*
「で、進んでるのか?」
顧問の笠木信代が改めて問うと、「はい!」と“チ”Tシャツを着た千歌が手を上げた。
「三曲目もほぼ編曲終了だよ! なんと! このちかっちが全部やったんだから!」
「あの続きをか? てか、お前、楽器できたのか?」
「できなくても! なせばなる!」
千歌は梨子のスクールバッグからノートパソコンを出し、トラックパッドをペシペシと触った。
「千歌ちゃん、復帰はこっちだよ」
隣に座る梨子が横から操作すると、千歌は不満そうな嬉しそうな顔で梨子の肩に肩をよせた。
淡島へ渡る小さな港の、広い駐車場に面した小さな円形の建物は、休憩所といってもしっかりしたコンクリート造の建物だ。
淡島のレジャー施設≪あわしまマリンパーク≫が繁盛していた頃には、ここでチケットの販売が行われていたこともあったが、それがロープウェイ乗場の建物に統合されてしまった現在は、ベンチ以外の機能を持ち合わせていない。
中途半端な立地から老人の寄合所としての役割も持たず、土曜の午後を回った今も、ベンチに座っているのは信代、千歌、曜、梨子、善子の五人だけだった。
「お待たせ! じゃあ我が渾身の一曲、とくとご覧あれ!」
「待って千歌ちゃん、説明――」
梨子の言葉を遮って千歌がパソコンを操作し――
「たららら、たったっ、たららら、チャチャ!」
――信代は噴き出した。
再生された音源が、明らかに千歌の歌声だったからだ。
だがボーカルではない。メロディ裏メロドラムから手拍子らしき音まで自分で歌って、ダビングしているのだ。
「お前! 楽器! これ!」
「私だよ!」
部員に目を向けると、曜は苦笑して首を振り、善子は口をひくつかせている。
「おい桜内、確かにアバンギャルドだけど、これでいいのか?」
「途中なんです! 楽器に置き換えますから!」
「えー!? 換えちゃうの!?」
「換えちゃいます!」
「ビビった、ウチの体育館に高海の声が充満すると思ったら、鳥肌が立ったぞ」
「ほら! 先生こそケンカ売ってるじゃん!」
「売るべき時は売らせてくれ」
医者からはもう不要だと言われている鼻のギプスを指で叩くと、千歌は口をとがらせた。
「このままじゃダメかなあ」
「ダメだよ、シンセの使い方もちゃんと教えてあげるから」
曲は完成まで梨子に任せれば問題ないか。指で音源の停止を促すと、今度は善子に目を向ける。
「津島、衣装はどうなってる?」
水を向けられた時代錯誤なゴスロリ少女は、半笑いの顔のまま口を開く。
「ああ、えっと……型紙はそれっぽくできて、部費も予定の半分は集まったわ。あとは材料の買出しと実作。先輩たちの採寸は必要だけど――そうだ、ねえ、パーソナルカラーってどうなってるの?」
後半はメンバーへの呼びかけだ。
「私みかん色がいい! 曜ちゃんは青だよね?」
「青は果南ちゃんじゃない?」
「果南ちゃんはエメラルドグリーンだよ」
「じゃ、私は……水色でお願い」
「オッケオッケ、千歌先輩はオレンジ色、曜先輩は水色ね」
「みかん色!」
「細かいわね……。って感じです。知り合いに手伝ってもらうから、来週中には見せられるかな」
善子は電話にメモを書き、ショルダーバッグにしまった。
「衣装は平気そうだな。あとは振り付けか。曜?」
「はいはー――あ!」
曜のスケッチブックは、気付けば千歌がペラペラとめくっている。
「千歌ちゃん、勝手に見ないでよ!」
曜が手を伸ばすと、
「いいじゃん、見せにきたんだし!」
と千歌はベンチから立ち上がって曜をよけた。
「それが振り付け?」
梨子が聞いたので、曜は千歌を諦めたか、頷いた。
「棒人間だ、可愛いわね」
「でも、これじゃ紙芝居だよ、動きが分かんない」
善子と千歌の言う通り、スケッチブックに描かれていたのは、歌詞に対応するシンプルな棒人間のポーズだけだ。振り付けとは言い難い。
