AV
「だから。なんともないって言っただろ? 血液検査、尿検査、CT、MRI、えっと、あとPET? 全部問題なしだって」
見舞いに来てくれた曜に、松和考朔は噛んで含めるように言った。
「本当に? 本当に変なところ、なかったの? 頭が痛いとか、胸が苦しいとか」
「しいて言えば寝不足かな、検査検査でほとんど徹夜だったから。あと、運動不足。早く飛込したいわ」
「ダメだよ! 原因が分かるまで飛込禁止!」
ベッドに身を乗り出して声を上げた曜に、
「そんなにライバルを減らしたいわけ?」
スツールでみかんを割っていたもう一人の幼馴染みが、チクリと言った。
「そ、そんなつもりじゃないけど」
「そうだよ果南、そんなわけないじゃん、曜に限って。なあ?」
「そ、そうだよ、この曜ちゃんに限って!」
「ふうん」
果南は唇の端で笑いながら、三分の一に割ったみかんをこちらに放り投げた。一房口に入れると、強い酸味が鼻から抜けていく。
「ごめん、これ酸っぱかったわ」
「懐かしい味じゃん。食べないなら、それも食べていい?」
「相変わらず悪食だね」
もう三分の一を受け取り、考朔は丸ごと頬張った。
プールサイドで倒れた考朔が意識を失っていたのは、わずか十数秒の間だった。だから医務室で少し休んだら練習に戻れる思っていたのだが、数分で救急ヘリがやってきて、気付けば病院で精密検査を受けさせられ、なんだかんだ丸一日も入院してしまった。
「でも、俺が入院すると曜たちがお見舞いに来てくれるんだから、たまにはいいかな」
「やめてよ、それで毎年入院するの」
「曜はあんまり行ってないでしょ、お見舞い」
「行くよ!」
「でも、俺が運ばれた後、怪人が出たんだって? 倒れてむしろラッキー?」
「かもね」
「果南ちゃん!」
曜が声を上げるが、果南は軽やかに笑う。内浦時代の幼馴染みたちの、距離感と温度が懐かしい。中学校の頃に戻ったようだ。
だが、変わったことも多い。
特に違うのは、ギャザーの入った水色のキュロットスカートをはいている曜だ。制服のスカートの中にさえ短パンをはいているようなキャラだっただけに、敢えてミニスカートにも見えるキュロットをはいているのが新鮮で仕方ない。
果南も、今時のスポーツファッションかと思いきや、タイトにフィットした本物のスポーツウェアを着ている。水中だけでなく、陸上も彼女のフィールドになったらしい。
そして、最大の変化は、
「なあ、千歌は?」
この二人の真ん中に、千歌がいないことだった。
曜と果南は小さく見合い、曜が口を開いた。
「千歌ちゃんは忙しくてさ、色々」
「空手?」
「まあ……そんなところ、かな?」
考朔の問いに曜は言葉を探しあぐねたのか、果南に水を向けた。
「苦手だった空手の型に取り組み始めた、って感じかな」
「あー、ああ、うん、そうだね。そんな感じ」
二人の会話はよく分からなかったが、考朔は笑った。中学時代はこれといって目標のなさそうだった千歌が、やりたいことを見付けたらしい、と察せられたからだ。
それが、考朔には言葉を濁す必要があることなのだと気付けば、表情は曇ってくるのだが。
その時、ドアがノックされた。
「どうぞー」
ドアが開き、入ってきたのは見知った顔だった。
「失礼しまーす――って、曜ちゃん!? 果南ちゃんも!」
曜たちと同じ内浦時代の幼馴染みの、小口田よしみだった。
「あれ? よしみちゃん。一緒に行こうって誘ったのに」
「曜ちゃんだって、今日は行かないかもって!」
「行かないとは言ってないよ」
言い合う二人を見て、
「はっはあ」
果南が小さく笑った。
「曜。私たちはそろそろ、お暇しようか」
「え? なんで?」
「いいから。じゃ、考朔。退院したら淡島に来なよ」
「う、うん? え?」
「ちょっと、果南ちゃん!」
