仮面ライダーメルシャウム   作:fuki

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第一〇話:傷付けたって構わない - 2

   *

 

「それじゃ、頼んだわよ、桜内社外取締役!」

「データは写真でもいいですよ!」

 採寸の実演でよれよれになった梨子は、黒澤家のリムジンで内浦まで送られていった。

「あの三人の中なら、俺の推しは断然、梨子ちゃんだな」

 津島家宅のドアの横に立つ、曲見(しゃくみ)の能面を頭に乗せた黒服の来間急一が言った。

「でも、最近の女子高生の発育、ヤバくないか? 俺の子供の頃って、もっと芋っぽい子が多かった気がするけど」

「口を慎め、業務中だぞ」

 ドアの反対側に立つ貴光が、直立不動のまま小声で返す。

 ボディガードは津島家宅に近付く不審者を警戒していた。家主が屋内にいない場合は中に入れない規則なので、急一と貴光が入口で、流平が駐車場からベランダ側で張っている。功はルビィのそばだ。慣れない配置に感じるが、これが訓練してきた本来のフォーメーションであって、四人全員が居間に上がりこんでいる状況が不自然といえる。

「いいなあ、梨子さん、スタイルよくて」

「ルビィに比べたら、みんなスタイルいいんじゃない?」

「う……」

 先輩を見送った善子とルビィは、道路で立ち話を始めたようだ。

「でも、思ったより普通の人だったね。なんで怖がってるの? ヨハネちゃん」

「いや、やばいんだって、ほんと、堕天使の私でもビビる常軌の逸しっぷりでさ」

「ふうん?」

 二人が、急一たちがいるアパート二階の共用廊下に戻ってくる気配はない。

「なあ、真面目な話、どう思う? もしスクドルとして本格的に活動を始めたら、危ないヤツも集まってきそうなもんだろ?」

「危ないファンはそう多くない」

「ええ? だってドルヲタって言ったら、犯罪予備軍じゃねーの?」

「相手が誰だろうと、護衛対象を護るのが我々の業務だ」

 貴光は口では平然と言ったが、横目で飛ばした視線は鋭く、急一は気圧される。

「ま、まあ、そりゃそうだけどさ」

 ドルヲタをイメージで評した急一は、バツが悪くなって一度口を閉じた。

「でもさあ、梨子ちゃん、あんな感じで危ない目に遭わないかなあ。ちょっとぼんやりしてるっていうか、護ってやりたい感じっていうかさ。そうだ、俺たちがスクドル全体のボディガードになればいいじゃん! そうすりゃ、いつだって超特急で護衛できるぜ」

「桜内梨子はアイドル活動に参加しない」

 その断定に、急一は眉を寄せる。

「なんでそんなこと知ってるんだ? あの子の情報、関連資料にはほとんど載ってなかっただろ」

「当然だ、桜内梨子は小原家側の人間――敵だからな」

 真正面を見たまま放たれた貴光の言葉に、急一は一瞬言葉を失う。

「なんだよ、それ、どういう――」

「――休憩終わり! リトルデーモン集合!」

 外階段を登ってきた善子が手を叩き、急一たちは姿勢を正す。ルビィと地上に下りていた二人の黒服も戻ってきた。

「さて、挨拶が遅れちゃったわね。リトルデーモン初日から悪いけど、聞いての通り余裕はないわ。素早く仕事を覚えて、私の手足になってちょうだい。働きぶりに応じて報酬も考えてあげるわ。いいわね」

 四人の黒服が、声を揃えて返事をする。

 急一も疑問を飲み込み、頭の上から能面を下ろしてリトルデーモンと化した。

 

   *

 

「あれ……梨子ちゃん、来るの……?」

 畳に頬を押し付けていた高海千歌は、受信したテキストを見て、ごろんとひっくり返った。

 にぎにぎと手遊びしていた濡れた海泡石が、手から離れて転がっていく。

「来てほしくないなあ……」

 顔を覆った髪を鼻息でどかし、自分が真っ白の長襦袢を着ていることを意識する。

 日本の旅館は基本的に、何週間もの滞在を想定していない。そして昼過ぎの宿泊手続きから朝夕の食事、翌朝の退室手続きで回っているため、昼の時間帯は多くの手を必要としない。それは五月三日の老舗旅館≪十千万≫も例外ではなかった。

