仮面ライダーメルシャウム   作:fuki

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第六話:大切なこの場所で - 3

   B

 

 ジュール丸を係留し、ウェットスーツ姿でスクーバの器材を陸揚げしていると、遊歩道を歩いてくる人影が見えた。

 それが幼馴染みの千歌だと気付いた松浦果南は、木製の桟橋に置いたリフトバッグを一瞥する。

 だが千歌は、口の中で独り言を言っているだけで、果南の存在にさえ気付いていないようだ。

 その様を十分に堪能した果南は、桟橋から遊歩道に上がると、

「や」

 と開いた手を顔の前に突き出した。

「ん、え? 果南ちゃん! いたの?」

「いたよ。もう、何回呼んでも気付かないんだから」

「ご、ごめん! 考え事してて!」

「冗談、今のが最初」

 と言うと、千歌は「ええ!?」と声を上げたが、慌てた顔と怒った顔がこんがらがっている。ころころ表情を変える幼馴染みが楽しくて、ついついからかってしまう果南だ。

「で、なに? 今日もやられちゃったの?」

「え?」

「りおさんに。会ってきたんでしょ?」

 淡島神社を根城にしているホームレスに千歌が師事していることは、内浦の住民なら誰でも知っている。島の周囲をトボトボと歩いている時は、師範にメタメタにされた時くらいのものだとも。

「う……。それもある……んだけど……」

 果南は桟橋に戻り、海水で濡らしたリフトバッグと器材を拾い上げた。千歌はなにも言わずについてきて、こちらの手を見ている。

「なにか言われた?」

「まあ、うん――って、違うよ! そんなことより!」

 千歌は気分を変えるように大声を上げた。

「そこ、本当に閉めちゃうの!?」

 千歌が指差したのは、カエル館の隣の建物だった。

「ああ」

 赤茶色の建物に掲げられた真っ白な看板には、青から紫を経由して赤にグラデーションする“The Fabulous Diver Boys”の文字と、脇を添える三人の男性のシルエット。

 果南の父が開業し、現在は果南の祖父が経営するダイビングショップ≪ファビュラス・ダイバー・ボーイズ≫は、果南の卒業と同時の閉店が決定していた。

「すっかり閑古鳥だしね。祖父ちゃん一人じゃ回せないし」

「それもだよ! 卒業したら東京って、なんで教えてくれなかったの!」

 桟橋を遊歩道まで歩く果南に、千歌は床板をドスドス鳴らしながらついてくる。

「タイミングがなくてさ。曜には大会で言ったし」

「だって、じゃあテキストで教えてくれたって……」

「じゃあなんで千歌はこの一週間、テキストで聞かなかったの?」

「それは……むうん……」

 千歌は口をつぐんだ。

 水上にあると途端に重く感じる一式を手に、カエル館とダイビングショップが共有しているウッドデッキに上がると、ダイビングショップの裏へ入る。そこにある器材洗浄槽に張った真水に、器材を入れる。

