仮面ライダーメルシャウム   作:fuki

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第一話:始まりの鼓動 - 2(完)

   B

 

 球体は直径三センチほどで、正八面体の結晶がぴったりと内接して収まっている。ファンタジーものでよく見る、縦長の“クリスタル”のようだ。その結晶と球体の隙間を、液状のものが対流するように穏やかな渦を巻いている。

 渡辺曜はそれを手のひらの上で転がし、廊下の蛍光灯を反射した輝きが手のひらで踊るのを見た。

「うーん、水風船っぽいんだけど、直接水を触ってる冷たさだよね。ゴムっぽい匂いもベタベタもないし。水の手触りそのままで固めました! って感じ」

「羊羹の宣伝みたい」

 千歌が笑いながら、球体を指で押した。曲面がへこみ、曜の手のひらに結晶の頂点がちくりと食い込む。

「結局、これが“お化け”なの?」

 果南が問うが、曜は首を傾げるしかない。

 始業式の翌日、入学式の手伝いで集まった曜たち幼馴染み三人は、廊下の一角で球体をいじり回していた。

 窓の外では雨がしとしとと降り続け、朝の低い光を灰色の雲が隠している。そんな中にあって、球体はどういう理屈か、曜の手のひらに虹色の輝きを放っていた。まるで太陽の代わりと言いたそうに。

 とはいえ、この握りこぶしに収まる球体に、内浦湾の中心から曜の家まで届く光を発するポテンシャルがあるとは思えない。

「そうだ、昔、光るスーパーボールってあったよね」

 唐突に果南が言った。

「ほら、千歌が面白がって何個も海に投げてたら、もの凄い怒られてさ。私たちまで拾わせられて」

「よく覚えてるなあ、果南ちゃん」

 と言う千歌も思い出しているようで、ばつが悪そうな顔をした。

「でもスーパーボールじゃないか。結晶が尖ってるから、投げたら破れそうだよね」

「お化けが死んじゃう!」

「死なないよ」

「ストーップ! 針路が逸れてる!」

 曜は二人の会話に割り込み、千歌の方を見た。

「ねえ千歌ちゃん、昨日、なにがあったの? たしか、『呼んでた』って言ってたけど……?」

 曜の言葉で、笑顔だった千歌の眉が八の字に落ちる。

「なにか聞こえた、と思ったんだけど」

「なんて?」

「それがよく分かんなくて」

「やっぱり、ブランクありでいきなりあの水深は、まずかったかな。ごめんね、千歌」

 果南が千歌の肩に優しく手を置くのを見て、曜は複雑な気持ちになる。

 昨日、光る球体を回収してクルーザーに戻った時、千歌は『呼んでた』と言った。曜はそれを“お化け”からの声と解釈して身震いしたのだが、果南と祖父の節三は当然と言うべきか、潜水症による幻聴だと思ったのだ。

 ゆえに千歌は大急ぎでかかりつけの病院に連れて行かれ、曜は球体を渡されて帰され、翌日の今日に到ったのだが。

「減圧症じゃないよ。果南ちゃんだって、診断、聞いたでしょ?」

 一歳上の幼馴染みの反応に、千歌は唇を尖らせた。

「だいたい、声が聞こえたの、海の底だもん。上がる時だって、みんなでちゃんと窒素抜いたもん」

「そうだけど、それ以外に原因が――」

 と、校内放送が重なった。入学式の準備が始まるアナウンスだ。

「――私行くね。千歌、今日は安静にしてなよ。なにかあったらすぐ救急車、いいね!」

「なんにもないよう!」

 千歌は果南が階段への曲がり角に消えるのを見送ってから、曜の顔を見た。

「私たちも行こ。準備しなきゃ」

 曜は千歌の背中を押して体育館に歩き出すが、千歌は不満そうに下顎にしわをよせたままだ。

「聞こえたんだけどなあ」

「ごめんね、千歌ちゃん。なんか、変なことになっちゃって」

「曜ちゃんのせいじゃないけど……」

 元はといえば、曜が「お化けを見た」と言い出したことで向かったダイビングなのだから、千歌がなにかの声に導かれたのは、文脈では合っている。

 だが曜が“お化け”と言い出したのは単なるフックであり、曜自身がお化けを信じているわけではない。なにより曜自身も、果南が言う潜水症の可能性を考えているのも事実だ。そんな状況で曜がなにを言おうと、頭が痛い展開になるのは目に見えている。

(だからってなあ。せっかく楽しそうな千歌ちゃんだったのに)

 考えた曜は、ふと、手のひらに包んだままの球体を思い出した。

「千歌ちゃん。これ、あげるよ」

 千歌がパッと振り返った。

「え、いいの? 曜ちゃんが見つけたのに」

「だって、潜ろうって言ったのも、呼ばれて見付けたのも、千歌ちゃんでしょ?」

 千歌は曜の手のひらで虹色の光を放つ球体をしばし見ていたが、ぱっと笑顔になった。

「やったー! ありがと、曜ちゃん!」

 抱き付いてきた千歌の背中をぽんぽんと叩くも、その眩しさに、そこはかとない罪悪感を抱く曜だった。

 

   *

 

 見頃の桜に囲まれた駐車場には、雨にもかかわらず、入学式が終わったばかりの初々しい新入生たちでひしめいていた。

 ひしめくといっても、新入生は一三人、その保護者が二人ずついたとしても三九人と、通常規模の一クラスの人数しかいない。

 内浦湾の西端を構成する長井崎岬、その海に面した高台に、≪私立浦の星女学院高校≫はある。

 周囲の評判は上々だ。駿河湾に沿って並ぶ居住地からの交通の便はよく、「みかん山」と呼ばれるほど様々な柑橘類を栽培する畑に囲まれ、海抜約五〇メートルゆえに避難場所にも避難所にも最適だ。弓道場や剣道場など多様な施設を有する格技棟はスポーツ大会の会場に使用可能だし、カトリック系ミッションスクールであった名残のチャペルは近隣住民の憩いの場としても機能している。申し分はない。

