仮面ライダーメルシャウム   作:fuki

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第九話:震えてる手を握って - 4

   // B

 

「なにしてるの? お母さん」

 その人物はルビィの顔を見て、にこりと笑い。

 直後、高笑いを始めた。

「ピギィ!」

 甲高い声が夜空を貫き、耳を塞ぎたくなる。

 やがて、艶かしく息を飲み込む音がして、

「ルビィ」

 またも呼ばれる。

 打って変わって、落ち着いた声で。

「お、お母さんなの?」

「そう、お母さんよ」

 真珠のような光沢を放つケープも、ベルトですぼめたノースリーブのアッパッパも、すでに乾いている。その中で、水密ファスナーの青白いテープが装飾的に際立つ。

 金色の光の中でその服だけが、空のように白く、青い。

「違うよ、お母さんは、そんな、そんな大正モガみたいな服、着ないもん。それに――」

 ――そんな笑い方もしない、とは口に出せない。

「疑り深いのね」

 母の顔を持つその人物は、優しくルビィの手を取って、頬に触れさせる。

 海に入っていたのに、髪が張り付いていたのに、シャドウもチークも落ちていない。顔立ちは母と同じものだが、目鼻立ちの陰影を目立たせるメイクは母とまるで違う。

 いや、そんなことより。

「変だよ、お母さん」

 指で触れた頬が、指の形の通りに凹んだ。

 指を離して、その形が戻っていく様に、ルビィは見覚えがあった。

 入学式の日に、箒で殴られたエンジェル・フォーメアだ。

「お、お母さん? 違うの? フォーメアなの?」

「そうね、私はあなたのお母さんだけど、あなた方の命名に従うなら――」

 ケープから出した右手を空にかざす。その爪は、牙のように鋭く伸び、星を反射して光っている。

「――≪ラズリ・フォーメア≫、かしら」

 “lapis lazuli(瑠璃)”。

 自らそれを冠した怪人はケープに隠れた左手を出した。

 広げた手の指の間に挟まっていたのは、淡く光る三センチほどの球体。

「お母さんがフォーメアを作ってたの? お母さんが悪の親玉だったの?」

「解放者、って言ってほしいわね」

「え?」

「恐怖心、罪悪感、強迫観念、敵愾心、嫌悪感、反感心。自分を覆うそんな夜から、解放されるチャンスを与えるの。それが私」

「お母さん」

「ん?」

「怪人なのに、なんで喋ってるの?」

 ルビィの言葉に、ラズリは声を上げて笑った。

「そんなこと気にしてる場合?」

 その通りだ。

 だが、ではなにを気にすべき場合だ?

 怪人なのに、緊迫できない。

 “あの”母の顔をしているのに、安らいでいる。

 奇妙に弛緩した非日常に、ルビィは完全に混乱していた。

「さあ、ルビィ。あなたも解放なさい」

「な、ないよ。ルビィ、解放したいことなんて」

 母の顔をしたフォーメアは、球体をルビィに差し向ける。

「戦いたいんでしょ? 誰かを護りたいんでしょ? なのに、ダイヤに護られ、瑠璃に阻まれ、なにもできない。家の名を守るために、させてもらえない。自分にだって、なにかできるはずなのに」

「それは……」

 手を握る。指の関節がぼんやりとしている。

「あなたを縛る黒澤家の血の鎖。それを解き放ちたいなら――」

 球体の淡い光がゆっくりと明滅する。

 影のない金色の空が、それを反射する橙色の海が、白ずくめのラズリが、近付いてくる。

 視界から遠近感が失われていく。

 ヒッチコック映画の、眩暈ショットのように。

「――願いなさい。この≪闇の真珠≫に」

 本当に解放してくれるの?

 この鎖から?

 そうしたら。

 力を手にしたら。

 また友達になれる?