 そして自分はリフトバッグと一緒に、更衣室の扉を開いた。

「覗かないでよ」

「覗かないよ!」

 個室のシャワー室のカーテンを閉め、リフトバッグを床に置く。

 蛇口をひねると、冷たい真水がウェットスーツと身体の間に染み渡ってきた。

 身体を震わせ、ウェットスーツの胸のファスナーを開く。

 登校時にも着ているトライウェアがむき出しになる。

 水で潤滑したウェットスーツが、するすると脱げていく。

 水が全身を覆っていく。

 だが、物足りない。

 あの快感を知ってしまったら。

「果南ちゃーん」

 更衣室のドアが開き、果南は顔を上げる。壁に貼られた鏡の中の自分と目が合う。

「入るなら入っちゃって」

 言うと、アルミのドアが、砂を噛む音と共に閉まる。

「ダイビングもやめちゃうの? 一八歳になったら一級小型とるって言ってたじゃん」

「続けるよ。一級もとる」

「でも東京、行くの?」

「うん」

「なんで! なくなっちゃうよ、このお店!」

 そうなるだろう。

 ポニーテールにしていた髪を解き、水に晒す。

 いつもと違う果南が、鏡から覗き返してくる。

「ほんとは五年前に終わってるんだよ、このお店は。父さんが死んだ時にさ」

 千歌の返事はない。

「ダイビングが好きだったから、祖父ちゃんに無理言って続けてもらってただけ。延命してたんだよ」

 必定の死に向かい歩む、この街と同じ。

 果南はリフトバッグを拾い上げ、口を開く。

 ぼう、と淡い光が漏れ、内容物が顔を見せる。

 直径三センチほどの球体――梨子曰く≪μ-フォーム≫――が一二個。

 ネットで調べた限りでは、具体的な情報はなにもなかった。

 だが、これと同じ物が果南たちの前に現れたタイミングと、この街に怪人が現れたタイミングを考えれば、無関係とは思えない。

 だから果南は、祖父を介して漁船から“お化け”の情報を集めることにした。

 私たちの海に、これ以上、余計なものが現れてほしくはないから。

「戦え」

 誰が言ったのか。

 果南はシャワーをとめ、髪を結わき直す。

 鏡の中に、見慣れた顔が戻ってきた。

「お待たせ、千歌」

 カーテンを開けると、千歌は長い髪で顔を隠し、更衣室のドアによりかかっていた。

「背中、汚れるよ」

 千歌の肩を引っ張り、果南はトライウェア姿で屋外に出る。脱いだばかりのウェットスーツを器材洗浄槽で軽く洗い、外壁と島の岸壁の間にある日陰に裏返して干す。器材はあとでいいだろう、海水には浸してないのだから。

「ほら、入っちゃって」

「ウェットで潜ってきたの? 寒くなかった?」

「これくらいなら平気だよ。ほらほら」

 果南は笑いながら建物の裏口をくぐり、手のひらを開いて見せる。

 すぐに人感センサーが働き、薄暗いダイビングショップに光が戻ってきた。

「なんか、久しぶりだなあ」

 千歌が呟き、店内に歩み出る。

「年度末に来たでしょ。ほら!」

 と、果南はカウンターの上にあった石を放り投げた。

「あ!」

 千歌はキャッチし、手のひらをそっと開く。

「……メルシャウム(海泡石)

「曜と二人でそれ触って、騒いでたじゃない」

 千歌は受け取った白く軽い石に触れ――無言になってしまった。

「欲しいなら持ってけば? あっても捨てるだけだし」

「うん……」

 千歌のリアクションにクエスチョンマークを浮かべるが、果南は問わず、カウンターの内側に入った。

 東向きの店内には、様々な商品が並んでいる。消臭剤やベビーパウダー、潤滑油といった消耗品から、防水バッグ、カメラのラギダイズキット、スノーケルなどの海水用品、さらにはログブックのバインダー、フィン、ゴーグル、ダイコン(ダイブコンピューター)を始めとするダイビング用品。

 もちろん客はいない。果南が小学生の頃は、店番をサボって潜りに行くたびに祖父の節三に怒られたものだが、今では黙認されているほど、誰も来ない店になってしまった。店舗としても、去年のシーズンから今年にかけての半年で売れたのは、両手の指で数えられるほどだ。

 それでも店を維持できているのは、多くの商品に刻印されたロゴを見れば明らかだ。

 時計を射る矢を模したロゴを。

「ダメだよ、果南」

 呟き、カウンターの上のフォトフレームを手に取る。

 五人の男性と四人の女性(ファビュラスなヤツら)の写真。

 その九人の一人が、若き日の父――松浦鏡一だ。

 この店を立ち上げ、内浦の過疎化に対抗しようとした男。

 フレームのアクリル板に反射する、その娘は?