 ただしそれは、ほんの数年前までの話だ。

 西浦地区、内浦地区の予防型高台移転について、沼津市や有力な企業が議論をしていたのは、数年前からニュースになっていた。それが去年、実施されたことで、海岸沿いの住民の多くが内陸部へ転居し、浦女から離れてしまったのだ。それに乗じて少なくない人数が沼津市内や県外に流出したことで、全国的な少子化に地域的な過疎化が重なり、入学志望者数は加速度的に減っていった。

 結果として多量の部活が存続困難から廃部となり、チャペルの聖歌隊は事実上活動休止、学校そのものの人気が低下していったことで、今年度ついに三学年合計で五〇名を割るに到ったのだ。

 それらが可視化されてしまったのが、この入学式といえた。

 だが国木田花丸は、スキップを踏むように歩いている。

 制服の糊の匂いも消えるような雨の中、お気に入りの黄色い傘を回しながら。

 浦の星女学院に入学した嬉しさに対する陰りは、花丸にはない。過疎化が進む状況だからこそ、この学校を選ぶのは確たる理由があるからだ。

 だから細身ながらも一本の尖塔を頂くチャペル≪聖ゲオルギオス礼拝堂≫を見付けた時には胸が熱くなったし、その前で頭の横で揺れるツーサイドアップの幼馴染みを見つけた時には、

「ルビィちゃーん!」

「あ、マルちゃん」

「入学おめでとうずら!」

 花丸は満面の笑みで抱きついていた。

「ピギィ! ま、ま、マルちゃん! 濡れちゃうよ!」

 高音域の奇声を発した黒澤ルビィに、花丸は離れて傘を差し直した。

「ご、ごめんなさい、そんな驚くと思わなかったずら! オラ、嬉しくて、つい」

「ううん、ルビィこそごめんね、ビックリしちゃって」

「私こそ、またオラって言っちゃった」

 謝りながら、しかし、どちらともなくクスクス笑い出す。

「これから、また一緒だね!」

「うん! クラスも一緒だし!」

 同じ中学校から進級した二人は、お互いの傘を重ね合わせ、手を触れあい、顔を近付ける。

 全校生徒が五〇人以下ゆえに、当然一学年一クラスしかない。沼津市内の小~中学校では同じクラスになれず、学校行事や授業では接触が少なかった二人だが、高校は一緒に色々なことができそうだ。

「そうだ、これ――」

 ルビィがスクールバッグを探って、なにかを取り出した。

「――入学祝!」

 それは直径四センチほどの小さなぬいぐるみだった。ボールの上に乗ったネコで、可愛いような可愛くないような、独特の顔立ちをしている。

「お揃いだよ! 入学式に間に合ってよかった!」

 ルビィのバッグにも、ピンクのクマの頭のぬいぐるみがついていた。

「あれ、これって」

 花丸はそれらに見覚えがあった。中学校時代に二人がノートに落書きしたキャラクターだ。つまり――

「――手作り?」

 ルビィが恥ずかしそうに小さく頷くと、花丸の顔は驚きから喜びに変わる。

「ありがと、ルビィちゃん! 大事にするずら!」

 きっと、もっと楽しいことが始まるはずだ。その漠然とした期待に、むずがゆい心地よさがこみあげてくる。

 と、ルビィの傘の向こうに、二つの和傘が見えた。

「ずいぶん遠くまで聞こえたぞ、ルビィ」

 その声に、ルビィの身体がビクンと揺れる。

「今日から高校生なんだから、もう少し落ち着てくれないと」

「小学生相手のような言い方ですわ、琳太郎さん。でもその通りよ、黒澤家の人間たるもの、慎みを持って行動しなさい」

「お父さん、お母さん……」

「あの、琳太郎さん、瑠璃さん、お久しぶりです」

 花丸はルビィから離れ、丁寧にお辞儀をした。

「こんにちは、国木田さん」

「ごきげんよう、花丸さん」

 応えたのはルビィの両親――黒澤琳太郎と黒澤瑠璃だった。しわ一つない紋付袴を着た琳太郎は、恰幅の良い腹にふくよかな頬でニコニコと、藍色のつややかな留袖を着た瑠璃は、肩で揃えた尼削ぎに温度の低い切れ長の瞼を細め、娘の同級生に笑いかける。

「高校でもこの子をよろしくお願いしますわ、国木田さん。いくつになってもそそっかしいのですから」

「ルビィ、そそっかしくないよ、さっきのはビックリしただけだよ……」

「それでも、奇声を上げるのは感心しないな、僕は」

「う、うう……」

 両親の間で、ただでさえ小柄なルビィが小さくなっているのを見て、花丸は心苦しくなった。

「あの、私もさっきみたいにそそっかしいので、ルビィさんにはご迷惑をおかけしてしまうかもしれません。それでもよろしければ、私こそよろしくお願いします」

 もう一度頭を下げる。

 そこに、ようやく娘を見つけた花丸の母――国木田環がやってきた。

「あ、どうも黒澤さん! うちの花丸がまたご迷惑を!」

「いえいえ環さん、お話をさせていただいただけですわ」

 双方の母が会釈をしあう。瑠璃は頬の端だけを僅かに上げて微笑み、環は笑顔を作りながらも傘の下から娘の肩を掴んだ。

「あ、あの、こんにちは……」

 ルビィは花丸と話していた時と打って変わって、囁くような小声で挨拶をする。

「こんにちは、ルビィちゃん」

 環はニッコリ笑って言う。だが瑠璃のように「花丸をよろしく」とは言ってくれない。

 気付けば花丸は、母に肩をひかれ、ルビィから引き離されていた。

 花丸たちだけではない、黒澤家の三人の周囲には、僅かに空間ができていた。周りの人たちが自然と距離を置いているのだ。

 当然だろう、と花丸は思う。

 黒澤家とは、江戸時代に内浦湾一帯の津元として栄え、明治に入ってからは皇室の別荘である沼津御用邸を管理してきた、由緒正しき家系である。沼津大空襲で御用邸が廃止されて以降も、跡地である沼津御用邸記念公園の運営を沼津市より一任され、現在も沼津市内からここ内浦まで、その影響力と家の名を知らぬものはいない。

