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桜内梨子がヘルメットを脱いで最初に思ったのは、「意外と潮の匂いがしない」だった。
去年の冬にクルーズで回った東京湾は、それが濃厚だった。潮の匂いとはプランクトンの死骸などが原因で発生するらしいから、この海は東京湾よりも魚が豊富で水質が綺麗、ということだろう。
自分に宛がわれた、桜色というには真っ白なフェンダーを突き出した中型のオフロードバイクに触れる。路肩によせてエンジンを切ってから久しいが、雨に濡れたタンクはまだ暖かい。
と、スーツ姿の男性が、歩道を歩いてくるのが見えた。
「早いな、梨子。やっと追いついた」
「お父さんが安全運転なのよ」
父――桜内桑介は傘の下で、後頭部まで禿げあがった貫禄のない顔で笑う。東京から乗ってきた社用車は、すぐ先のコンビニに停めてきたようだ。
「ん? いつ着替えたんだ?」
梨子は音ノ木坂女学院の制服を着ていた。もちろん膝丈のスカートでバイクに乗れるわけはなく、父が最後に見た姿はレインコート姿だったはずだ。
梨子は答えず歩き出し、海に突き出した桟橋に入る。父も後に続く。
湾を抱える両腕のような陸地の内側にある街。
雨で境界の曖昧になった世界。
父の転勤先が湾に面した街だと聞いた時、海にいい思い出のない梨子は嫌な気持ちになった。桟橋からこうして眺めている今も、それは変わっていない。
陸地の左腕側を見る。高台の上の小さな白い建物が、梨子が転校する私立浦の星女学院高校のはずだ。
この街ではどこにいても、海からは逃れられないだろう。だが学校の中なら海は見ないで済むだろうし、見えたとしても潮の匂いがなければ、広い湖の畔にいるような気分になるかもしれない。そう予測すれば、少しは気が楽になる。
「少しの辛抱だ、梨子。少しだけ、検査に協力してくれ」
「うん」
「大変な目に遭うかもしれないけど、僕らにはそれが必要なんだ」
「うん」
「いざとなればお父さんが護るけど、それでもどうにもならない時は――」
「――分かってるよ、お父さん」
梨子が遮ると、桑介は力なく笑い、梨子も微笑んだ。
父はこう言うが、会社での桑介の立場からすれば、桑介が梨子を護ることはできないだろう。だが彼がそう口にしないのは、会社における自分の立場を娘が把握している、と確かめるのが怖いからなのだろう。梨子はもう、それが察せる年齢になっているというのに。
「お父さんはこれから会社だけど、荷解きの方は任せていいね? ウチの住所は分かる?」
「平気、メモがあるし」
「そうか、なにかあれば近くの人に聞いてみなさい。転校生だって言えば、こんな田舎町だし、助けてくれるだろう」
「私たちも、もう“こんな田舎町”の住人なんだけど?」
「そうか、それもそうだな」
矢継ぎ早に喋る父は、娘を心配しているようで、自分を心配しているようにみえる。
と、遠くでバスが停まったのが見えた。高台の学校へ向かう海岸通りを走る路線だ。明日からは梨子も利用することになる。
「じゃ、お父さんは行くからね」
「うん」
「しばらくは二人なんだから、なにかあったら会社に連絡しなさい」
「分かってるよ」
「暗くなる時間も分からないから、早めに――」
「――分かってるって。またあとでね」
桑介は桟橋を出て歩道を歩いていった。梨子は反対に、桟橋を突端へと向かって進む。
桜色の傘の柄を掴む指が、無意識に鍵盤を探して動く。
唇が小さく開き、メロディを奏でる。
コンビニの駐車場から社用車の出て行く音がする頃、桟橋の突端に辿り着く。
小さな海水浴場の脇から延びる桟橋は、看板を見るに、中型のクルーズ船に乗るためのもののようだ。船はたった直径一キロしかない湾を回る遊覧船らしく、今は桟橋にはおらず、一望できる湾にもいない。休業中なのだろう。
見回すだけで終わる世界。
迷い込んだ自分。
金属製の橋脚に打ちつける波が、どこかから泡を運んできた。
家には行きたくなかった。
両親のいない、自分が梱包したダンボールだけが、人の温もりの痕跡を残す家。梨子の家ではない。
では東京に帰りたいのか?