 ゆえにいつものようにパントリーと客室係の手伝いに入った千歌は、飛石連休を有給休暇で埋めた客の朝食の配膳や片付けから、退室手続きや客室清掃に走り回った後、旅館裏の高海家自宅の自室で休んでいたのだ。

「このまま会っちゃおうかな……」

 長襦袢は和服における下着だが、薄手の和服に見えないこともない。お泊り会の夜と考えれば、パジャマで会うのも不自然ではない。

「んん……ドン引きされてもなあ……」

 曜相手なら通用するが、梨子にはどうだろう。新しい友人にどれくらい腹を割れるか、千歌は測りかねている。

 結局、砂浜に打ち上げられて駆除されるのを待つクラゲのように、箪笥まで這いずっていき、和服用のブラとパンツの上からTシャツとジャージに着替えた。

「うーん、これでいいかなあ」

 それはあからさまな部屋着で、梨子に外で話そうと言われれば恥ずかしい格好ではある。

 でも、それなりに決めた服を見繕う時間はなさそうだし、そうだ、いっそ十千万で作業する時の和服を――

 ぴんぽーん、とタイムアップが告げられた。

「――ああ、もう、しょうがない」

 なにか言われたら言われた時だ、と千歌は玄関に向かい、引き戸を開けた。

「いらっしゃい、梨子ちゃん」

 しかし来客は挨拶より前に、

「小さくなった?」

 と千歌の胸をマジマジと見て言うのだった。

 

   *

 

