*
「お尻が沈んでるよ。もっとお腹に力を入れて」
渡辺曜はプールサイドに腰掛けて、仰向けで浮かぶルビィに声をかける。
「胸で浮かぶのをイメージして。膝はわざとらしく伸ばすくらいでいいから」
「は、はい」
伸ばした四肢でバランスをとりながら、ルビィは弱々しく返事をした。
木曜日の午前、曜は伊豆長岡温水プールにある水深五〇センチの小プールで、子供たちに混じって泳ぐルビィを鍛えていた。
だが今日は調子が悪いのか、ルビィは立ったり浮いたりを繰り返して、安定した背面蹴伸びにならない。苦もなく泳いでいる周りの子供たちに気をとられてはいないが、集中しているようにも見えなかった。
もっとも、それは曜自身が集中できていないからかもしれない。曜は単語カードに蹴伸びの継続時間をメモするかたわら、その裏から覗く二枚のカードに意識を向けていたからだ。
[Lazuli]
[Skeleton]
OGIグループの特設サイトに追加された≪ラズリ・フォーメア≫と≪スケルトン・フォーメア≫の情報は、ビックリするほど少なかった。誰も撮影していなかったゆえに汎用の人型シルエットを設定するしかないのは仕方ないとしても、ラズリはなぜか、ほとんどの情報が不明だったのだ。名前だけで想像できるスケルトンと違って、外見を思い浮かべるヒントも、どのように攻撃してくるのかも、なにも分からない。まるで名前を列記したところで飽きてしまった創作ノートのようだ。
だがネットは盛り上がっていた。
なぜなら特設サイトの≪フォーメア≫のページに、「人間の心の傷を解放するために産み出される」の一文が追加されたからだ。
明記されていないその情報の出どころが、正体不明のラズリに違いないと人々が推測するまで、長い時間はかからなかった。その説が「人の言葉を話す怪人がいる」から「ラズリは敵組織の幹部だ」と発展していき、そこに尾ヒレが何枚もついていくのにも。
(幹部ねえ。そういえば、今年の『メタルヒーロー』って幹部何人いたっけ)
去年の九月から半年間は見ていた特撮テレビ番組のことは、曜の記憶からほとんど消えていた。もちろん、現実のあれこれに上書きされたためで、今の思考も同じことになる。
(あいつらの目的だよ。そう)
曜はプールに浸した脛を前後に揺らしながら、考えを続ける。
初めて言及された「フォーメアの目的」が、曜には腑に落ちなかった。
数週間前、曜は様々な経緯から、水死体の外見をしたゾンビ・フォーメアを産み出してしまった。特設サイトの文章を信じるなら、それは「曜の心の傷を解放するために、水死体の姿で産まれた」ということになる。
曜が水死体を嫌いなのは事実だ。
それを思い出そうとすると、今でも吐き気がする。
だが、だとしたら、あのゾンビはまず曜を襲うべきだったのではないのか?
実際は、ゾンビは中庭にいる千歌やルビィを襲った。そのあとで、曜のいる屋上に現れたのだ。巨大な目玉になってからは、校庭に避難した曜には目もくれず、校舎の中の教師やむつを襲っている。
わけが分からない。
曜には自分も気付いていないような深層の傷があり、それを解放するために一連の行動が必要だった、とでもいうのか。
今はその傷が癒えてしまったから、意味不明に思えているだけ?
