仮面ライダーメルシャウム   作:fuki

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第七話:目指すのはあの太陽 - 2

   *

 

「あ、マルちゃん!」

 教室に入った途端、国木田花丸はクラスメイトに声をかけられた。

「なになに、もう平気なの?」

「当然じゃない!」

 返答したのは花丸ではなく、その後ろから顔を出した金髪の理事長代理だった。いや、この場合の適切な呼び方は――

「――シャイニー先輩!」

 得意げに口元を持ち上げる鞠莉は、新入生からの賞賛と羨望の視線と声を浴びるのに満足したか、

「じゃ、午後も勉学に励んでね! Ciao!」

 と軽く去っていった。

 クラスメイトの注意が逸れている間に、花丸が自分の席に座ると、

「怪我は?」

 と隣の少女が声をかけてきた。

「転んですりむいちゃっただけだよ。心配かけてごめんね」

 膝を指差すと、クラスメイトは安心したように笑い、ノートを差し出してきた。

「午前中のノート、後で写していいよ」

「ありがと。……ルビィちゃんは?」

 教室を見回すが、ツーサイドアップの幼馴染みの姿が見えない。

「昼休みが始まったら、ダイヤさんが連れてっちゃったんだけど」

「生徒会長が?」

「やっぱ家のすぐ近くであんなことがあったら、黒澤さんとこも考えちゃうよねえ」

「まあ初の沼津での怪人だしなあ」

 シームレスに世間話に切り替わっていく少女たちの会話を耳に、花丸はガラスのタッチパネルを指で撫でる。入学式以来にチェックしたSNSのタイムラインは、速やかに拡散された今朝の一件で祭り状態だった。誰が撮影したのか、またも複数の映像がアップされている。

 だが話題の中心は、ようやく活躍の場を得た仮面ライダーシャイニーでも、襲われた花丸でもなく――

「ロリポリって、変な名前だよね」

 ――OGIグループが特設サイトに発表した新怪人、≪ロリポリ・フォーメア≫だった。

「理事長代理が付けてるんでしょ? あの名前。謎センスはハーフだからかな」

「でもデザイン的には一番可愛げあるんだよなあ」

「分かる」

「ああいうの来ると思わなかったよね」

「なんで? 虫ってオーソドックスでしょ」

「私はエンジェルの方が好みだけどな」

「貝は地味だったしね」

「さすがに死体に萌えるヤツはいないでしょ」

「私ゾンビ派なんだけど」

「マジで?」

「なんで嫌いなの?」

 そんなクラスメイトの会話は、まるで新作アニメが始まった時のようだ。

 怪人であるフォーメアは、ネット上ですでにキャラクターとして一定の市民権を得ているようで、イラストや立体化作品が数多くアップされていた。四月スタートのアニメやドラマが軒並み視聴率を落としているというニュース記事からも分かるように、普段アニメの二次創作を投稿している人たちが、数時間前に出現した新フォーメアのラフイラストをさっそくアップしていたりと、リアルタイムで進行している“本物のフィクション”の大波に乗っていることが観測できた。

 必然的に“推しライダー”や“推しフォーメア”といった概念も産まれているようで、おおまかに、男性陣は仮面ライダーに、女性陣は怪人に興味があるらしい。

「でも、やっと次のが来たって感じだよね」

「何日ぶり?」

「窓ガラス吹っ飛んだの、先々週の月曜日だっけ」

「先週のシェルから一一日ぶりだ」

「“ぶり”って言うなら一〇日ぶりでしょ」

 ゆえにその界隈では、怪人の出現頻度に低さがたびたび話題になっていた。せめて週に一回は出てきてくれないと、アニメを楽しむ層の需求のスピード感にはついてこられないようだ。むしろ、「#俺の恐怖心が産んだフォーメア」のタグで行われるオリジナルの掌編小説(自分語り)やイラストのように、UGC方面の実りを感じる。

