドルの練習着にしようと選んだ服なのに、なにをしているんだろう。

 底の減った靴で山道を登り、ふと山肌を見下ろすと、つづら折りになった石段の途中に老婆の姿が見えた。本土から島の中腹までロープウェイで渡ってきたのだろう、小さなキャリーケースを持っている。

 千歌は石段を取って返した。

「松和のお婆ちゃん! ご無沙汰してます!」

「あら、千歌ちゃん」

 矍鑠(かくしゃく)とした老婆は、≪淡島居住区≫に住んでいる松和家の祖母だった。

「持ちますよ」

「悪いわね」

 キャリーケースを引き受けると、千歌は老婆に並んで石段を上がる。

「ずいぶん髪が伸びたじゃない。お姉ちゃんに切ってもらってないの?」

「最近は美容院ですよ。前髪は曜ちゃんですけど」

「曜ちゃん。懐かしいわね」

 松和家は、高海家、渡辺家、松浦家とも家族ぐるみで交流があった家だ。特に千歌世代は幼馴染みグループでもあり、互いの家を頻繁に出入りしていたのだが、松和家の息子夫婦が孫ともども市内に引っ越した一年前から、疎遠になっていた。

「最近どう? 浦星に行ったのよね?」

「部活を始めて、頑張ってるところです! いずれお婆ちゃんも招待しますよ!」

「へえ。かわいい恋人はできた?」

「こ!?」

「私も浦星で、お祖父さんと出会ったのよ」

「お婆ちゃん! 浦女はもう女子高なんだよ!?」

「そうなんだっけ? まあ、女の子もいいじゃない」

 どこまで本気なのか、老婆はケラケラと笑う。

 世間話をしながらロックテラスに辿り着いた。ここからは頂上へ向かう道と、北西に回り込んで居住区へ続く道に別れる。千歌は老婆について、居住区へ向かう。

「ここにも、もう、あと一年しかいられないのよね」

「決まったんですか? 淡島の無人島化」

「らしいわ、西岡さんの息子さんが言ってたって」

 老婆は目を細め、口の端を上げた。

「住むところは小原さんが準備してくれるらしいけど……。この歳で馴染めるかしら、本土にねえ」

 一定より上の世代は、OGIグループのことを“小原さん”と呼ぶ。だが千歌はもう、鞠莉個人の顔が思い浮かんでしまう。あの鞠莉なら、どんな家を提供するだろう。

 やがてコンクリート造の背の低い建物が、切り開かれた森の中に見えてきた。

「ありがとね、千歌ちゃん」

「いえ、お安いご用ですから」

 キャリーケースを返すと、老婆は眉を下げて笑った。

「光ちゃんがいれば、上がってってもらうのにねえ」

 その名前に、千歌の笑顔のまま呼吸をとめる。

 何十年も前に作られた建物群で、一時期は多くの漁民で賑わっていたそうだ。今は両手で間に合うほどの人数しか住んでいない。森に飲み込まれるのを待つ、閑散とした廃墟にも見える。

 いや、それを言うなら、この島全体がそうか。

 外周部の施設はどこも、閑古鳥が鳴いて久しい。高級リゾートのホテルオハラでさえOGI関係の重役が泊まりに来る程度で、本土の住民が島に渡ること自体が多くない。

 それでも、いずれの施設も放棄されないのは、沼津に腰を据える黒澤家と小原家が重なり合う島だから。

 不必要に延命される、死にゆく内浦の具現だ。

 引っ越した松和家一家。亡くなった祖父。残された祖母。

 そして浦の星の廃校に、淡島居住区の廃止。

 全体が、細部が、足並みを揃えて死んでいく。

 フラクタルに浸食される海岸線のように。

 そこに触れることは、千歌にはできない。

 だから、

「それじゃ、お婆ちゃん。私、上に用があるから」

 そう言って手を振った。

「うん、それじゃあね」

 老婆は、「またね」とは言わなかった。

 

   *

 

 風を切るローターから逃れるように屋上のヘリポートを降りている時、ロールスロイスのリムジンが外来用セキュリティゲートをくぐるのが見えた。

「Hi! ダイヤ!」

 小原鞠莉は口笛を吹くように笑いながら、電話を叫んだ。

「名乗っていただけるかしら。わたくしの電話には画面がありませんの」

「細かいこと言わないのォ! アナタの番号を知ってる人間が、この世に何人いるのよ!」

 菱形メッシュのフェンスまで駆け寄った鞠莉は、眼下の立体駐車場の屋上に、制服姿のダイヤを見つけた。直線距離にして一〇〇メートルは離れているダイヤは、米神に付けたピンを護るように、風を受けて膨らみ長い黒髪を抑えている。