「あー、ダメだ」
呟き、顎をあげる。
千歌と梨子と花丸からは戦っていない旨がテキストで返ってきたし、サイトに載っていないということはOGI――鞠莉も教える気がないということ。龍駒に変身したのは果南だと思っているが、聞いてもはぐらかされるのがオチだ。
つまり曜の手元には、ネットでみんなが手に入れるような情報しかなく、この状態で真相に辿りつくには、ホームズやポアロのような脳みそが必要だろう。
「やっぱ、頭からっぽ曜ちゃんに、謎解きは無理だなあ」
と目線を戻した時、腹を折って沈んでいくルビィの姿が目に入り、曜は慌ててプールに下半身を静めた。
*
「ごめんなさい、集中できなくて……」
「ううん。私こそ、その、ごめん。遅れちゃって」
更衣室に戻ってきた渡辺曜は、消毒槽とシャワーを経たばかりのルビィをベンチに座らせた。
ロッカーの間を確認したところ、幸いにも人の姿はなかったので、曜もルビィの隣に座った。
「なにかあった?」
「えっと、ちょっと……」
ルビィは言葉を濁し、スイムキャップから解放したお団子をほどいて水を絞る。その顔は、曜の目にも沈んでいるように見えた。
水を飲んでしまったのかとも思ったが、今回も口をしっかり閉じて沈んだようだし、浅いプールゆえに自分で立ち上がれたので、違うだろう。単語カードの記録を見ても、今日の一本目がすでに前回のラストよりよくないので、プールの前になにかあったと考えるのが妥当だ。
「いいよ、水泳以外のことでもなんでも。この曜ちゃんに相談しちゃってさ」
だからそう提案したのだ。
ルビィは指を絡ませてもじもじしていたが、ためらいがちに曜を見上げた。
「あの、ヨハネちゃんが……」
「うん?」
「もう、来なくていいって」
「衣装作りに?」
ルビィが頷くように俯いてしまえば、善子はルビィともケンカしたんだな、と曜にも察せられる。昨日の善子はセンシティブな状態だったし、無理もない。
「一緒に行ってあげようか?」
「え?」
「ヨハネちゃんのところ。話しにくいんじゃない?」
「そんな、悪いですよ。それにヨハネちゃん、たぶん知られたくないことだと思うし」
「あー、私、口軽いしね」
「そ、そうですよう! ルビィが泳げないって、内緒だったのに!」
「それはごめんって」
ルビィが恨めしげに口を尖らせたので、曜は半笑いで目を逸らした。
「でも真面目な話、ちゃんと話さないとダメだよ。それでケンカになったとしても」
「そうですか?」
「私だって千歌ちゃんと、何度となく取っ組み合いしてるからね」
「曜先輩が?」
意外そうに目を大きくしたルビィに、曜は湧いてきた思い出し笑いを引っ込める。
「ちゃんと話さなきゃ伝わらないよ。友達なんでしょ?」
「友達……なのかな?」
「自信がないなら、なおさらだよ!」
「ピギ!」
曜がルビィの手を強く掴んだ時、更衣室のドアを開けて中年女性が入ってきた。
「と、とにかく、今日の練習は終わり。プールなんて急ぎじゃないんだから、ヨハネちゃんのところに行っておいで。友達は恋人より得がたいんだからね」
「こ、恋人!? る、ルビィ、お、男の人はまだ……」
「ごめん、余計なこと言った」
しかし、ルビィに彼氏ができたら、あの四人の黒服の間でデートするのか、とそれはそれで見てみたい曜だった。
*
車道から逸れた緩い坂の小道を、護衛対象が登っていく。
≪黒澤総合警備保障≫の特殊身辺警護部に属する四人の従業員は、護衛対象の前後を五メートルの距離から挟む格好である。防弾防刃着の二枚重ねによるパフォーマンス低下を危惧したがゆえの距離感だが、昨日の一件からむしろ全体の緊張度は高い。
護衛対象は周囲を警戒しながらも、黙って砂利の小道を進んでいく。昨日の今日で外出する度胸、
そんな護衛対象の左後方を定位置として、飯芽貴光は歩く。
指定の黒いジャケットとスラックスに、ただ一人シャツのボタンをすべてとめた貴光の鳩尾には、砂浜で受けた爪の痛みが残っていた。それは幸運だった。あの場において最も深い傷を負ったのは、倒れた貴光の代わりに怪人と対峙した同僚の辰本迅だったからだ。
やがて坂道はカーブし、青々とした山肌を見せる徳倉山の裾に、「妙法寺」と書かれた扁額のかかる山門が現れた。五人はそこで一時停止し、先行していた二人の同僚のうちの一人が境内に入った。
「なあ、ここが津島ってヤツの家なのか?」
隣に立つ同僚が、貴光に話しかけた。
「違う。ここはお嬢様のご友人、国木田花丸様のご実家だ」
彼は善子の家に行ったことがない。迅の交代要員だからだ。