 ヨハネちゃんと。

「うーん」

 気付けば母の顔が、ルビィを覗き込んでいた。

「え? あ、あの……?」

「反応なし? まあ、そうかもね。なら――」

 ケープを跳ね上げ、右腕を振りかざし、

「――荒療治ね!」

 振り下ろした。

「ピ!?」

 引きつり、砂に足を取られる。

「ピィ!」

 尻餅をつき、舞い上がったツーサイドアップの間を、牙のような五本の爪が光の筋を描いた。

「お、お母さん! なにするのお!?」

「言ったでしょ。あなたを縛る黒澤家の血の鎖を、解き放ってあげるって。あなたの中に眠る力を――」

 ラズリ・フォーメアは母の顔立ちのまま、別人になる。

「――解き放ってあげるのよお!」

 両腕で頭をかばう。

 だがルビィが聞いたのは、自分の腕がハムのように輪切りになる音ではなく、

「お嬢様!」

 男性の声だった。

 顔を上げると、土手から跳んだと思しき黒服が、ラズリに体当たりをかました瞬間が目に入った。

 二人は砂浜を何度か転がると、ボディガードは砂に踵を突き刺して急制動し、ラズリは両手で跳ね起き、それぞれ立ち上がる。

「お嬢様、お怪我は!」

「う、ううん」

 ルビィは立ち上がると、母親の前に立ちはだかった黒服の背中を見る。

「邪魔しないでくれない? 今、家族のお話をしてるんだけど」

「たとえそうでも、お嬢様を傷付ける行為を阻止するのが、我々の仕事です」

 答えた黒服に、ラズリの白いレースに覆われた右手の指先を向ける。

「その職業意識は立派だけど――」

「ぐおッ!」

 次の瞬間、ボディガードが吹っ飛んだ。

「ピギィ!」

 黒服は砂浜を転がったのち、胸を押さえて砂の上をのたうつ。

「――もう少し私たちのこと、勉強してからいらしてね」

「リーダー! クソ、総員急げ!」

 別の黒服が、幅の広いコンクリートの階段を駆け降りながら叫んでいる。

「不躾な方々だこと」

 そう言ってラズリはルビィに笑いかけると、その黒服に右手を向けた。

「気を付けて! 黒服さん!」

 黒服が階段を飛び、コンクリートが弾ける硬い音を背に砂浜に着地した。

「助かった、ルビィ様――いえ、ありがとうございます、お嬢様」

 その黒服は、ジャケットの襟を片手で整える。

「爪を撃ち出すのが攻撃手段か。本当に怪人が存在するとはな」

 言われて、ラズリは羽織のケープから出していた右手を見せた。指先から伸びていたはずの、牙のように鋭い爪は、人差し指と中指の二本がなくなっていた。

「だが、あと三本、プラス五本か? 怪人なら、もう少し驚かせてみろ」

「ふうん?」

 ラズリ・フォーメアは楽しそうに笑い、黒服に右手を差し向ける。

 だが金色の光が走った時、黒服は三メートルほどの距離を詰め、ラズリの脇腹に右拳を叩き込んでいた。

「お……?」

 ラズリの口から息が漏れ、その時には黒服の右手がケープの肩を掴み、左膝が腹に突き刺さっている。

 その後は、ルビィの目には判別できなかった。

 多数のパンチとキックが繰り出され、そのたびにラズリの身体が小刻みに揺れる。

 風を振り切るように素早く、しかし一発一発が内臓を破壊してしまいそうな重さを秘めた一撃必殺。

 だが。

「お前……。本当に怪人なんだな」

 身体に残った拳や靴の跡が、ぐぞぐぞ、と音を立てて治っていく。

 それはμ-フォームによって作られた泡でできた、怪人の証。

「ええ、仮面ライダーにしか倒せない、ね」

 ラズリはスキップするように後ろに退く。

「仮面ライダーのこと、知ってるの?」

 ルビィが問うと、ラズリは母の顔で頷いた。

「もちろんよ、私たちの天敵なんだから。でも――」

 と、すっかり元に戻った腹部のラインを、指先で艶めかしく撫でる。

「――さすが、手練を集めたってだけはあるわ。私が人間なら、今頃死んでるわよ」

「お前が人間なら、最初の一発で昏倒している」

「それもそうね」

 ラズリは握った左手を、ゆらゆらと揺すって見せる。

「でも、その力を得るのに、どれくらいのものを過去に置いてきたのかしら? 辰本迅さん」

「その名前、どこで」

「あら、あなたのことは、よく知っているのよ」

 二人のやりとりでルビィは、それが昨日、善子の家で聞いた名前だと思い出した。

 ラズリはまた一歩、後退る。

「一九八九年、茨城県神栖市出身。県立波崎高学卒業後に市内の探偵事務所に就職。警察顔負けの操作能力と体術を遺憾なく発揮して街から一目置かれるも、二〇一三年、自らのミスで所長と護衛対象の依頼人を死なせる。依頼人は、所長の娘さん――だったかしら」