 いや、そんな歴史的背景だけではない。

 環の着る袋帯を締めた色無地は、国木田家に婿養子を迎える際に、環の父が奮発して買った一張羅だ。

 だが瑠璃の着る留袖は、布地、染色、裁断、縫合、すべてにおいて質が違う。そして高級な着物を上品な年季が入るまで着こなす優雅さが、さらにはそれを雨の中でまとうことへの気取りのない自然さが存在する。

 比べれば一目瞭然なのだ。

 虫は自分の領分を弁えているからこそ、太陽に憧れはするものの、近付きはしない。

 それが大人たちの磁場。

 ルビィが「ごめんね」とでも言いたげな顔で、目配せを送ってきた。

 花丸も眉を寄せてみせながら、そうと知らず同輩のルビィと知り合えてよかった、と思っていた。事情を知っていれば、話しかけられなかったのは目に見えているから。

「あ、そろそろ説明会よ」

 環が腕時計を見て言った。これから新入生は教室でホームルーム、保護者は別室で学校からの説明会になる。

「じゃあオラは――私は教室に行くね」

「こっちの説明会が終わったら、≪松月≫にでも行く?」

 母の提案に、花丸は目を輝かせた。

「行く行く! みかんどら焼き食べたい! またあとでね!」

 花丸は、同じく両親から離れたルビィの方に駆け出し――

「ずら?」

 ――違和感を覚えた。

 駐車場を挟んで体育館と向かい合うように建つ、聖ゲオルギオス礼拝堂。学校と隔てるフェンスに囲まれたその榛色の建物の、開け放たれた入口の奥で、明かりが揺らめいている。

 そこに、人影が見えた。

 ルビィは目をこらす。

(チャペル付きの神父様?)

 いや、キャソックを着たシルエットには見えない。

 ルビィが花丸の所作に気付き、振り返る。

 二人の見る前で、それはチャペルから出てきた。

 ねちゃり、と。

 妙に耳につく水っぽい音が、雨に混じって届く。

「なにあれ」

 筋骨隆々としているが、どこか不自然な細部を持つ裸体。

 経年で汚れた布を、ぐるりと巻き付けただけらしい服装。

 男性的な両腕両脚に、女性的な色気がある乳房や腰回り。

「なにあれ!」

 花丸の呟きとは対照的に、ルビィは大声を上げた。

「すごいコスプレだよ! あのキトン、濡れても汚れが自然! もしかして本物の汚れ? 『ロード・オブ・ザ・リング』の衣装みたい!」

 ルビィが意味不明な驚き方をして写真を撮ろうとしたので、

「る、ルビィちゃん、無許可で撮っちゃダメずら!」

 花丸は慌てて制した。

「そ、そっか、そうだよね。あ、あの……。しゃ、写真……撮っても……」

 さっきとは打って変わって小声で囁くが、当然その声は届かない。

 そうこうしている間に、その存在はフェンスのドアを押し開け、駐車場のコンクリートを踏みしめた。

「あ、コスプレ」

「すごい、誰あれ」

 と体育館の周囲や前庭にいた生徒と保護者が気付き、誰かが写真を撮った。

「あ、あの」

 ルビィが呟いた時には、余興の類いと思ったか人が集まってきて、自然と撮影会が始まった。

「天使?」

「生物っぽいっていうか、リアル路線ね」

 その輪に遮られ、花丸とルビィは蚊帳の外に追いやられてしまう。

「コスプレだったんだ」

 しょぼくれるルビィの横で、花丸は息を抜いた。違和感のある体付きにも納得だった。

「うう、みんなずるいよう」

 タイミングを逸したルビィがその輪に加わりたそうな顔をしたが、電話の時計はホームルーム開始二分前を示している。

「ルビィちゃん、私たちは行こ?」

「う、うう、そうだね……。あとでまた見られるかなあ……」

 後ろ髪を引かれるルビィの手をとって、二人は歩き始める。

 と、すれ違うようにスラックス姿の男性が走っていき、

「おい、どきなさい。お前、許可はとったのか」

 とその輪に呼びかけた。

「入学式だからってその格好は許されんぞ。何年だ? 高海か? にしちゃデカいな。なに着てるん――」

 言葉が不自然に途切れた。

 その一瞬後、花丸の視界の脇をなにかが通り過ぎ。

 ぞば、と体育館の生垣に、なにかが突っ込んだ。

「――あ……あぐ……ゲェッ!」

 男性が、濡れた生垣に覆い被さるように倒れ、嘔吐していた。

「ずら?」

 花丸の声が、凍り付いた空気の中をすり抜ける。

 遅れて紺色の傘が、コンクリートの地面に落ちた。

 倒れている男性が、先ほどすれ違った男性だと花丸が理解した頃、

「ピギャア!」

 ルビィが奇声を発し、

「矢野先生!」

「おいやばいよやばいよ」

「なにやってんだ! お前!」

「近付くな! こっち来なさい!」

 つられるように駐車場が騒然とする。

「え? なに? どうしたずら」

 花丸は状況が飲み込めない。

 誰かが体育館に戻り、誰かが正門に逃げ、誰かが昇降口に走り、誰かがクルマに取り付く。

 その動きの中心にいる存在が、一歩を踏み出す。

 ねちゃり。

 男女入り混じった教師が四人、一斉に飛びかかった。

 その後ろに、九人の黒服の男が続く。ルビィを始めとする黒澤家を警備するボディガードだ。

 だが教師の二人は脇腹を、一人は鼻柱を、一人は胸を殴られ、地面に倒れた。

 続くボディガードに到っては、なにが起こったのか分からなかった。

 全方位から警棒を手に殴りかかった屈強な男が、同時に倒れたのだ。

 花丸は浅い息を繰り返す。

 一三人の大人が倒れ、人が走り去った駐車場で、背中を向けたそれが見えた。

 むき出しの背中を一直線に貫く、文字らしき一連の流れ。

 その両脇にある、肩甲骨が飛び出したような細長いコブ。

 天使?

