B
「だって、いきなり『ごめんなさい』って。あり得ないよ、曜ちゃん」
「当然です」
「愛の告白じゃあるまいし」
「プロポーズみたいなもんだったじゃん」
「そうじゃないんだけどなあ」
「一目惚れって意味じゃ同じでしょ?」
「違うよお」
違うだろうか、と曜は昨日の光景を思い出す。相合傘で見つめ合っていた二人は、それこそようやく運命の相手に出会えたカップルにしか見えなかったが。
渡辺曜は窓際の席に座り、数学の公式を書いた単語カードをめくりながら、幼馴染みと話をしている。
斜め後ろの席に座る千歌は、机に突っ伏したままこちらを廊下側を見ている。相変わらずアップダウンの激しい子だ。
「髪、切ったら?」
「ヤダ」
「なんで」
机の上で悶える千歌は、髪にまみれてお化けのようだ。
「あーあ、せっかくなにかがどうにかなりそうだったのに」
「具体性ゼロ」
「スクールアイドルだよー」
「いいじゃん、梨子さんじゃなくたって、集めれば」
「なんでよー。最後の一ピースだったのに……」
「最初の一ピースでしょ」
千歌は口を尖らせたが、「そんなことないもん!」と立ち上がり、
「一緒にやるでしょ、麻衣ちゃん!」
隣の席を見た。
そこには誰もいない。
「千歌ちゃん。麻衣ちゃんは引っ越しちゃったじゃん」
千歌の口がゆっくりと閉じていく。
「そっか。そうだよね」
そして静かに席に座りなおし、顔を隠すように机にうつ伏せた。
去年と同じように。
「よーし席につけー!」
鼻に白いギプスを当てた女教師が教室に入ってきた。昨日怪人に殴られて鼻骨を折られた、二年生の担任教師、笠木信代だ。
生徒がバラバラと動き出す。始業式と入学式が終わり、今日から浦の星女学院は日常に戻るのだ。
学校の状態は、≪日常≫とは言い難いかもしれない。昨日の怪人騒動のせいで、三年生は三人が欠席、二年生は二人が欠席、一年生に至っては半数の七人が欠席だそうだ。現場を直に経験した新入生と、入学式の手伝いに来ていた千歌と曜を含む数人を除けば、在校生はネットにアップされた動画でしか状況を把握していない。このいびつな出席状況状態は、彼女らの好奇心を考えれば当然とも言える。実際、動画に登場した曜は、登校直後に質問攻めにあって大変だったのだし。
だが、曜からすれば、それも日常の一形態のように思える。
いつからか曜は、この街に渦巻くトロリとした生ぬるいものの存在を感じている。すくおうとしても指の間からこぼれ、その割りにベットリと手を汚していき、殺したと思っても気付けばそばにいる。
そして、誰かの希望を一つずつ飲み込みながら、静かに成長していく。
≪怪人≫とは、それが≪非日常≫の異物として、日常に染み出してきたものではないか。
誰の目にも分かる、滅びの運命として。
そんな曜の物思いは、
「数IIなのになんで笠木が、って思ってるだろ? 今日はなんと! 転入生がいるぞ!」
「浦女に!?」
「転入!?」
信代の言葉と教室のざわめきでかき消された。
「入れ!」
そして信代の威勢と反比例しておずおずと入って来た少女を見て、そうだった、と思い出す。
浦の星女学院とは違うブレザーの制服に、漆のような茶色が自然に入った長髪。
身体の線の細さ、肌の色の白さ、そしてはにかむような笑顔。
この街には珍しい存在感に、クラスメイトは一瞬静まりかえり、次いで黄色い声を上げた。
桜内梨子は困ったように眉を八の字にしたが、曜と顔を上げた千歌と見つけて、小さく手を振った。
「梨子さんってさ、なんか、天使みたいだよね」
「キレーだよねえ」
「千歌ちゃん? ほんとに一目惚れしてない?」
「あーああ」
脳細胞を一グラムも使っていないような吐息を漏らす千歌からは、先ほどの落ち込み具合はまるで感じられない。やはりアップダウンの激しい子だ。