 その後ろから、巌のような体躯の黒服の男性が現れた。彼は周囲を確認すると、ダイヤに頷きかけ、エレベーターに向かって歩き出した主人の少し後ろにつく。

「ロータスも来てるのね?」

「花頭蓮生です。呼びたいように呼ばないでいただきたいですわ」

 言いながら、ダイヤは周囲を見回し、エレベーターの機械室に設置された監視カメラに指を差した。

 だがそこではない、鞠莉は小さく笑い、

「上よ、上! Look Heavenward(上を見て)!」

 とフェンスの外に叫ぶ。

 音速の間が空き、ダイヤが頭上を見上げた。

 屋上のフェンス際に立つ鞠莉が片腕を広げると、見上げたダイヤと目が合った――気がした。

「……なんですの、この建物は」

「もちろん、この小原鞠莉がPresidentを務める、≪OGI M-Research Institute Hospital≫――≪OGI研究所病院≫でェス!」

 鞠莉はクルリと回ってみせると、ダイヤの溜め息が聞こえる。

「わたくしの記憶では、こちらは沼津市立静浦中学校のはずですが」

「拝借したの!」

 OGI研究所病院の建物は、四年前の統廃合で廃棄された静浦中学校の四階建ての校舎をそっくり流用したものだ。だが内部には、≪静岡OGI≫でμ-フォームを研究した過程で開発された最新の機材が搬入されており、最新の耐震工事がなされた外壁も相まって、数十年の歴史を感じさせない最新施設に仕上がった、と鞠莉は自負している。

「ほんとは丸々建て替えたかったんだけどね。『Time Flies』って言うでしょォ?」

「『光陰矢の如し』と言いますわ。では時間が勿体無いので聞きますが、本日の用件は?」

「あら、これじゃ不足?」

「施工したのはわたくしたちですから」

 建築計画の八割方を黒澤家に委託したのは、鞠莉も聞いている。

「では、あとはプレスリリースで確認致しますわ」

「Hey, Hey! もう、上がってきてよォ!」

 ダイヤは鼻息を漏らして、駐車場屋上のエレベーターに乗り込むと、鞠莉は「セブ!」と指を鳴らし、専属のボディガードを呼ぶ。

 サングラスに杖を持った黒服が近付いてきて、タブレット端末を手渡した。そこには駐車場の地下に降り、社屋へ通じる通路を歩いているダイヤが映っていた。

「大変だったでしょ? わざわざLimo(リムジン)でここまで」

 通話のインスタンスを鞠莉の電話から端末に飛ばし、通話は続く。

「≪黒澤車両運行≫の運転手の腕、甘く見ないでいただきたいですわ」

 外来用ゲートに繋がる獅子浜からここまでは、舗装されているとはいえ、細く曲がりくねった山道だ。車体の長いリムジンでは、一つ一つのカーブで神経を消耗したはずだ。そういう場所を選んだのだから、当然なのだが。

 社屋の外来用出入口に向かうダイヤたちは、その通路で様々なセンサーによるチェックを受けている。通信機能やカメラ機能を持つ携帯端末、可搬記憶媒体などの存在を検出し、のちの社屋側のセキュリティゲートでの自己申告と突き合わせるのだ。

「あらあら」

 端末がアラートを上げた。ダイヤのボディガードの蓮生が装着した筋力増強用のサイバネティクスを、危険物として検知したのだ。

 だが鞠莉が驚いたのは、ダイヤに対してだった。防弾防刃着を着ておらず、緊急発信用の端末も持っていない。完全な丸腰だ。

「惚れ惚れするわねェ、ダイヤ」

「なにがですの」

「なんでもォ! さ、屋上まで来て!」

「ではのちほど」

 ダイヤは警備員の詰めるゲートの目前で電話を切った。

 二人が各々の持ち物をセキュリティボックスに仕舞う様が、タブレット端末に表示される。サイバネティクスを外そうと上着を脱ぎかけたボディガードを、鞠莉は警備員にとめさせた。