 なるほど、羽の付け根のようなデザインに見えなくもない。

「ま、マルちゃん?」

 気付けば花丸は、ルビィを抱き締めて立ち尽くしていた。

 二人の傘が、雨の中に転がっている。

 お気に入りだったのに。

「マルちゃん、逃げようよ! みんな行っちゃったよ!」

「でも、オラ、どうすれば」

 二人の声に反応するかのように、頭が後ろを向く。

「頭?」

 中空の輪が、頭のあるべきところに何枚も浮いている。

 細切りにした竹輪のように、皮の貼られた平たい輪が。

 それが下から順に動き、花丸の方を向いたのだ。

 頭の輪切りが。

「――!」

 花丸は声にならない叫び声をあげた。

 怪人。

 その一単語が頭を駆け巡る。

 雨音を押し退けるように、粘つく足音がする。

 頭以外後ろ向きのまま、花丸に近付く。

「とまれ!」

 離れた生垣から、全身びしょ濡れの男性が箒を手に飛び出した。最初に吹っ飛ばされた、矢野と呼ばれた男性教師だ。

 容赦のない一振りが輪切りの頭に放たれ――

 ぐぞ。

 ――一瞬の静寂に、手応えのない音が落ちる。

 怪人の右肩と、真後ろを向いた左側頭部に、細長いくぼみが穿たれた。

「なんなんだ、お前」

 返答は右腕でなされた。

 腹を薙がれた教師は、駐車場をバウンドして転がった。

 それで終わり。

「センセ!」

「近付くな! 中に入れ!」

 喧騒が戻り、雨脚がさらに強くなり――

(ルビィちゃん!)

 ――花丸はルビィを抱き寄せたまま、しゃがみ込んだ。

「マルちゃん!?」

 きつく瞼を閉じる。

 そうすれば、相手からも見えなくなると信じて。

「ルビィ! 国木田さん! こっちに来なさい!」

 遠くから、ルビィの母の声がする。

「クソ、俺がやるしか――」

「――早く呼んでください! 琳太郎さん!」

 呼ぶ? 誰かが助けてくれる?

「でもルビィが!」

「あなたが戦えるわけないでしょう!」

「分かった。……俺だ、キョウ! 今、浦女に――」

 ――どん、とくぐもった音がした。

 なにかが叫び、なにかが地面をこすり、なにかが割れる音がした。

 今度はなにが起こったのか。

 遠いはずの海の匂いが鼻に届く。

 流麗なピアノの音色が耳に届く。

 いや、知りたくない。

 知りたくないのに、耳と鼻は閉じられない。

 また、隕石が落ちてきてくれればいいのに。

 

   *

 

「うわあ!」

 高海千歌は尻餅をついた。幼馴染みが突如走り出し、二人で運んでいた荷物を落としてしまったからだ。

「曜ちゃん? ちょっと! どうするのこれ!」

「お願い!」

 曜は階段を踊り場までジャンプし、滞空中に言った。

「んもう」

 取り残された千歌は、廊下で溜め息をついた。

 入学式を飾り、管理棟三階の倉庫への道のりを歩んでいた紅白幕は、床でぐちゃぐちゃになっていた。

 畳み直すにせよ運ぶにせよ、一〇キロ近くありそうな布塊を一人で処理するのは無理だ。誰かいないかと周囲を見回し――

「ん?」

 ――窓の外に目が留まった。

 傘だ。梅雨に咲く色とりどりの花のような傘が、眼下の駐車場に転がっている。

 その持ち主は、先ほど入学した新一年生とその保護者たちだろうが、彼女らは駐車場を放射状に逃げ惑っているようだ。

 なにから?

 その答えは、放射の中心、赤い傘と黄色い傘が転がる場所のそばにいた。

「不審者!」

 千歌はぐちゃぐちゃの紅白幕を飛び越え、廊下を駆け抜けた。

 階段を駆け下り、踊り場でターンを決めて下駄箱を通り過ぎるまで一〇秒。

 下駄箱で外履きに履き替えていた曜を追い越す。

「千歌ちゃん! 安静にって言ってたじゃん!」

「でも!」

 ランニングシューズの曜と共に昇降口を飛び出し、体育館と教会の間に挟まれた駐車場へと走る。

 目的地は、明らかにおかしい状況だった。

 校舎に走っていく生徒に、倒れている教師とボディガード。

 赤と黄の傘のそばで、抱き合ってうずくまる二人の新入生。

 そして――学校の外から近付いてくるバイクのエンジン音。

「暴走族!?」

「去年壊滅させたはずだよ!」

 二人のそばを、エンジン音が走り抜ける。

 だが黒い染みの線を残して駐車場に向かったのは、バイクには見えない。

「え」

 千歌の足が思わずとまる。

 漂ってきたのは排ガスやオイルではなく、濃厚な潮の香りだったからだ。

 

   *

 