「いきなりおっぱいの話なんてする?」

「それどころじゃないの、急いで急いで!」

 千歌の背中を押して三和土で靴を脱いだ桜内梨子は、そのまま、もう何度もお邪魔している千歌の部屋まで上がり込んだ。

「それ、さらしでも巻いてるの? 千歌ちゃん」

「違うよ、和服用のブラだよ」

「和装ブラ? タイミング悪いなあ。とっちゃうわよ」

「え? え? あ――」

 千歌のTシャツの前をまくり上げ、露出した和装ブラのフロントファスナーを真っ直ぐ下ろす。

 潰れていた乳房がこぶりなお椀型を取り戻し、梨子の目の前で揺れた。

「――そうそう、こんな大きさだったよね」

 虫刺されのような慎ましい乳首を横目に、Tシャツを下ろす。

「り、り、梨子ちゃん……?」

 腰が抜けたように、千歌が畳に倒れこんだ。

「ん?」

 紙袋からビデオカメラとメジャーを取り出して振り返ると、

「な、なにするつもり?」

 ノーブラのTシャツを両腕で抱いた涙目の千歌が、ダイオウグソクムシのぬいぐるみにしなだれかかっている。

「まさか、だ、ダメだよ梨子ちゃん、そんな、高校生がこんなこと」

「千歌ちゃんこそダメだよ、ズルズル先延ばしにしちゃ」

「へ?」

「ほら、ルビィさんと津島さんが待ってるんだから」

 電話のカメラを起動して千歌に向けると、画面に映るその顔が引きつる。

「そういう趣味があるの? あの二人」

「趣味? ああ、ルビィさんは趣味だけど、たぶん津島さんは私たちに誘われてからよね」

「誘ったの!?」

「私が連れてきたんじゃない」

「そうだったの!?」

 梨子は千歌の手を引いて立たせると、背中側に回って姿勢を正させる。

 胸を抱いている腕を下ろさせ、自分がされたように手のひらを前に向けて捻る。

「力、抜いて」

「う、うん」

「緊張してるの?」

「動揺してるよう」

 梨子の時のように黒服たちが見ているわけでもないのだから、恥ずかしがらなくてもいいのに。

「でも、そっか……。ルビィちゃんは、なんとなく分かる気がするなあ」

「そう?」

「好きそうな感じするじゃん。その、そういうの」

 喋る千歌の右肩にメジャーを当て、首の後ろを通して左肩まで走らせる。その数字を電話で撮る。

「やっぱ姉妹がいると違うのかな。でも、ちかっちもお姉ちゃんいるけど、別になんともないよ?」

「ダイヤさんは別に、好きじゃないんじゃないかな」

 今度はメジャーを首の後ろから腰の付け根まで伸ばして、数値をチェック。

「じゃああれだよ、姉妹でじゃれてるうちに、段々さ」

「作りたくなるの?」

「子供を?」

「え?」

「あ、千歌ちゃん、腕、持ち上げて」

 よく分からない受け答えをする千歌の腕を下から支え、肩から手首までメジャーを下ろす。

「……梨子ちゃん? なにしてるの?」

「これは、えっと……袖丈」

「へ?」

「今回の衣装はノースリーブだけど、一応、採寸してって」

「採寸?」

「千歌ちゃんの衣装、明日には作り始めないと――」

 ぐにゃ、と千歌の身体から力が抜けて、畳にくずれた。

「――ちょっと、ちゃんと立っててよ!」

「だから和服のブラ外したの?」

「胸のサイズが分からないと、測れないじゃない」

 千歌は、信じられない、と言いたげな顔で梨子を見上げたが、やがて笑い出した。

「なんだあ、もう、ビックリさせないでよ、梨子ちゃん!」

「私、ビックリさせるようなこと、言った?」

「だって――」

 言いかけた千歌は、溜め込んだ息を吐き出すように笑うと、立ち上がって腕を広げた。

「――なんでもない、さっさと測っちゃお!」

 そこからの千歌は協力的で、梨子は一五分ほどですべての採寸を完了した。

「データ、受け取ったって」

 能面を被った四人の黒服に囲まれて自画撮りを決める、ルビィと善子の写真を見て、梨子は安心する。

 善子の家ではバタバタしていて沼津を去る件を伝え損ねてしまったが、これだけ仲がよければ、衣装組は問題ないだろう。

 だが作詞作曲組は、梨子がいなくなる影響が大きいはずだ。梨子は表情を引き締める。

「千歌ちゃん、ちょっと時間ある? 私、今週でね――」

 顔を上げた直後、両肩に置かれた手がジャンパースカートの肩紐を外した。

「――沼津を……え?」

 くしゃくしゃになった布が、音を立てて畳に落ちる。

「え?」

 ブラウスの裾から、太腿が露出する。

「え?」

 振り向くと、野獣の眼光で笑う千歌が、両手をワシワシさせている。

「梨子ちゃん」

「千歌ちゃん?」

「梨子ちゃんのおっぱいも見せろお!」

「千歌ちゃ、ちょ、ちょっと! やめ!」

 ベッドに押し倒され、パステルカラーの中で甘い匂いと柔らかな感触に包まれる。

 意外と悪い気はしなかった。

 

   *

 

 浦の星女学院スクールアイドル同好会には現在、千歌、曜、果南、善子、鞠莉、花丸の六人が所属している。その中でパフォーマンスをする予定のメンバーは、千歌、曜、善子の三人だ。