「病院ではお静かに、だよ」
果南はなにか言いたげな曜を押して、病室を出ていった。
見送ったよしみは、バツが悪そうに考朔のそばまでくると、
「えっと、久しぶり」
と、後ろ手に持っていたビニール袋を渡してきた。
「うん」
それが彼女の実家である菓子屋≪松月≫のみかんどら焼きであることは、考朔には分かっていた。
*
「ぽてとが逃げちゃって――」
「そんな時間に散歩に――」
「でも家から出るなって――」
マンションの駐車場で、数人の中年の女性が会話している。
向かいの教会から出てきた国木田花丸は、目を合わせないようにして教会の角を曲がり、家路を進もうとした。
「花丸ちゃん!」
久しぶりの賛美歌の練習で満ち足りていた気持ちが、しゅう、としぼんでいく。
それでも花丸は、たった今気付いたような顔で振り返り、会釈をした。
「もう平気なの!? ほら、こっちいらっしゃい!」
「ダメよ、昨日の今日で元気ないんだから!」
「なおさらでしょ、ほら!」
誰かが花丸の小さな肩に触れる。
輪の中に入れられた花丸は、人当たりのいい笑顔を作った。
「お久しぶりです」
「ほんとよう!」
「何日ぶり?」
「この前、礼拝に来てなかったじゃない!」
≪聖書友の会≫沼津教会の近所に住むこの主婦たちは、毎週の日曜礼拝に小さな教会に集まってきては、牧師の説教を聞き、聖歌隊の歌を聞き、主の晩餐をいただいている。
小学生で正式な聖歌隊メンバーに選ばれた花丸は、なにかと世話を焼いてくれた彼女たちのことを敬虔なプロテスタントだと思っていたが、成長するにつれて「礼拝後に駐車場でする井戸端会議がメイン」だと分かってきた。今日のような平日だって、そうしているのだから。
「でも、仕方ないわよね」
「入学早々だしね」
「入学式もそうじゃない!」
「お祓いしてもらった方がいいわよ?」
「虫難なんて効かないでしょ?」
「やめなさいよ、五年前のこと思い出しちゃうでしょ? ねえ?」
始まった。
「でもダンゴムシならいいじゃない。大きかったんだし」
「そうよねえ、あの時はほら、小さい虫がすごいいたって」
「もう五年、新しい家だったらねえ」
耳の奥に、誰かが「次の方、どうぞ」と呼ぶ声が蘇る。
鼻の奥に、清潔なシーツから漂う柔軟剤の匂いが蘇る。
花丸はまたも、閉じられない耳と鼻を恨む。
(“三界無安”ずら)
珍しいタイプではない。
傷が治っているかを確認するには、かさぶたを剥がしてみなければならない、と思っている人たち。
家族も、学校の友達も、花丸を担当したカウンセラーでさえそうだったのだ。
月に一回くらいは、誰かが花丸の傷を見る。
なにも言わずに受け入れてくれるのは、いつも本堂で花丸を癒やしてくれる本尊と――
(――ルビィちゃん)
幼馴染みの顔を思い浮かべながら、右手をそっと左手で包む。
作り笑いで相槌を打ち、彼女らが満足するのを待つ。
正面から受け止めなければ、傷が開くこともない。
少なくとも、すべては。
A
「じゃあ、あの子が≪Pileup Foamare≫を産み出した、ってことで間違いないわけェ?」
「おそらくは」
報告を噛み砕いて言い直した鞠莉に、桜内桑介は頷いた。
「松和考朔さんの身体からは、μ-フォームと似た量子信号パターンが検出されています。これが人体から検出されたのは、彼を除いては梨子――ブランキアの例しかありませんので」
桑介はディスプレイに目を向けた。映っているのは、被検体の少年が入院する病室を捉えた監視カメラの映像だ。音声は入っていないが、先に来た二人の見舞客の少女と騒いでいたことと、その後の一人の見舞客の少女と言葉少なに話していることから、少年が緊張状態にないのは読み取れた。
「しかし、≪スランバラー≫の直接的な分析が実現するとは、思いませんでした」
「感謝しなさいよォ?