ピアノコンクール音ノ木坂女学院代表としての梨子は、勝利の機能をまっとうできなかった。二度目のチャンスは与えられなかった。
波が引き、泡は海へと連れ戻される。
だがまた波が寄せれば、陸にぶつけられるのだろう。
自分は泡だ、と梨子は思う。
海に捉われていた大気の欠片が、仲間を求めて海面を目指す球体。
海面に出たとて、海と陸の間を波に遊ばれてたゆたうだけの球体。
居場所がない。
二つの境界に乗らなければ、存在の確立しない虚ろな穴。
二つの境界に乗っている事実だけが、存在価値である膜。
そんな漠然とした恐怖が、梨子に不安の爪跡を残す。
出し抜けに風が吹いた。
無秩序に暴れる髪を押さえ、梨子は海に背を向け。
砂浜に誰かが立っているのを見る。
制服姿の長い髪の少女だ。
地元の子だろうか。
驚きの顔がなにかに照らされ、曇天の下に取り残された太陽のように見える。
こちらを見ている。
その顔が、あまりに眩しくて。
梨子は顔を背ける。
海が目の前に広がる。
視野が狭まり、傘が指からこぼれる。
「どうして」
下腹部が疼く。
身体が熱い。
泡は割れれば、還れるのだろうか。
泡が割れれば、還れるのだろうか。
どこへ?
「ダメええええ!」
「え?」
桟橋を踏み鳴らす音に半身を向けた時、梨子の身体は無意識に動いていた。
掴みかかろうとする腕を掴み。
身体を逸らして力をいなし。
腕を相手の顎に引っかけ。
直線の力を回転の力へ。
そのまま仰向けに――
びだーん!
「あ」
――桟橋に叩き付けられたのは、先ほどの少女だった。
「あー! ウソ、どうしよう!」
仰向けに倒れた少女は、目を回して動かない。
「ちょっと、あなた! 急にそんな! ねえ、ちょっと! 誰かー!」
A
「千歌が悪い」
「なんでよー!」
「そんなの突き落とされると思うに決まってるよ」
「飛び込もうとしてると思ったんだよ!」
「だったら離れた位置から呼びかければいいじゃん」
十千万に担ぎ込まれた高海千歌は、旅館の喫茶スペースにて、姉の美渡からの攻撃を受けていた。
「ごめんね、ほんと。こいつ、だいたい見境ないからさ」
「いえ、その、私の方こそ思いっきり……」
千歌の横に座っている少女は、加害者であるはずが被害者として恐縮してしまっている。
「そのくらいにしなさい、美渡」
口を挟んだのは、高海家の母――枝海だった。落ち着いた小豆色の和服を着て、木製のお盆を手に歩いてきた。
「ここはお客様の場所よ、お話ならともかく、お説教なら向こうでしなさい」
枝海は三人にお茶を出すと、少女に「ごゆっくり」と笑いかける。
「私は客じゃないって?」
「たまたま通りがかっただけでしょう」
「そうだよ、お姉ちゃん。仕事サボってなにやってんの」
千歌は切り込む隙を見つけたと思い、便乗して反発した。
「サボってないって。たまたま仕事でこっちにきたから、寄っただけよ」
「ほら、たまたまじゃない」
「お母さん!」
言い合う母と姉を見られるのが、千歌は恥ずかしくなってきた。
「私平気だから! 君、行こ?」
熱いお茶を口に含み、千歌は少女の手を取って出口に向かう。
「あ、ちょっと千歌!」
「お母さん、私部屋に行ってるから!」
「はーい」
「え、私も?」
「ちょっと千歌!」
「会社に戻らないなら手伝って行きなさい」
「ああもう、戻るよ戻る!」
二人の娘は旅館から出た。
「バカチカ!」
「バカミー!」
競うように傘を広げた姉と別れた千歌は、少女の手を引いて駐車場に入り――
「ふふふっ!」
――笑われた。
「あー、もう、君まで笑うー! みんな、ちかっちのこと笑うんだからー!」
一人称がうっかり“ちかっち”になったのも、遅れて恥ずかしい。頬が赤くなる。
「ごめんなさい。そうじゃなくて……仲がいいんだな、って」
「へ?」
千歌の予想に反して、少女にバカにしたような態度はなかった。
「私、きょうだいとかいないから、さっきみたいなの、なんか楽しくて」
「仲がいい? いやいや、疫病神だよ? あれ。いない方が絶対いいから」