「花丸? そりゃ名前か?」
「口を慎め、お嬢様の命の恩人だぞ」
「ふうん?」
貴光はそう聞いている。少なくとも、護衛対象の母から。
同僚の一人が本堂の向こうに消えた時、イヤフォンに犬の吼え声が入ってきた。少しして住職らしき人物との会話が聞こえ、同僚は話をつけたようだった。
「で、俺の代わりってどうなったんだ?」
「知らされていない」
「噂じゃ、ルビィちゃんが拒否ったって聞いたぜ」
「知らされていないと言っている」
言い合っている間に、こちらに戻ってきた同僚が本堂の中も確認、護衛対象に「問題ありません」と報告した。
「パフェは平気?」
「はい?」
「ワンちゃん。こっちに来なそう?」
「おそらくは」
そんなやり取りののち、護衛対象は山門をくぐり、境内の参道を歩いていった。
後方についていた貴光と同僚は山門の内外に目を向けて立ち、先行する二人はそれぞれ、境内の巡回と、山の上の広場に繋がる階段の監視についた。
これで配置完了だ。あとは用事が済むまで護衛対象から目を離さないのが、貴光の仕事となる。
「で、なんでその花丸ちゃんってヤツを呼ばないんだ?」
護衛対象やその友人をちゃん付けで呼ぶ同僚の問いに答えるのは、仕事ではないのだが、仕方ない。
「花丸様は内浦だ。スクドルの練習がある」
「スクドル? あ、待て、言うな。……スクランブルドルマだろ」
「お前、よくここにいられるな」
「そうだよなあ。ドルマはスクランブルできないもんなあ」
雑談の間に護衛対象は本堂の階段を上がり、擦りガラスのはまった腰付格子戸に近付いた。そこに用があるようだ。
「ありゃ男だな、間違いない」
「私は知らない。考える必要もない」
「あんまり気張んなよ。次は防弾チョッキでも死ぬかもしれんぜ?」
護衛対象が本堂の前で頭を下げるのが見えた。
「その時は、お前がお嬢様を守り抜けばいい」
「へえへえ、大した職業意識ですこと」
迅も模範的とは言えなかったが、この男よりは数段まともだったな、と貴光は直立姿勢で思った。
*
「お久しぶりです、ご本尊様」
黒澤ルビィは小さく呟き、硬く閉ざされた扉に手を合わせた。
一二年前の本尊開帳の日、四歳だったルビィはまさにここで、母の瑠璃に頭を叩かれた。神社の作法と間違えて、手を叩いてしまったからだ。みんなの見ている前で叱られ、正しい作法を強要された。憤ると、さらに叩かれた。
それがルビィの最初の記憶だった。
「ん」
手を下ろし、萌黄色のワンピースの裾を軽く叩く。
スクール水着から着替えたルビィの足は、しかし、津島家宅へ向かわなかった。
幼馴染みがいないと知っていて、この妙法寺に来た。
膝をかがめ、扉のガラスの抜けた空間から本堂の中を覗くと、様々なものが収められている薄暗い部屋の奥に、漆塗りの
太陽のように輝く本尊は、苦しみや不安を取り除き、正しい道に導くという御利益で有名だった。四歳のルビィも、それを求めて母に連れられてきたのだ。
もちろん今日は開帳していない。それでも、扉越しに少しでも御利益にあずかれたら、と思ってやってきたのだが。
(そんな発想だから、叱られちゃうんだよ)
小さな姉と若い父が、叱られるルビィを冷たい目で見ているのも、当然だ。
「もう、いきなりネガティブだよ、ルビィ」
ふるふると頭を振り、唇を軽く噛む。
祈願したのに、期待した気分が得られたとは言いがたい。
(あ、そうだ……)
ルビィはスクールバッグに手を入れる。
年に一回と言わず花丸と忍び込んで拝んだ本尊は、手のひらサイズの球体だった。花丸は詳しく話さなかったが、それがロリポリ・フォーメアを産み出した球体なのは間違いない。
それはイコール、ルビィがプールで果南から受け取った球体と同じ類のもので、曜が≪μ-フォーム≫と呼び、母の顔をした怪人が≪闇の真珠≫と呼んだもののはずだ。
(なら、御利益も同じなんじゃ)
そう思ったのだが。
「あ、あれ?」
目的のものに手が触れない。
「なんでよう、昨日の夕方にはあったのに」
そんな大きなバッグじゃないのに、とスクールバッグを覗き込み、水着を入れた防水袋をよけ、電話や手帳をよけ、ポーチをよけるが、見付からない。手提げ袋も同様で、裁縫道具や作り途中の小物やぬいぐるみがいくつか入っているだけだ。
「なくなっちゃった……。せっかく果南先輩からもらったのに……」
両側にまとめた髪をしょんぼりと垂らし、本堂を背にする。
こんな状態では、本物の本尊を拝んだとしても、御利益がもらえるとは思えない。
もう諦めよう。山門からこちらを見ていた黒服のボディガードに、帰る旨を伝えようと手を上げ――