「でもさ、結局あれってなんなの?」

「フォーメア? 恐怖の泡だっけ?」

「そういうんじゃなくて、目的っていうか、動機っていうか。なにがしたいわけ?」

「世界征服とか?」

「虫じゃあるまいし」

「ダンゴムシじゃん。てか、悪の組織ってそういうもんでしょ?」

「知らないよ」

 タイムラインに多く表明されているもう一点の不満は、仮面ライダーとフォーメアに対する「物語性のなさ」だ。

 特設サイトにはエンジェル、ゾンビ、シェル、ロリポリの四体のフォーメアが掲載されているが、どれも、なぜ出現して、なぜ襲ってきたのかは書いてない。敵組織の「動機の不明」というのは昨今の特撮ヒーロー、特に『平成メタルヒーロー』によくあるパターンらしいのだが、それは視聴者が物語の当事者の視点と一致しているフィクションでは利のある構造だ。だが本件の扱いは現実の事件報道などと同じで、視聴者は純粋な傍観者でしかない。だからSNSやメディアから入ってくる情報だけでは、ただただ意味不明なだけになってしまう。

「そんなこと言ったら、仮面ライダーの目的だって分かんないじゃん」

「てか、なんで理事長代理が着てるんだろ」

「イメージアップじゃない?」

「あーあ、小原さんなら色々知ってんだろうに、放出してくんないかなあ」

「無理でしょ、それこそ黒澤さんへの最強のアドバンテージじゃん」

 仮面ライダーについても、なぜ開発されて、なぜフォーメアを倒すのか、OGIグループの公式発表以上のことは知られていない。

 もちろん、フォーメアの「人間を襲う」、仮面ライダーの「怪人を倒す」といった目的は分かる。だが、「襲う/倒すことでなにをしたいのか」という意味での目的は、依然不明なのだ。

 だから、ざっとタイムラインを眺めるだけでも、「僕が産み出したフォーメアで救われる」系の掌編小説を除けば、物語性のあるものはごく少数だ。数コマ程度の漫画さえ少ない。作り手と受け手が共有する物語も、キャラクター同士の関係性も見えなければ、二次創作は産まれづらいからだ。

「まあでも、次はもうちょっと手応えのあるヤツが来てほしいよね」

「ロリポリもシェルも、割りと一方的だったからね」

「難しいんじゃん? 悪役をどのくらい立てるかなんてさ」

 花丸がSNSの遡りに満足して、バッグから五限の準備を出す頃になっても、クラスメイトはそれぞれでフォーメア話に花を咲かせている。

(不思議ずら)

 まだ“怪人”と呼ばれていたフォーメアに初めて遭遇したのは、今ここにいる浦の星女学院の一年生だというのに、体育館で仮面ライダーブランキアを見た時には一斉に逃げ出したほどだったのに。

 もう誰も怖がっている様子がない。

 みんな、二週間前のことを忘れているのだろうか。

「でも、よく逃げ切れたよね、マルちゃん。エンジェルの時は大変だったのにさ」

「え? そ、それは、まあ……」

 唐突に話しかけられ、しかもあまり思い出したくない話だったので、花丸は言葉に詰まる。

「でもむしろ、自分の恐怖にはちゃんと向き合えるもんなのかな」

「オラの?」

 顔を上げると、各所で咲いていた会話の花は一転、花丸を中心に再構成されていた。

「あのダンゴムシ怪人が、私の恐怖ずら?」

「違うの? だって前に、虫が嫌いって言ってたじゃん」

「苦手は苦手だけど……。怖いわけじゃないよ」

「そうなの?」

「たぶん、本堂にある毘沙門天様の方が怖いと思ってると思うよ」

「あー、そりゃそうかもね」

 そこで予鈴が鳴り、ややあってルビィが教室に入ってきた。クラスメイトたちは今度はそちらに集まっていき、「ピギィ!」とツーサイドアップの幼馴染みの声が聞こえてきた。

 自席に残された花丸は、バッグの玉乗りネコのぬいぐるみをつまむと、再び、鞠莉が手にしていた光る球体のことを思い出した。

 

   *

 

「妙よねェ……」

 長い背もたれにもたれた小原鞠莉は、尖らせた口で呟く。

「≪エウリュス=ウムラウト・スクリーム≫の命中と対象の爆発は、MDR(ミッションデータレコーダー)SVR(ステージボイスレコーダー)から確認しています。それでも、ですか?」