 だが今日の水曜日、千歌は家の手伝い、曜は高飛込の練習がある。だから花丸の電話が流すインテンポの電子メトロノームに合わせて踊るのは、善子一人だった。

 練習着というにはオシャレなフリルのミニスカートとドロワーズで、曜がデザインした振りを黙々とこなす。

「あ、ダメだ、分かんない」

 その腕がこんがらがり、足が止まった。

「いい感じだよ、ヨハネちゃん! いつの間にそんなに覚えたの?」

 花丸が駆け寄り、スポーツドリンクのボトルを渡す。

「これくらい、この世界のあらゆるマンスをダスターした堕天使≪イヒ≫の力を借りる踊りのヨハネが神の――あれ?」

 声色を作るどころか台詞が崩壊している。

「休憩する?」

「ん、もうちょっと頑張る」

 そんな一年生二人の会話を遠めから見ていた梨子が、目を細めて口を押さえた。

「暇そうだね」

 松浦果南はそれを見て、意地悪そうに笑った。

「ごめんなさい。こんなにサポートしてくれる人がいたら、私は必要なかったな、って」

 あくびを噛み殺す梨子とは対照的に、果南は遠慮せず伸びをする。

「私の出番もないね。一応来てみたけどさ」

 見上げると、木々に切り抜かれた空の上を、千切れた雲が流れていく。山から吹き下ろす初夏の軽やかな風が、森の中にぽっかりと空いた草原の空気を洗い、果南の高いポニーテールを揺らした。

 四人が練習場所として選んだのは、花丸の実家である妙法寺からさらに参道の階段を上がった先にある、旧寺地の空き地だった。

 ボトルに口をつける善子と彼女の髪を結わき直す花丸がいるのは、数十年前からあるような石畳の舞台。果南と梨子が座っているのは、そこから少し離れた場所にあるベンチだ。浦女の体育館より広い空き地には、それしか人工物が残されていなかった。

「あ、カミキリムシ」

「え!?」

 ベンチの下、誰かが踵で削ってできた凹みの水溜りに、小指ほどの大きさの虫がいた。

 そっとつまみ上げ、

「や」

 手のひらを見せて挨拶すると、カミキリムシはキリキリと鳴き声を上げた。

 それを見た梨子は、身を反らせて果南から離れた。

「苦手? お友達でしょ?」

「そんなわけないじゃないですか」

 心外そうな顔をする梨子に、果南はまた笑う。

「ちゃんとした練習場所、やっぱり欲しいですね」

「ダンスには向いてないよね。これから虫も多くなるし」

 ここを提案したのは果南だった。小学生の頃、ダイビングの体力作りで沼津アルプスを縦走した時に、徳倉山の山頂付近から西へ下山したルートの途中でこの場所を見付けたのだ。

 もちろん、自分の踊りのチェックができる鏡やガラスもないので、ダンスの練習場所としては相応しくない。しかかも昨夜降った雨のせいで、むき出しの土はところどころぬかるんでいるし、小動物や虫も目立つ。