「だからヨハネさんにカメラ持ってきてもらったんだよ」
「ようやく私が、本来の役割で活躍する時が来たわね」
そんなことを言いながら、善子はショルダーバッグから三脚やビデオカメラを取り出した。
「なんだ、本来の役割って」
「元々は私、裁縫とカメラ係だったのよ。パフォーマーなんて聞いてなかったわ」
「できないのか?」
「さあ? やったことないし」
善子の返答は正直だ。正直すぎて心配になってくる。
「こんなグラグラで、ほんとにライブなんてできるのか? あと一箇月もないんだぞ?」
「じゃあ先生も踊る?」
そう言ったのは千歌だ。
「私がアイドルやるように見えるか?」
「いや全っ然見えないね」
「ケンカ売ってんのか、この≪素晴らしき海原の会≫のメンバーに」
「理不尽!」
千歌の頭をグリグリしている横で、善子が曜を見た。
「でも松浦先輩って、一番歌がうまかったんでしょ? 前途多難よね」
「私たちが上手くなるしかないよ。ね、千歌ちゃん」
「自信ないなあ……」
「ま、この音楽の神≪イヒ≫の力を授かりしヨハネなら、全人類を堕天させるパフォーマンスを魅せることなど容易いことよ――」
「じゃ、ヨハネさん、カメラよろしく」
「聞いてた!? 今の!」
ボケなのか突っ込みなのか分からない発言をスルーし、曜はカメラの前に立った。四人はベンチに並んで座り、見守る。
「では、渡辺曜、ダンスの振り付けを発表します! ミュージック、スタート!」
片手を上げた曜は、千歌が再生した曲に合わせて踊り出した。
途端、
「あっ、こりゃヤベえ」
「これやるの? 私たちが?」
「帰っていいかな」
信代、千歌、善子の顔が引き攣った。
「ストップストップ!」
梨子が立ち上がって手を叩き、曜は動きをとめる。
「なに? まだAメロも終わってないのに」
「曜ちゃん、あなた、スクールアイドルを舐めてる?」
梨子の目が据わっている。
「え? え?」
「そこの三人、今の曜ちゃんのダンス、どうだった?」
梨子に三人呼ばわりされた顧問と生徒は、顔を見合わせる。
「どう、って……どうもこうもないだろ……?」と信代。
「ボディビルダー?」と千歌。
「歌舞伎でしょ」と善子。
「操り人形みたいな」と梨子。
「ああ、パントマイムだ」と信代。
「ちょ、ちょ、ちょっと!」
曜は両手を突き出して振る。
「なんなの? なにそのリアクション? ダメだったの? なんで?」
曜が言うと、梨子は無言で善子のビデオカメラを指差した。
気圧された善子が休憩所の壁に向けて、映像を投射する。
曜は絶句した。
映し出されたのは、スケッチブックに描いたポーズを再現する、曜の姿。
その再現度は高く、信代は曜の身体性に改めて驚嘆するのだが。
「特撮ヒーローの……名乗り? みたいだね?」
苦笑して放った自分の言葉で曜が青ざめたのを見て、四人は問題意識が共有されたことを理解した。
曜はスケッチブックの紙芝居的時間感覚をも、再現してしまったのだ。
「分かった、状況は分かった。高海、桜内、編曲完了を目指せ。津島、引き続き衣装を頼む。曜――」
信代は肩を叩かれた曜は、魚のように口をパクパクさせた。
「――お前はちょっと勉強しようか」
*
ガラガラの駐車場に社用車を乗り入れた桜内桑介は、すぐに娘の姿を見つけ、停車した。
パワーウィンドウを開けて手を振ると、娘と友達が駆け寄ってきた。
「後ろに乗って」
「どうしたの? このクルマ」
「ちょっとね」
桑介が乗ってきた社用車は、いつものセダンではなく無骨なワンボックスカーだった。
梨子がスライドドアを開け、
「お邪魔しまーす!」
と髪の長い少女が乗り込んできた。
「はい、どうぞ」
桑介が肩越しに返答すると、背後を気にしながら乗ってくる梨子と目が合った。
「乗る子、まだいる?」