「最初、うっかり転出書類を書き始めちまってな。入ってもないのに追い出すところだったわ」
笑う信代の横で、転校生は黒板に自身の名前を小さく書き終え、丁寧にお辞儀をした。
「桜内梨子です。国立音ノ木坂女学院高校から来ました。よろしくお願いします」
一旦は静まった教室に、「音女だ」「マジで?」とさざ波のような呟きが広がる。
「それだけか? 趣味とか特技は? 泳げたりするのか?」
「一応、絵を描いたり、小物を作ったりしてます。あと料理も少し。泳ぎはあんまり得意じゃないです」
「音楽は!」
突然の大声に、教室中が驚いた。
曜は驚かなかった。千歌が起立していることにも。
「えっと……はい、ピアノと、あとヴィオラを少々」
やはり控え目な返答に、千歌は畳みかけるように、
「作曲は!」
と重ねる。
「一応……少しは……」
「じゃあ歌とダンスは! あと――」
「――いい加減にしろ、高海」
割り込んだ信代が、頭をかきながら梨子を見る。
「桜内の席はあそこ、あのうるさいヤツ――高海の横なんだが……変えるか?」
「あ、いえ、平気です」
しかし「よろしくね、渡辺さん、高海さん」と着席する梨子は、明らかに、希望に目を輝かせる千歌を警戒しているようだ。
曜は、その希望がこぼれ落ちなければいいな、と思う。
*
松浦果南が一限の片付けをしていた時、ぼんぼんぼん、と空気を裂く連続音が遠くから聞こえてきた。
「またテレビのヘリだ」
「ちょっと多くない?」
クラスメイトが騒ぐ中、気にせずバッグに教科書を入れていた果南だが、今日一番の騒音が校舎に叩き落とされた時、その手をとめた。
首をもたげる予感に、忘れていた感情が沸き起こる。
制限高度を違反したマスコミのヘリであってほしい。
でももし、あのヘリなら……。
やがて騒音は学校を通り過ぎ、裏山の格技棟、その屋上にあるヘリポートに着陸した。
見えてはいない、音の動き方で分かる。
かつて心待ちにしていた音なのだから。
「今の、なんだろうね。妙に近かったけど」
クラスメイトの肩を叩かれた果南は、
「さあ」
軽い口調で答えた。
*
管理棟二階の職員室から出てきた桜内梨子は、目の前にいた千歌に声も出せず驚いた。
「……どうしたの?」
「待ってたの!」
そう言うと、千歌は臆面もなく梨子の腕に抱き付いてきた。
「ちょっと!」
その距離感に、梨子は思わず頭を反らす。
「ねえ梨子ちゃんいいでしょ? 一緒にスクールアイドルやろうよー!」
「だから、その、そんなこと言われても」
「なんでよー、昨日は途中までノリノリだったじゃん!」
「そ、それは――」
「――あーもうこんなところにいた! 千歌ちゃん!」
廊下の向こう、教室棟と管理棟がL字に連結する角から、曜が走ってきた。
梨子はホッとして、教室棟に向かって歩き出す。千歌がそれに追いついてきて、曜もUターンして合流する。
「転校初日なんだから、千歌ちゃん一人で独占しちゃダメだよ! 梨子さんも、千歌ちゃんのことはあんまり気にしなくていいから」
「なんでよー、気にしてよー」
「千歌ちゃんの発言を全部真に受けてたら、一日が三〇時間あっても足りないよ!」
「あ、ひどいー」
二人のじゃれ合いを横目に、梨子は部屋の並びを覚えようと頭上のプレートを見る。職員室を通りすぎ、次は応接室だ。
「ひどくない。人を巻き込むなら、もっとちゃんと誘わなきゃって言ってるの!」
「ちゃんと?」
「そ! ちゃんと」
「そうか! そうだよね!」
さらに会議室を横目に、生徒会室へと向かう。管理棟二階はこの四つだと頭に記録。
「梨子ちゃん!」
「は、はい!」
そんな時だから、突然矛先を向けられてビックリしてしまった。