 花丸に抱かれた黒澤ルビィは、幼馴染みの緩やかにウェーブのかかった髪の隙間から、それを見ていた。

 緑色の、苔のようなドロドロした物体が、視界に飛び込んで来たのを。

 それが時速数十キロで突っ走り、頭のない怪人をまっすぐはね飛ばしたのを。

 ねじれるような声らしき音。

 クルマのフロントガラスを叩く鈍い音。

 頭のない怪人が、ボンネットを転がって地面に落ちる。

 怪人をはねた緑色のドロドロは、ルビィの横でターンし、停まった。

 エンジン音が静まり、代わりに小さなピアノの音楽が聞こえてくる。

 ルビィは見上げる。

 それは、四本の突起の生えた塊だった。

 その突起が人間の四肢だと分かったのは、その塊が乗り物にまたがった人の形だと分かったのは、完全に分離した何者かが二本の足で地面に降り立ったのを見た時だ。

「誰?」

 答えるように、乗り物から寝息のような音がする。

 それと共に、苔のようなドロドロが、乗り物に染み込んでいき。

 数秒で、シャープで小柄な外装をまとったオートバイが現れる。

 ピアノはそこから流れている。

 頭のない怪人が、なにかを叫ぶ。

 緑色の人の形が、そちらを睨む。

 水分を失って鮮やかに硬化した苔の装甲が、胸や腕や脚を覆い。

 ナイフの如き分厚い一対の触角と、赤い大きな複眼が顔を覆い。

 カミキリムシの顎を思わせる一対の牙が、音を立てて口を覆い。

 腰のベルト状の意匠に収まった球体が、桜色の輝きを強く放つ。

 脇腹のスリットから噴き出した蒸気で、桜の花びらが散い散る。

 苔の怪人。

「助けてくれたの?」

 答えず、怪人は歩きだす。

 その先には、頭のない怪人がいる。不自然にゆがんだ胸と腿を蠢めかせ、立ち上がろうともがいている。

 戦いにきたの?

 と、ルビィの手を誰かが掴んだ。

「立って、早く! 仲間割れしてるうちに!」

 ショートボブの上級生が、ルビィの手を引いて立ち上がらせた。

 見回せば、大人や上級生が駆け寄ってきている。

 正体不明の存在が、ルビィたちから離れたからか。

「ルビィ!」

 父の琳太郎も、袴の裾が濡れるのも構わず走ってくる。

 ルビィは上級生の髪の塩素の匂いを嗅ぎながら、渦中から離れていく。

「君も、ほら!」

 別の声がして、ルビィを引き剥がされた花丸も、立ち上がっていた。だが足が動いていない。

「マルちゃん! 頑張って!」

「曜ちゃん! こっち手伝って!」

「ルビィは任せろ!」

「お願いします!」

 曜と呼ばれた上級生からルビィを受け取った父は、娘を抱えるように走る。

 ルビィは校舎のそばで下ろされ、そのまま琳太郎に飛びつき、雨で湿った紋付に顔を押し付けた。

 肺が痙攣しているように息が浅く、心臓が破裂しそうなほど胸を叩いているのにやっと気付いた。

 顔を上げると、傘の下の瑠璃の姿もあり、安堵で涙が出そうになる。

 だがルビィは振り返る。

 ルビィの親友は、両脇を上級生に抱えられて引きずられていた。

「マルちゃん!」

 その向こう、壊れたクルマの手前で、頭のない怪人が立ち上がった。

 はねられてメチャクチャになっていた脚は、なぜか元通りに治っている。

 輪切りがバラバラと動き、頭のような形で苔の怪人を見る。

 その苔の怪人は歩みをとめると、脱力した両腕を軽く持ち上げた。

 勝ち目はあるの?

 そうルビィが思った時、頭のない怪人が小さく踏み込み、その拳を引き絞り――

「カァッ!」

 ――コンクリートが振動した。

「え?」

 地面に叩き付けられたのは、頭のない怪人。

 ルビィは何度か目を瞬かせる。

 どちらの怪人が、どちらに殴りかかったんだっけ?

 方や顔が見えず、方や顔がなく、どちらかが声を発したか分からない。

 そう考えている間にも、頭のない怪人は素早く立ち上がり、助走をつけて殴りかかった。

 裂帛の気合。

 両者が触れるか触れないかで宙に舞い上がったのは、今度も頭のない怪人だった。

 なにが起こったのか。

 怪人が地面に首から叩き付けられ、薄い輪切りの頭がべしゃっと水飛沫を立てても、ルビィには分からない。

「合気道!」

 花丸を運んでいる上級生が背後に叫び、ずっと前に姉と見た映画のアレだ、とルビィは父の胸の中で息を上げた。

 苔の怪人は、両腕を身体の両側に下ろす。

 同時に、脇腹のスリットから蒸気が噴き出す。

 その動きに感じられる知性。

「やっぱり、護ってくれてる?」

 と、両腕を地面についたままの頭のない怪人から、なにかが打ち出された。

 苔の怪人の腕が振われる。

 叩き落とされたそれは、輪切りの頭の一部だった。

「うわ!」

 ルビィは顔をしかめた。

 あれがボディガードをいっぺんに倒したんだ。

 輪切りの頭はまだある。円弧を描いて、一枚、二枚と苔の怪人に向かう。

 だが苔の怪人は動じていない。地面に落ちた輪切りを足で踏み付けながら、雨の中に左腕を伸ばし、形作られていくなにかを握る。

 怪人の背丈以上の長さの、片刃の薙刀。

 それを、雨水をめくり上げるように大きく振るい、飛来する輪切りをすべて撃ち落としてしまった。

「すごい」

 ルビィは呟くが、状況は終わらない。

 すべての輪切りを失った怪人が雨の中を跳ぶと、その背中のコブから真っ白な翼が生えたのだ。

 差し渡し三メートルはありそうな翼を広げた姿は、誰が呟いたか“天使”としか言いようがない。

 その天使が狙っているのが、花丸と二人の上級生だと、ルビィには分かった。

「マルちゃん! 上!」

 ルビィが叫んだ時、上級生の一方が気付いた。

 怪人は頭のない頭を下に急降下し。

 上級生の一人は花丸たちを突き飛ばす。

「うわ! 千歌ちゃん!」

 千歌と呼ばれた上級生は、倒れた二人をかばうように飛び出し、水たまりを蹴立てた左脚を軸に――

「うおりゃあッ!」

 ――上段蹴りを放った。

(空手だ!)