「ううん」
二人がシートベルトを締めるのを待って、桑介はアクセルを踏み込む。
エンジンが軽い音を立てて、タイヤがコンクリートを踏み締める感触が伝わってくる。
「あの、梨子ちゃんのお父さんですよね? 私、高海千歌って言います! いつも梨子ちゃんにはお世話になってます!」
「ちょっと、千歌ちゃん!」
「いえいえ。こちらこそ、梨子がお世話になっています」
千歌と名乗った少女の真面目な発言に、桑介は思わずバカ正直に返答してしまう。
「それで、どちらまで?」
「お父さん、タクシーじゃないんだから」
「十千万って旅館まで! 道沿いに行った左側です!」
「千歌ちゃんも!」
調子を狂わされている梨子に頬を緩めつつ、桑介は県道一七号線を南へと走り出した。
「それで、なんでこんなクルマなの?」
「ウチから荷物を運ばないといけないんだ」
「平気ですよ! 私、よく軽トラとかワゴンとか乗ってますから!」
「そういう意味じゃなくて……」
「どういう意味?」
「べ、別に、意味はないんだけど」
バックミラーを見ると、千歌は活発そうな顔付きに似合わぬ長髪を遊ばせ、眉を寄せる梨子を覗き込んでいた。
梨子はもしかしたら、「東京から出てきた桜内親子が乗っているのが野暮ったいワンボックス」という点を恥じているのかもしれない。その若者らしい自意識は、四〇歳を越えた桑介にはすでにないもので、そう思えば、頼りない父だと思いつつ気を遣って接する普段と違い、友達の前でなんとか体面を取り繕おうとする娘が、微笑ましく思えてくる。
「あの、東京の頃の梨子さんって、どんな感じだったんです?」
「ちょっと、千歌ちゃん!」
「普通の子だったよ。家では基本、ピアノを弾いてたんだよね」
「掘り下げなくていいから!」
「やっぱり弾くんじゃん! 梨子ちゃんの生演奏で練習したい!」
「またそれ!? もう、ヤダって言ってるでしょ!?」
照れ隠しか大声を出す梨子に、千歌がまたちょっかいを出し、二人はじゃれ合い始める。イタズラっぽく笑う千歌に、梨子は顔を赤らめて声を荒げてはいるが、本気でイヤがってはいないようだ。いい友達だと想像できる。
海岸に沿った県道を走る。深く入り込んだ海は穏やかな波に揺れ、遠くに横たわる山々は雲に煙っている。夜闇に浮かぶ電灯しか見ていなかったからか、雲間から覗く太陽が照らす景色が眩しく、桑介の目は細まり、口の端も自然と持ち上がる。
「いいところですね、内浦は。街も自然も近くて」
「そうなんです! いいところなんですよ!」
何気ない感想に、娘の友人ががっぷり食い付いてきた。
「みかんは美味しいし、沼津も伊豆の国も近いし、海水浴場はたくさんあるし、湾内でダイビングもできるし、少し離れれば≪らららサンビーチ≫も≪大瀬明神の神池≫もあるし! 最高なんですよ! 梨子ちゃんもそう思うでしょ!?」
「え? 私、どれも知らないんだけど……」
「なんでよう! じゃあ連れてってあげる! お父さん、行き先変更です!」
「じゃあ、大瀬崎まで行ってみようか?」
「お父さん! 仕事があるんでしょ!?」
観光案内所の番組のようなやりとりだ。
しかし今の自分はまさに、娘の友達と一緒に遊びに出かける父親のようだ。状況に相応しい年齢からは五年ほどズレているだろうが、コンクリートとガラスの中でOGIグループの中での立ち位置に悩んでいた数十分前や、沼津からの撤退に向けた引き継ぎにステアリングを握っていたさっきまでより、むしろ現実味がある。
もちろん、それが現実逃避なのは分かっている。
だから、
「あ! ほら、今のところ! ≪いけすや≫って言って、アジが美味しいんです! 絶品なんです! アジ丼とアジフライのセットがオススメ! ご家族三人でいかがですか!?」
と千歌が指差し、
「千歌ちゃん、お母さんはこっちにはいないんだよ」