「やっぱり私、父さんとは似てないね」

 フレームを倒し、薄い唇で笑う。

「本当にやめるのですか?」

「五年も延命できれば、父さんも本望だよ」

「それはあなたの想像ではなくて?」

 顔を上げる。

 逆光の入口に目を向ける。

 見慣れたシルエットは、浦の星女学院の生徒会長――

「――ダイヤ」

「ごきげんよう、果南さん」

 波のように規則的に揺れる黒髪の下で、黒澤家の長女は、親しげな笑顔を浮かべている。

 店舗に足を踏み入れるその後ろで、大柄の黒服の男性が入ってきた。ダイヤのそばに常にいるボディガードだ。

 果南は目を細め、左手を指差した。

「ダイビングの予約でしたら、本土でお願いします。係員があちらの受付にいますので」

「ですから、そうしてきたのですわ」

「え?」

 ダイヤの言葉に応えるように、 果南の祖父、節三が店に入ってきた。

「あ、じいちゃん! こんちは!」

「おう、千歌ちゃん」

 器材を背負った祖父は、果南にダイヤを示す。

「お客様だ、果南」

「祖父ちゃん。あっちは?」

「店仕舞いだ」

 節三は店を奥まで来ると、通り過ぎざま、

「天下の黒澤さんだぞ。粗相のないようにな」

 と果南に囁き、奥の出口から出て行った。

「どういう風向きの変化? 沼津に産まれて駿河湾を二メートルも潜ったことないあんたが」

「おかしいですわね。シチリアの海でなら、一〇〇メートル以上の記録があるのですが」

 ダイヤの冗談に眉をひそめると、果南は千歌を見て、顎で外を示す。

「千歌、行って」

「うん……」

「蓮生、こちらで待機してくださいますか?」

「承知しました」

 心配そうにダイビングショップをあとにする千歌と、入口の脇で直立する黒服を前に、ダイヤが果南に歩み出る。

「連れて行ってくださいますか、果南さん。あなたの場所へ」

 

   *

 

