仮面ライダーメルシャウム   作:fuki

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第一〇話:傷付けたって構わない - 5

   *

 

 本体であるμ-フォームを封じられたラズリ・フォーメアが形を取り戻した時、周囲の状況は一変していた。

 高いフェンスとコンクリートの防潮堤に二方を囲まれた、土をむき出しにした広場。

 背後には、連なる波消しブロックと狭い砂浜に、穏やかに波音を立てる駿河湾。

「ここか」

 ラズリもよく知る場所だった。

 島郷公園や牛臥山を挟んで沼津御用邸記念公園と海岸沿いに隣接する、我入道海水浴場。

 その北端に位置する野球場だ。

「見る影もないわね。ここも」

 打ち寄せられた大量の竹や木の枝にプラスティックのゴミが、グラウンドの大部分を覆うように散乱していた。いつの増水の影響か、すっかり乾いたそれらは幾重にも積み重なっており、ここが使われなくなって久しいことを意味している。砂浜から波消しブロックで隔てられたグラウンド自体も、飛び地のように海水が溜まったくぼみがいくつもあり、野手が空を見上げて走り回れるような状態ではない。

 そんな中、ラズリの足元に辛うじて見える、布のほつれた二塁ベースだけが、妙に白々しい。

「ホームランボールが海に落ちると、私が泳いで拾いに行ったわよね」

「お前の懐古はどうでもいい」

 外野の一角に降り立ったその存在は、コウモリの集合とルビィの中間の形状を保ったまま、男の声で言った。黒い靴下のつま先は、グラウンドから突き出した枯れ竹の先端に接しているが、グラつく様子はない。

「お前がルビィに近付くなら、殺すだけだぜ。俺たちは」

「あなたは、でしょ? えっと――」

 言葉の途中で、コウモリからルビィが分離した。

「ピ? ピギィ!」

 ルビィは枯れ竹の上から解放され、奇声を上げながら地面に落ちた。その周辺は直前に、数匹のコウモリがゴミを吹き飛ばしていた。

「――ストーカー。≪ストーカー・フォーメア≫って呼んでくれ」

 筒のように立ったマントの襟から、オールバックに撫で付けた髪に彫りの深い顔が現れた。灰色のボウタイから下はマントだけ、空っぽだ。

「いったあ……」

 萌黄色のワンピース姿に戻ったルビィは、ストーカーとラズリを見ると、もう一度奇声を上げた。

「お、お母さん? ここ、どこ?」

 言いながらも、ルビィは狩野川の河口の方に目を向けた。視線の先には、沼津港を津波から護る水門であり、観光名所でもある展望施設≪びゅうお≫が見えるはずだ。現在地はすぐに判別できるだろう。

「ヨハネちゃんは?」

「いないわ。親子歓談の邪魔をする人は、誰も、ね」

 ラズリは頬を持ち上げ、二塁ベースを踏んでルビィに近付く。

「俺を忘れてもらっちゃ困るぜ」

 ストーカーのマントがふわりと浮かび、ルビィの前に下りた。ルビィは立ち上がろうとしたが、眩暈がしたか、再びグラウンドにお尻をつけてしまう。

「ストーカーさん、ルビィ、どうなっちゃったの?」

「血を少しもらっただけだ」

「る、ルビィの!?」

 ルビィは思わずといった具合にワンピースの裾をおさえ、

「首だ、首!」

 ストーカーはマントの端で首を示した。

 ラズリは噴き出す。まるでコントだ。

 その時、ルビィがラズリの背後を見た。

 肩越しに振り返ると、防潮堤の上に自転車に乗った人物の姿が見えた。ラフなTシャツにジャージのパンツをはいた少女だ。

「ルビィ!」

「ヨハネちゃん!」

 それはシニヨンのない善子だった。コンクリートのスロープを下り、ゴミだらけのグラウンドに向かってくる。

「意外と早かったわね」

「さあ、年貢の納め時だ。ラズリ」

「ルビィになら納めてもいいけど」

 ラズリが両腕を広げると、ストーカーはふわりと浮き上がり、ルビィを覆った。恋人を背中から抱き締め、顔を寄せるように。

「いくぞ、ルビィ」

 骨ばった口が開き、二本の牙がルビィの首に突き刺さった。

 

   *

 

 津島善子は、マントのようなものがルビィに覆い被さるのを見た。

 俯いたルビィが顔を上げ、ツーサイドアップが広がり、血管のような文様が頬に走り。

 遅れて、口笛のような音が届いた。

 

   *

 

「あんた、味方じゃないの!?」

「せっかちなんだから」

「時間切れだ」

 誰かが話している。

 誰だろう。

 ゆがんだ視界に、散らかる色が輝く。

 小さな色が、キラキラと踊っている。

 教会で見たステンドグラスのように。

 視界が回る。

 砂浜が見える。

 脚がそちらに向かう。

 誰の脚?