「疫病神?」
そういって少女はもう一度、口に手を当てて笑った。
その仕草がなんだか上品で、千歌は思わずドキッとしてしまう。
背中まである髪から漂う潮の香りが、海育ちの千歌の感覚を乱しているのかもしれない。
千歌はそんな気持ちを振り払うように、
「でもよかった!」
と大声を出した。
「さっき、君、海に飛び込む五秒前、って顔してたんだよ? でも、ごめんね、私の勘違いだったみたいだね」
それは本音だった。まるでお昼のドラマで二股をかけられた挙句捨てられた女優のようだった顔が、今は年齢相応の顔でクスクスと笑っているのだから。それが自分と姉のきょうだいゲンカの微笑ましさによるものだとしても、千歌は嬉しかった。
「そうだよ、私、自殺なんてできないから」
少女は怒ったように困ったように、そっと眉を寄せた。その表情も、この街の人の面持ちとは違って見えて、千歌はむず痒くなる。
「でもうちの道場、投げもやっててよかったよー。あれ受け身なしで入ったら、背骨いってたよね」
「道場? って――」
「――千ー歌ーちゃーん!」
梨子の発言を遮るように、自転車のブレーキ音とはつらつとした声が飛び込んできた。
「曜ちゃんが遊びに来たヨーソロ……誰!?」
自転車からヒラリと飛び降りた曜が、梨子を真っ直ぐ指差して叫んだ。
そこで千歌は、梨子と相合傘で密着している状態に気付いた。梨子が傘を差す前に、手を引いて外に出てしまったのだ。
「いやあの、これはその、って、曜ちゃん! 自宅待機だよ!?」
「お母さん仕事に戻っちゃうから、千歌ちゃんとトランプでもしてろって――いやだから、そちらの方は!?」
「ああ、えっとこの子は……。あ、私、高海千歌だけど、なんて名前なの?」
千歌はようやく、自分が少女の名前を聞いていないことを思い出した。
梨子は苦笑してから、傘の中で小さくお辞儀をする。
「桜内梨子、今年から浦の星女学院に転入する二年生です。よろしくね、高海さん」
*
明治二〇年創業の歴史ある旅館≪十千万≫は、その冠に違わず淑やかな和風建築だが、敷地の裏にある高海家宅は昭和初期に建てられた二階建て鉄筋コンクリート造だ。
「発表があるの」
そう口にした千歌の自室も、当然普通だ。畳敷きの和室に、目の細かい砂壁、同じような木目が並ぶプリントの天井板。ベージュのシーツがかかったベッド、小学校時代から使っている木製の机、天井まで届く本棚、ダイオウグソクムシのぬいぐるみ。中学生の頃に入った時と変わっていない。
そこまでは。
「私、スクールアイドル始める!」
その宣言を聞く前から、渡辺曜はイヤな予感がしていた。
部屋に入った時からずっと、壁を徹底的に隠すがごとく吊された、たくさんの女の子が写されたポスターから目が離せなかったからだ。
「曜ちゃん、聞いてる!?」
クッションの上に正座する梨子と曜に、仁王立ちの千歌が言った。
「き、聞いてる聞いてる」
慌てて視線を千歌に戻すと、幼馴染みの顔が笑顔に変わった。いきなりエンジン全開だ。
「でも、どうしたの急に――」
(――いや、急じゃないのか? なにがあったの、千歌ちゃん)
曜のそんな困惑に構わず、千歌は電話を操作して、曜に画面を見せた。
「え? なにこのサイト。え、読め? えっと――
『スクールアイドル:学生、主に高校生が部活動で結成する学校所属のアイドル、およびその活動。スクドルとも。
各学校レベルで行われていた活動が、二〇〇九年のA-RISEの登場により全国区化、商業化が進み、二〇一二年に全日本スクールアイドル連盟が結成される。全国大会は、同連盟が主催する「ラブライブ!」。今年度で七回目と八回目が開催される予定』
――ふーん」
「分かる!?」
「そりゃ分かるよ、書いてあることは」
曜は英語用の単語カードのつづりを開き、[スクールアイドル][ラブライブ!]などとポイントになりそうな単語を書きながら答える。
「え、なに、続き? ――
『現在のスクールアイドルシーンは“アフターμ』……
――ん? なにこの文字。マイクロ……?」