「千歌ちゃん、あ、見えた見えた! こっち!」

 渡辺曜が手を振ると、連絡船の桟橋を上がってきた千歌がこちらに気付いた。曜は電話を耳に日光の下に出て、改めて手を振る。

「みんな、え!? なにやってんの!?」

 二〇メートル程度の距離を、空気と電波経由で喋る千歌は、こちらを指差して大声を上げた。

 幼馴染みの疑問は当然だろう。曜が出てきた円形の休憩所から、善子と梨子も出てきたからだ。

「なんか、集まっちゃってさ」

「じゃあ呼んでよう!」

 千歌は電話を降ろして走り出し、

「いててて」

 と数歩も行かずに脇腹を押さえて立ち止まった。

「どうしたの!? まさか――」

 曜は駆け寄るが、千歌は手のひらを振って押し止めた。

「――違う違う、りおさんに思いっきりやられちゃったんだよ」

「道場で? ああ、だからテキスト、届かなかったんだ」

「うん。ほら」

 千歌はTシャツをめくり上げて脇腹を見せてきた。

「……手加減してもらった?」

「容赦ゼロだよ。すごい痣じゃない?」

「全然」

 腰骨と肋骨の間が若干赤らんでいるが、痣にはなっていない。

「もしかして、怪我の治りが早くなってない? アレで」

「アレで?」

 アレとはもちろんμ-フォームのことだ。

 この軽傷で、千歌がさっきの痛がり方をするとは思えない。皮膚の鬱血が先に治り、遅れて内臓のダメージを修復していると考えられないか。

 千歌が服を戻した頃には、黒いレースのついた日傘を差したゴスロリ服の善子と、その日陰に入った梨子も近くにきていた。

「私、黒魔術専門だから、回復はできないわよ」

 善子はモノトーンのゴシック&ロリータの膨らんだスカートを摘まみ、弾ませてみせた。

「平気、じっとしてれば回復するから」

「『イース』系なのね」

「そうそう」

 千歌と善子は笑い合ったが、曜にはなんの話か分からない。

「千歌ちゃん、淡島にいたんだ」

「うん、お母さんが、りおさん――道場の師範に挨拶に行けって」

「大事だよ、それ」

「でもコテンパンにやられちゃって、果南ちゃんにこれもらったんだ」

 千歌がポケットから出したのは、不規則な形をした白い石だった。

「海泡石? ファビュラスの? なんでりおさんにやられると、果南ちゃんがくれるの?」

「分かんないけど、くれたの。なんでかな」

 千歌が分からないなら、曜に分かるはずもない。

「なに? それ」

 聞いたのは、日傘を手にした善子だ。

「海泡石。メルシャウムって言うんだって」

 千歌は後輩の手のひらに石を乗せて言った。

「うわ、軽い」

「でしょお」

 善子はしばし手のひらで石を転がし、

「これ、メシャムパイプの原料よね」

 と言った。

「そうなの?」

「たしかウチにあるわよ。父親が若い頃に使ってたって」

「へえ。見てみたいな」

「なんでよ。高海先輩、メシャムマニアなの?」

「そうじゃないけど」

 千歌は誤魔化すように、長い髪を背中に流した。

 その顔は妙に楽しそうで、曜は不思議に思う。普段なら、りおに伸されたあとなら、それこそ地団駄を踏むほど悔しがるのに。

「結局お前も来たのか、高海」

 そこに、二年生の担任であり、スクールアイドル同好会顧問の女教師、信代がやってきた。

「先生まで!」

「不満そうだな」

 信代は日に焼けた腕に抱えた缶ジュースを、一本ずつ曜たちに放った。

「なんで? みんな、土日は用事あるって言ってたじゃん」

「うん、笠木センセと市内に行こうとしてたんだけどさ」

「プールの屋根に穴が空いたって連絡が入ってな」

「天井? 小学校か中学校の頃にも、曜ちゃん、そんなこと言ってなかった?」

「なんだろね、静岡のプールって、天井が弱いのかな」

「とにかく、他のプールも抑えてないから、今日の練習は中止だ」

「あ、筋トレと走り込みとバク宙の練習はするよ!」

 曜が筋張った腿を上げて連続ジャンプをすると、舞い上がるスカートの中を梨子がガン見してきた。短パンははいているぞ。

「梨子ちゃんは?」

「え、私? あ、えっと、私は先方が急に予定ができちゃったみたいで」

「先方?」

「うん、検査の」

「あ、そっか、そうだよね」

 梨子が事故の検査で沼津まで来ているのは、ここのメンバーは全員知っている。だが千歌はバツが悪そうに、言葉を濁した。

「私は、ルビィに用事ができちゃったから来たのよ」

「津島さん、忙しかったの?」

「ちょ、リリー! 人を暇人みたいに!」

 そんなこんなで全員が集まった、ということだ。

「じゃ、スクールアイドル同好会、第二回ミーティングといくか。そこで」

 と信代が指差したのは、さっきまで曜たちが待ち合わせた休憩所だ。

「使っていいんです?」

 梨子が問うと、信代は親指で淡島を差した。

「理事長代理に連絡したら、許可下りたぞ」

 あの鞠莉相手なら許可は下りるだろうが、それに正当性はあるのだろうか。

 そんな疑問を口にすることもなく、集団はぞろぞろと歩き出す。

「にしても、高海……似合ってるじゃないか」

 信代の含み笑いは、千歌の“チ”Tシャツに向けられていた。

「どういう意味?」

「お前にしか着れない、って意味だ」

 千歌は瞬間的に顔をしかめたが、すぐすまし顔になって、信代の顔を指差した。

「笠木センセも似合ってますよ、お鼻!」

 千歌が示したのは、白いギプスが貼ってある信代の鼻だった。

「ほお、ケンカ売る気か、お前」

「売ったのは先生じゃん?」

 信代はすごむが、千歌はどこ吹く風だ。

「千歌ちゃん、もう!」

 曜は千歌を、休憩所の方に向かう梨子たちに押しやり、信代と距離を開けさせる。

 その間にも、千歌は信代にあかんべえをしている。

 なんでそんなに強気に出られるんだ、と曜は思ったが、信代の鼻を折ったのはエンジェル・フォーメアであり、その怪人を倒したのは仮面ライダーワンダに変身した千歌なのだ、と思い出した。「ワンダ=千歌>エンジェル>信代」の関係式で、千歌が優越感を覚えていたとしても、まあ不思議ではない。

 しかし、千歌はこの数週間、ギプスを貼った信代を前に授業やホームルームを受けていた。この前の部室でだってそうだったはずだ。なぜ今、面と向かってあんなことを指摘した?

 千歌のTシャツは、某≪West系≫の高校生向けブランドが『ひらT』『カタT』としてリリースしているシリーズの一つだ。曜も練習着を選ぶ時には“よ”と“ヨ”をチェックする程度には定番で、その人気の発火点は、μ'sのメンバーが“ほ”Tシャツを着ていたことだそうだ。それを貶されたから、千歌はカチンと来たのだろうか。いや、それならそれで、嬉々として説明し始めそうではないか?

 最近、千歌の考えが読めないことが増えてきた気がする。

 いや、「考えが読める」なんて、そもそもが上から目線なのか?