「あ……」
梨子の指摘に口を開けたまま凍り付いた時も、桑介の表情に変化はなかった。
「ごめん……ごめんなさい。東京で入院してるって、私、聞いてたのに」
千歌は俯き、梨子がその肩に触れる。
「気にしないで。そうですね、いつか三人で来れたらいいね」
桑介はできるだけ柔らかい口調で言う。
梨子も千歌の耳元になにかを囁いたようだ。
ややあって、千歌は顔を上げた。
「来てくれるなら、フォーメアの件が全部片付いてからですね。今の内浦は安全じゃないですから」
その発言に、桑介は虚を突かれる。
「心配ですか? 怪人は今のところ、すべて仮面ライダーたちが倒しているけど」
「仮面ライダーだって無敵じゃないんです。そんなに頼りにしないでほしいって思ってますよ」
自分の手元を見下ろす千歌に、これが一般人の認識なのか、と桑介は驚いた。
だが言われてみれば、この前現れたワンダは、戦い慣れていないのか、如何にも弱そうなシェル・フォーメアに苦戦していた。シャイニーの実戦も披露できていない現状、仮面ライダーへの信頼はOGIが考えるより低いのかもしれない。
「僕らも、もっと頑張らないとな」
その呟きは桑介の想定より大きかったようで、千歌はパッと顔を上げた。
「僕ら?」
「あ、いえ――」
「――お父さん、OGIの会社に勤めてるの」
「梨子」
「いいでしょ、教えたって」
「え? 中の人? シャイニー作ってるんです!?」
「いや、僕は――」
「――ただの平社員よ」
娘の素っ気ない口調に、
「出世しそうなんだけどな」
と桑介は苦笑する。
「千歌さん、心配しないでください。たしかに仮面ライダーは頼りなく見えるかもしれないけど、OGIグループは一丸になって、この街を護ろうと頑張ってますよ。今だってそうです。だから、内浦は大丈夫です」
千歌は何度か瞬きしてから、
「大丈夫……」
俯くようにゆっくり頷く。
「そっか、そうだよね。大人の人だって戦ってるんだよね」
その顔に、ほのかに笑顔が戻ってきて、桑介は安心した。
その自覚に驚いた。
沼津への出張で関わったμ-フォームおよび仮面ライダーに関する作業を、桑介は業務として割り切っていた。フォーメアは実際に内浦で人々に恐怖や被害を与えているし、高い金を使ってシャイニーを開発しているとはいえ、全体としては対岸の火事のような認識で、ネットや同僚と同じでエンタテインメントの一種のように思っていたからだ。
いや、そんなことを言語化して考えてもいなかった。桑介のリアルはあくまで、被検体としての役割を負わせた娘を、早く母親のところに連れて行ってあげたい、という思いだけだったのだから。
だが、その娘の友達の顔を見れば、桑介の心は苦しくなる。
元々人口の流出が深刻化していると言われる街に現れた異常事態で、旅館の娘である彼女の生活が変化したこと、それに順応しようともがいていることが、桑介にも想像できたからだ。
その想像は、地図上の一地域であり、異動通知の文字であり、短期滞在の住所であり、借家と職場の往来であり、あと何週間かで去ることになるだけだったこの内浦が、桑介自身のリアルになったことを意味していた。
桑介はそれに驚いたのだ。
(いや……)
それも、言語化するまでもないことか。
和菓子を買って一人で会社に向かった時には見向きもしなかった景色に、自分がなにを感じたかを考えれば。
*
「あ、そこだよ、その旅館」
せいぜいが五分程度の道のりを経て、桜内桑介の運転するクルマは、貫禄のある日本家屋を向正面に見せる旅館の前に着いた。
梨子がクルマ通りのない前後を確認して降り、
「ありがとうございました」
千歌も乗ってきた時とは違う真面目な面持ちで降りる。
「じゃあ梨子、遅くなる時は一言連絡しなさい」
「うん」
「それじゃ、娘をお願いします、千歌さん」