 寒い。

 血を抜かれたみたいな。

 いや。

 なにかを注入された?

 ゴミを蹴る。

 凹みに足を取られる。

 前のめりに倒れ、水に手をつく。

 潮の香りが腕の隙間を撫でる。

 潮の辛さが脛の隙間を撫でる。

 手を持ち上げようとした時、痛みが脳天を貫いた。

 身体を支えていた力が抜け、水に上半身が没する。

 意識が頭蓋骨から逃れようと、膨張と収縮を繰り返す。

 それも、痛みが遠のくと共に、足元から同調していく。

「ル……ビィ?」

 誰かの声がした。

「ヨハネちゃん?」

 これは誰の声だ?

 

   *

 

「解剖学的ゼロ度? これ……誰?」

 その声は間違いなく、先ほど仲直りをした同級生達のものだ。

 だが津島善子は、声をかけるべき言葉がなかった。

 グラウンドの小さな水たまりに膝をついた存在は、人間の形をしていなかった。

 角と牙を同時に表すような金色の目。

 生物的なフォルムの赤黒い身体。

 背中から首を覆う黒鉄色の鎧。

 骨だけが残された前腕と脛。

 ビデオカメラのディスプレイに映るそれは、どう見ても怪人だった。

 水が流れる腕と脚に、鎖が巻き付いている。

「≪運命の鎖(サダメノクサリ)≫?」

 善子は出会ったばかりのルビィを、『鎖で雁字搦めにされてる』と評した。それはもちろん、黒澤家という呪いで身動きがとれなくなっている、という抽象的な意味合いだったのだが。

 その概念が恐怖の形として具体化し、変身したルビィに物理的な鎖を与えたのか?

「そうよ」

 善子の呟きに、光沢のある白いアッパッパを着たラズリ・フォーメアが答えた。ルビィの母の顔で笑いながら。

「苦しいでしょう、ルビィ。でも安心なさい」

 ルビィとコウモリが切り開いた枯れ枝の道を歩いてきたラズリが、ケープを払うように腕を上げ、手を差し伸べた。

「あなたの夜を、解放してあげる」

 ピアノを弾くように滑らかに動く指先。

 それに応えるように、鎖の巻きついた右腕が持ち上がる。

「そうはさせないぜ」

 その男声が響いた瞬間、ルビィの右腕が飛び出した。

 次の瞬間、その先端についた前腕がラズリのケープの襟を掴んでいた。

「なに!?」

 からから、と音を立てる鎖が、二人の距離を埋めた。どこにそんな長さがあったのか、その間、約五メートル。

 襟を引っ張られたラズリは一瞬うろたえたが、一回転してケープを脱ぎ捨て、拘束を脱する。

「ルビィ――じゃないわね。ストーカー、とやら?」

「ああ」

 肘に戻った前腕を眺めるのは、降り注ぐ日光に強く輝く金色の目。泡に戻り消えていくケープを投げ捨てて、黒い鎧をまとった存在がゆるりと立ち上がる。

「ムダなことを」

「俺の台詞だ」

 善子の家で、ルビィの身体が発していた声だ。それは今、鎖のようなベルトのバックルに当たる位置にぶらさがっている、μ-フォームと思しき球体をくわえた逆さまのコウモリから聞こえてくる。