 善子の持つ日傘に入った幼馴染みの横顔が、ちょっぴり遠く感じる。

 

   *

 

 全長三四フィート(一〇メートル)のクルーザー≪ジュール丸≫は、エンジンを緩める気配をみせず、湾内を南へ走る。

 コクピットの表示計を見る限り、時速は二二ノット――約四〇キロだ。数値的にはクルマに大きく劣るが、連続する粒の粗いエンジン音、船自体が作り出した波を切る衝撃で、体感速度はもっと速い。同じ船舶でも、大型の旅客船よりも早く感じる。

 コクピットの風防からデッキに顔を出すと、風圧と水飛沫に襲われ、慌てて米神のピンを押さえる。そして、髪をひとつ結びにしたことを思い出し、ここがいかにいつもの世界ではないかを実感した。

「まだ着かないのですか!」

 黒澤ダイヤは、コクピットの上のタワーコントロールに叫ぶ。

 果南は返答しない。ダイヤ以上の風圧に晒されているはずの席で、果南は高いポニーテールをなびかせ、ただ海を睨んでいる。

 気付けば周囲は、海しかなかった。まだ一七歳の果南が持つ二級小型船舶操縦士免許では、陸から五海里――約九キロ以上の海には出られない。だが海上から陸地が見える距離は、せいぜいが四キロだ。駿河湾を南下する船からは、両岸の山地が水平線の上に薄く見えるだけで、富士山も北の空に出てきた雲に滲んで消えてしまっている。

 そんな『ウォーター・ワールド』の世界を急駛する果南の顔は、凛々しく、潔い。

 触れるものすべてを切り裂き、自分は崩れてしまいそうな、一触即発の鋭利な軽やかさ。

 あの時とは違う果南。

 すべてが変わってしまった非日常を、クルーザーは一時間以上急駛しただろうか。

 鼻を突くエンジンの排気が消え、船の速度が落ち始めた。

「ここから先には行けないよ。今の免許だとね」

 果南がデッキに降りてきた。

 緑色のラインが入ったトライウェアを着た肢体に、ダイヤは、自分がレンタルした長袖のラッシュガードを着ていることを思い出した。そして、身長が同じにもかかわらずプロポーションでは負けている自分の身体を、思わず抱く。

「寒い?」

「平気ですわ」

 ダイヤは果南に背を向け、デッキの縁に腰掛ける。

 ゆらり、と船のバランスが動く。

 波が船体を叩く音が妙に大きく聞こえる。

 果南が操作するタブレット端末が見え、ここが、伊豆半島を半分ほど南進した地点だと分かった。そこが地図上で、黒い黒い青で塗られていることも。

「水深はどのくらいですの?」

「だいたい七〇〇メートルかな」

「七……!?」

 ダイヤは肩越しに海面を見下ろす。

 駿河湾は「日本でもっとも深い湾」と言われる通り、大陸プレートが沈み込む駿河トラフに向かって急速に深くなる構造だ。それゆえ、陸からそれほど離れなくても、外洋に匹敵する景観とダイビングを楽しめ、関東圏のダイバーには人気のスポットになっている。それは黒澤家の人間として、知識では知ってはいた

 まさか、高校三年生がたった一時間で来られる地点だったとは。

「ダイヤ、私を信じる?」

「え?」

 顔を向けると、果南は後部デッキのプラットフォームに立って、開いた片手をダイヤに見せていた。

 あの頃の仕草で、あの頃の顔で。

「果南さん?」

「どう?」

「それは、もちろん信じているけれど――」

 言葉の途中で、果南が海に飛び込んだ。

「――果南さん!」

 駆け寄るが、果南の姿はどこにもない。

「なにを」

 果南はなんの器材もつけていないどころか、ダイビングスーツさえ着ていなかった。この季節の海がウェットでさえ冷たいことなど、ダイビング未経験のダイヤだって知っている。

 どうする?

 いざとなったら救助を――

「……そんな」

 ――誰もいない。

 半径四キロの視界には、清水港から出航した定期船も、プレジャーボートの類もない。

 取り残されてしまった。

 喉が渇いていくのを感じる。

 陸地との連続性を断ち切られた異様。

 底知れない重さの水の厚さ。

 戻ってこられるのか?

 流水にさらされた吸血鬼のように、浮き上がれなくなってしまったら?