「もういいから、お父さん」
口を膨らませる梨子に笑いながら、パワーウィンドウのボタンに手をかけ――
「お父さん! 折り入ってお願いがあります!」
――千歌が上がりかけた窓ガラスに掴んできた。
「千歌ちゃん? お、お父さん、って」
「どうしました? やはりどこかに出かけます?」
桑介がふざけて問うと、しかし千歌は浅く吸った息を鋭く吐き、改めて息を吸った。
「梨子ちゃんを浦の星女学院に正式に入学させてください!」
その言葉に、桑介は目を丸くする。
「ち、千歌ちゃん!?」
「家のことに口を挟んで、不躾なのは分かってます! でも、私、梨子ちゃんと一緒にやりたいんです! スクールアイドルを!」
スクールアイドル。
先ほど菓子屋で聞いた名だ。
「待ってよ千歌ちゃん。曲はもうほとんどできてるし、メンバーだって足りてるんだから、私が入部する必要もないでしょ?」
「もうそんな理由、関係ないよ! 私が梨子ちゃんとやりたいの!」
「それは、でも……」
恥ずかしそうに頬を染めた梨子は、友達の問いに娘は即答せず、父の顔を見た。
「うーん、困ったなあ」
学校で友達を得た梨子は、桑介よりずっと早くに、この街をリアルとして実感していたはずだ。だから学校に属するスクールアイドルの手伝いを始めたのだろう、それは想像できる。
だが、梨子がここにいるのは――桑介が静岡OGIに所属しているのは、梨子の検体としての役割が終わるまでだ。それは昨日のワンダ出現の影響で今日の検査がなくなったように、様々な要因で前後することはあるが、それでも五月初旬には終わる見通しなのだ。
それをこの少女は知っているのだろうか。
「お父さん!」
その真摯な表情と声を知れば、桑介も子供扱いはできない。
「千歌さん」
呼びかけると、千歌は真剣な目を向けてきた。
「聞いているとは思うけど、僕たちは梨子の検査のために、ここに来ているんです。近いうちにここを去らなきゃいけない」
「それは分かってます。短い間でもいいんです!」
「なぜそんなに、その、スクールアイドルをしたいんです?」
「護りたいからです、大切なこの場所を! 大人の人とは違う、私たちのやり方で!」
「アイドルになって?」
「はい!」
フロントガラスに視線を向け、少し考える。
「梨子はどうしたい?」
桑介はスクールアイドルに明るくない。夏や冬に大会の模様をニュースで知る程度だ。だがアイドルと銘打つ以上、人前で歌ったり踊ったりする資質が求められることは想像できる。
それが梨子にあるのだろうか。
「私は……」
梨子は口ごもり、目だけで千歌と父を見比べる。
そこで桑介は思い出した。
「そうか、この前、会社に来て言いかけたことって、このこと?」
「この前?」
「なんで体験入学生なのか、聞きに来たよね。できないことがある、って」
梨子は首を傾げる。
「覚えてない?」
「あの、それっていつのことです?」
「今週の月曜日ですよ。日曜日のじ……検査の翌日なので」
桑介が答えると、千歌はパッと表情を明るくした。
「じゃあダイヤさんに言われた日じゃん! そうだよ、やっぱり一緒にやりたかったんだよね!?」
梨子は目を泳がせている。
「梨子、どうした?」
「一人で会社に行った時……だよね? でも、あれ?」
梨子は前髪をかき上げるように持ち上げ、額に触れる。
「どうして?」
「梨子ちゃん? 具合悪いの?」
千歌が梨子の肩に触れると、梨子は弾かれたように顔を上げた。
「あの、ごめん……この話、あとでいい? 私、なんでだろ、変な感じで」
梨子の態度に、桑介は困惑する。
静岡OGIの社内で桑介と話したことを、どうして語らないのだろう。体験入学生でいることを、役目が終え次第ここから去ることを、梨子はあの時、納得した。その結論を、友達の前で言いたくないのか?