 上級生の長い髪が膨らみ、足の裏が急降下してきた怪人の左肩を捉えた。

 怪人の落下角が逸れた。

 だがそこまでだった、上級生と怪人はもつれるようにコンクリートを転がった。

 上級生はすぐに肘をついて起きあがろうとする。

 だが怪人の方が早かった。

 膝立ちに起き上がり、拳を振りかぶっていた。

「千歌ちゃん!」

「ピギ!」

 ルビィは声を上げたが、目は閉じられなかった。

 あの先輩は、ルビィと花丸を助けようとしたせいで怪我をしてしまう。

 いや、死んでしまうかもしれない。

 瞬きの間に世界が変わってしまうなんて、耐えられない。

 だが――

「え?」

 ――振り下ろされた拳は、なんの結果ももたらさなかった。

 頭のない怪人の胸から、なにかが飛び出したからだ。

 薙刀の刃が。

 そして。

 頭のない怪人と薙刀がざらっと崩れ。

 沸騰したように音を立てて泡立ち。

 やがてコンクリート覆う雨と完全に同化してしまった。

 その向こうに現れたのは、投擲の姿勢で残心していた苔の怪人。

 それで終わり。

「消えちゃった……の?」

 いや、なにかが落ちている。

 手のひらに収まりそうな、淡く光る小さな丸いなにか。

 ピアノの音楽が白々しく響く、雨以外に動くもののない世界を、苔の怪人が歩く。

 そしてそのなにかを拾うと、踵を返し、緑色のバイクにまたがった。

 バイクはどろどろとエンジンを唸らせると、水を裂いて走り去る。

 なにも残らなかった。

 なにもなかったかのように。

「あれは誰だ? 誰から?」

 父が呆然とした声を発した。

 それでルビィは我に返った。

「マルちゃん!」

 琳太郎を離れてルビィが駆け寄ると、花丸は焦点の定まらない目で、

「ルビィちゃん?」

 と言ったあと、ルビィに抱きついて泣き出してしまった。

 その姿を見たら、ルビィの涙腺も緩んでしまう。

 その横で上級生二人は、

「あー……絶対死んだと思った」

「そりゃこっちの台詞だよ!」

 と言い合いをしているのだった。

 

   *

 

 液体は熱され、空気と混じり、泡となる。

 弾ける泡の衝撃が力を、回転を、収縮を産み出す。

 溢れ出た音は連なり、一繋がりの音は波を産み、音楽となる。

 途切れることなく、心臓の代わりに私を内側から叩き続ける。

 蓄えた液体はいつか、泡となって失われるだろう。

 それまで、この身は駆り立てられるのか。

 

   *

 

「見ました!? みなさん、今の! すごい絵が撮れちゃったわ!」

 津島善子は、電話のフロントカメラを覗き込んでまくし立てる。

「いやー、入学早々こんなイベントに遭遇するなんて……。やはりこの雨は不幸なんかじゃなかったわ。我が堕天使ヨハネの≪バロールの魔眼≫からは、何人足りとも逃れられないのよ――」

 自身を“ヨハネ”と呼称する善子は、上気した顔に似合わない低い声で芝居がかった台詞をはいた。姫カットに切り揃えた髪をシャープに揺らす演出つきだ。

 カメラは自画撮りの善子を入れ込んで、駐車場を走り回る人たちを映している。その映像はリアルタイムにインターネットにアップロードされ、今まさにニコニコ動画で生配信中だった。

 その映像に、視聴者が投稿したコメントが重なる。曰く、「なにやってんだ浦女wwww」「金かかってんなあ」「コスプレ怪人ww」「面白かった」「88888888」「ちょっとCGっぽすぎない?」「浦女オワタwww」「バロールの目じゃ死んじまうぞ」「さっきの先生すげー飛んでたな」などなど。

「違うよ違うよ、たぶん出し物じゃないし、CGでもないよ! 本物の不審者だよ! ほんとにヨハネたちの目の前で起こったことなんだから!」

 「不審者きえたじゃんw」「金かけるとこ間違えてるだろ」

「だから――」

 コメントと会話する善子の周りに、人はいない。

 配信開始から五分にも満たない僅かな時間で、生放送の累計来場者数は五〇人を越えていた。うら若き女子中学生の顔出し配信などありふれた存在になった現在、中堅配信者から有名配信者へのランクアップの壁に悩んでいた≪堕天使ヨハネ≫こと善子にとって、これは願ってもないチャンスだった。

「そんな言うなら、インタビュー行っちゃうよ! ≪堕天使ヨハネの真夜中フラガラッハ=エクストラ≫! お天道様の下でも、リトルデーモンたちの疑問に答えちゃうわ!」

 善子は右側頭部のお団子を傘の柄で叩くと、駐車場を走り出した。

 電話のメインカメラで風景を撮影しながら、自体の渦中にいた人物へと駆け寄る。体育館と昇降口を繋ぐ渡り廊下の屋根の下で、抱き合っている二人の女生徒だ。

「すみません、ちょっといいですか!」

 ぼだぼだ、と音を立てる傘をしまい、テレビのインタビュアのような敬語で話しかけた。

「先ほど怪人に襲われていましたけど、今のお気持ちは?」

「え、ええ?」

 インタビュイに選ばれた生徒のうち、ツーサイドアップの少女が泣き顔を上げるが、

「な、な、なんですか? と、撮ってるんですか!? や、やめて、やめてください……」

 か細い声で叫びながら、もう一人の生徒の肩に顔を埋めてしまった。

「あ、可愛い! これはインタビュー映えするわあ! ……えへん、なんで襲われていたんです? さっきの怪人はなんだと思いますか? お二人は護られていたようにも見えましたけど? 怪人との関係は?」