「宜しいのですか」

 黒服の言葉に、鞠莉は鼻で応える。

「黒澤宗家の御令嬢が、単身敵地に来るのよォ? アナタとタメを張れるくらいじゃなきゃ、困っちゃうわァ!」

 鞠莉たちが話す間にも、ダイヤたちはOGI研究所病院の地階に入り、冷たいコンクリートに貼られた案内を見ながら廊下を進み、エレベーターに乗った。

 それを見届け、鞠莉は端末を黒服に渡す。

「で、ロータスに勝てる? セブ」

「星のみぞ知る、と言わせてください」

「たまには断言したらどォ? 勝てるんでしょ?」

「ご想像にお任せします」

 のれんに腕押しだ。鞠莉は笑いながら口を尖らせる。

 鞠莉が“セブ”と呼ぶ初老の黒服は、二〇年以上もジョルジョ・ルカーニアと小原鞠莉の父娘二代の専属ボディガードを務めてきたベテランだ。だが彼の態度はむしろ、やんちゃなお姫様をたしなめる執事を思わせ、その近くも遠くもない距離感が、鞠莉には心地よい。

 と、背後でエレベーターのドアが開いた。

「ま、いいわァ。ケンカしないでね」

 鞠莉は黒服に笑いかけると、現れた少女に目を向けた。

「もう、待ちくたびれたわァ!」

「お待たせ致しましたわ」

 長い黒髪を風に靡かせたダイヤが、日に照らされた屋上に出てきた。その目は切り揃えた前髪と同じくらいに鋭く、規則的にまばたきをするたびに上下する睫が、むしろ人間味を削いでいる。

 鞠莉は目を細めて笑い、

「セブ、コーヒーをお願いできる?」

 と自分のボディガードに言った。

「もちろんです。ご希望はありますか?」

「こォんな晴れた日には、エスプレッソ・マキアートの気分ね! ミルクは多めでお願い! ダイヤさんは?」

「わたくしはアメリカーノをお願い致しますわ。……そうね、蓮生、手を貸して差し上げなさい」

 ダイヤもそれに乗れば、彼女の専属ボディガードは、視線を泳がせざるを得ないようだ。

「では、参りましょうか。蓮生様」

「え、ええ。お嬢様、ご用の際には一報を」

「一報を入れる手段はありませんのよ」

 二人はエレベーターの隣の階段室に消えた。

 ダイヤは鞠莉のそばまで近付いてくる。

 そして、

「……ぷぷっ」

 膨らませた頬から空気を漏らし、上目遣いで鞠莉を見た。

「『わたくしの電話には画面がありませんの』」

 すまし顔の鞠莉が言うと、ダイヤは手のひらで膝を叩いて笑い出した。

「さっさと画面付きの、買いなさいよねェ!」

「だって、あなたに直接電話してたら、大問題ですわ!」

 そこでダイヤは顔を引き締める。

「『こんな晴れた日には、エスプレッソ・マキアートの気分ね』」

 今度は鞠莉が喉の奥で笑い始める。

「晴れた日と! マキアートは! 関係ありませんわあ!」

「好きなんだもォん!」

 一頻り笑い合い、鞠莉とダイヤは目を合せ、また含み笑いをし合う。

「久しぶりね、二人っきりで会うの」

「去年の末に会ったではありませんか」

「それが久しぶり、って言うのよォ!」

 ダイヤは片眉を上げて笑い、そして――フェンスの外を見る。

 鞠莉もそちらに目を向け、

「さ、ご覧遊ばせ」

 手を地上へと向けた。

 鷲頭山の斜面を背にする校舎を改装したOGI研究所病院の社屋、その屋上に立つ二人の視界に入るのは、校庭の跡地を倍近く拡張した平地に作られた従業員の住む寄宿舎、衣食住を満たすモール、やはり中学校から流用した体育館とプールと増築された娯楽施設など。

「なるほど、これが――」

 OGIグループが市から買い上げた市立静浦中学校の敷地は、東京ドーム一つ分ほどの小さな街に作り変えられていた。

 だが、ただの街ではない。現時点ではまだ機密性の高いμ-フォームの研究を行うために、街の周囲は高い柵と自然の山々に囲まれ、獅子浜と江浦に向かう道を透るにはセキュリティゲートを抜けなければならない。

「――これが≪静浦≫、ですか」

 旧村名を与えられた、江浦と獅子浜の間にこじ開けられた空間。

 管理され、隔絶された街。

「≪統廃合に伴う廃校施設の再利用に関する災害対策計画都市の提案≫、その第〇号よ。まだ公表できないけどね」

「計画図は確認していましたが、これが――」

 小さなカートに乗って動いているのは、引っ越してきた研究員やその家族――OGIグループの関係者だ。週明けの稼働に向け、目覚めようとしている。

 ダイヤは菱形のフェンスに指をかけ、眉をひそめた。

「――これが、わたくしたちの未来、なのですか? こんな、フランケンシュタインの怪物のような、街が……」

 街がこれで完結しないことは確実だ。モールに立ち並ぶ店舗には採算度外視の商品搬送が不可欠だし、それはこの街が、OGIグループの庇護下でしか存在し得ないことを意味している。