「みゅーず!」
「“μ's”で? 石鹸?」
「曜ちゃんまで! もうそのネタ聞き飽きたよー!」
「そんなこと言われても。えっと――
『現在のスクールアイドルシーンは“アフターμ's”。μ'sが空けた穴を埋めるべく、全国各地でグループが群雄割拠しているが、現在も次なる潮流は現れていない』
――μ'sが空けた、穴?」
「そ、μ'sが全部を変えちゃったんだよ!」
そういって千歌は自分の電話を曜からひったくり、なにやら歌いながら操作し始める。
曜がカードに[μ's]と書き込みながら横目で梨子を見ると、彼女は助けを求めるように曜を見ていた。自分も同じ顔をしているだろう、と曜は想像する。
というか、数十分前に出会った女の子を自宅に連れ込んでなにをしているんだ、この幼馴染みは。
「え、また読めばいいの? ――
『μ's【みゅーず】:ギリシャ神話における創作の女神の名前を持つ、九人の女性スクールアイドルグループ。国立音ノ木坂女学院高校アイドル研究部所属。
生徒数減少による同校の廃校を阻止するために結成された。パフォーマンスは九人のメンバーによる歌唱と群舞。公式に記録されている楽曲は二四曲(バリエーション曲含む)。
ファーストライブ映像の流出で世に知られ、定期的なPVの発表やライブで着実に人気を集める。第一回ラブライブ!は出場を辞退したが、第二回でスクールアイドルの代名詞だったA-RISEを破り、名実ともに頂点へ。同校の廃校を阻止しただけでなく、わずか一年間の活動期間で、スクールアイドルの存在をお茶の間まで広げ、海外ライブを実現するなど、知名度はスクールアイドルの中でも随一。
多様な楽曲を残しており、特に大会やPVで披露したダンスチューンは、曲、詞、衣装、パフォーマンスのすべてがハイレベル。一部からは、学生の部活動に求められる水準をプロレベルに押し上げた功罪も指摘される。
――ふーん、え? ――
『スクールアイドルは、A-RISEが始め、μ'sが確立し、そして壊した』と言われることも』
――壊しちゃったの?」
「そこはどうでもいいの!」
千歌が断言し、再び電話は持ち主の手に奪い返される。
「分かったでしょ? そういうこと!」
「分かんないよ、こんな、いきなりたくさん見せられても分かんないって!」
「んもう! 大事なのはここ、ここだよ!」
千歌の力んだ指が示したのは、μ'sの説明文の一部、『生徒数減少による同校の廃校を阻止するために結成された』だった。
「そういうこと?」
曜はカードに[廃校]を書き込みながら、周囲のポスターを見回し、そこに意匠化された「μ's」の文字が踊っているのを認めた。彼女ら九人がμ'sらしいが、曜の目には正直、それが時代劇の四十七士か、スパルタのスリーハンドレットなのかも判別できない。
「要する千歌ちゃんは――」
単語カードのリングから[廃校]のカードを抜き、畳に置く。
「――廃校になりそうな浦女を救うために――」
次に[スクールアイドル]のカードを、[廃校]のカードの上に置いた。
「――μ'sみたいにスクールアイドルを始めよう! って言いたいの?」
その翻訳に千歌は「うん!」と満足そうに頷き、そのリアクションに曜は半笑いになる。
「ち、千歌ちゃん、さっきのこと覚えてる? 私たち襲われたんだよ?」
「え?」
「だから! さっきのアレだよ!」
「そりゃ覚えてるけど」
「ねえ、アレって?」
梨子が疑問を挟んだことで、曜はこの話題が、浦の星女学院部外者の梨子には伝わっていないことに気付いた。
「えっとね、梨子ちゃん、転入前にこんなこと言うのもなんだけど、さっき学校に怪人が出たんだよ。ドロドロでベチャベチャな緑色のヤツと、頭が輪切りになっててクルクルって回るヤツ! それが学校で戦って、うちの生徒と先生も襲われたの!」
実際には怪我をしたのは教師五人に黒澤家のボディガードだが、あのままなら被害が拡大していたのは確実だ。新入生を助けようとした時は無我夢中だったが、冷静に思い返すと身震いがしてくる。