「わ、分からない、です……」

 画面に「やめてやれよw」「その子超可愛いw」「顔見せてー」とコメントが流れていく。大半は無責任なものだが、そこに紛れた「それ黒澤の子じゃね?」を善子は見落とさなかった。

「あんた、黒澤さん、って言うの?」

「ええっ! なんでそれを!」

 少女が涙目の顔を上げ、慌てて顔を伏せる。

 その小動物のような反応に、突破口をもたらしたネットの集合知に、そして自身の幸運に善子は感謝した。

「もちろん、すべてを見通すこの私、堕天使ヨハネの≪ウジャトの目≫の力よ! 私に隠し事はできないわ!」

 アナウンサーキャラから変わってしまったが、善子はさらにカメラを向ける。

 少女は周りをきょろきょろと見回すが、教師は怪我人の搬送や保護者のクルマの誘導や教会へのフェンスドアの封鎖で忙しく、善子たちの状況に気付いている人はいない。二人の保護者らしき人物もいないようだ。

「さ、観念して白状なさい! この生配信に! すべてを――」

「――なんの騒ぎですか!」

 怒声が響いたのは、そんな時だった。

 昇降口から出てきた生徒が、和傘を差してつかつかと善子に向かっていた。制服に緑色のスカーフを締め、艶やかな黒髪を尼削ぎロングに切り揃えたその生徒を、善子は知っていた。

「せ、生徒会長!」

 入学式で在校生代表として訓辞を読んだ、浦の星女学院の現生徒会長、黒澤ダイヤだった。

「え、うそ、黒澤って、え? “あの”黒澤家!? じゃあこの子が“あの”ルビィ!?」

 美少女を生配信に収めた幸運が一転して不運に堕ちる様に、善子の背筋が寒くなる。

 慌てて電話の画面を見ると、「気付いてなかったのかww」「ギルティヨハネwwww」「だから言ったのにwww」「堕天不可避ww」などなど善子へのコメントが流れていく。

 善子は慌ててフロントカメラに切り替え、

「ち、違うよ違うよ、気付いてたよ! 気付いてたけどほら、有名人へのインタビューだから緊張しちゃって!」

 そんな意味不明な発言を繰り返すも、

「うちのルビィに! なにをしているのですか!」

 すでに目の前にいたダイヤに電話をひったくられてしまった。

 睫の長い切れ長の目に至近距離で睨み付けられ、善子はゆがんだ笑顔を貼り付ける。もはやキャラを作っている場合ではない。

「いやその、さっきの異常事態の体験者に、インタビューを……」

「異常事態!? ええ、わたくしも見ましたわ! うちの不肖の妹が! カメラを突き付けられているところを!」

「ち、違うんですよ! 妹さんが不審者に襲われてて!」

「自己紹介とはいい度胸ですわね!」

「本物の不審者です! 先生も怪我をしたんですよ!」

「怪我?」

 と、ようやく逆八の字の眉の角度を緩め、ダイヤは周囲を見回した。

「なんのことですの? わたくし先ほどまで執務中でして」

 だが頭のない怪人も、苔の怪人が残した痕跡も、すべて雨に流れてしまっている。

 ただ、教師や保護者がなにやら対応を行っていることや、近付いてきた救急車のサイレンで、なにかがあったことは認識したようだった。

 それを察した善子は、ここぞとばかりに早口でまくしたてる。

「でも生徒会長! この私、津島ヨハネが、一部始終をニコ生でバッチリ配信しましたから! あとからタイムシフトでも見られるんで! あ、なんなら拡散してくれても――」

「――ニコ生? 配信?」

「ネットの動画生放送ですよ。あ、ほら、今も配信してますよ、それ」

 と、ダイヤが持つ自分の電話を善子が指差すと、ダイヤはその画面を矯めつ眇めつする。

「わたくしが映っていますわね。……え? これが今放送中?」

「ええ、そうですけど」

 善子が画面を覗き込むと、「いえーい!」「生徒会長さん見てるー?」「姉妹揃ってクッソ美人だな」とコメントが流れていた。

「は、は……」

「クシャミですか? ならカメラから離れて――」

「――破廉恥な!」

 違う意味の大音量に、善子は顔をしかめた。

「は、破廉恥ぃ?」

「うら若き大和撫子の面を、公共の電波に乗せるなど! 破廉恥と言わずしてなんと言いましょう! しかもこの、神聖なる学びの園で!」

 ダイヤの剣幕と和傘から飛び散る雨水に、善子は後退って手を振る。

「で、でも学校内で生配信しちゃダメなんて、生徒手帳にもどこにも――」

「――規則を破らなければ、なにをしてもいいわけではありませんわ!」

 反論が通じる状況でないことは、すぐに分かった。

「ご、ごめんなさい!」

 善子が頭を下げると、ダイヤは息を吐き、バッグから黒い端末を取り出して耳に当てると、頷いた。

「わたくしたちはこれで失礼いたしますわ。次にこのようなことをしたなら、分かっていますわね?」

 そう言って電話を善子に返すと、彼女の妹とその友達を和傘に入れ、三人で寄り添って渡り廊下から離れていく。そこに丁度、ずんぐりしたボンネットのリムジンが入ってきた。

「あれが黒澤家か……。やっぱり、生きてる世界が違うなあ」

 初めての遭遇に、善子の心臓はまだ高鳴っている。

 と、校内放送が流れた。不審者侵入の件と、生徒の集団下校もしくは保護者の送迎を促す内容だ。

 あんなことがあれば当然か、と善子は、素直に集団下校に加わろうと傘を差して――

「え? え?」

 ――駐車場のあちらこちらから、こちらをちらちらと見ている生徒に気付いた。

「なんで注目されてるの? 私。いや、そりゃ、ヨハネほどの堕天使が現れれば、対となる天使が現れるのも必然だけどさ。そんなに注目すること、なくない?」

 続いている生配信に弁解がかった台詞を吐くが、流れてきたコメントに眉をひそめる。

「『ヨハネの高校デビューオワタ』?」

 善子は入学初日に、沼津の名家、黒澤宗家のご息女二人にケンカを売ったようなものだ。周りの目が変わるのも仕方がない。

「え? そういうこと?」

 明日からどんな顔で学校に来ればいいんだ?