だとしては様子が妙だが……。
「平気? 調子悪いんだったら、このまま帰る?」
「……ううん、頑張る。千歌ちゃんをビシバシ鍛えなきゃ」
そう口にした梨子は、もうすっかり元通りだった。
「ええー。優しくしてくれないの?」
「しません」
言い合う二人に、桑介はまたも困惑するが、
「あの、ごめんなさい、急に無茶なこと言って」
千歌が丁寧に頭を下げてくれば、意識を切り替えざるを得ない。
「あ、ええ、いえ。でもビックリしました、越してきて間もないのに、こんな友達ができてたなんて」
「そ、そうですか? いやあ、それほどでも……」
さっきの真剣な顔はどこへやら、千歌はふにゃりと笑う。
梨子も今度は照れ隠しをせず、嬉しそうに千歌を見ていた。
「梨子、僕は行くけど、もし体調が悪くなったら、すぐ連絡しなさい」
「うん……」
「スクールアイドルの件の結論も、だよ?」
「うん」
「では、千歌さん、梨子のこと、よろしくお願いします」
「もちろんです! ありがとうございました!」
窓を閉めてワンボックスを出す。
バックミラー越しに大きく手を振る千歌を見て、音ノ木坂女学院時代の梨子にもあのレベルの友達がいたのだろうか、と桑介は考える。少なくとも桑介は、梨子の口から友達の話を聞いた覚えがなかった。
内浦の自宅に着いた桑介は、エンジンを切ると、クルマを降りずにダッシュボードを開いた。車検証などの書類に、誰かが置いていった文庫本、そして桑介が入れたA4サイズの茶封筒が見える。
茶封筒は二つ。
東京は芝浦の≪OGI研究所≫への異動。
沼津は静浦の≪OGI研究所病院≫への異動。
似たような名前を付けたな、と桑介は口元で笑う。
昨日、前者を受け取った時、断る理由はないと考えていた。たった一箇月かそこらの出張で、被検体を提供して実験のサポートに入っただけで、栄転としか言いようのない立場に迎え入れられるのだから。
だがなにより、梨子のことだ。
沼津にいる以上、梨子は≪ブランキア≫であり、OGIの被検体だ。その宙ぶらりんな状態は、父親としても辛い。だから検査が終わり次第、可能な限り早く、娘を母親の場所に連れて行ってあげたいと思っていた。
だが。
新しい友達とじゃれ合う梨子の顔を思い出す。
娘のために言葉を尽くす千歌の顔を思い出す。
契約を遵守するなら、桑介がこの街を出る時、それらは永遠に失われる。
桑介は残りの人生を、記憶の中の打ち沈んだ梨子と生きていかなければならない。
それを考えれば、もう一つの選択肢が鎌首をもたげてくる。
(知っていたのか? 小原鞠莉は)
内浦が、梨子の大切な場所になっていることを。
同種の感情が、桑介に芽生えるであろうことを。
次回予告
曜 「なんかさ、笠木センセのところだけ、妙にギャグテイストじゃない?」
ダイヤ「せっかくシリアス一辺倒で攻めていたのに、曜さん、なんということを……」
曜 「え、私のせい?」
花丸 「ずっとシリアスだと疲れちゃうから、渡辺先輩はあれでいいです」
曜 「色々言いたいことあるけど……まあいいや。次回、仮面ライダーメルシャウム第七話、『目指すのはあの太陽』」
ダイヤ「そして曜さん回、ということですわね」
花丸 「んー……」
曜 「まあ、そうともいえるかな」
ダイヤ「?」
花丸 「お楽しみにずら!」
C
「あー、クソ」
コンパイラにエラーメッセージが吐かれ、高海美渡も汚い言葉を吐き返す。
「これダメなんだっけ? ったく、ShellもCも専門じゃないってのに……」
ブラウザを立ち上げてネットで検索しようとするが、セキュリティ警告が表示されてしまう。
「余計なことをしてくれちゃってもう!」
先日、機密情報漏洩に関するセキュリティブリーチが判明したことで、JH開発室からのインターネット接続が全面的に禁止されてしまったのだ。おかげで今まで許されていたネットでの調べ物ができなくなってしまい、美渡の作業効率は急降下していた。
「いや、落ち着け、高海美渡……」
頭の高さのパーティションで区切られた開けたオフィスには、自分以外の作業者はいない。爪先でジュートソールのサンダルを弄びながら、ノースリーブのブラウスの胸元を摘まんで風を送り、への字にした口を少しずつ解いていく。