「私と一緒に、スクールアイドル始めませんか!?」
「ごめんなさい!」
ビックリしていても結論は変わらない。
「ええー、もう、なんでやりたくないの?」
「普通やりたくないと思うけどなあ」
「だって私、その、地味ですし」
「「!!」」
物理的な衝撃を食らったように、千歌が壁に吹っ飛んだ。曜までも。
「地味。なに地味って、曜ちゃん」
「地味とは(哲学)」
「え? え?」
そのリアクションが理解できず、梨子は立ち止まって二人を見比べた。
「分かってないの!? この清らかな長髪、清楚な佇まい、天使のような顔立ち、どこから見てもアイドル感満載だよ!」
千歌が口にしたのは概ね“清い”のバリエーションだ。逆に「清いとはカッコテツガク」と言いたい。
「さすがに千歌ちゃんに同意だなあ。地味はないんじゃない?」
曜もいつの間にか千歌サイドに回っている。少し心細くなる梨子である。
と、梨子がつい今しがた出てきた職員室のドアが開いた。
出てきたのは、ポニーテールの生徒だった。緑青色のスカーフと上履きで、三年生だと分かった。そういえば梨子が担任教師の話を聞いていた時に、遠くの方に見えた生徒かもしれない。
梨子の視線で千歌と曜が目を向け、
「あ、果南ちゃーん!」
と千歌が手を振った。
「や」
果南と呼ばれた生徒は短く返し、落ち着いた足取りでやってきた。そして壁際に並ぶ二人に梨子が向かい合っている様を見て、
「なに、君。転校早々シメてるの?」
と梨子に訝しげな顔を向けた。
「ち、違います! そんなつもりじゃ」
「千歌たちをシメても、浦女は落とせないと思うなあ」
「だ、だから――」
「――分かってるよ」
とイタズラっぽく笑った。からかわれたらしい。
「私、松浦果南。ようこそ、死にゆく街へ」
「桜内梨子です。よろしくお願いします、松浦先輩」
「果南でもいいけど、まあ好きに呼んでよ」
「ねえねえ果南ちゃん」
紹介が終わったところで、千歌が果南に呼びかけた。
「私、スクールアイドルやろうと思うんだけど!」
「また唐突に。説明が必要だよ、千歌ちゃん」
「へえー、千歌がねえ」
果南は驚いたように、千歌をマジマジと見ている。
こっそりもう一度スカーフと上履きを確認するが、やはり果南は上級生だ。三人が親しいだけなのか。それとも地域的にこういう雰囲気が普通なのか、梨子には分からない。
「ね、果南ちゃんもどう? やらない?」
「いいよ」
即答だった。
梨子は、開けた口を手で覆うのも忘れるほど、驚いた。
曜も口をパクパクさせ、当然と満面の笑みを浮かべているのは千歌だけだ。
「か、果南ちゃん!? まだなにも聞いてないのに、ていうかスクールアイドル知ってるの!?」
「そりゃあ、知ってるよ」
「いいの!?」
「条件付きだけどね」
千歌の問いに、果南は両腕を上に大きく伸ばして答える。
「うんうん、いいよいいよ! なになに!?」
「一つ目は、部員が十分に増えるまでの補欠なら」
「部員?」
曜が言って、千歌を見た。
「スクールアイドルって、部活なの?」
「そうだよ、昨日読んだじゃん!」
「覚えてないよ」
「それでそれで、次は?」
「次は――」
――果南が口を開く前に、すぐそばのドアが開いた。
現れたのは、黒く長い髪を正確に切り揃えた、日本人形のような印象の生徒。口元に控え目に添えられたほくろの人間らしさが、むしろ不自然に思える。
その現実離れした雰囲気に、梨子は思わず息をとめた。
「あ、生徒会長、こんにちは」
「こんちゃーす!」
千歌と曜が思い思いの挨拶をして、梨子も慌てて「こんにちは」と一礼する。
「ごきげんよう」
生徒会長と呼ばれた生徒は、切れ長の目をそのままに、口だけで笑って挨拶をした。