だが梨子はピンときていないようだった。当然か、曜だってこんな風に言われたら信じない。
「そうだ、今動画出すよ」
曜はアップロードされた動画を電話で再生し、梨子に渡す。
「え、これ……」
画面を見るなり梨子が絶句し、曜は我が意を得たりと千歌に向き直った。
「これが普通のリアクションなの! こんなのが出ちゃったら、アイドルもなにも、生徒なんて減る一方だよ!」
そう言って、[怪人]と書いたカードを[スクールアイドル]の上にぶつけた。
「うーん、でも、減った分も取り返す勢いなら」
「そりゃ死者は出てないけど、このままじゃ――」
「――平気じゃない? 渡辺さん」
曜に割り込んだのは、電話から顔を上げた梨子だった。
「この緑色の方の怪人、みんなを護ってる」
「え?」
動画を覗き込むと、たしかに緑色の怪人は、ツーサイドアップの新入生を庇うように、輪切り怪人をはねたように見えなくもない。千歌の時もだ。
「いやいやいや、動画で見たらそうかもしれないけど、違うよ、単なる仲間割れだよ、怪人の!」
「こっちの怪人は味方なんだと思うよ」
確信めいた言い回しをする梨子に、さっきまで自分の側だと思っていたのが突然千歌側についてしまった梨子に、曜は絶句する。
「そうだよね! ほら曜ちゃん! 怪人は怪人に任せて、私たちはアイドルだよ!」
「もー! 呑気すぎるよ! 梨子さんはともかく、千歌ちゃんは死にそうになったのに!」
「いやあ、それほどでも」
「褒めてない!」
と、梨子が目をパチクリさせているのに、二人は気付いた。
「どうしたの? 梨子さん」
「私、“たち”?」
その言葉で、曜のイヤな予感が再湧出する。
「千歌ちゃん、スクールアイドルって、千歌ちゃん一人でやるんだよね?」
「え?」
千歌は心底意外そうな顔で、μ'sのポスターを指差す。
「九人でしょ?」
「一応聞いてあげるけど、そのメンバーは?」
「私と、音ノ木坂からの使者、梨子ちゃんと――」
「――え? ええ!? 私!?」
「μ'sの母校の梨子ちゃんがいれば、百人力だよ!」
「そういえば、制服同じだ。そうなんだ」
曜は今になって、いくつかのポスターでμ'sが着ている制服が、梨子のそれと同じだと気付いた。
「え? だから拉致ってきたの?」
「あと、曜ちゃんと果南ちゃんかな、今決まってるのは」
あー、不意打ちきた。
「千歌ちゃん! 人を頭数に入れるのは誘ってからにしてよ!」
曜は千歌の肩を掴んで前後に振る。
「だ、だから今誘おうとしてたんだよう」
「私だって水泳があるのに――って、千歌ちゃんだって空手あるでしょ!」
「空手は使いどころないしさあ」
「さっきだって空手キックであいつを倒したのに! てかまさかスクールアイドルって、梨子ちゃんが音ノ木坂から来たから思い付いた案!? いつ思い付いたの!? 何分前!?」
「ち、違うよ、前から――」
「――ごめんなさい!」
その声が曜の耳に届くが早いか、梨子の姿は千歌の部屋から消えていた。
「……千歌ちゃん?」
「ちょ、ちょっと、強引だった……かな」
曜にじっとりと睨まれた千歌は目を逸らし、ようやくエンジンの回転数を落とした。
*
「お待たせ致しました、国木田様」
「は、はい!」
昨日と打って変わって晴天の朝、普通のクルマの二倍近い全長がある黒塗りの高級車が、私道の入口に停まった。前後にやはり黒塗りのセダンが一台ずつ。まず間違いなくカタギではない。
国木田花丸は心臓が二ミリくらいに潰された気持ちになる。だが体格のいい黒いスーツの男性が、慇懃に頭を下げてドアを開けてくれるのを見れば、乗らないわけにもいかない。
「じゃ、行ってくるずら、パフェ」
≪妙法寺≫からついてきてくれた黒と茶のジャーマン・シェパード・ドッグの頭を撫で、私道を登っていくのを確認して、車中に乗り込む。
果たしてそこには、見知った顔があった。
「おはよ! マルちゃん!」
「あ、おはよー、ルビィちゃん! 今日はありがとね!」
花丸はホッとしてルビィの隣のシートに座ったが、
「ごきげんよう、花丸さん」