要求された実装はとっくに終わっていた。だがみんなの目に触れる以上、ダサいコードは書きたくない。そんな意地のせいで、休日出勤していながら時刻は二二時半を回ってしまった。
手を動かしている間は夢中な分、一度ストップをかけられると著しく機嫌が悪くなる自覚はある。唇を振わせるように息を吐き、OGI製のCPUアーキテクチャマニュアルと、先輩が持っていた閲覧権を借りて入手したハードウェア設計図を広げ、キーボードを叩く。
問題の箇所を特定し、修正、コンパイルは通過。テストコードの結果はオールグリーン。
「当たり前だろ、この美渡様の手にかかれば」
次はシミュレーターにリモートで繋ぎ、モジュールをアップする。
処理速度は申し分ない……と思う。
「これで限界かなあ」
背もたれを倒して伸びをする。
「お疲れ様です、高海さん」
口から心臓が飛び出すかと思った。
蛍光灯の逆光の中で、直属の上司の顔が覗き込んでいたからだ。
「しゅ、主任! お、お疲れ様です!」
思わず脇を両手で隠し、声を上げる。
「はい、お疲れ様です」
繰り返す主任を前に、急いで姿勢を直そうとするも、リクライニングは妙にノロノロとしか戻らない。
隠した脇は永久脱毛して久しいことを思い出したが、今さらわざわざ見せるのもおかしい。
気まずい思いに目を泳がせるが、主任は伸び放題の髪の下で、涼しげな笑顔を浮かべたままだった。
「進捗は如何ですか?」
美渡が自分のマシンと正対するのを待って、主任が口を開いた。
「えっと、JH担当分の全モジュールの単体テスト、ただいま完了です。明日の日曜一杯で内部結合して、提出できるかと」
「テスト設計は?」
「昨日のレビューの戻りは取り込んでたと思います」
「把握しました。ありがとうございます」
「……って、なんで私がJHのまとめ役みたいになってるんですか」
最年少二二歳の自分が、JH開発室の進捗報告を主任にしている絵面がおかしくて、美渡は笑ってしまう。
「申し訳ありません、サポートに入っていただいたのに、JN開発室に付きっ切りで。皆さんには無理を聞いていただいて、本当に感謝しています」
「いえ、そんな」
一〇歳以上年上の相手に慇懃な口調で話しかけられると、丁寧とはいえない敬語しか使えない美渡はむず痒くなる。
「今日はもう帰られますか?」
「そうですね。ここの洗濯機やシャワーは、あんまり使いたくないし」
「同感です」
主任は笑い、着込んでいるが清潔に保たれた白衣をつまんだ。
その大して気にしていなそうな身なりも、顔を縁取る伸び放題の髪と雑に当てた髭も、年頃の美渡としてはあまり近付きたくない属性ではある。だがこの人物に関しては、あまり苦手ではなかった。なにを考えているか分からない目や、上品なアルカイックスマイルを浮かべる口元に、どことない不穏さを感じるから、と推定したことはあるが、答えは出ていない。
「しかし、不思議ですね。美渡さんのような方が、なぜこのような仕事を?」
そう口にした主任は、美渡の頭を見た。
彼の目には、慎ましいが値の張るピンやピアスで彩られた、手入れを欠かさない髪が見えていることだろう。まじまじ見られると照れくさく、横髪に触りながら顔を逸らす。
「知らないです? JNでも有名な話だと思ったんですけど」
「あまり雑談はしないものでして」
見た目からして仕事しか興味がなさそうな主任は、それをなんでもないことのように言った。
実際のところ、美渡は浮いている。座り仕事なのでそれほど値の張らないパンツスーツが基本になったが、それでもジャケットを脱ぐ就業中は、快適性とスタイルの両立できるコーデを選んでいたりする。
そういう人物は、男性であれ、片手で数えるしかいない女性であれ、このオフィスには皆無なのだ。主任が気になる気持ちは分かる。
「まあ、その、仕事をサボってるところを見つかっちゃって」
主任が小首を傾げた。先を促したようだ。