「よう」
――固まった。
「え? え?」
どこからした声か。
五感が得た情報を吟味する前に、脇の下を空気が動く。
「ピギ!」
驚いて振り返ったルビィの目に映ったのは、ガラスの抜けた扉の隙間にちょこんと乗った、小さな丸いコウモリ。
「探してるのは俺だろ?」
それはルビィが作ったぬいぐるみだった。
*
「あれ、なにやってんだ?」
「不明だ」
護衛対象が身を屈めてなにかに話しかけている様を見ながら、飯芽貴光は答える。
「人形っぽいぞ。スクールアイドルって劇もやんのか?」
背後の坂道が警戒担当のはずの同僚は、今や貴光の肩に手を置き、完全に業務を怠っていた。
「口を慎め、担当に集中しろ」
「心配すんなって、俺は背中にも目があんの!」
「体面というものがある!」
「こんな辺鄙な寺に誰が来ますかって!」
「口を慎め、お嬢様の恩人のご実家だぞ!」
「だからお前が口を出さなきゃ慎んでるっつーの! って……おいおい」
黒服の二人が言い合っている間に、護衛対象は本堂の扉を開けると、その闇の中へするりと入ってしまった。
「あれ、開いてたのか? 入っていいのか?」
「不明だが、本堂の中も問題ないと報告されている。問題はないだろう」
「そういう問題かあ?」
*
黒澤ルビィは自分の目が信じられなかった。
小さな灰色のぬいぐるみは、フェルトの翼でガラスの隙間をくぐると、扉の向こうから鍵を開けてしまったのだ。
「話をしようぜ。ゆっくりな」
「だ、誰なの?」
声を追って入った部屋は、異常だった。
午後を少し回った時間にもかかわらず、三面の擦りガラスから差し込む日光は部屋の中ほどで減衰し、その奥が地獄の入口のように黒く塗り潰されているのだ。本尊が載っているはずの須弥壇も闇に溶け、辛うじて輪郭だけを浮かび上がらせた毘沙門天の像の顔が、ルビィを見下ろしていた。
「ピギィ……」
か細い泣き声をあげるルビィの前で、ぬいぐるみは闇の奥へとふらふらと飛んでいってしまう。
「あ、待ってよう!」
後ろ手に引き戸を閉めて、闇の中に恐る恐る足を踏み入れ――立ち止まった。
単色の闇の見えた部屋の奥で、さらに濃い闇が立ち上がったからだ。
それは部屋を覆っていた闇を飲み込むように、その濃さを増していく。応じて部屋に本来の明かるさが戻っていくが、それは凝縮された闇の深さを際立たせる役割にしかならない。
やがて、ルビィの正面に伸びる影の先端に、筒のような影が立ち上がる。
「え?」
その表面にスッと赤い線が走り、筒が左右に開く。
ぽとり、とコウモリのぬいぐるみが地面に落ちる。
「待ちくたびれたぜ、ルビィ」
筒の中に見えたのは、顔を覆う真っ白な手。
「やっとお前と話せる」
現れたのは、モノクロの男性だった。
落ち窪んだ眼窩とその奥の眼光鋭い目が、凄味を帯びてルビィを睨めつけてくる。だが艶やかやオールバックの髪とは対照的に、鋭く立ったマントの襟に隠れたこけた頬や、モノトーンの夜会服のブラウスに添えられた骨の形が浮き出た長い指は、異様な存在感の希薄さを放っている。ビロードのように黒く滑らかなマントの方が、よほど厚みがありそうだ。
ルビィは動けない。踏まれているのは自分の影なのに。
「あなたが……ルビィのフォーメア?」
やっとそれだけを発すると、年齢不詳のそれは口に笑みを浮かべた。
「ずっと、ルビィのバッグにいたの?」
「昨日の夜からな」
「ええ!? 言ってくれればよかったのに!」
「あんな状態のお前にか? 取り乱すのがオチだぜ」
「う」
「枕元に立てばよかったか?」
「それはヤダ……」
と、ルビィは眉をひそめて、マントから浮かぶ白い顔を凝視する。
「もしかして、ドラキュラさん?」
「ヴラド三世。一四三一年、ワラキア公国のヴォイヴォダでありドラゴン騎士団の団員でもあるヴラド二世の息子として、トランシルヴァニア地方のシギショアラに産まれる。西欧、正教、オスマンのパワーバランスに翻弄されながらも、ヴォイヴォダとしてワラキアをまとめたが、一四七六年、オスマン帝国との戦闘で戦死した。“ヴラド・
一息で言ったそれは、ポカンと口を開けたルビィに目を向けた。
「それが俺の名前か?」
「え、え? 分かんないけど……。お姉ちゃんに見せられたドラキュラの白黒映画、すごく怖かったんだ。だから、ルビィのフォーメアなら、そうなのかと思って」
「ベラ・ルゴシ、一八八二年、現在はルーマニアに当たるオーストリア=ハンガリー帝国のルゴシュで――」
「――待って待って! いいよ、もう蘊蓄は! 知ってるから!」