 

   *

 

「全作戦行動、終了しました」

「了解。撤収する」

 暗く狭い空間の中に、落ち着いた男たちの声が響く。

 遅れて壁を埋め尽くすディスプレイのいくつかが消えた。

「申し訳ありません、お嬢様。せっかくご足労くださったのに」

 闇の中で、椅子の背もたれが音を立てる。

「構わないわァ」

 返答は、甲高く、明朗で、華やかで、場違いな少女の声だった。

「懐かしい顔も見られたし」

 日本語に似合わぬ、息の強弱がはっきりした声。

「それに、面白いものもね」

 電話の明かりが、軽く揺すられる。

 画面に映っているのは、ネットの動画投稿サービスのページ。

 生配信された映像はすでに、無断コピーで拡散を始めていた。

 二人の存在が争う映像が。

「≪Branchia≫……Lock-onよ」

 

   次回予告

 

千歌「ついに始まったよ! 『仮面ライダーメルシャウム』! 九人のスクールアイドルが織りなす、歌とダンスとバトル! お楽しみにね!」

曜 「仮面ライダー? メルシャウム? スクールアイドル? 歌とダンスとバトル? 看板に偽りありじゃない?」

果南「それらしい九人もまだ出てないよね」

曜 「あ、それって振り? 出てきてほしいの?」

果南「そういうつもりじゃないけど」

千歌「じゃあお二人の疑問要望にお応えして、次は急展開で行くよ!」

曜 「あ、一応、九人は出てるの?」

千歌「次回、仮面ライダーメルシャウム第二話、『未来、変わり始めたかも』!」

果南「余計なこと言ったかな、私」

 

   C

 

「また明日ね、曜ちゃん」

「学校があったらねー」

 高海千歌は橙色の傘を差して、クルマで走り去る曜に手を振った。曜の母に自家用車で自宅前まで送ってもらったところだった。

「あーあ……暇になっちゃったなあ」

 自宅――国の有形文化財である老舗の旅館≪十千万≫を前に、千歌は電話を見て息を吐いた。

 入学式のお手伝いが終わったら、久しぶりに曜と遊びに行こうと思っていたのだが、あいにくの雨模様に加え、学校から送信されたテキストで「自宅待機」を命じられてしまった。家にも連絡網メーリングリストで連絡が行っているから、一度家に戻ったらもう外に出るのも難しくなる。

 あんなことがあった直後なのだから、それも分かるのだが。

「あんなこと、かあ」

 そう呟いた千歌は自然と、十千万から道路を隔てた向かいにある、三津海水浴場に降りていった。

 内浦湾に面した海水浴場は狭く、砂浜はせいぜい幅三〇メートルほどだ。しかも左側をホテルに、右側を遊覧船の桟橋に挟まれ、実態以上に開けた感じがしない。

 砂浜を歩きながら、あの球体を取り出す。

 二年次始業式の昨日から、不思議なことの連続だった。

 “お化け”を見付けた曜。

 内浦湾の底で拾った小さな球体。

 怪人としか言えないものたちの襲撃。

 そして。

 千歌は額に手を当てる。

 その光景を思い出す。

 怪人の拳は、千歌の腹に届いていた。

 千歌と怪人の間にあったのは――

「――私を護ってくれたの?」

 曇天に覆われた鈍色の海に、鮮やかな球体を掲げる。

 球体の中に収まっている正八面体の結晶は、六箇所で内接したまま、穏やかに揺らめいている。

「ねえ、あの時、私になにを言ってたの?」

 問いかけ。

 瞬き、息を吐く。

 バカバカしい。

 曜が“お化け”と言ったから、その気になっていただけだ。

 果南の言う通り、減圧症だったのだろう。

 そう考え、球体から焦点を外した時。

 その向こう、桟橋の先端に、もう一つの球体が見えた。

 それは傘だった。

 灰色の世界に挑むように広げられた、桜色の傘。

 持っているのは、見慣れない服装の少女だ。鮮やかな紺のブレザーに、チェックのプリーツスカート。制服のようだが、この近くにあのデザインの学校はない。

 でも何故だろう。

 見覚えがある。

 いや、違う。

 千歌は気付かず、その方向に歩み出していた。

「『明日よ変われ、希望に変われ』……」

 言葉が口から漏れる。

 九人の少女が歌う、決意の歌が。

 何度見たか知れない。

 九人の少女が着ていた、制服を。

「『眩しい光に照らされて』……『変われ』」

 手の中の、小さな球体を見下ろす。

 輝く結晶をうちに秘めた、穏やかに光る球体。

 橙色の傘が砂浜に落ちる。

 現実に、非現実が混ざり合った新学期。

 どんな非現実な夢だって、叶う気がする。

 今なら。

 この街でなら。

「私も、輝ける?」

 顔を上げると、桟橋の少女も千歌を見ていた。

 その視線に、心臓が高鳴る。

「μ'sみたいに」

 その名前が、自然に漏れる。

 ふいに風が吹き抜け、濃厚な潮の匂いが漂った。

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