 それでも、衣装制作に忙しい善子が住んでいる下香貫から、近い範囲で練習場所を探せば、こういう場所になってしまうのだ。

「うし、一番のAメロからいくわ。花丸、ちょっと歌ってくんない?」

「え、マルが?」

「なによ、聖歌隊なんでしょ? この程度の楽譜、初見で歌えて当然じゃない」

「ヨハネちゃん、横暴ずら」

 集まってなにかしている二人を、梨子が首を伸ばして見ている。

「フォーメーションの練習って、始めてます?」

「フォーメーション? 私は聞いてないなあ」

 ダンスの練習を見にきたのは今日が初めてなのだから、果南が分からないのは当然なのだが。

「あと一週間なんですし、そろそろ三人揃って練習をしないと――」

「――『やってみたい、動き出した心は』」

 背筋が凍った。

「誰、この声」

 梨子が呟くが、その視線が一点を見ている通り、答えは分かっていた。

 電子メトロノームの音を鳴らす電話を見る花丸は、目を丸くして固まっている善子を見て、口を膨らませた。

「ヨハネちゃん! 踊らないなら歌わないずら!」

「花丸、あんた……そんな歌上手かったの!?」

「ずらっ!?」

 善子が駆け寄り、花丸の頭を掴んだ。

「こんな喉があって! なんで『私が出る』って言わないのよ!」

「お、オラはダンスのアドバイザーずらあ!」

「ちょ、ちょっと、津島さん!」

 梨子が立ち上がり、二人のところへ走っていく。

 そして一言二言の会話ののち、戻ってきた。

 その後ろで、花丸が指揮者のように手を上げる。

「じゃあ今度こそ行くよ、ヨハネちゃん」

 そして歌い出した。

「ビックリですね」

 果南は首肯するしかない。

 千歌と曜の歌練習の場では、音程リズムの正確性は自分が一番だと思っていたが、花丸のそれは段違いだ。

 メリハリの利いた高音に、伸びやで抑制の効いたビブラート、それらを包み込むように柔らかく響く中低音。

 梨子にオーボエのようだと言われた果南の声とは違う、オペラ歌手のような丸みと深みのある声。

 いや、そんな理屈じゃない。

 聴いた瞬間、満ち潮のように身体に染み入り、引き潮のように心だけをさらっていく。

 そう気付いた時には、もう手を伸ばしても届かない。

 星のように。

 一目惚れだ、と果南は意識した。

「これなら、歌の練習も任せちゃえそうです」

 だが梨子は、眉を寄せて口を曲げていた。

「不満そうだね、出番を奪われたから?」

 果南が横目で見ているのに気付いた梨子は、無理に笑顔を作りかけたが、諦めたようだった。

「津島さんですよ」

「ああ……」

「基礎的な身体ができてません。このままじゃ――」

 ――と梨子が言いかけたところで、善子の腕がこんがらがらせ、立ち止まった。

「ダメだ、まだダメ。通しは無理」

「十分ずら! ヨハネちゃん、衣装も作れるし踊りの覚えも速いし、ほんとすごいずら!」

 花丸が方言丸出しで褒めるのも当然で、ダンスの振り付けは二日前に曜の参考動画が展開されたばかりだ。にもかかわらず、パートパートで区切って踊る善子の振りは、ほとんど完璧だった。踊りながら口が動いているのを見るに、歌と曲も頭に入っているのだろう。花丸の歌に驚いたのと同じくらい、果南にとってはそれも驚くべきポイントなのだ。

「おべっかなんていいわ」

「そんなんじゃ――」

「――頭から行くわよ」

 善子は初期ポーズで立つが、シュシュでまとめた姫カットの先からサイハイソックスまで汗だくで、ひとたび動き出せば、リストバンドに染み込みきれない汗が指先から舞い散る。顔付きも鬼のような形貌で、余裕のなさが目に見えていた。

 梨子の指摘の通り、善子は身体ができてない。特に足回りだ。腕の振りこそ切れがいいが、一分も踊り続けるとみるみる膝が上がらなくなる。同期して上半身からも精細さが失われ。それを補うように動きが激しく――言い換えれば雑になる。そしてこんがらがってしまう。

「テクニックで踊ってるね。覚えが早くても、これじゃしょうがないなあ」

 梨子も頷いた。

 だが果南は、善子にアドバイスするつもりはない。自分は人数合わせの補欠なのだ。

 だから、

「言ってあげれば?」

 梨子を促した。

「でも、津島さん、傷付くと思うし」

「あんな状態でステージに上がる方が、よっぽど傷付くんじゃない?」

 果南の指の間でゼンマイ細工のように手足と顎を動かすカミキリムシを、梨子は見ていた。だが立ち上がると。善子と花丸のところに向かった。

 その先は、なんとなく想像できた。

 梨子の話に思うところがあったのか、踊りを中断した善子は頷くように膝に手をついた。

 花丸は首を振ったが、苦笑した善子の発言で、肩を震わせ始めた。

 そうなれば、善子は上がらない脚で走り去るしかなかったようだ。

 梨子は、脚をもつれさせて泥の上で転んだ善子に呼びかけたが、結局はしゃがみ込んだ花丸の肩に触れた。

 息を漏らす。

 なにも感じなかった。

 二年前の自分なら、梨子の隣で花丸を励ましているか、善子を追いかけて横面を引っ叩くか、どちらかだっただろう。

 だが今の自分は、感情移入の回路が動作していないように思える。

 膝に肘を置き、脚の間を見下ろす。

 泥水の水溜りに映った顔が、見上げてくる。

 その非難にも似た視線の方が、よほど人間味があった。

「やっぱり、ずるいな、私」

 カミキリムシはその複眼で果南を見ていたが、やがて指から逃れ、どこかへ行ってしまった。

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