 身震い。

「ここが、果南さんの場所なのですか?」

 何秒か、何十秒か、何分かののち。

「やっほー」

 果南の顔が海面に現れた。

「大丈夫でしたの!?」

「心配した?」

「当たり前ですわ!」

 果南のトライウェアの上半身が海面に現れる。

「心配性だなあ。STA(スタティック・アプネア)で九分五五秒の記録を持ってるんだけど?」

「だって、果南さんが――」

 さらに、あぐらをかいた下半身が海面に現れ――

「――え? な、な……」

 ――巨大な顔が現れた。

 言葉を失う。

「こいつは≪カヴァルッチャー≫。私が名付けたわ」

 応えるように、果南の姿が空に上がっていき、ダイヤはデッキに尻餅をつく。

「……タツノオトシゴ、ですの?」

 直立した身体に、細い吻を突き出した愛嬌のある顔、妙に膨らんだ腹、渦を描いて丸まった尾。

 それらが、大きな鉄板を溶接した騎士の鎧を思わせる、緑がかった金属光沢を放つ鱗に包まれている。

「カヴァルッチャーだってば。広めておいてよ。誰かさんに、変な名前つけられる前にさ」

 果南は、その存在の頭上で、あぐらをかいているのだ。

「未発見の新種……というわけではないようですが。怪人――フォーメアなのですか?」

「さあ? その怪人とかライダーってヤツ、私、見たことないからね。ダイヤは?」

「わたくしも、新聞やWebでしか」

 タツノオトシゴは、一〇メートルはある巨体を海面から数センチ浮かせ、身体を震わせるたびにハミングにも似た鳴き声をあげては、ようやく立ち上がったダイヤを興味深そうに見下ろしてくる。

 ≪カヴァルッチャー・フォーメア≫と名付けるには、あまりに愛玩動物のような趣だ。

「じゃあさ、“お化け”は?」

「お化け?」

 ダイヤはカヴァルッチャーの上の果南に目を戻す。

「ここ何週間か、海に光るものが出るって、聞いたことない?」

「……そういえば、網子(あんご)の方々がそんなことを言っていると、父が言っていましたわ」

「そっか」

 果南はカヴァルッチャーの頭で立ち上がり、鼻先の横から海を見下ろして肩を震わせた。

「曜はこんな高さから飛び込んでるんだ。私には無理だね」

 そう言うと、カヴァルッチャーはするすると海に沈んでいく。

 果南が三メートルばかりの高さから海に落ちると、カヴァルッチャーは再び浮上を始める。そして膨らんだ腹を水面に出したところで停止した。

「乗って」

「は?」

「お腹のところ」

 よく見ると、腹の一部に滑らかな皮膚の部分がある。ダイヤがデッキから手を伸ばすと、そこが、ぱく、と開いた。

「うわ!」

「育児嚢だよ。入って入って」

「ええ……?」

 お腹の中はたしかに人も入れる空間がある。プラットフォームから足を伸ばし、意を決して飛び込むと、硬いが弾力のある感触がサンダルに伝わってきた。

 海面から直接上がった果南が壁を(内臓を?)叩くと、波のように皮膚が閉じた。

 表からは白く光るだけに見えた表皮は、内側からはロールスロイスのマジックミラーのように透過した膜となり、波間に心細く浮かぶジュール丸を見せている。

 そんな光景にダイヤが驚いていると、

「じゃ、行こっか」

 足元が動き出した。

「え? え!?」

 真下に。

 カヴァルッチャーが潜行を始めた、それは分かった。だがダイヤは、まるで初めてエレベーターに乗った子供のように、後退りした。背中と手で触れた壁は、暖かく脈打つ餅ののようで、その生物感にまたうろたえる。