「苦労では、こちらも負けていませんよ」
現在進行形でフォーメアを産み出している人間――鞠莉が名付けたところの≪スランバラー≫――から得られた知見は、ブランキアのμ-フォームから導き出された様々な仮説を裏付ける材料となることが期待されていた。そのため≪OGI研究所病院≫を含む静浦は、開業早々きりきり舞いで、考朔も二四時間フル稼働だった。被検体の入院期間をどれだけ引き延ばせるかは、前例がないために分からないからだ。
だが、現状でも断定できる、重要な発見もあった。
「彼から検出された量子信号パターンは、ブランキアのそれとは異なりました」
「どういうこと?」
「発動中のμ-フォームが発信する信号により、個体識別が可能になる、ということです」
「怪人に色が付けられるようになる?」
「平たく言えば、そういうことです」
桑介の言葉に、OGIグループCEOのご息女兼OGI研究所病院の社長は、ディスプレイに映る少年を見た。
「スランバラー、または対応するフォーメアのデータを採取できれば、残りの特定が可能です。発動状態のμ-フォームでも、おそらく同じことができるでしょう」
鞠莉は何度か頷き、桑介に目を戻した。そして、
「
そんなことを軽く言うから、桑介は慌ててしまう。
「待ってください、特定可能と言っても、差は極めて些少です。
広域レーダーで静岡OGIが計測してきた駿河湾のμ-フォームの信号も、数年間の蓄積があったにもかかわらず、有意な差異を発見できなかったのだ。ましてや人型スーツに格納可能なレーダーの性能など、たかが知れている。
「まずは広域レーダーのアップデートで個別識別技術を確立して、そこからシャイニーに――」
「――広域を拾う必要はないわァ。どうせFoamareのそばにSlumbererがいるんだから」
「……どういうことです?」
「だから、Foamareに逃げられたら、その辺りにいた人をCheckすればいいってことでしょ?」
「ですから、そのためには大規模な――」
「――No, No, No! 特定なんてする必要ないのよォ!」
そこまで言われて、鞠莉のビジョンが、ようやく頭に浮かんできた。
「そう……ですね。μ-フォームの量子信号パターンを発する人を見付ければ、ことは足りるのですね」
「そういうこと!」
やっと分かったのか、と言いたげな顔で鞠莉は鼻を鳴らした。
桑介は端末を操作しながら、まだ一七歳の社長に舌を巻く。
報告の理解の早さもさることながら、その思考の展開の早さの方に、だ。
父親の会社の技術力や資金力にものを言わせて≪仮面ライダーシャイニー≫を開発させ、民衆の前に出ては「シャイニー!」と叫ぶだけの人物、そういう声は社内外問わず多い。だがこうして直接研究チームや開発チームの声を聞いては理解を深め、あまつさえ次のステップへの指針を示す様を見ている桑介には、鞠莉を否定することはできなかった。
「そんな感じで考えてみてね、モルス。
「僕が、ですか?」
「そうよ、だからこうやって、この機密の塊の街に呼びつけたんじゃない」
「僕に準備しているポストを、ちらつかせているわけですね」
「Uh-huh」
鞠莉はいたずらっ子のように鼻を鳴らした。
「アナタにはここで、μ-Foam関連事業のManagerに収まってもらいたいんだけどねェ」
「先日も言いましたが、梨子の検査があと二回終われば、僕はこの街を離れるのですよ?」
「なら、なんで内示の承諾をしないの?」
その指摘に、桑介は口を閉じる。
「聞いたわよ、保留にしてもらってるんでしょ?」
「越権行為ですよ」
「浦の星女学院の生徒として、聞いたのよォ?」
なぜここで、学校の話題が出てくるのだ?
そう思ったが、桑介は表情を動かさなかった。
「分かりました。ここにいる間は、レーダーの仕様策定に加わります」
「頼むわよ、モルス」
「……モルス、ですか?」
「名前、“桑”でしょ? 早く言ってよね、Nickname決めるのも大変なんだからァ!」
呼びたいように呼ぶクセがあるのは本当らしい、と桑介は思わず笑ってしまった。だから、
「ねえモルス」
「は、はい、なんでしょうか」
「『Branchia=Foamare』は、True?」
息がとまった。
「どう?」
社長はこう問うたのだ。
「お前の娘は怪人か」と。
不意打ちだ。
「ブランキアは……
「それは分かってるわァ?」
ポーカーフェイスを維持しながら、言葉を探す。
「発動したμ-フォームの力で梨子の身体を泡立たせ、表面部分を強化装甲に変質させる。それが我々が観測している、ブランキアの変身メカニズムです。液体を泡立たせて特定の形状を形成するフォーメアと、仕組みとしては同一です」
社長は唇に指を当て、何事かを口の中で呟いていたが、やがて桑介の肩を叩いてドアへと歩き出す。
「だとしたら、Radarに積むμ-FoamのDetection Systemを作るのは、アナタにしかできないこと、よね?」
「それは――」
梨子の父親である、自分にしかできないこと。
「――検討を始めます」
桑介が頷くと、社長は満足そうに目を細め、「よろしくね! Ciao!」と去っていった。
端末にレーダーの仕様をざっくり書き込むと、溜め息をつき、無音のままのディスプレイに目を向ける。
スツールに座った見舞客の少女と、ベッドで半身を起こした被検体の少年は、まだ途切れ途切れの会話を続けていた。梨子と同年代の二人が想い合っている間柄なのは、鈍感な中年男性の桑介にも想像できた。
そんなことは、想像したくなかった。
ブランキアとフォーメアは、本質的に等価だ。
μ-フォーム探知システムを開発すれば、その探知結果には自ずから、梨子が含まれる。
このスランバラーの被検体も、フォーメアを産み出している間は同じだろう。
梨子だけを除外するのは簡単だ。
いや、僕らがこの街から離れれば、システムに手を加える必要さえない。
だが、この少年はどうなる?