「廊下では静かにお話しください。生徒会室の中まで聞こえていましたわ」
「あ、ごめんなさい!」
「すみません」
主にうるさかった千歌と曜が頭を下げる。
それを見届けた生徒会長は四人の横を通り過ぎ――
「ダイヤ」
――足をとめた。同じ三年生の前で。
「戻ってきたのね、あの子」
「そのようですわね」
「どうする気?」
「あなたの問題ではなくて?」
生徒会長は横目で果南を見る。
果南の唇に僅かに力が籠もる。
「私は私のしたいようにするから」
「わたくしはとめませんわ」
果南の態度の変化に、梨子は気圧される。
「なになに? 世界観違うよね」
千歌の囁きに曜が首を傾げるところを見るに、仲のいい二人も知らない件らしい。
二人の上級生は目を合わせず、だが睨み合う。
と、教室棟の階段から、複数の声が上がってきた。
「おう、果南、ダイヤ! なにやってんだ。二限、遅れるぞ」
その中の一人、周囲を刈り上げたベリーショートの女生徒が、果南たちに向かって叫んだ。ここで梨子はようやく、“ダイヤ”なる単語が、目の前の生徒会長の名前だと気付いた。
均衡が崩れ、果南は目を逸らし、ダイヤは眉を弓の字にした。
「ではわたくしたちも、参りましょうか」
ダイヤが果南に提案し、果南が脇に持った教科書を見せる。
梨子はそっと息を吐き、時計を一瞥、二限が始まる前に教室に戻ろうと思う。
だがもう一つの動きに遮られた。
「君、もしかして音ノ木坂の?」
ベリーショートの上級生が、梨子に声をかけたのだ。
梨子は平静を装い、頭を下げた。
「はい、今日、転入しました」
「マジで! すげー、あの音ノ木坂!?」
「他に音女があるかよ」
「うっさいな」
言い合う上級生に恐縮して、梨子は小さく頭を下げる。困った笑顔を作って。
当然だが、音ノ木坂を、その文脈を知っている人たちはいるのだ。
やはり浦の星の制服の準備ができてから転入すべきだった。
父にそう言えばよかった。
「なあ君、何部だった? もしかして踊れる?」
「いえ、私は主にピアノで――」
「――じゃあ作曲とかするんだろ?」
「え、ええと……」
千歌のような追求にどう答えるか考えていると、
「はい、ゴロツキチンピラ淑女の皆様、授業に遅れますわよ」
ダイヤが手を叩き、梨子に絡んでいた生徒は顔を上げた。
「ほら、行くよ」
果南も滞留していた生徒を押し出していく。
「しゃあない、また今度な!」
ぞろぞろと上級生が去っていき、千歌、曜、梨子の三人が残される。
「いやあ、やっぱ先輩って怖いよね、曜ちゃん」
「いつも気にしてないクセに」
「『あの音ノ木坂』……」
上級生の放った言葉を繰り返した。
繰り返してしまった。
「災難だったね、梨子さん」
曜が肩に手を置いた。
その感触が遠い。
「梨子ちゃん?」
額に脂汗が滲んでいる。
「どうしたの? 貧血?」
指先の感覚が遠ざかる。
あの時と同じだ。
「曜ちゃん、どうしよ。ねえ、お腹痛い? 保健室行く?」
どうして。
「フォーメアが」
「え?」
「泡が」
「泡?」
来る。
*
「梨子ちゃん!?」
新しい友人の身体から力が抜け、幼馴染みにもたれかかった時、リノリウムの廊下になにかが転がった。
渡辺曜はそれに見覚えがあった。
直径三センチ程度の小さな球体。
曜が夜の海に見つけ、三人で海に潜って千歌が手に入れた、淡く光る“お化け”。
「なんで梨子さんが?」
「それ、私のじゃないよ」
千歌がスカートのポケットを叩いた。
球体は廊下を教室棟の方へと転がっていく。
曜は駆け寄り、拾おうと手を伸ばし――
「――触らないで、曜ちゃん!」
千歌が叫んだ。
「な、なに?」
振り返ると、千歌の手の上で球体が微かに音を立てている。
中の結晶が回転して、振動を生み出しているようだ。