 黒服が息を呑んだのが、背中から分かった。

「街を捨てて落ちぶれていたところを黒澤家に拾われたのが、一年前ね。それまではずいぶん、そう、汚い仕事もしてきたみたいだけど」

「聞いちゃダメ! 黒服さん!」

 ルビィは叫び、自身のボディガードに駆け寄ると、ジャケットの袖を掴んだ。

「フォーメアって、恐怖の泡って意味なんだよ! 怖いことを思い出させて、イヤなことを思い出させて、それで、怪人を産み出させようとしてるんだよ!」

 だが黒服は、ルビィの言葉に反応しなかった。

 どこから出したか、白い帽子を握り締め、ラズリを凝視していた。

「よくもまあ、そんな汚れた手で、私の可愛い娘を護れるなんて思ったわね」

 ラズリ・フォーメアが、握っていた左手を開く。

 正四面体を孕んだ、淡く輝く球体が海に落ちる。

 直後、海水が渦を巻き、泡立ち、泡が形を成す。

 波打ち際に立ち上がった人影は――

「所長」

 ――真っ白なジャケットにスラックスを着た、四〇代半ばの男性の姿をしていた。

 黒いジャケットを掴むルビィの手が緩む。

 黒服が辿々しい足取りで、砂浜を歩き出す。

「黒服さん!」

 白服の男性は、やはり白いパナマ帽を深くかぶり、無精ヒゲと厳格そうに曲げた口しか見えない。

 いや、鋭く裂けたツバの隙間の奥に、光のない左眼が覗いている。

「チャンスをあげる」

 ラズリはケープを開くように、両腕を広げた。

「あなたは、自分の夜を解放できるかしら」

 黒服がおずおずと伸ばした手を、白服の手が掴む。

 そこで気付いた。

 白服がかぶるツバの裂けたパナマ帽が、黒服が握る帽子と同じだと。

「ダメえ!」

 白服の手が、ずるり、と落ちる。

 金色の光を浴びた骨が、黒服の手を掴んでいる。

「所長?」

 その時、パナマ帽が風に舞い上がった。

「名前が必要よね」

 男性の顔が、ずるり、と落ちた。

「≪スケルトン・フォーメア≫。どう?」

 マジックアワーの金色が溶け、夜が訪れる。

 

   // *

 

 ルビィの母の顔をしたラズリ・フォーメアは、指を一振りした。

 スケルトン・フォーメアと名付けた白骨死体は、どうやって動いているのか、骨格しかない身体で黒服の男の肩を掴んだ。

「逃げて! 黒服さん!」

 もう遅い、男は骨に抱き付かれ、砂浜に押し倒された。

 白いパナマ帽が砂浜に転がり、男の絶叫が夜空を貫く。

「強くなればなるほど、置いてきたものも大きくなるわ」

 ラズリは瞼を閉じ、眉尻を下げて首を緩やかに振った。

「それを振り払えるほど、自分を鍛え上げられる人は稀」

 ルビィは両手を握って俯いている。泣いているようだ。

「泣かないで。私の血を引くあなたは、凡人とは違うわ」

 だから、あなたの母であるこの私が、直々に来たのよ。

「やめてよう!」

 ルビィが砂浜に叫んだ。

「なんでこんなことするの! お母さん!」

「言ったでしょ。私は解放者。閉ざされた人の心の錠を壊し、その夜と直面するチャンスを与えるもの」

 男は腕と脚をばたつかせ、砂浜を掘り返す。

「でも、扉を強く閉ざしてしまえば、錠もそれだけ硬くなる。錠の破壊に耐えられなければ、心も壊れる。彼は――」

 その力も、徐々に失われていく。

「――解放に耐え得る人間じゃなかった」

「違うよ」

 俯くルビィの右手から血が滴り、ラズリは眉を寄せる。

「違うよ! 人の心を無理矢理こじあけるなんて! そんなの!」

 顔を上げたルビィの目が、金色に輝いた。

「そんなの! 解放じゃない!」

 口笛のように鋭い音が、砂浜を駆け抜け。

 ルビィの身体を足元から黒い筒のようなものが立ち上がった。

「なに?」

 ラズリは思わず肩越しに駿河湾を見るが、金色の残光は消えている。

(なにが起こってる?)