 理事長室の机に置かれた卓上スピーカーフォンから、慇懃な男性の声が聞こえる。

「そ、≪Prism≫のままよ? ≪Cylinder≫になるんじゃなかったのォ?」

 鞠莉の指がつまんでいるのは、日光に淡く光るμ-フォーム。

「そのはずですが」

 μ-フォーム内の正多面体結晶が再結晶化して円柱結晶になれば、以降フォーメアを産み出すことはなくなる。仮面ライダーシャイニーはそのために開発され、ブランキアの戦闘データを元に新造された≪Mark II≫はそのために出動したのだ。

 だが結果的に、目的は果たせなかったようだ。

 必殺技を食らった球体の中には、依然として正八面体の結晶が浮かんでいるのだから。

「同じパワーソースのライダーが攻撃すると、再結晶化が起きないケースは記録されていますが――」

「――当てはまらないわ。あれは私が産み出したFormareじゃないんだから」

「仰る通りです」

 鞠莉と慇懃な態度で通話しているのは、静岡OGIに所属している仮面ライダーシャイニー開発計画の責任者、依田義森だ。鞠莉よりも二〇歳近く年上の男性だが、CEOの娘という立場が二人を逆転させている。

「であれば、もう一つのケース、そのμ-フォームがすでに誰かに紐付けられている時、ですね」

「だったら色が付いてるはずでしょォ?」

 椅子を回して今度は蛍光灯の光にフォームをかざすが、ブランキアの桃色や、ワンダの橙色のような鮮やかな色はない。

「やっぱりBranchiaの能力、再現できてなんじゃない?」

「残念ですが、可能性はありますね。明日以降、可及的速やかに再調整を行います」

 義森の声は、しかし、言葉とは裏腹に喜色を含んでいる。

「嬉しそうじゃない」

「はい?」

「なんでそんな上機嫌なの? 上手くいかなかったのに」

 義森は一〇年近く≪人体ラギダイズシステム≫に関する研究開発を行い、のちにシャイニーと名付けられたシステムを一から作った、執着も一入の人物のはずだ。

「もちろん嬉しいですよ」

 だが彼は、声のトーンを変えずに言った。

「エウリュスの“必殺技”機能の実戦は、今作戦が初です。全機能の正常動作確率は約二三パーセント、≪スクリーム≫自体が発動しない可能性さえあったのですよ。そこから考えれば、ロリポリを消滅させたシャイニーの戦闘行動は、一般人へのお披露目として申し分ないと評価できます」

 スピーカーフォンが発する早口の声からは、義森の伸び放題の髪の毛と涼しげな笑顔が容易に想像でき、鞠莉は眉をひそめる。

「それはそうだけど、それでいいの? このフォームは無効化できなかったのよ?」

「彼らが知る術はありません。再度フォーメアが産まれる前に確保できたのですから、お互い、不利益はないと考えます」

 らしい割り切り方だ。鞠莉は尖らせた口から静かに息を漏らす。

「ですが、あまりに完璧な撃破で、交戦データとしては十分ではありません。本気を出しすぎですよ、鞠莉さん」

「それは同感ねェ。実戦でのShiny破損Dataのためにも、ちょォっとPinchを演出してもよかったかしらァ?」

「いえ、ヒーローの初登場は、ありえないくらい強い方がいいのです」

 そのヒーロー観はなかった、と鞠莉は笑う。

「必要とあらば、ブランキアとの模擬戦で事足りるでしょう。如何致します?」

「考えておくわ。Well(さてと)……」

 時計を見ると、五時限の終わる一〇分前だった。

「そろそろ切るわよ。ちょっとは真面目に勉強しなきゃ」

 理事長室の机に広げた数学IIIの教科書をシャーペンで叩き、鞠莉は首を回した。一人で勉強をするのは楽しくないが、仕方がない。

「待ってください、そのμ-フォーム、≪μ-8型≫と言いましたか?」

「そうよ、Octahedronね」

 鞠莉の手の中で、六つの点で内接する正八面体が揺れる。

「では≪ウムラウト≫や≪ハーチェク≫のベースフォームよりも不安定です。運搬時には細心の注意をお願いします」

「分かってるわよ。結果が出たら伝えるわ」

静岡OGI(大諏訪)にはいらっしゃらないのですか?」

「当然じゃない、今日はOGI研究所病院(静浦)の立ち上げ初日よォ? μ-Foam専門研究所の、Specialな機材とSpecialな人材が活躍するChanceなんだから」