電話が着信を知らせるように。
「それ、私のじゃない」
「そりゃ、見れば――」
「――私のじゃない!」
転がっていた球体がバウンド。
直線を描いたそれが、床に備え付けてあったウォータークーラーに直撃、押し倒した。
「うわあ!」
破損した栓から水が溢れ出す。
その水が床を広がり、床に落ちた球体に達した時。
異変が始まる。
球体を押し上げるように、水が立ちあがっていく。
球体は周囲に一回り大きな泡を作ると、その周りを細かな泡で包み始める。
その泡が、質感を変え、色を変え、一つの形を作っていく。
頭が輪切りになった、天使のような形を。
「ウソ」
怪人を。
「輪切り怪人!」
曜は慌てて急停止し、流れてきた水に滑って尻もちをついた。
「冷た! ……こいつ、やられたんじゃないの? 昨日のアレに! ≪仮面ライダー≫ってヤツに!」
「仮面ライダー!? なにそれ!」
ジワッと湿った感触がお尻に達する。
「ああもう、パンツまで濡れちゃったよお!」
ねちゃり、と。
そんなことを気にしている間に、怪人はもうすぐそこまで迫っていた。
倒れたまま上履きの踵で床を蹴るが、水たまりを滑って上手く動けない。
「曜ちゃんに――」
曜の視界に影が落ち、通りすぎる。
「――近付くなあ!」
曜を飛び越えた千歌のジャンプパンチが、怪人の右肩を叩いた。
長い髪が千歌を追って宙を舞い、着地した彼女を追い越す。
「早く!」
怪人は数歩後退り、前屈姿勢のまま動かなくなる。
「ありがと!」
曜が立ち上がる頃、怪人は頭を上げて千歌を見、次に身体を起こす。
肩に残った奇妙な凹みは、千歌の拳の跡。
服も肉体もない。
ただ形があり、ズレた。
それが、うぞうぞと元に戻っていく。
「なんなのあれ!」
「海泡石みたい!」
「なんで!?」
その時、外の騒ぎに気付いたか、背後で職員室のドアが開いた。
「なんなんだこりゃ。……おい、また高海か!」
教師が声を上げたが、倒れたウォーターサーバー、水浸しの廊下、意識のない梨子とそれを負ぶう千歌、お尻の濡れた曜、天使のコスプレをした人物、そのどれに対して言ったのかを忖度している余裕はない。
「まったく新学期早々――」
「――先生ごめん! あいつに気を付けて!」
千歌は梨子を背に立ち上がり、廊下を怪人と反対方向へ走り出した。
「おい! あ、あいつって……おいまさか!」
「そのまさかです!」
曜もそのあとを追って走る。
二人は階段を降りて一階へ、上履きのまま昇降口を飛び出し、校門から道路に出た。
二限開始のチャイムが鳴るが、教室に戻ってなどいられない。
「ここまで来れば」
校門脇の桜の陰で立ち止まる。曜も千歌も人並み以上の体力はあるが、梨子を負ぶってきた千歌は、さすがに息が切れている。
「仮面ライダーは? 来てくれないの?」
「だからそれなに!?」
「昨日の緑色の怪人のことだよ! ネット見てないの!?」
「見てないって!」
と曜は昇降口を指差した。薄暗い下駄箱の奥から、誰かが叫ぶ声がしたからだ。
「こっち来てる!」
「もう! なんでよう!」
千歌は煩悶するが、その手はスカートのポケットに触れていた。
今も千歌のポケットにある、謎の球体。
輪切り怪人を作り出したものに似た、“お化け”。
それは思い当たる節だ。
「どうして分かったの?」
「なにが?」
「梨子さんのお化けが危険だって」
曜の問いに、千歌は首を傾げた。
「≪フォーメア≫って言ってたけど。千歌ちゃん、聞いてる?」
千歌は首を振る。なにも考えてなかったのか。
千歌が背負う梨子の後頭部を見る。髪留めも縛りクセもない女の子の髪が、そこから覗く首筋が、場違いに美しい。
そんな子が、どうして怪人を生み出すものを持っていたんだ?