いずれ現れるであろう、たくさんの≪悪夢にまどろむ者≫たちは?
「参っちゃうな。ただの検査旅行だったのに」
小原鞠莉は苦手だ。
あの少女を前にすると、自分の時間がとまっていることを認めざるを得なくなる。
*
「果南ちゃん、ほんとに帰るの? まだ全然話したりなかったのに」
「遠慮しなよ。よしみ、考朔のこと好きなんだから」
「え、え? そうなの? ええええ!?」
「車内ではお静かに、だよ」
目を白黒させる幼馴染みのお尻を押して、松浦果南はマイクロバスに乗り込んだ。
「なんでそんなの分かるの!?」
「なんであれで分からないの?」
シートベルトを締めながら運転手に「OK」のハンドシグナルを送ると、シャトルバスは研究所病院の地下駐車場を出発し、少しして屋外に出た。
外来用セキュリティゲートを越えた先は、午後の木漏れ日が照らすボコボコのアスファルトの山道で、うわんうわん、と低いギアで走るバスに、曜はひっきりなしにお尻の位置を動かしている。
「この後どうする?」
果南が問うと、曜は頬にかかる髪の向こうから控えめに見返してきた。
「なに?」
「ううん」
曜は目を伏せ、口を尖らせる。
「考朔にできることはないよ。怪人のこともね」
髪を振り乱してこちらを見る曜に、果南は前を向いたまま笑う。
「≪パイルアップ・フォーメア≫、だっけ? “あの”追突事故の恐怖が元ってことくらい、私にも分かるよ」
“
「うん……」
曜は窓の外に目を向けた。そこにはコンクリートで舗装された山の斜面しかない。
本当に分かりやすい子だ、と果南は思う。
考朔がバイクで追突事故に遭い、右脚の脛骨と腓骨の開放性骨折をしてから、丸一年以上が経過した。
事故は雨の夕暮れ、獅子浜の≪大久保の鼻≫で起こった。考朔の兄を含む運転手三名それぞれに小さな過失があり、タンデムシートに乗っていた考朔を含む四人が大小の怪我を負った。お互いを巻き込んでグチャグチャになった三台のバイクの映像は、ローカルテレビで何度も放送され、果南の頭にも焼き付いている。
誰が悪いわけでもない。
だというのに果南の幼馴染みたちは、その件には触れようとしない。曜はなにごともなかったかのように振る舞い、千歌は逆に考朔を極力避けるようになった。
内浦の幼馴染みの中で唯一、定期的に沼津市内の病院にお見舞いに行っていたのは、よしみだけだった。
だから果南は、曜に身を引かせたのだ。
会話のない二人の乗客を乗せて、シャトルバスはのろのろと民家の間の山道を下り、国道四一四号線を渡り、津島神社を通りすぎ、獅子浜北公民館の前で停まった。病院に行く時に二人が乗った場所でもあった。
バスから降りた果南は、一つ伸びをして、公民館にとめさせて貰っていたロードバイクを回収した。
「曜はどうするの? 今日は練習、ないんでしょ?」
もう一度、問う。
「私、寄ってきたいところがあるんだ」
曜は果南から視線を外すように、市内の方を見た。
「そっか。ま、無茶はしないでよ。戦いも追跡も、その役目の人がやってくれるからさ」
そういうと、曜は頬だけで笑った。
「なに?」
「ううん、私、全然役に立ててないな、って。身体だってバッキバキで女の子っぽくないし。せめて準備中は頑張んなきゃ」
アイドルの方の話か。
そちらもそちらで重症かな、と思うが、もちろん口にはしない。
「じゃ、また明日」
「ヨーソロ」
了解のイントネーションで呟いた曜に手のひらを見せ、果南はロードバイクの細いタイヤに重心を乗せて走り出した。
ゾウの鼻のように南に出っ張った岬、大久保の鼻が見えてくる。
考朔がバイク事故に遭った現場だ。
見通しは悪くないし、交通量も多くない。
膨らみすぎないように注意しながら、緩いアールを描く車道を走る。
今、私が死んだら、誰が悲しむかな。
右手の空き地に積まれた土の山と、その向こうに見え隠れする淡島を横目に、果南はクランクを回し続ける。