「では僕も伺います」

「アナタには≪Mark III≫のPlanをお願いしてるわ。新しいEngineerも入れてあげたでしょ?」

「ですがμ-フォームに関しては、現時点で僕以上のスペシャリストはいません。本件のような特殊なケースなら、僕が立ち会った方が――」

「――聞きなさい、義森」

 日本語としての発音を強調した口調で言う。

「フォーメアが現れてしまった以上、もう私たちに時間はないの。μ-フォーム関連事業は細分化され、あなたは人体ラギダイズシステム関連事業の主任に着任した。μ-フォームに関するあなたの業績は理解しているけど、今のあなたには≪仮面ライダーシャイニー≫に注力してほしいの。それに納得したからこそ、異動人事は受理したんでしょ?」

 隙を与えずに言い切り、生まれた緊張感のある間を味わう。

 せっかく和やかな雰囲気で終話できると思ったのに。

 口の中に唾液を溜めたまま、待つ。

「分かりました。作業を続けます」

 返答は平坦なものだった。

 鞠莉は頬を緊張させたまま、

「お願いね」

 と卓上スピーカーフォンを切り、その横にμ-フォームを置いた。

 そして唾液を飲み込んだ。

 義森は納得していないようだった。何故だろう。電話でも言った通り、彼の知識と技術力は鞠莉も認めているが、彼の本来の専門はラギダイズシステム――仮面ライダーの研究と開発だ。だからこそ、彼が不可欠なシャイニーの強化に力を注げるよう、属人性を省ける箇所を組織化、機械化するためにOGI研究所病院の立ち上げを進めていたのだ。

 今までシャイニーの開発者としての義森と話した経験では、鞠莉の判断に食い下がることはそう多くなかった。だからこの件で揉めるとは思っていなかったのだが。

「分かんないもんねェ、こっちの天気は」

 ぼやく鞠莉は、差し込む日差しに触れた球体が、黄色みがかった光を机に描いたことに気付いていない。

 

   *

 

「げほっ、げほっ……」

 競泳水着姿の黒澤ルビィは、お腹まで水に浸かってむせていた。

「大丈夫ずら?」

「う、うん、もう一回行くよ」

 プールサイドでしゃがみこむ花丸を見上げ、水深一メートルもないプールの底を蹴る。

 身体を水平に伸ばし、体重をビート板に乗せてバタ足をしようとする。

 が。

「あ、あ、ダメ、沈んじゃう」

 どれだけ水を叩いても、脚が沈んでくる。

「お尻が沈んでるからだよ、もっとお腹に力を入れて!」

「分かってるんだけどう……」

 もう一度底を蹴って、ビート板に上半身を乗せるように泳ぎ出す。

「うう、なんでかなあ」

「武田さんは言いました。『為せば成る。為さねば成らぬ成る業を――』」

「『――成らぬと捨つる人の儚き』、でしょ? その名言、使いすぎだよう」

「分かってるならやるしかないずら! ……そうずら! ビート板があるから泳げないずら! 一般プールに叩き落とされればイヤでも泳げるようになるずら!」

「スポ根はやだよう……」

 “ずら”を隠さない花丸に、ルビィは水に濡れた顔で半泣きになる。

 曜の採寸データを得て「ちょっと一人で手を動かしたい」と言う善子を尊重して時間が空いてしまったルビィは、「泳げるようになりたいな」という独り言を耳聡く聞きつけ尊重した花丸の提案で、ここ、沼津市のお隣、富士市は富士総合運動公園の温水プールに連れてこられていた。

 だが一般プールの二五メートルを泳ぎ切れないルビィは、一五〇センチそこそこの身長もあいまって、滑り台がついている児童用プールに入れられてしまったのだった。

(うう、恥ずかしいよう……)

 平日の夕方ゆえ、子供連れの大人もパラパラといる中で、膝を折って火照った顔を水に浸す。

 花丸は「ルビィちゃんなら小学生に見えるから気にしないずら」と言っていたが、そういう問題ではない。中学生に見えたって小学生に見えたって、たとえ誰も見ていなくなって、自分が恥ずかしければ恥ずかしいのだ。自意識とはそういうものなのだ。