「つまらん」
そう言って、それは肩を竦めた。
しかつめらしい風貌の割りに、口調や声色はフランクで、ルビィは思わず口元を綻ばせてしまう。
「ま、なんだ。俺を産み出したのはお前だ。お前が知らないことは俺も知らんぜ」
それはマントを合わせていた手を持ち上げ、手のひらを上に向ける。
「そうなんだ――」
その時、押さえていたマントが開き、血のように赤い裏地が覗いた。
「――そのマント、なんの生地でできてるの?」
「あ?」
ルビィは先ほどまでの硬直がウソのように、その影に歩み寄ってマントを手に取った。
「表地はビロードっぽいけど、裏地はサテン――じゃないね、毛羽立ってるし」
「お、おい」
「緞帳? 棺桶の裏地? でもベルベットでもコーデュロイでもないし――」
「――話聞けよ」
「あ、ご、ごめんなさい!」
ルビィは一歩離れ、頭を下げた。
「俺は泡だぞ。素材なんてあるか」
「それもそうだよね、えっと――なんて呼べばいいの?」
「好きに呼べばいい」
「≪ドラキュラさん・フォーメア≫?」
「人の名前だろ?」
「≪ベラ・ルゴシさん・フォーメア≫!」
「それも人の名前――っていうか、怪人の名前に敬称を挟むのはやめろ」
「意外と選り好みするんだ」
「俺の名前だぞ」
「んー……」
ルビィは人差し指を唇に当てて考えに耽りながら、須弥壇の前を行き来する。花丸やその親族がいれば窘められる態度だが、あいにく本堂にはルビィたちしかいない。
「そうだ、≪ストーカー・フォーメア≫は?」
「なんで」
「だってルビィのこと、ずっとこっそり見てたんでしょ?」
「そんな理由でか?」
「それだけじゃないけど!」
とルビィは壁際に一歩後ずさった。幸いにも、並んでいる仏具の類にはぶつからなかった。
「しかし、この俺が恐怖の対象と思ってる割りには、怖がってないな」
≪ストーカー・フォーメア≫と名付けられた年齢不詳の怪人は、骨ばった指で髪を撫でながら言う。闇を濃縮したようなマントが音も立てずに揺れ、裏地の赤に夜会服のブラウスの白が上品に映える。
「そもそも男性恐怖症だろ、お前」
「そう……だよね」
ルビィ自身は意識していないが、怪人とはいえ目上の人間デザインの相手に敬語も使っていない。
「昨日は、今まで怖くなかった黒服さんも怖くなっちゃったし。なんでだろ。マルちゃんにもお姉ちゃんにも言われるんだ、恐がり方の遠近感がおかしいって」
「だから、あいつにも怖がらなかったのか?」
“あいつ”――≪ラズリ・フォーメア≫。
「だって、お母さんと同じ顔だし」
「敵だぞ」
「お母さんなのに?」
「あのなあ……。本当に遠近感がおかしいんだな」
「ストーカーさんまで」
ルビィは口を尖らせ、呆れ顔の怪人を指で組んだファインダーで捉える。
ルビィはいまだに、ラズリを怖いと思っていない。
あの時も、攻撃されたし、ボディガードの辰本迅を傷付けられて怒りはしたが、怖くはなかった。
なぜだろう。
ストーカーの理屈が正しいのは分かっているのに。
自分の物事の捉え方に、自信が持てない。
ルビィのファインダーは、もう砕けてしまったのだろうか。
「また戦う時がくる。準備しておけ」
その言葉に、ルビィは指を解いた。
「ストーカーさんに驚かないように?」
「あいつと戦えるように、だ」
「え!? む、無理だよ、ルビィが戦うなんて、そんな――」
「――こいつを見つけ出して、破壊するだけでいい」
そう言って、ストーカーはマントの奥、ブラウスの首元に付いている灰色のボウタイを持ち上げた。結び目の裏に、μ-フォームの桃色の淡い輝きが見えた。ルビィは知らないことだが、それは他のフォーメアと違い、コア・ビードと呼ばれる一回り大きな球体に包まれていない、むき出しの状態だった。
「あのマントで? ルビィが?」
「そうだ。昨日みたいに力を貸してやるから、ちゃんと狙えばいい」
「で、できるかな……?」
「できるさ。瑠璃の顔をした偽者を殺すんだ」
息を呑む。
「こ……殺す?」
ストーカーがいとも簡単に使ったその単語が、染み込んでくる。
「なんでそんなこと……。お母さんもストーカーさんも、同じフォーメアなんでしょ?」
「違う個体だぞ」
「そうじゃなくて……」
たしかに仮面ライダーは何度もフォーメアを倒している。
ルビィの感覚からすれば、それは害虫駆除に近いイメージだった。
だが昨日ルビィを襲ったラズリ・フォーメアは、人間と同じレベルの意識をもっているように見えた。
それを倒すことは、ストーカーの表現通り“人間を殺す”に近いのではないか?