 人間の形をしたルビィをマントで操っていたように、今は怪人の形をしたルビィをバックルで操っているのか。

「お前を殺すぞ、ラズリ」

 もう一度、黒い鎧のストーカーが腕を伸ばした。

 ノースリーブの白い上着を着たラズリは、直線的なその腕を避け、右手の人差し指でストーカーを指差す。

 ストーカーが身体を逸らした直後、左肩の鎧が後ろに弾かれた。ラズリがなにかを発射したのだ。

 ストーカーは弾かれた衝撃を殺さず、左足を背後に踏み込んでラズリに背を向ける。

 そしてまるでピッチングのように、伸びきった右腕を振りかぶった。

 右手で掴まれたラズリの身体が、宙に浮き上がる。そのままコンクリートの波消しブロックに叩きつけるつもりだ。

「ムダなことを!」

 空中のラズリが繰り返し、ストーカーの鎖を引いた。

「なにッ!?」

 鎖が巻き付いたストーカーの脚が、地面から離れる。

 二人は絡み合った腕を中心に、両端に錘をつけたボーラのように、または二つ一組の連星のように、宙を回転し――

「ちょ、ちょっと!」

 ――海に落ちた。

 水柱をビデオカメラに収めながら、善子はグラウンドの外野を走る。

 連なる波消しブロックの手前で立ち止まると、黒い鎧をまとったストーカーと、白い服をまとったラズリが、海面から顔を出した。

 ラズリはまるで階段を登るように海面の上に立つと、上半身を水の上に出したストーカーを見下ろす。

「水面の上にも立てないなんて、それでもフォーメア?」

 そして小さな波を踏みつけて走り、伸びる腕をかいくぐって爪を撃ち出す。

 それは一見すると、怪人と人間の戦いだ。だが男の声で喋る怪人の中身はルビィで、女の声で喋る人間の中身はμ-フォームなのだ。おまけに人間の外見はルビィの母親ときている。

「もう、なにがなんだか!」

 自分が撮影する映像が、直感的に理解できない。

 これは仮面ライダーとフォーメアの戦いなのか?

 スクープだとカメラに収めたブランキア対エンジェルと同じ構図?

 中庭に現れたワンダを撮影した時、善子はどう思った?

 なにも知らないみんなはこれを見て、どう思う?

「こんなの、どこにも出せないわよ!」

 抱える秘密が、また一つ増えてしまう。

 

   *

 

 防潮堤の下で電動スクーターを停めた依田義森は、シートの中からアタッシェケースを出すと、階段で防潮堤の上へと駆け上がった。

 OGIのロゴが刻印されたケースをコンクリート柵に立てかけながら、二人の怪人の姿を海に認める。

 海面に立つ白い怪人と、海中に浸かった黒い怪人。前者はOGIが公表を控えているラズリ・フォーメアだと分かったが、後者は分からない。ブランキアでないことは確かだ、内浦からバイクで移動したにしては早すぎるからだ。

 砂浜で二人を撮影しているらしき少女は、黒澤家のルビィだろう。気にする必要はない。

 その時、防潮堤と防風林の間にある小道に黒塗りのバンが停車した。その後部ドアが開き、≪OGIスクード≫のボディガードがぞろぞろと降りてきて、最後にシャイニーが現れた。

 仮面ライダーを警護する黒服か、と笑いたくなる。一五分の稼働時間しかないシステムゆえの処置と分かっていても。

「義森!」

 シャイニーのマスクを展開した鞠莉が、下から声をかけてきた。

 義森は人差し指を口に当てて見せると、上がってくるよう腕を動かす。

 鞠莉は、彼女がセブと呼んでいる専属ボディガードとS-ユニットの人間を連れ、防潮堤に上がってきた。

 シャイニーは、普段よりも輝いていなかった。μ-フォームを装填していないどころか、アンダースーツにベルトを締めただけの状態だからだ。≪Mark II≫の物理的な装甲の全てが水泳場での戦闘で修理対象となったため、≪Mark I≫で使用していたアンダースーツを着てきてもらったのだ。

 プラットフォーム形態にすらなれないシャイニーだが、本作戦に必要な機能が搭載されているのは一目で確認できた。アンダースーツの各部位にあるステータスインジケーターが消灯しているのは、明け方に実装が完了した休止モードだからで、それは搭載されたファームウェアが最新であることの証明だからだ。