 そんな理屈を言いたいが、花丸は「だったら泳げるようになるずら!」と返してくるだろうし、実際、泳げなければ一般プールには戻れないのだ。

 海に面した街で、砂浜の目と鼻の先の家で育ったルビィだが、一家の中で唯一、泳ぐことができない。

 両親の話では赤ちゃんの頃からそうだったらしく、ダイヤには「水に浮くという機能が備わっていない吸血鬼なのですわ」とまで言われている。黒澤家パワーで小中の水泳の授業は全免除されていたが、子供心にそれはどうなんだ、と薄々感じていて、高校の水泳の授業からはちゃんと受けたい、と思っていたのだ。

 とはいえ、“黒澤ルビィ”が個人単位で知れ渡っている沼津で、児童用プールを使うなど、たとえ自分が許しても、黒澤家とダイヤが許さない(自分も許さないけど)。だから、自宅のある沼津御用邸記念公園からクルマで四〇分ほど離れて、使用料も沼津のプールよりずっと高い富士までわざわざやってきて、四人のボディガードも出入口の警備に割り当てて練習を始めたのだが。

「なんで泳げないのかなあ……?」

 ビート板に上半身を預け、足から沈む動作を何度か繰り返し、ルビィは悲しくなってきた。

「背泳ぎの方がいいのかな」

 花丸も児童プールに入り、仰向けに水に浮いてみせた。

「お腹に空気を溜めて、身体を水平にすれば浮くよ」

 滑らかに脚を上下させて、頭の方に進んでいく花丸。

 その姿を見ていると、競泳水着を大きく膨らませる胸はともかく、自分も真似できそうな気がしてくる。

 ビート板をプールサイドに置き、長い髪を収めたスイムキャップを水に浸し、底から足を離す。

 が。

「あ、あ、ピギびびぶべぼこぼぼぶぶぼ」

 お尻を引っ張られたように沈んでいく。

 鼻に水が入ったところで、手を引っ張られる。

「だ、大丈夫ずら!?」

 水深が身長の三分の一しかないプールで溺れるなんて。

「やっぱりルビィ、吸血鬼なのかなあ……」

「吸血鬼が苦手なのは、聖水と流水ずら」

 また逃げ道を塞ぐようなことを。

「オラの教え方が下手なのかな。……あ、ウチの学校、オリンピック候補の先輩がいるって知ってる?」

「渡辺曜先輩だっけ?」

 先生がそんな話をしていたのを、ルビィは思い出した。

「お願いしてみよっか。オリンピック級の泳ぎ方、教えてくれるかも!」

「ええ!? オリンピックに出るかもって人が、ルビィに泳ぎ方を教える暇なんてないよう!」

「だよねえ」

 それに、絶対に体育会系のスパルタアスリートに決まってる。

 一度プールサイドで休憩しようか、とはしごに取りついたルビィは、しかしすぐに、同じく上がろうとした花丸を水面に押し戻した。

「ぶぶぶくぶく――ど、どうしたずら?」

「あの人!」

「え?」

 ルビィは児童プールに顎まで浸かり、一般プールの向こう、女子更衣室に繋がる通路を指差す。

 きょろきょろと上の方を見回しながら歩いているのは、浦の星の学校指定のスクール水着を着た少女だ。ルビィはその顔に見覚えがあった。

「小口田よしみって人だよ! 二年の先輩!」

「どうしたの?」

「前に追いかけ回されたの!」

「そうなの?」

 ゾンビ・フォーメア騒動の直前に、あの先輩を始めとする四人の二年生に、スクールアイドル同好会に勧誘されたのだ。

 まさか、まだ諦めてないのか?

 まだ距離はあるが、いずれこちらにやってくるだろう。そうなったら、ルビィが児童プールに入っていることがバレてしまう。

「出よ、マルちゃん!」

 ルビィは花丸の手を引くと、よしみから離れるように、大回りで女子更衣室へと向かった。

 

   *

 