ルビィの姉、黒澤ダイヤまで乗っているのは、当然のはずなのに、何故か想像していなかった。
「ご、ごきげんございます、生徒会長様」
奇妙な挨拶へのコメントはないまま、リムジンは静かに滑り出す。
「あ、付けてきてくれたんだ!」
ルビィが花丸のスクールバッグを指差した。そこにはボールに乗ったネコのぬいぐるみがついていた。
「うん、せっかくルビィちゃんがくれたんだもん、お揃いだよ!」
言いながら花丸は、二人のバッグを検閲するようなダイヤの目を気にする。
「あ、あの、校則違反です?」
「“節度を持った装飾品”と見なしますわ」
ダイヤの言葉に花丸は安心し、ルビィと顔を見合わせて笑った。
ダイヤは軽く息を漏らしたが、それがどんなニュアンスか、花丸には分からなかった。
昨夜、私立浦の星女学院高校の理事会は、記者会見で授業の開始を発表した。
入学式に正体不明の存在に襲撃されたことを考えれば、警察の現場検証やメディアの取材の影響を考え、数日間は休校になってもおかしくはない。だが理事長のジョルジョ・ルカーニアは滞在先のアメリカから、民間警備会社による警備体制の強化と警察への協力により、生徒の安全と事件の早期解決をアピール、授業の開始を宣言したのだ。
それは学校が各家庭に通達を出すより早い発表であり、また理事には被害に遭いかけたルビィの父である黒澤琳太郎も選任されていることもあって、正体不明の不審者による女子校襲撃というニュース以上に理事会の動きが賛否の波紋を広げた。今朝には沼津新聞や静岡新聞の一面を飾るほどのニュースになってしまい、さらには≪黒澤総合警備保障≫のボディガードが九人がかりで正体不明者を撃退できなかった事実や、学校の警備や調査にルカーニア氏がCEOを務めるOGIグループの警備会社≪OGIスクード≫の参画の発表により、全国紙どころか経済誌、外国の紙面をも騒がせたそうだ。
これを「ルカーニア氏が出資する学校の、廃校回避のための売名行為」だと受け取った論客は少なくなく、現在もルカーニアの個人SNSアカウントは炎上中だそうだ。
だが事情はどうあれ、生徒は授業があるなら登校するだけである。
花丸はスモークガラスと遮音フィルムの貼られた窓ガラスに手を触れる。
紫外線どころか一部の可視光線まで遮断された太陽は冷たく、リムジンの車内は落ち着いた間接照明で照らされている。向かい合わせのシートどころか内装はすべて黒の本革だ。
運転席と客室の間には透明な仕切りが降りており、運転席の音は聞こえない。それどころか。ろうろう、とエンジンの振動が微かに伝わってくるだけで、走行音は皆無だ。
加速も減速も、三人が手にするコーヒーカップとソーサーが音を立てないほどに滑らかに行われ、外が見えなければ移動しているのかどうかも定かでなくなるだろう。
総括して、異質な乗り心地だ。普通に生きていたら絶対に乗れない類のそれであり、そう意識すると、花丸の胃が痛くなってくる。送迎の申し出に渋った花丸の母の気持ちが分かる気がした。
「マルちゃん、平気? お腹痛いの?」
顔に出ていたのか、ルビィが心配してくれる。
「やっぱり今日は、休んだ方がよかったんじゃ……」
沼津市内に住む花丸は、バスで学校に行くのが不安だった。市内から浦の星に通う人はほとんどおらず、一人になるであろう通学時間が心細かったからだ。
そんな花丸の気持ちを雑談のテキストから察したルビィが、ボディガードに護られたリムジンで登校しようと誘ってくれた時は嬉しかったし、
「平気だよ、マルは元気だから」
そんな親友の好意に応えるために、花丸は笑顔でなければならないのだ。
「あ、あの、ダイヤ先輩、昨日はありがとうございました」
もちろん、その姉にも。
「なんの話ですの?」
「インタビューされてた私たちを、助けてくれました」
ああ、と友人の姉は僅かに首を傾けた。長めの尼削ぎに切り揃えられた黒髪が、ウィンドチャイムのように規則正しく揺れる。
「あれは私の功績と言うより、黒澤家の落ち度ですわ」