 S-ユニットの男がラップトップマシンを広げるのを一瞥しつつ、義森はアタッシェケースを開ける。

「ブランキアはまだです。あと一〇分はかかるでしょう」

「OK。その間に説明を頼むわ、そいつのね」

 鞠莉が指差したのは、義森が取り出した小さな拡声器だ。

「なんです? その玩具」

 S-ユニットの男が訝しげに言った単語は正しい。それは義森がリサイクルショップで買った、特撮番組の変身アイテムという名のプラスティックの塊だ。

「こんなもののために、僕たちを呼び出したんですか?」

「こんなものではありません。≪μ-フォームによる泡形成に対する音圧変化パターンの――」

「――日本語で言ってくださいよ!」

Calm Down(落ち着きなさいよォ)、パァイン」

「……すみません」

 この男が“パイン”――野尻松之介か。

 鞠莉に謝罪しながらも義森を睨め付けたままの男に対し、義森は意識的に口の端を持ち上げる。

「失礼しました。S-ユニット整備班班長の野尻松之介さんともあれば、私の計画立案書には目を通していると思ったもので」

 慇懃無礼な言葉に、松之介は心外とばかりに目を剥いた。

「通しましたよ! あれじゃさっぱり理解できないから聞いているんです!」

「だとすれば、勉強不足ですね。シャイニーの戦闘補助も担うあなたが、μ-フォームの基本的な特性を理解していないとは」

「僕は物理的な整備が担当なんですよ!」

「これにしてもそうです。私の説明を聞く前から、ただの玩具と侮ってはいませんか。だから龍駒にも負けたのです」

「あれは引き分けだって――」

「――私は理解していますよ。先日の戦闘報告書を。なぜ≪Mark II≫が、あのような状態になったのかも――」

「――私のせいだって言いたいわけェ?」

 割り込んだのは鞠莉だった。義森は一拍おいて、OGIグループCEOの娘に目を向ける。

「正体が定かではない存在に“仮面ライダー”の名を与え、不用心に接触した結果である。上はそう評価しています」

 義森の発言は皮肉だが、本心でもあった。

 だから、鞠莉の視線を正面から受け止めた。

「議論はあとです、お嬢様」

 口を挟んだのは、ずっと黙っていた鞠莉の専属ボディガードの黒服だった。

Yup(ええ)、今はあっちが先決ね」

「同感です」

 義森は目を逸らした。背中の脂汗を意識し、鞠莉と相対するほどに肝の据わった人間ではない、と自分を評価した。

「じゃ、いくわよォ」

 シャイニーは腰のホルダーからシーリングされたμ-フォームを取り出し、ハンドガン型リーダー≪エウリュス≫に読み込ませた。

 『ハーチェク』の起動音声と同時に、シャイニーの身体が穏やかな紫色に包まれた。後頭部から肩にかけて大量に生成された、直径一センチほどの円盤の装甲から、二本の細長い装甲がずらずらと伸びたためだ。

 脚まで届く短冊状のワイヤー装甲をまとった≪シャイニー=ハーチェクフォーム≫は、さながらギリースーツのように、あるいはフジのツルを這わせた藤棚のように、その人間的フォルムを隠してしまった。

 唯一、左側頭部から突き出た鞠莉の髪型に似たアンテナと、大きな観測装置のついた左眼、巨大な複眼がむき出しになった右眼が構成する、横倒しになった“ě”を表わす顔だけが露出していた。

「まったく、地味なお披露目よねェ」

「だからこそ美しいのですよ、鞠莉さん」

「≪Hacěk≫が、でしょォ?」

 シャイニーは、エウリュス上にフォーマライズされていくブルパップ式のロングバレルライフル――≪エウリュス=ハーチェク≫に弾倉を装填し、コンクリート柵を越える数段の階段の上で膝をついた。膝射の姿勢だ。

「照準システムは如何ですか?」

「絶好調ね」

 怪人が争う現場まで、ゴミだらけのグラウンドを挟んで一五〇メートルもない。ハーチェクの性能なら目と鼻の先だ。

 義森は拡声器を階段の手すりにテープで固定し、タブレット端末とOUBで接続した。すぐに端末を介したシャイニーへのリンク確立が通知された。エウリュス=ハーチェクをコントロールするシャイニーの照準システムと、拡声器が同期したのだ。

Well(じゃ)、その玩具が≪Mark III≫よりHigh Priority(優先度の高い)案件か、Checkしてあげましょ――」

 と、言葉の途中で鞠莉は笑った。

「――相変わらずあだ名にしにくい名前よね、義森って」

「生れ付きです」

「改名したら?」

「婿養子になるなら、考えますが」

「じゃ、意外と可能性あり?」

 その時、かすかなバイクのエンジン音が聞こえた。

「ブランキアです!」

 双眼鏡を手にした松之介が言った。

「もう? 早すぎる」

 鞠莉によって≪ブランブロア≫と名付けられた緑色のマシンは、モトクロス用バイク≪XR250≫がベースにしても速すぎるスピードで、養浜されていない砂浜を爆走してくる。