 目を戻し、またしても目を疑う。

 筒が展開して赤い裏地を見せた時、それが黒いマントだと分かり、マントだと分かった時――

「辰本さんから!」

 ――その先端がスケルトンを貫いていた。

「離れなさい!」

 それはまるで意思があるように、スケルトンを男から引き剥がすと、何度も砂浜に叩き付ける。

 そしてついには、粉々の骨片に――水の泡に還してしまった。

「ルビィ」

 ラズリの言葉に、しゃくり上げるように胸を上下するルビィが目を向ける。

 その金色の光が、消えていく。

「俺……俺は? おやっさんは? ルビィ?」

 男は呆然と、砂に染み込んでいく水を見ていたが、やがてルビィを見上げた。

「そこにいて、辰本さん。お母さんは私が――」

 言いかけ、思い出したように男に目を向ける。そして、

「――ピ? ……ピギイイイイ!!」

 ラズリに背を向けて走り去ってしまった。

「お、おい、待て! ルビィ様!」

 黒服の男はルビィとラズリを見比べたが、やがて護衛対象を追いかけて、彼も状況から脱していった。

「あら……」

 取り残されたラズリは、星の光の下でしばらく立ちすみ、

「もう持ってたんじゃない。≪闇の真珠≫」

 クスクスと笑った。

 そして砂浜に転がっていた、直径一〇センチばかりの透明な球体を拾い上げると、海に投げ込んだ。

 海水に触れたそれを起点に、泡立った水が骨になり、スケルトン・フォーメアが再構成された。

 透明な球体は胸郭の中に収まり、中心のμ-フォームを淡く光らせている。

「でも怪人のことは、そんなに知らないみたいね」

 ルビィの母の顔を持つラズリ・フォーメアは、白骨死体の手を取って、

「さて、あとはもう一人のお姫様か……」

 海の中に消えていった。

 

   // *

 

「くっ、苦しい……!」

「どうしたずら!? まさか、朝ごはん食べ過ぎたずら!?」

「違うわよ! ……強力な障壁を感じるのよ。ここは憎き邪教の住まう要塞、無闇に踏み込めば、我が魔力をもってしてもどれだけ耐えられるか――」

「雰囲気で死ねるなんて、ヨハネちゃん、器用な人ずら」

 とはいえ津島善子が感じた神聖な印象は、冗談ではなかった。

(教会なんて初めてだけど……。へえ、こんな感じなんだ)

 浦の星女学院付属のチャペル≪聖ゲオルギオス礼拝堂≫は十字架の形をしており、厳かに響く男声テノールと、本物の蝋燭を用いた調整された色合い、朝日に輝くステンドグラスの煌めきに満ちていた。普段は「堕天使ヨハネ」と自称する善子でも、ここが特別な場所なのは分かった。

 ゴールデンウィークの終わる木曜日の早朝、善子が自転車で敵地に入り込むことになったのは、花丸から「学校のチャペルに行かない?」とテキストが届いたからだ。

 その理由は分かっている。

 だが昨日のことに触れるには、善子の頭は整理がついていなかった。

 だから善子は、なにごともなかったかのように振る舞うしかない。

「ヨハネちゃん、それ」

 花丸に促されて入口の脇に立っている盤の水で手を洗い、パイプ椅子が並ぶ内部へ進む。

 祭壇の手前に、大の大人が入れる棺桶のようなものが置かれ、その両側に向かい合うように、四人の大人が立っていた。

「あれがここの神父様の、滝川天吾さん」

 と花丸が指差したのは、向かって左手に立つ、黒いローブに金の刺繍の入ったタオルのような白い布を首にかけた人物だ。

「司祭ってヤツね」

「うん」

 棺桶を挟んで神父の反対には、白い布に包まれた幼児を抱いた両親らしき男女、そして付き添いなのか女性が立っている。

「洗礼?」

「幼児洗礼だよ」

 つまりあの棺桶は、洗礼盤というものか。

「それって、すぐ終わるの? 話があるんでしょ?」

「平気、一時間も二時間もかかることじゃないから」

「ええ? でもそんなかかるの?」

 二人は小声で話しながら前室を進むと、パイプ椅子に最後列に腰を下ろした。

 前の方にも数人の老人が座っていて、信者なのか暇潰しなのか、儀式を眺めている。

「あ、マルじゃん」

 背後から小さな呼び声がして、善子と花丸は振り返った。

「スコさん。おはようございます」

 祭壇の方から差し込む光で見えたのは、白いセーラー服に灰色のスラックスを着た人物だ。

 花丸の挨拶に合わせて善子も頭を下げたが、見覚えはない。

「誰?」

「スコさんだよ、石田健さん」

「スコ? え? タケル? どっち?」

「スコさん」

 ガッチリした肩周りの筋肉や、耳を完全に出した刈り上げと太い眉に届かない前髪の人物は、善子たちの後ろを通り過ぎ、花丸の隣に座った。

「マルも洗礼を受けるの?」

「受けません」

 そのハスキーボイスで善子は、その人物が女性だと分かった。

 緑色のリボンタイは羽を小さくタレを長く結んでおり、男子のネクタイに見える。浦の星女学院の数ある選択式制服の一つであるスラックスも合わせて、敢えて男子に見せるようなコーディネートをしているようだ。善子の知人の中では曜に男っぽさを感じることはあったが、この上級生はその比ではない。

