B
「変だよ、マルちゃん」
黒澤ルビィは言うが早いがプールから上がった。
「どうしたずら?」
「なんか変なの!」
プールサイドを走り出すが、短い笛の音がして、
「そこ、走らない!」
監視台の上に座っていた帽子の人に注意されてしまった。
「先輩が上がってこなくて!」
「平気だから」
監視員が言った時、ちょうど曜が水面に顔を出した。
「曜先輩!」
プールサイドに上がった曜は、ゆっくりと焦点をルビィに合わせる。
「ルビィさん。どうしたの?」
目を丸くした曜の目元を、さあっと赤い血が滲む。
「血! 血ずら!」
追い付いてきた花丸が声を上げた。
「どうしたの!?」
競泳水着の小柄な男子が飛込台の方からやってきて、ルビィは慌てて花丸の後ろに隠れた。
曜は自分の瞼に触れ、真横に裂けた傷から滲む血を見て、ああ、と口を開ける。
「入水で切れたんだよ。よくあるから心配しないで」
「いきなり大技にいくからだよ」
そう言ったのは、監視台から降りてきた女の人だった。ルビィは帽子に隠れたその髪型と声に記憶を刺激される。
「あ……果南さん?」
それは姉のダイヤの友達であり、一時期は黒澤家にも遊びに来ていた、二年上の先輩だった。
「や。久しぶり、ルビィ」
緑のラインが入ったスポーツウェアを着た果南は、帽子を脱ぎ、片手を広げて見せた。
「なにしてるの? 果南ちゃん」
「それはこっちの台詞。全然飛び込まないから退屈してたんだ」
「そうじゃなくて――」
「――笠木さんに頼まれたの。顧問代理だよ」
果南は手にしていた救急箱からチューブを取り出し、曜の瞼に塗り始めた。
「イップス? らしくないね、曜」
ワセリンのようだ。果南に瞼をグリグリされて、曜はイヤそうに身体をよじらせたが、結局されるがままになった。それは泳ぎ方を教えてくれた時の頼もしさとは違う顔で、花丸の陰から覗くルビィは興味津々だ。
「君、曜の後輩?」
その視線に、先ほどの水着の男子が割り込んできたから、
「ピギィ!」
ルビィは花丸の後ろにくっついてしまう。
「え、ど、どうしたの?」
「そちらは悪くないです。ルビィちゃんは男の人が苦手なんです」
頭を下げる花丸の背中は、スクール水着越しでも暖かい。
「あんたは? ルビィの友達?」
果南に問われ、「ああ」と曜が声を上げた。
「えっと、こっちが国木田花丸さん、こっちが黒澤ルビィさんだよ。で、こっちが松浦果南ちゃんに、松和考朔くん」
各々が挨拶をして頭を下げる間も、ルビィはほとんど同じ身長の花丸の後ろで小さくなっている。
「で、泳ぎ方、教えてるわけ? あんた、今ダンスの――」
「――ストップ! ストップ果南ちゃん!」
曜は果南に両腕を振った。
「ダンス?」
「違う、違うんだって!」
考朔にスクールアイドルの件は知られたくないらしい。
同じくそれを察したか、
「松和さん、その脚、どうしたんです?」
花丸が口を開いた。
「ああ、昔、事故でね」
花丸の視線を追ったルビィは、考朔の脚にミミズがのたくったような傷跡を見つけた。
「痛そう……」
ルビィは見ているだけで、同じ箇所がムズムズしてくる。
「平気だよ、もう見た目だけだから」
「本当に?」
一瞬、誰が言ったのか分からなかった。
考朔がその発言主を見た。
発言主――ワセリンの付いた人差し指を自分の左前腕に押し付ける果南は、笑顔を浮かべていた。
「本当だよ、ほら、なんともないでしょ」
考朔は膝を曲げて垂直ジャンプしてみせた。
「なら、バイクの免許は取った?」
「え?」
「果南ちゃん!?」
「黙ってて、曜」
温度のない言葉に、曜の喉が上下する。
考朔は困惑したように、果南と曜を見比べている。
(なんで今、バイク?)