「ほんとはホテルオハラのコンシェルジュの採用だったんですよ。でもあんまりにも仕事がなくて、暇で暇でExcelのマクロで『マリオブラザーズ』を書いて遊んでたら、上司に見つかっちゃって。で、コピーを渡したら、いつの間にかこっちに転籍になっちゃったんです」
「ゲームを? VBAで?」
頷くと、主任は苦笑した。
「高海さんって、おいくつなんです?」
「いいじゃないですか、別に!」
笑いながら言った後、まるで自分に対する千歌の反論のようだ、とさらに笑いがこみあげてくる。
そんなことを考えていたから、
「高海さん、仮面ライダーに興味はおありですか?」
「は?」
主任の唐突な話題についていけず、美渡は片眉を上げた。
「あ、え、えっと……妹は夢中ですよ。高校生なんで、子供っぽいとは思いますけど――」
「――そうですか!」
と、主任に笑顔になった。
「ではこちらへどうぞ!」
「え? あの……」
主任は嬉しそうにオフィスを出ていき、
「私は、興味ない、っていうか……ええ?」
一人呟いた美渡は、付いて行かざるを得ない。
廊下の突き当たりにある、一度も開いたところを見たことがない扉がカードキーで開き、主任のあとについて入る。そこは本社ビルのちょうど中央付近に位置する階段で、主任はそこを下っていった。
「あの、どこに?」
主任はボサボサの髪の間で笑い、一階の扉をカードキーで開ける。さらに廊下を通り、いくつかのセキュリティを抜け、辿り着いたところは二階まで吹き抜けになっている広い部屋。その中央の作業台に――
「……はあ?」
――天井から吊るされた人影があった。
俯き加減で立っているそれは、ギラッと輝く銀色の装甲をまとった、のっぺらぼうだった。人が入っているようには見えないが、天井や床から伸びるケーブルやパイプが接続され、装甲の方々でインジケーターが明滅しているところを見るに、なんらかの動作はしているらしい。
「≪ラギダイザー計画 試作μ-6型 2号機≫です」
美渡はそのフォルムに見覚えがあった。
「仮面ライダー……? ウチでも開発してたんですか?」
「“ウチが”、開発したんですよ。我々、静岡OGIが」
「え?」
主任の方に振り向くと、彼は上を示した。
「皆さんと同じく、≪仮面ライダーシャイニーMark II≫と呼んでいただければよろしいでしょう」
二階部分に作られた広い窓から、数名の男女が見下ろしていた。美渡が顔を上げると、女性の一人が手を振る。
「高海美渡さん、あなたには明日から、この子の運動制御を書いてもらいます」
「私が? なんでです?」
「あなたにしか改修できないからです」
「……もしかして、この前提出した、アレの話です?」
美渡が思い出していたのは、JH開発室での作業が一段落した先月の後半、一時的にガラス張りの個室に呼ばれてガッツリ作業したことがあったのだ。
それは正しかったようだ、主任は涼しげな笑顔にはっきりと喜びを含めた。
「先月あなたにヘルプで書いていただいたマニピュレーター制御の最適化、見事でした。我々が開発した運動制御をあの水準に底上げできれば、この子のパフォーマンスは現状の二~三倍をマークできるでしょう。いずれくる対黒澤家のために――」
主任が美渡の手を握る。
「――あなたの力が必要なんです」
美渡にはピンときていない。あの作業がどのような役割を果たしたかなど、続く本来の作業に悩殺され、知らなかったからだ。
だが、分かったことはある。
ブランキアとワンダの実戦投入からの事後公式発表、対照的に発表されたまま姿を見せない小原鞠莉のシャイニー、そしてまだ見ぬ一〇体の仮面ライダー。
OGIグループはなぜこんなに発表を連発するのか、朝のニュースを見た時から不思議だった。
そうではない。
≪仮面ライダー≫というキーワードは、小原家だけのものではない、ということだ。
つまり、主任は焦っているのか。
「だから昨日の夜、急に作業が前倒しにしたんですか? ワンダが出てきたから」
その言葉に、主任が目を丸くして、次いで細め、笑った。
「世界が私に乗ってきたんですよ、高海さん。この依田義森のヴィジョンに!」
ああ。
主任は喜んでいるんだ。
爛々と光る目にかかるボサボサの髪を、美渡は切りたくてしょうがない。