百歩譲って、ルビィにとっては泡の塊だとしても、ストーカーにとっては“同族”じゃないか。
「ストーカーさんたちって、なんなの? “恐怖の泡”って言われてるけど、人類を滅ぼすつもりなの? 世界征服?」
ルビィの問いに、ストーカーは歯を見せて笑った。
「重要なのはラズリだ。あいつはお前の“解放”とやらを狙ってる。それがなんなのかは分からんが、とにかく、用心しろ」
「どうやって?」
「言っただろ、俺のベースはお前だ。お前が知っていること以外は知らん」
「それじゃ用心できないじゃん。使えないなあ」
「ブーメランだからな」
その今風の言い回しを、一九三〇年代に活躍した俳優の顔で言うものだから、ルビィは思わず噴き出してしまった。
空気が少しだけ緩み、ふと疑問が浮かぶ。
「でもさ、じゃあ、お母さん――ラズリ・フォーメアがルビィや黒服さんに詳しかったのは、ラズリを産み出した人が詳しかったから、なの? そんな人いるかな。もしかして、お母さんが?」
「他人が本人と見間違えるような顔を、本人が作れるとは思えないな」
「本人なのに?」
「写真か鏡で見た自分しか知らないんだぞ。鏡像なら作れるだろうが、他人からすれば違和感のある顔にしかならん」
「そう……かも?」
「ほら、俺の話は終わりだ」
ストーカーは筒のような身体を消し去り、宙に浮いた球体――μ-フォームだけになった。
いや、その周囲には水の層がある。ルビィが相対していた人物は、水がごく微細な泡となって霧のように分散して作られた形、ということか。
微かに桃色がかった光を発する球体は、一呼吸置くと、落ちていたコウモリのぬいぐるみの中にもぐりこんだ。
「やっぱりこの中は落ち着くな」
そしてコウモリはふわふわと浮かびあがり――ルビィに掴まれた。
「お前、いきなり!」
「綿が入ってなければ、サイズ的にはピッタリなんだ。そっか……」
「離せ、おい!」
暴れるぬいぐるみと球体を両手で包むように押さえる。力は強くない。
「このぬいぐるみは大事なものなの。クマちゃんにお引越しして」
と手のひらを少し開けて、スクールバッグに載った、ピンクのクマの頭のぬいぐるみを見せた。
「吸血鬼ってクマに変身できるもんか?」
「ストーカーさんが知らないなら、ルビィも知らないんでしょ?」
「ぬ……」
更に手のひらを開いて促すと、ややあって、コウモリのぬいぐるみから力が抜けた。
そしてバッグのクマの頭が動き出す。
「居心地は同じか。綿は泡にしちまって――おい、なんだこりゃ」
クマの頭がスクールバッグから浮かび上がり、すぐに引っ張り戻された。元々持ち手に結び付けていたぬいるぐるみだ、その紐以上には動けない。
「解いてくれよ」
「ダメ、なくなったら困るもん。大人しくしててね」
「マジかよ……」
ルビィは本堂の扉を開けて、お天道様の下に出た。
闇の中にいたルビィにその光は眩しく、吸血鬼のように消えてしまいそうに思える。
そうだったなら、どれだけ気楽だろう。
改めて、山門の脇の黒服に帰宅の旨を合図した。
「行かなきゃ」
「覚悟はできたのか?」
問いかけてきたクマのぬいぐるみに唇を尖らせ、
「分かってるクセに」
ルビィはコウモリのぬいぐるみを撫でると、手提げ袋に戻した。
それは現実逃避かもしれないが、ルビィにできる唯一の行動でもあるのだ。