そのキーワードに、ルビィの背筋が寒くなる。
「追突事故ずら?」
「そうかもね」
(なに? なんの話をしてるの?)
怖くなり、花丸のスクール水着を引っ張るが、彼女は動こうとしない。
「どうしたの? 果南。変だよ?」
果南が歩を進める。
考朔を飛込プールに追い詰めるように。
「あんたは変じゃない? 考朔」
「え?」
果南の左手が伸び、考朔の肩を掴む。
その左前腕が、水面を反射するなにかに覆われ――
「果南?」
――直後、プールの水が弾けた。
甲高いエンジン音とともに、多量の飛沫が宙を舞い。
高速回転するタイヤがナイロンの床で異音を鳴らす。
現れたのは、グチャグチャに合体した三台のバイク。
いや――
「――パイルアップずらあ!」
「ピギィィ!」
花丸が叫び、ルビィの手を引いた。
果南の左手は、まだ、考朔の肩を硬く掴んでいる。
*
「こ、これが、怪人……?」
現れた存在に気が遠くなりながらも果南に支えられて、松和考朔は意識を繋ぎとめた。
≪CBR400R≫の特徴的な橙色のフルカウルを鼻先に持ち、その後部を押し潰して乗り上げた緑色の中型ストリートファイター≪390 DUKE≫の前輪が、威圧するように見下ろしてくる。角度的によく分からないが、もう一台のバイクが≪390 DUKE≫の後部を押し潰しており、合計三台のバイクが連結された形状をしているらしい。
それこそが、小原鞠莉が考朔をここに導いた、考朔がここにいる理由。
曜たちと俺をもう一度、繋いでくれるかもしれない、俺の中の非日常。
五体目の怪人、パイルアップ・フォーメア。
いや、でも――
「――怪人って、人の形じゃないの?」
「とは限らないみたいだよね」
果南の呟きを消すようにエンジン音を轟かせた怪バイクは、生きているタイヤのうち二つで走り出した。だが考朔たちに迫ってくるのではなく、逆にプールサイドを遠ざかっていく。
そして十分に離れるとターンし、割れたカウルの奥のヘッドライトをこちらに向けた。
「果南、これヤバくない!?」
「ヤバいね」
後退りする考朔の肩に果南の手が添えられ、その冷たさにゾッとした時――
「Shinyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyy!!」
――銀色の輝きが落ちてきた。
「Ciao! 今日はGalleryは少ないけど、全力でいくわよォ!」
五本の細長いパーツをスカートのように翻したそれは、ベルトの横にぶら下げた球体に、ダンベルのような道具を押し当てた。
『ウムラウト』の電子音声が流れ、黒と銀の身体に鮮やかな紫色の装甲が生成される。
さらに上半身に歯医者の反射鏡のような円形の装甲が追加され、顔にも大きな丸い目とそれを繋ぐ小さな“U”の字の口が現れる。
「≪Shiny=Umlaüt Foam≫!」
「め、≪メタルヒーロー≫!?」
考朔は思わず、子供の頃に見た特撮ヒーローの名を叫ぶ。
「
だがスカートのような部品の下で足を揃え、片手を斜め上に掲げるポーズは、テレビや新聞で見た写真と同じ。
「これが≪仮面ライダー≫、じゃあ中の人って――」
「――浦女の理事長ずら!」
「ダ・イ・リ、だってばァ!」
その声は噂通り、あるいは公式発表通り、OGIグループのCEOの一人娘だった。
シャイニーはダンベルのような道具をガンスピンのように回した後、怪バイクに向ける。その仕草で、それが武器だと分かった。
「ルビィさん、国木田さん、控え室に行くよ! 果南ちゃん、考朔くんをお願い!」
考朔はまだ状況を把握できていないのに、曜は指示を出し、後輩の女子二人も果南もてきぱきと移動を始めた。
「曜! 控え室で平気なの!?」
明らかに手馴れている三人に戸惑いながらも、考朔は曜に問う。
「あいつ、パワーはないから!」
いかに怪人といえど、バイクとして入ってこられない場所に逃げ込んでしまえばいい、ということか?