「やる気みたいね、リリー!」

「シャイニー、狙撃モードに遷移します!」

 ギリースーツに包まれたシャイニーの身体が、方々で微かな光を放った。

「作戦通りですよ、梨子さん……」

 義森は玩具の拡声器に手を伸ばし、念のために起動ボタンを押した。

 勇ましい効果音とピアノの環境音楽がかすかに聞こえ始め、義森は咳払いをし、眉を寄せた松之介を無視した。

 

   *

 

 拡張された桜内梨子(ブランキア)の視力と聴力が、高鳴るエンジン音と巻き上がる砂の向こうを捉えた。

 左手前方一〇〇メートルばかり、凪いだ遠浅の海岸を波立たせる存在。

 黒と赤の身体に黒鉛のような鎧を着た怪人と、白と青の服を着た人間だ。

 人間の存在はルビィだけだと伝えられていたのに、と思った時、後者がこちらに手を差し向け――

「!」

 ――なにかがこちら目掛けて飛翔した。

 首を左後方へ逸らす。

 猛禽類の牙のような形をした、爪だった。

 バイクの速度による偏差を計算に入れ、撃ち出したのだ。

 爪が描く軌跡をかいくぐり、仮面の下で舌打ちする。

 ブランキアの能力を知られてしまったからだ。

 だが少なくとも、あの人間の顔をした存在が≪ラズリ・フォーメア≫だと確信はもてた。

「それで十分!」

 ブランキアはハンドルを切ると、後輪をスライドさせて車体を倒し、ブレーキをかけた。時速一〇〇キロメートルで突っ込んできた三〇〇キログラム近い質量が、狭い砂浜を盛大にえぐり飛ばした。

 μ-フォームの力でスパイクの生えたタイヤは、湿った砂の層まで掘り返し、黒い砂で大きな三日月が描く。

 その中心で、梨子はバイクを降りた。

「待ってて、ルビィちゃん。今――」

「――意外と見えてないのね。その目」

 三日月の内側に、善子が立っていた。

 頭から砂を被って。

「よ、ヨハネさん!? ごめんなさい!」

「いや、うん、今日はこういう日なのよ」

 善子は閉じた瞼をピクピクさせ、唇を震わせて砂を噴き飛ばした。

「ああ、もう、どうしよう」

 海の上で誰かが呟いた「あらら」の声に、梨子は仮面の下で赤くなる。

「いいって、私のことは。ルビィよ」

 黒っぽい砂を目の周りから除いた善子は、彼女には珍しいよれよれのTシャツとジャージ姿だった。頭の上にはシニヨンもない。

「あの怪人が? 変身したの?」

「うん」

 梨子も背後を振り向いた。

 そこでようやく、花丸の情報と義森の電話が、状況と結び付いた。

 自分のすべきことが、結び付いた。

「ごめんね、津島さん」

「だから。いいって、もう」

「やっぱり私、みんなの手伝いならできる」

 善子が顔を上げた。

 梨子は見なかった。

 砂浜を進み、海水に足をつける。

 梨子の苦手な、潮の匂いをはらんだ水に。

 そこに、爪が飛来する。

 人差し指と中指で摘まみとり、弾き捨てる。

 静岡OGIのテストで受けた機関銃に比べれば、なんと遅いことか。

 水深一メートルばかりの水を、半ばかき分け半ば泳ぎ、二人の元へ走る。

 なにをしに来たのか。

 なにがしたいのか。

 曜と善子に言われ、答えられなかった問いが、頭を過ぎる。

 どうして了承してしまったのだろう。

 ゴールデンウィーク中は、怪人のことなど忘れて、みんなの手伝いをするつもりだったのに。

 あの場には、私が去ったあとに街を任されるはずだった、二人がいたのに。

 空手で怪人を圧倒する、白い装甲の仮面ライダー、ワンダ。

 怪人でありながら人間の味方をするダンゴムシ、ロリポリ。

 二人が、自分が行くと言ってくれたのに。

 梨子は頷けなかった。

 ワンダとは、スクールアイドルを目指してダンスの特訓をし、怪人の報に青い顔をした少女。

 ロリポリとは、先輩たちの手伝いを申し出て、友達の危機にも涙ながらに同行を求めた少女。

 それに気付いてしまった。

 怪人と戦った経験があっても、人々を護った経験があっても、戦えない時だってある。戦いに赴くべきじゃない時だってある。

 戦う力を掴んだなら、歯を食いしばって戦い続けなきゃいけない? そんな法はない。

 だから、私が戦うんだ。

 自分の居場所がないなら、せめて、みんなの居場所を護る。

 そのためなら、どれだけ私を傷付けたって構わない。


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