「私の場所に行きたいんでしょ? ダイヤ」

 果南は楽しそうだ。

 少なくとも、楽しそうな顔をしていた。

 泡立つ波が目の前を通りすぎ、縦長の楕円形の視界はすぐに青い海に覆われる。

 それも徐々に、徐々に黒く黒く色を失っていく。

「これが、海?」

「そんなこと言うの、ダイヤくらいよ」

「仕方ないではないですか。ダイビングなど、許される家系ではありませんから」

「それはウソだと思うよ」

 ダイヤの視界に、果南が顔を挟む。

「琳太郎さんたちは、ダイヤにそんなこと言った?」

 ダイヤは目をまたたかせる。

 と、床が動いていくのを感じた。ダイヤはすぐに、空間自体がディスカバリー号のセットのように回転しているのだと理解し、乗り込んだ入口が床になるのだと察した。

「だ、大丈夫ですの!?」

「私を信じなって。ほら」

 果南が軽い調子で透明な膜に飛び乗ると、ダイヤに腕を広げてみせた。

 その腕の中に飛び込むのは癪だ、ダイヤは変化していく角度に合わせてサンダルの足を小股で動かしていく。

 最終的にカヴァルッチャーは、頭を斜め下に向けて平衡安定した。

 二人は今は、リクライニングした座椅子に腰掛けるように、透明な膜に身体を預けている。

 日光は完全に届かない。

 果南の顔さえ、シルエットでしかない。

 カヴァルッチャーの目が放つ光の円錐だけが、視界のすべてだ。

 キラキラと光を反射する水面で、人々を引き込む癖に。

 すぐ裏側には、人々を引きずり込む深淵を隠している。

 その本質は、深淵の底に触れなければ分からないのに。

 そんなものを、ダイヤは知っていた。

 あの時見た星空。

 届かなかった夢。

「スクールアイドルのようですわね」

 口走った言葉に、果南は鼻を鳴らした。

「どう? あの子たちの調子は」

「あなたが聞くのです?」

「私は一週間ノータッチだったからさ」

「手を差し伸べておいて、なにを考えているのですか」

 果南は闇の中で、笑ったようだ。

「なぜそんなに、鞠莉さんのことを……怒っているのですか」

 その時、カヴァルッチャーの速度が落ちた。

「到着」

 どれだけのスピードが出ていたのだろうか、舞い上がる粉塵が光で照らされ、先が見通せない。

「なんなんですの?」

「待ってな、って」

 再び垂直状態になったカヴァルッチャーの中から、果南は粉塵の隙間を縫うようにLEDライトの光を放つ。

 塵が消えていく。

「……え?」

 目の前に現れたのは、金属の表面。

 錆に覆われ始めたそれが船体の外壁だと気付いた時、そこに書かれたものが日本語だと気付いた時、ダイヤは息を呑んだ。

「連れて行って、って言ったよね、ダイヤ」

 カヴァルッチャーが浮き上がる。

 外壁が下に消え、泡と粉塵と小さな生き物しか見えない黒い世界が広がる。

 やがて浮上がとまり、カヴァルッチャーが照らすものが眼下に見えた。

「≪さんどっぐ号≫……?」

 ≪黒澤造船≫が製造した、全長一九〇メートル、排水量一万三〇〇〇トンの大型カーフェリー。

 だが、だとしたら、ここは――

「――水深一二〇〇メートル。ここが私の場所だよ、ダイヤ」

 痛んだ箇所から崩壊しつつある手すり。

 船腹で真っ二つに割れて海底に倒れた船体。

 窓ガラスが割れて深海生物の住処となった艦橋。

 五年前の事故で沈没した船を前に、ダイヤの足が竦む。

「ここに、父さんがいる」

 果南の声が上から聞こえる。

「船長と琳太郎さんは助かって、五二人の船員は水死体で揚がって」

 手が震える。

 喉が引きつる。

「父さんだけが、ここにいる」

「果南さん」

「鞠莉のこと、怒ってるわけじゃないよ」

 果南が膝をつき、ダイヤの肩に触れた。

「OGIが救難艇を出さなければ、みんな死んでた。曜だってあんただって、今みたいにはなってなかったんだから」

 その指に力が籠もる。

「でも、私は許せない」

 ダイヤは置かれた手に手を重ねる。

「なら、なぜあなたは二年前……私たちと友達になったのです? なぜ――」

 ――わたくしたちの手を離したのです?

「私が地獄にいたなんて、知らなかったからよ」

 息がとまる。

「私と一緒に来る? ダイヤ」

 指が動かない。

 果南の手を握り締めたいのに。

「私の地獄に」

 今度こそ、行ってしまう。

 この、星のない世界に。

 今――

「冗談よ」

 その手は、ダイヤの指の間からすり抜けた。

「さ、戻ろうか。黒服さんも心配するしね」

 カヴァルッチャーが垂直の姿勢のまま、浮上を開始する。

 ダイヤの視界から、さんどっぐ号の船影が消え去る。

 真っ暗な深海に残された、朽ちかけた人類の残滓が。

 ここがあなたの場所だというのなら。

 ここがあなたの地獄だというのなら。

 あなたの目に、沼津は、浦の星女学院は、どのように映っているのです?

 わたくしたちは?

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