だがバイクのエンジン音が高らかに唸りを上げれば、考朔は曜に従うことだけを考えるしかない。
「来るわよォ!」
シャイニーの手元が輝き、粒のような光が連続で放たれた。
それらは走り出したパイルアップ・フォーメアを目がけ、≪CBR400R≫のカウルに命中、橙色のパーツが弾け飛ぶ。
「やった!」
「まだまだァ!」
光弾は怪バイクの先頭車両を破壊しただけだ、≪390 DUKE≫を次なる先頭にし、依然として向かってくる。
「そんなのありずら!?」
「急いで!」
曜が花丸の手を引き、花丸もルビィの手を取り、一列で走り出す。
考朔も果南に背中に手を回され、曜たちの前についた。
「もう! 似たような場所で同じヤツにい!」
曜が叫ぶと同時に、
「la!」
気合と共に金属の音が響く。
振り向くと、腰を落としたシャイニーが、パイルアップの真正面から受け止めていた。
「Oh……けっこうHeavyね……」
前輪を抱えられたパイルアップは、後輪をがむしゃらに回してナイロンのプールサイドを焦がし、水を蒸発させる。
「でも、アナタのSpecsはァ――」
『セディーユ』の電子音声と共に、シャイニーの身体から紫色の装甲が消えていく。
いや、入れ替わるように、ショッキングピンクと言ってもいい鮮烈な輝きが産まれ、三日月のような装甲が上半身から突き出る。
そして、
「――把握済みなのでェス!」
シャイニーが身を返すと同時に、色も形も鋭い装甲が≪390 DUKE≫の前輪を切り裂いた。
「今回は逃がさないわよ! 出入口と排水溝をShut outした今、アナタはまさに
シャイニーが叫び、腕を翻す。
「この≪Çedilla≫のォ!」
直後、ひしゃげたガソリンタンクと後輪が、鮮やかな断面を見せて宙を舞う。
「敵じゃあないわァ!」
切り裂かれた怪バイクは蹴り飛ばされ、プールサイドを転がっていった。
「す、すごい!」
筆記体の“X”のように組み合わせた三日月を目のガイドラインに、法令線のような、あるいは涙の跡ような波線が口を作る≪セディーユフォーム≫の顔は、上半身から突き出すショッキングピンクの装甲と相まって、先ほどの≪ウムラウトフォーム≫とは別人のようだ。
ダンベルのような銃も、気付けば柄の末端から三日月型の刃が伸び、ナイフというには長く剣というには短い半月刀に変化していた。考朔は知らないことだが、それはブランキアの薙刀の石突きから飛び出した刃と同じ形状だった。
「あと一台ィ!」
二番目の車両は怪バイクから完全に分離し、プールサイドに飛び散ったパーツが泡となって消えていく。
(これが仮面ライダーなんだ)
鞠莉が考朔を、このプールに連れてきた理由がよく分かった。
これなら、フォーメアを倒すことなんて、造作もない。
「油断しないで!」
横を走る曜に言われ、だがフォーメアから余計なパーツが分解され、最後部のバイクだけが残されたのを肩越しに見た時――
「兄貴のだ」
――考朔は立ち止まってしまった。
見間違えるはずもない。
あの時、兄と二人乗りしていた、他の二台と共に廃車になった、青色の≪DR-Z400S≫。
追突事故を起こした前の二台に乗り上げ、松和兄弟を振り落とした、兄の愛車。
考朔から一年もの間、高飛込を奪ったバイク。
それが、怪バイクの三台目だった。
心拍数が上がる。
エンジン音が高まる。
「考朔くん!」
曜のこわばった顔が走り去る。
「なにしてんのォ!」
シャイニーが考朔たちの方を振り向いた時、
「理事長! 前!」
曜が叫んだ。
分解されずに落ちていた二つのタイヤが浮き上がり、宙を舞ったのだ。
半月刀を逆袈裟斬り、一つは切り落す。
だがもう一つのタイヤは伸びきった彼女の右腕に絡まった。
「What!?」
その径が縮まり、ショッキングピンクの装甲に絡まっていく。
「ちょっとパイン! どうなってんのよ、これェ!」
取り落とした半月刀を左手で拾ってタイヤのゴム部分を斬るが、スポークはすでに半月型の装甲の根元に食い込んでしまった。
前腕から火花を散り、半月型の装甲が泡となって消えた。
「聞いてないわよォ! こんな馬力ィ!」
シャイニーは銀と黒のアンダースーツからスポークを剥がそうとするが、掴めそうにない。
放っておけば腕が折れるだろう。
俺の脚みたいに?