「自分を育てた景色が、企業に牛耳られたツギハギだらけの街になってしまったと知ったら……」

「悲しむかしらァ?」

 鞠莉は歌うように言う。

「仕方ないじゃない。必要なPartsをくっつけて、雷を食らわせるくらいしなきゃ、死体は生き返るわけないでしょ?」

 ダイヤは鞠莉を一瞥して、目を伏せた。

「μ-Foamの件が一段落したら、よりOpenな利用に切り替えるわよ。街も開放して、外からAccessしやすい道もちゃんと整備するしね」

 そういう問題ではないことは、鞠莉にも分かっている。

 OGIグループは母体こそ沼津出身の小原家だが、現状は世界規模で拡大した事業とアメリカから連れてきたCEO(ジョルジョ・ルカーニア)をトップに据えた外資系企業だ。

 だから、街やそこに住む人に対する思い入れがない。

 だから、ここまでできる。

 鞠莉はフェンスの向こうに目を向ける。

 眼下の街ではなく、もっと遠く。

 工事の始まっている静浦山、その向こうの駿河湾に浮かぶ淡島、さらに奥にはみかん山こと長井崎岬――浦の星女学院。

 OGIがLock-onした(目を付けた)要害たち。

 小原家と黒澤家が、破壊する場所たち。

「私たち、地獄に落ちると思う?」

「わたくしが今さら、天国に行けると思っているのですか?」

 ダイヤは目を伏せたまま、口の端で笑う。

「果南は違うわよね」

「そう……ですわね」

 フェンスを掴むダイヤの指に、鞠莉の手が触れる。

 家の都合を建前に、僅かな時間を笑って過ごせたとしても、それはお家の手のひらの上でしかない。

 だが小原家も黒澤家も、街の、社会の、世界の手のひらの上だ。

 圧倒的な力で押し寄せてくる大局に、いずれは押し流されるのだろう。

 海の手に。

 神の手に?

 それでも抗うしかない。

 大切な場所を護るために。

 

   *

 

 海抜一三七メートルの山頂にある≪淡島神社≫の本殿。その入口を開けると、冷たい空気が足元にしみ出してきた。

「お邪魔しまーす、りおさーん」

 高海千歌は靴を脱ぎ、一礼すると、無人の部屋に上がった。

 現在の淡島神社には神職がいない。主要な社殿や本尊が失われたことで、神社庁からも事実上放棄されてしまったためだ。

 だが唯一残された山頂の本殿は、淡島に住む老人などが定期的に掃除をしているおかげで、今日も清潔に保たれていた。

 千歌は壁際に紙袋を置くと、五〇畳の狭い板の間を進む。

「千歌ですけどー」

 誰もない。

 動いているものは、窓から入る光に舞うチリだけだ。

「りおさーん? 変だなあ、行くって言ったのに」

 不意に、髪の毛に違和感。

 跳び、肩から転がる。

 だん、と床を叩く音。

 身を起こし、振り返る。

「なまってはないね、高海ちゃん」

 千歌が立っていた場所に拳を振り下ろしていたのは、人懐っこい笑顔を浮かべた男性だった。

「りおさん!」

 飾りお。

 ボタンシャツをラフに羽織った≪飾流≫空手の師範は、足の裏をジーンズの向こう脛で拭いている。

「今日の差し入れは? みかんだよね」

「私だよ!」

 千歌は笑うと、シャツを脱ぎ捨た。

 息を鋭く吸い、ゆっくりと吐き、上下に構える。

「今日の私はひと味違うよ」

「お、今日はそのTシャツか」

 りおが着目したのは、千歌の“チ”Tシャツだった。内浦界隈では千歌の母親が販売元に「“十”と“万”も出してウチの旅館とコラボしよう」と打診するも轟沈した件で有名だったりする。

「違うよ! 私だって!」

「髪? だいぶ伸びたね」

「違うって!」

 千歌は足で床板を叩き、もう一度構える。

「もう! ふざけてると怪我するよ!」

 千歌の剣幕に、師範は天井の梁を掴んでいたらしい手をはたくと、白いものの混じりだした太い眉を下げ、頬をニッと持ち上げた。

「させてみる?」

「言ったなあ!」

 一気に間合いを詰める。

(今日こそ有効打をとってやる!)