「え? ル、ルビィたちの?」
妹の狼狽に応えず、ダイヤはまた首をほんの数度傾け、窓の外を見る。
「黒澤家の人間ともあろうものが、衆人環視の中で動けなくなるなど、あってはならないことですわ。そして黒総警――黒澤総合警備保障の従業員も、九人がかりで一人の不審者も確保できないなどと、鍛え方が足りない証拠です。極め付けは黒澤家の家長夫婦たる父と母です。手持ちのボディガードを全員失っているのに、不審者に十分に近付かせるまで娘を放置するなど、言語道断ですわ……」
「そ、そんなこと言ったら、オラがルビィちゃんを抱えて竦んじゃったのが悪いんです!」
「そもそもルビィの方が、花丸さんの前に立たねばならないのです。進んで矢面に立つ覚悟のないものが、重き責務を背負う黒澤家の後継ぎ候補たりえましょうか」
「そんな」
「ですから花丸さん、あなたはわたくしたち黒澤家に、恩義を感じる必要などありませんのよ」
結局ダイヤからルビィへの説教のような形になった会話に、花丸は言葉を繋げられず、肩を小さくした。
この二人は普段から、このような「黒澤家の人間たるもの~」といった会話をしているのだろうか。
温くなったコーヒーに口を付けている間に、リムジンは江浦湾沿いの道を延々と南下していく。梅原龍三郎が“絵の浦”と呼んだ通り、緑の山々が深い青の海に迫る風景は美しいが、進むにつれて過疎化の進んだ街並みが目立ってくると、その美しさも白々しく思えてしまう。
やがてこんもりと丸い淡島が見えてきた。あわしまマリンパークへの港を越えればもう内浦湾の縁、この安全運転なら、目的地まで一五分ほどだろう。
「お姉ちゃん、なにかいるよ。学校の上」
ちょうどそこで、ルビィが声を上げた。
「マスコミですわ」
花丸がルビィの前に身を乗り出して見ると、黒っぽいものがゆっくりと移動しているのが分かった。場所はルビィの言う通り、浦の星女学院のある岬、長井崎岬の上空だ。
「ヘリですか?」
ダイヤが無表情で頷いた。
リムジンがトンネルを抜け、海岸通りに入った辺りから、学校関係者ではない人の姿が目に付いてきた。テレビ局のクルーや記者、野次馬などらしい。その中の何人かは、やってくるリムジンにカメラを向けて近付いてくる。
「ずら、ずらら!」
電柱に群がる羽虫のような人々に、花丸は思わず窓から離れてルビィに寄りかかってしまう。
「落ち着いて、マルちゃん。どっちの声も聞こえないし、ルビィたちのことは見えないから」
ルビィに肩をいだかれた花丸は、人々の目線がこちらに合っていないこと、口に対応する声が聞こえないことを遅れて理解する。それでもイヤな気分は拭えない。
「黒澤家の送迎用リムジンのナンバーなど、とっくに割れています。逃げ隠れする必要などありませんわ」
ダイヤは流れていく内浦湾に目を向けたまま、気怠げに呟いた。
「いつもこんな感じだったの? なにかあると」
「うん。ごめんね、マルちゃんにイヤな思いさせちゃって」
「それは……いいんだけど」
プライバシーを護られたリムジンは、何事もなく人々を通過する。
「普段通りに学校に行くと宣言し、そして行くこと。それもわたくしたち、黒澤家の責務ですわ」
普段はことあるごとに「ピギィ!」と悲鳴を上げるルビィでさえ、一五歳の高校生とは思えないほどの諦めの表情を浮かべている。幼稚園の頃からの付き合いなのに、親友のそんな顔を見るのは初めてだった。まるで古典の推理小説に登場する、古の呪いを継承する一家のようで、花丸の胸は苦しくなる。
「あ、お姉ちゃんお姉ちゃん! ほらほら!」
そんな空気を破ったのは、当のルビィだった。
彼女の電話に表示されたのは、二人の怪人が争っている動画だ。
「やめなさいルビィ。ニコ……云々? などと破廉恥な生配信サービスを利用するのは」
「だってお姉ちゃん、怪人のこと興味あったみたいだから。あと、これ生配信じゃないよ」
花丸たちにカメラを向けていた少女が配信した、≪堕天使ヨハネの真夜中フラガラッハ≫枠の動画が、別サイトに無断転載されたもののようだ。