そう考えた矢先、首になにかが絡みついた。
誰が、と思う間もなく、急速に手足の感覚がなくなり、意識が遠のき――
「ごめんね」
――耳元で誰かの声を聞いた気がした。
*
幼馴染みから力が抜け切った時、シャイニーの右腕に絡まっていたタイヤが水となって、拘束が解除された。
やはり
「助かったわァ! 果南!」
「果南ちゃん!? なにしてるの!」
松浦果南は口の端で曜に笑い、自分が絞め落とした考朔を壁際へと引きずる。
「でも……Curse、ここまでなんて」
シャイニーはだらりとぶら下げた右手首に毒づいていた。装甲が護るべきメカニズムまで破壊されたようだ。
だが果南の物思いは、パイルアップ・フォーメアの次の挙動に掻き消された。
普通の二輪車になったそれは、タイヤの摩擦音を鳴らしてプールの水面を走っていたのだ。
「そんなこともできるずら!?」
叫ぶ花丸たちの前に回り込んだパイルアップは、威嚇するようにエンジンを鳴らす。
「焦らないで! そこに入って!」
だが曜たちも、もう控え室の前まで来ている。あとは入るだけだ。だが――
「ピギィ!」
――ルビィが転んだ。
引きずられ、
「ずらあ!」
「うわあ!」
手を繋いでいた花丸が、そして曜が転んだ。
「曜!」
フォーメアが前輪を上げて走ってくる。
「Shit!」
『ウムラウト』の電子音声と共に
だが、左手でまともに撃てるか?
最後尾になった果南は考朔を寝かせると、瞼を伏せ、飛込プールの水面を睨む。
ここまでか。
これが、小原家が二年間で成し遂げた成果か。
フォーメアとスランバラーを捕獲し、この水泳場で勝負に持ち込んだ仮面ライダーは、負けた。
小原家の作る機械では、これが限界なのだ。
小原家の作る未来では。
水面に左手を伸ばし、その手を広げ――
「マル! どいてェ!」
――シャイニーの射線を、花丸が遮ったのが見えた。
花丸は時速数十キロで走るフォーメアに、広げた手を伸ばしている。
果南と同じように。
音が近付いてくる。
「まさか」
小さなハミングのような響きと共に、花丸の向こうの空間がゆがむ。
一瞬も待たず、淡い輝きが溢れ出した。
「ピギィ!」
「μ-フォーム!?」
ルビィと曜が叫び、応えるように光が舞い――
「ずらッ!」
――プールから飛び出したロリポリ・フォーメアが、バイクを壁まで殴り飛ばした。
「うわあ、本当にこの前と同じ絵面だぞう!」
曜は倒れた考朔に駆け寄りながら、誰にともなく叫んだ。
だが果南は、ダンゴムシに抱きつく花丸を見ることしかできない。