 短水路としても使える二五メートル四方の飛込プールと、一一レーンの長水路用競泳メートルが並ぶドームの中。

 ホイッスルの音を耳に、渡辺曜はその正方形に一〇メートルの高さから飛び込んだ。

 自然に背筋を伸ばした身体が、放物線を描いて落下する。

 101A――前宙返り半回転伸び型。

 地上とも水中とも違う浮遊感を、伸ばされた一瞬の長さを味わい。

 組んだ手のひらで水面を突き破る。

 水陸も上下も反転した世界で、水の冷たさと衝撃の熱さを味わい。

 気泡を追いかけて水面に顔を出す。

「いい感じ」

 水影でゆらゆらと光る飛込台は、下からは、意外と低く見えた。

 浦の星女学院の水泳部(一人+顧問)は、静岡県富士水泳場にやってきていた。

 静岡県内で飛び込みの練習をするとなると、現実的な選択肢は片手で数えるほどしかない。一〇メートルの飛込台と五メートルの水深を持つ、日本水泳連盟公認の飛込プールは、大規模な水泳場にしかないからだ。そういう意味では、内浦に住む曜が手軽にアクセスできる沼津市立総合水泳場は、彼女がオリンピックを目指す上で欠かせない施設だったといえる。

 だがその沼津市立総合水泳場が点検中の事故で天井板が外れて使用不能になってしまえば、曜はクルマで一時間以上かけて富士市まで移動するしかない。ただでさえ短い練習時間はさらに減り、ウォーミングアップの気楽な一本目を飛んだ今は四時半を回っている。

 時間が勿体ない、曜はプールサイドに上がり、歩きながら競泳水着とスイムキャップを直す。

 と、笛の音が鳴り、他校の生徒が踏み切った。

 見上げ、技をチェック。

「前宙、抱え、一、二、あ――」

 ――入水、盛大に水飛沫が上がった。

 顧問の男性に手を貸されてプールから上がった男子生徒は、上半身が真っ赤だった。回転速度が足りずに水で打ったのだ。青痣で済めばよいのだが。

 曜は裸足で裏手に回ると、少し前に登ったビニル製の階段をまた登る。飛板飛込に使う、一メートル、三メートルの飛板を通りすぎ、五メートル、七・五メートル、互い違いに並ぶ飛込台を通りすぎる。

 その間にも何人もが飛び、そのたびに多様な水面を打つ音が聞こえる。成否は見なくても分かる、勝負になる相手はいない。

 一〇メートルの飛込台が見えた時、ホイッスルが鳴った。

 曜のすぐ前の男子生徒が手を挙げて飛び――

「え?」

 ――その背筋と骨格に見覚えがあると思い至った時、水を叩く音が響き、続いて男性の声と拍手が聞こえた。

「305C」

 飛び降りる一瞬しか見えなかったが、曜には回転の方向と初速から、それが前逆宙返り二回半抱え型と分かった。

 耳に残る入水の音に、曜の唇が持ち上がる。

 まずは身体を温めて、と考えていたが、心の方が温まってしまった。

「見せてあげよう、私の必殺技を」

 307C――前逆宙返り三回半抱え型。

 ホイッスルの音で飛込台に上がると、自然な足取りで縁まで進み、躊躇なく身を投げた。

(〇――)

 胸に当てた膝を抱え、後方へと回転。

 身体の水が、円弧を描いて飛び散る。

(――一――)

 二秒間で、七回の半回転。

 腹筋の力で、小さく早く。

(――二――)

 回る風を耳で数え。

 回る青を目で捉え。

(――三――)

 脚を真上に。

 腕を真下に。

(――・五!)