ルビィはリムジンの客室を中腰でダイヤの隣に移動し、電話を差し向ける。ダイヤは気乗りしていなそう態度だったが、ルビィの見立ては正しかったようで、首の角度は少しずつ電話へと正対していった。
「緑色の方、できるようですわね。この構え、芦田流、いや、芦川流だったかしら」
「よかったでしょ? 配信があったから、この記録も残ったんだよ」
返答に困ったらしいダイヤは、ふと、画面を指差した。
「≪仮面ライダー≫? とは?」
耳慣れない言葉を口走った。そういうコメントが動画に流れていたようだ
「昔やってた特撮ヒーロー番組だって。昨日からネットはそればっかりだよ?」
「カメンライダー……カメンライダー……聞き覚えはありますわね。花丸さん、存じています?」
「私は知らないです」
花丸が短く否定すると、ダイヤは改めて画面に集中し始める。
あの時は何もかもを拒絶したくなってしまった花丸だが、同じく怪人に襲われたルビィが姉と一つの電話で
気付くとダイヤは、両腕を軽く持ち上げ、パンチのようなことをしている。ルビィが横で笑っているのにも気付かない。
「戦いたかったですか?」
花丸が言うと、ダイヤは咳払いをして開き始めていた膝を閉じた。
「久しぶりに『刑事ニコ』が見たいな。お姉ちゃん」
「あちらに薙刀は登場しませんわよ」
ダイヤが口を斜めにした時、サスがうねる感触が伝わり、エンジン音が低くなった。みかん山を登る道に入ったのだ。
「あ、ルビィたちだ!」
傾いた車体の中で、ルビィが電話を指差した。
「いけません!」
ダイヤがルビィから電話をもぎ取り、再生を終了した。
「あ、なんでよ、お姉ちゃん」
「怪人の情報については認めます。ですがこの先は、あの津島ヨハネとかいう新入生の売名行為でしかありませんわ。いくらルビィが可愛いからといって、そんなものがネット上に存在するなどと、言語道断です! 花丸さんもそう思いますわよね?」
唐突に話を振られた花丸は、少し考え、言葉を探す。
「開高さんは示しました。『位高ケレバ、務メ重シ』って」
人差し指を立て、軽く顎を上げる。
「マル――私とルビィちゃんは、インタビューを勝手に配信されて困りました。それはたしかです。あの子の売名行為に利用されたのも、たしかでしょう。でもそれは、学校の理事会の記者会見と同じです。理事会は昨日の一件を広める手段として、黒澤さんの家を利用しました。ルビィちゃんとダイヤ先輩が登校するのも、その一部です。一方、津島ヨハネさんも、自分の動画を広める手段として、結果的にルビィちゃんとダイヤ先輩の美貌と家柄を利用しました。どちらも持って産まれた資質――≪輝き≫です。資質は発揮しなければ意味がない。たとえ“矢面に立つ覚悟”を要するとしても。言い換えれば――」
すっかり冷めたコーヒーを、一口、含む。
「――“ノブレス・オブリージュ”」
その饒舌に、ダイヤとルビィは何度か目を瞬かせた。
「ま、マル、ちゃん?」
「え……?」
幼馴染みの大きな目に覗き込まれて、花丸は正気に戻る。
「ご、ごめんなさい! マルったら偉そうなことをペラペラ! 別に、ルビィちゃんに矢面に立ってほしいわけじゃないずら!」
「持って産まれた資質……?」
ダイヤの自問するような呟きをかき消すように、花丸は口を開く。
「ルビィちゃんはどうだったずら? インタビューされて、イヤだった?」
「ルビィは……泣いちゃってなければ、ネットで晒されちゃってもいいんだけど」
「なんですって!?」
「ピギィ!」
妹の言葉にダイヤが目を見開いた。
「ルビィ、あなた! 黒澤家の人間ともあろうものが、なんとはしたない!」
「じょ、冗談だよ!」
「言っていい冗談と悪い冗談がありますわ! 後ろ帯の乙女が不特定多数の殿方に自らの、自らの……なにを晒すと言うのです!」
「か、顔だよ! お姉ちゃん!」
「ルビィちゃん、迂闊ずら……」
とてもではないが、ルビィと一緒に「歌ってみた」「踊ってみた」動画をネットにアップしたことがある、などと口に出せない花丸である。