「今日はどうしたんです?」

「ん? ああ、≪クラゲ≫のヤツらがまた暴れ出してるらしくてさ。こっちにも来たとかなんとか」

「≪クレイジー・フィッシュ≫のこと?」

 善子が言い、

「知ってるの?」

 と健が花丸の向こうから顔を出した。

「ウチ、市内だから。最近結構うるさくて」

 ここ一週間ほど、深夜に及ぶ衣装作業中に甲高いエンジン音が響いているのは、善子も聞いていた。引っ越す前から市内で働いていた母親の話では、一年ほど前の交通事故で活動を休止した暴走族が活動を再開した、とのことだった。

「放っておいて、またこっちまで行動範囲を広げられるのもな。付け上がる前に牽制してくる」

「ダメですよ、スピード違反は」

「だから告解に来たんだけど、これじゃ無理かな」

 祭壇の方に顔を向けると、司祭が乳児を両脇の下から支えて、洗礼盤の中に下ろしていくところだった。座っている善子からは、背の高い盤の中は見えないが、入っている聖水に浸すのだろう。

 両親は喜び半分、不安半分で司祭の一挙手に集中している。

 途端に乳児が泣き出した。水が冷たくてビックリしたのだろう、両親らしき二人の男女がうろたえたが、司祭はあやすように口で音を立てながら、落ち着いて盤の中に腕を下ろしていく。

 数秒ののち、司祭は乳児を引き上げた。

 盤の中で響いていた泣き声が教会の球状の天井に反射し、その元気な声に善子の顔は自然と綻ぶ。

「オラ、洗礼って初めて見ました」

「三位一体の名において、水により原罪と罰を赦す」

 そんな意味だったのか。

「それを真面目な顔して見てる俺が犯す罪も、たぶん赦されるはず。よし、行ってくるわ!」

 と健はパイプ椅子から立ち上がると、善子たちの後ろをすり抜けて出口に向かった。

「明日はどうします? 聖歌隊の練習、振替日ですけど」

「悪い、休むって言っといて」

 健は善子たちの後ろを通って、教会から出て行ってしまった。

「オラも休むって言いに来たのに、言いづらくなっちゃったずら……」

 花丸は眉を八の字にして呟く。

 善子は聞いていない。

 司祭が支える乳児を、白いタオルを準備していた女性が受け取る。さらに、そっと身体を拭きながら父親らしき男性に渡し、男性は母親らしき女性と乳児をあやし始めた。

 先ほどまでの暖かい気持ちが、急速にしぼんでいくのを感じる。

「どうしたずら? ヨハネちゃん」

「ん? うん」

 善子は上目遣いで天井を見上げる。

 十字架の形をした小さな建物が、急に重苦しく感じられてくる。

「産まれる前から神様に縛られてるのって、どんな気持ちなんだろ」

「ヨハネちゃん。そういう言い方はよくないよ」

 咎める口調の花丸に、善子は眉を寄せる。

「だってそうでしょ。親が信者なら、子供に選択権はないわけ?」

「堅信を授かって洗礼が完成するのは、大きくなってからだよ。選べるずら」

「だから! 物心ついた時に両親が信者だったら、どうやってそれを裏切れるっていうのよ!」

「ヨハネちゃん!」

 小声の言い合いに、善子は憤然として前を向いた。

 花丸の言葉は、善子には響かなかった。

 神頼みも、懺悔も、善子の世界観にはない。

 それで現実が変わるなら、善子は今、“津島ヨハネ”などと名乗っていない。

「私、行くわ」

「ちょっと、ヨハネちゃん」

 花丸はカーディガンの袖をめくって小さな腕時計を見て、立ち上がろうとする。

「花丸はそこにいなさいよ。堕天使より神様の方が好きなんでしょ」

 返答を聞く前に、善子はその場を離れた。

 出口をくぐる時、手を洗った盤に“聖水”の文字が貼ってあったのが目に留まる。

 そこで気付いた。

 花丸はもしかしたら、最初から怒っていたのかもしれない。

 だから堕天使と喧伝している私を敢えて敵地に連れ込み、聖水と秘跡の目撃でダメージを与えようとしたのかもしれない。

 私が、みんなを傷付ける悪魔だから。

 そんな考えが浮かんでしまえば、誰かと友達になる資格が自分にあるなどとは、到底思えなかった。

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