 入水。

 手のひらで水を掻き分けるように貫き、遠心力で流れる脚を筋肉の力で整え、一直線に水に入り込む。

 会心の出来だ。

 水深五メートルのプールを半分以上潜り、身体をくすぐる泡の感触を味わう。

 一瞬でも間違えば、出血骨折身体一面の痣と、長期間苦しむはめになるのに。

 いや、上手くいったって、時速五〇キロで水面に落ちる痛みは免れないのに。

 楽しくて仕方ない。

 曜は水を蹴ってプールサイド際の水面に顔を出した。

「やっぱり曜だ」

 そこに、水色のスイムキャップを被った男子生徒が立っていた。

 その顔を、競泳水着だけを着た身体を、まじまじと見てしまう。

 細面の顔には面影があった。水に濡れると薄く見える短い髪も、低い背に似合う狭い肩幅も。

考朔(こうさく)……くん?」

「あんまジロジロ見るなよ」

 わざとらしく胸と股間を押さえる姿に、曜は噴き出した。

「ウソ、久しぶり! なにしてるの!?」

「なにって、飛込に決まってるじゃん。早く上がりなよ、次が来る」

 プールサイドに上がる曜に、考朔は歯を見せて笑った。

「じゃ、さっきの305C、考朔くんだったんだ」

「やっとこさ、二回半が安定してきたよ」

 上体をひねって腿上げをする考朔の身体は、小柄ながら、腹筋と背筋を中心に見事な筋肉の塊だ。

 それを見て、曜は急に恥ずかしくなった。

 ホイッスルが鳴り、男子生徒が飛び降りた。考朔と同じ305C――前逆宙返り二回半抱え型だが、入水で脚が流れて水飛沫が上がった。

「でもやっぱ曜だよ、さっきの307C、肘くらいも水飛沫が立たなかった」

「え? そ、そうかな、たまたま上手くいっただけだよ」

「出遅れちゃったからな、俺も早く追いつかないと――」

「――おう、ナンパなら余所でやれ」

 そこに信代がやってきた。曜が他校の生徒に絡まれていると思ったのだろう。

「違いますよ、先生。友達です、松和考朔くん、中学まで一緒に飛込やってたんです」

「そうなのか?」

 ガタイのいい信代に据わった目で睨まれ、考朔はうろたえたものの、背筋を伸ばした。

「はい! 松和考朔、一緒にオリンピックに出るべく、鋭意特訓中であります!」

 とわざとらしい軍隊口調で敬礼をする様は、昔々、曜と一緒にしていた仕草だ。信代もそれを理解したか、警戒心を解いたようだった。

「まあ、まだリハビリ中なんですけどね」

 そう言って、考朔は自分の右脚を指差した。

「それは?」

 信代が問い、曜はそれを見たくない。

 だが見てしまう。

 考朔の右脛から右腿にかけて走る、うねるような手術の跡を。

「バイクで事故っちゃった怪我です」

 考朔は右腿を上げて、左右に振ってみせた。縫合痕だけではない、創外固定で開けた穴の跡も到るところに残っている。

「まだ新しいな。いつの怪我だ?」

「中三の卒業直前ですね。復帰は高二から、まだ半月くらいです」

「それで、さっきのあれか? いやまて、中三でバイク?」

「違いますよ、兄貴のバイクに――」

 と、プールサイドの向こうから、男性の声が上がった。

「――やば、戻らないと! 曜、今日このあと予定ある?」

「え?」

「ああ、えっと、練習終わったらプールの外で待って!」

「で、でも何時になるか――」

「――じゃ、またあとで!」

 走り去る考朔を見送る曜は、信代に頭を叩かれて我に返る。

「おい、曜。お前、アイドルも始めるんだろ?」

「え?」

「男はNGだぞ」

「は?」

「NGだからな」

「わ、分かってますって! あ、もうすぐ休憩時間だ、もう一本行ってきます!」

「おい!」

 信代から早歩きで距離をとる曜は、でも、と思う。

 「スクールアイドルを始める」と言ったら、考朔はどう思うだろう。

 飛込台の階段を上がる脚を、競泳水着に包まれた身体を、曜は改めて見下ろす。

 考朔が小柄ながら筋肉質の身体であったように、時速五〇キロの入水で発生する四〇〇キログラム重の負荷に耐え得る鎧を、自分もまとっている。

 もう私は、女の子の身体じゃない。

 もう昔の“渡辺曜”じゃないのだ。

 そう意識したら、曜は恥ずかしくなってしまう。

 ホイッスルの音を聞き、誰もいない飛込台に立つ。

 絡まった気持ちを自覚する。

 なんの技をしよう。

 来て早々だが、あと数分でプールの休憩時間が始まる。

 その前に、気持ちを切り替えたい。

 一度飛び込んでしまえば、新しい私になれるのだから。

「死と再生? 人魚姫?」

 梨子と善子の言葉を思い出し、曜は噴き出した。

 ガラじゃないよ。

 縁まで前進。

 もう一度、101Aだ。

 死んで、生き返って、リセットすればいい。

 だが、そうはできなかった。

 飛込台の下がざわめき、ホイッスルの音が短く連発した。

 しゃがんで下を覗くと、誰かがプールサイドに倒れているのが見えた。

 水色のスイムキャップを被った誰か。

「考朔くん!?」

 ここ数週間で、曜の前で意識を失った人々の顔が過ぎる。

 イヤな予感を飲み込み、曜は飛込台の階段を駆け降りる。

 たった二秒で降りられる一〇メートルが、途方もなく長い。

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