 最速のタイミングで左突き。

 千歌の先手にりおの眉が上がる。

 ラフに羽織ったボタンシャツの内側を狙う。

 腕が極まる直前、りおの手のひらが拳の甲をはたき落とす。

(まだ!)

 一歩身を引くりおに、右足を踏み込み、右突き。

 避けられる。

 開いた胴に、後の先(カウンター)の右突きが迫る。

(狙い通り!)

 左も右もブラフだ。

 前進する勢いを右拳にこめず、りおの右突きを左腕で抑え。

 本命の、後の先の右鉤突きを――

(――え?)

 違和感。

 なにに?

 分からない。

 引く?

(……いや、行くよ!)

 上体をひねり、右鉤突き。

 りおの左脇腹に拳を叩き込む――

「ほッ!」

 ――はずが、気付けばりおの背中が、千歌の胸に密着している。

(え?)

 視界が回る。

 だん、と床を叩く音が響く。

「え?」

 それが、自分が無意識にとった受け身の音だと気付いた時には、千歌は長い髪の隙間から天井を見ていた。

「ワンパターンだね」

 数瞬ののち、起き上がる。

 なにが起こった?

 りおの右突きはブラフで、千歌の右鉤突きを掴んで投げたのか?

 最初からそのつもりだったのか。

 千歌が立ち上がると、師範は満足そうに口を斜めにした。

「どれ、今日のお土産はなにかな」

 そして背を向け、千歌が持ってきた紙袋を見る。

(……チャンス!)

 小さく距離を詰め、足払い。

 りおのバランスが崩れる。

(もらった!)

 倒れ込むりおの左腕に手刀を振り下ろす。

 腕の一本でも奪えれば、勝ち目はある。

 だがりおは笑っていた。

 自らバランスを崩しきって倒れ、下段蹴りを放つ。

「ぐッ!」

 右脛に完璧に入った。

 蹴りの反動で距離をとって、りおが立ち上がる。

 その時には、千歌は空中にいる。

 痛みを感じている余裕はない。

 右腕を振りかぶり、引き絞る。

 飛び上段突き。

 何度も怪人を倒してきた、必殺技。

 りおの眉が弓の字に上がる。

 決める!

「うりゃあ!」

 だが突きが眉間に当たる直前、りおの頭が僅かに左に逸れた。

 突きの狙いを逸らされた。

 眉骨を押す感触が拳を伝わり。

 りおの身体が滑るように左へ消える。

 後の先(カウンター)

 右鉤突き。

 ああ。

 やり返されちゃった。

 飛んだ勢いのまま肩から地面に落ち、仰向けで板の間を滑り、本殿の壁にぶつかってとまる。

「く……か……!」

 息ができない。

 左脇腹に刺さった突きが、水月を打ち抜いていた。

 えづきを押し込める。

「お、美味しそう。いいね」

 りおは千歌の持ってきた紙袋に手を突っ込み、取り出したみかんの皮をむき始めた。

 その身軽さに、起き上がれないままの千歌は歯噛みする。

 無視していた右脛の痛みが、じわじわと這い上がってきた。

「手加減して勝てる相手だと思ってる?」

「本気だったよ……!」

「いや、迷ったね」

 なんとか立ち上がった千歌は、りおを見る。

 優しそうに下がった白髪交じりの眉は、手合わせの前となにも変わっていない。

「一手違えば、今日こそ高海ちゃんが有効打をとってたのに」

「ウソ!」

「ウソじゃないって」

 りおは千歌の長袖シャツを拾い、投げた。

 千歌はそれを掴み、乱暴に顔の汗を拭う。

「次、本気で驚かせてくれなかったら、破門だからね。まあ、その前に――」

 そして、にっこり笑う。

「――死ぬかな」

 その言葉に、千歌は目を見開く。

 死ぬ?

 私が?

 喉が上下する。

 汗が顎を伝わり、床に落ちる。

 師範は板の間を奥に進みながら、みかんを食べている。

 次に戦うフォーメアが、師範のように知性と技術を持っていたら。

 飛び上段突きが――必殺技が外れたら。

 私は、死ぬの?

 千歌は一礼する。

「ありがとうございました」

「うん。みかん、枝海さんにお礼を言っておいてね」

 本殿を出ると、青空に浮かぶ太陽は南中をすぎていた。

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