「曜ちゃん、今日は雨降りそう?」
見上げると、晴天だった空は重い雲に圧し掛かられつつある。また雨が降り出したら、あの怪人はまた羽を生やして襲いかかるのだろうか。
だが曜は空気の匂いを嗅ぎ、首を振った。
「たぶん曇りのまま」
「そっか。梨子ちゃんをお願い」
「二手に分かれる気?」
「あいつが狙ってるの、私か梨子ちゃんのどっちかだよ」
球体を持っている千歌か、怪人に変化した球体を持っていた梨子か。
「そうかもしれないけど」
曜には肯定できない。できるのは、曜は梨子を負ぶう役を代わることだけだ。
「曜ちゃんは学校に戻って。梨子ちゃんが追われてるようなら電話して」
「千歌ちゃんが追われてたら?」
曜はいつにない真剣な顔で、千歌の目を覗き込む。
「私は……」
千歌は呼吸を整えるように息を吐き、ポケットから握り拳を出した。
その中にあるのは、おそらく、あの球体。
「大丈夫」
笑顔でそう言われれば、曜は頷くしかない。
「行って!」
その声を背中に校門をくぐり直し、管理棟の方へと走った。
千歌が、あの怪人を倒す切り札になるのか。
この街を覆う停滞感を払拭する、切り札に。
*
高海千歌は一人、準備運動をする。
片脚ずつ腿を上げ、上体をひねり、肩の動きを確かめる。
そして、自分の手を見る。
空手の試合以外で初めて、誰かを殴った。
咄嗟に迎撃した、昨日の上段回し蹴りとは違う。
殴ろうと思った。
そして殴った。
べたり、と。
昇降口から日光の元に、古代ギリシャ風の服が晒された。
輪切りにされた頭にある目は、曜と梨子が見えていただろうに、千歌から目を離さなかった。
これで決定だ。
「さあ、おいで!」
千歌は上履きのまま走り出す。
とにかく学校から離れないと。
昨日みたいなことは繰り返させない。
校庭の脇の道路を通り、果樹園を通り、みかん山を下っていく。
速くなくてもいい、追いつかれなければ。
長井崎岬を巡る道路まで降りて、さらに海沿いを走る。
辿り着いたのは、曜に誘われて釣りをしたこともある、コンクリート造の細長い波止場。その手前のまだらに雑草の生えた空き地。使われなくなって久しいバスの停留所が、来客を歓迎するように揺れている。
ここなら果樹園の人にも学校関係者にも合わないはずだ。
一キロも走っていないのに、息が上がってきている。
「もう少し、ちゃんと道場、行ってればよかったかな」
そう言いながら、震える唇を舐める。
緊張しているのが分かる。
苔に覆われた怪人は、来てくれないだろう。
大丈夫か大丈夫じゃないかで問われれば、大丈夫じゃないのかもしれない。
それでも、私は宣言したんだ。
“大丈夫”と。
ヘアゴムで髪をまとめ、背中に放る。
ポケットから球体を取り出す。
丸くて滑らかな感触の球体は、形が判別できないほどの速度で回転する結晶で、周期的に光を放っている。
同期して発する振動は、まるでハミングのようにも聞こえる。
べたり、と。
怪人が道路を歩いてきた。
頭の輪切りを載せた、ボロをまとった怪人が。
ポケットに球体をしまう。
三戦に立ち。
息を深く吸い、深く吐く。
ヘソの下、丹田に力を集中する。
やがて、構え。
左手を上、右手を下に。
長井崎岬を前に、内浦湾と淡島を背に。
「一応聞くけど、やめないんだよね」
空き地に到達した怪人に声をかける。
「なら、いくよ」
最初に千歌が動いた。
「ふッ!」
短い気合いとともに、踏み込む。
怪人が右腕が動いた。
右上段突き。
左腕で受ける。
練度は高くない。
ガラ空きの怪人の胴へ、
「せあッ!」
右中段突き。
怪人の鳩尾を捉える。
「へ!?」
その拳が刺さった。
文字通り。
「どうなってんのお!」
飛び上段突きの時の手応えのなさとも違う、ゼリーのような手応えのなさで、腕が完全に怪人を貫通していた。
そのせいで右腕が伸びきり、集中力を失い、動きが遅れた。
呻き声を上げた怪人に両肩を掴まれ、突き飛ばされた。
土の上を転がりながらも体制を立て直し、立ち膝で構える。
怪人は穴の開いた腹を押さえ、呻き声を上げていた。
有効打らしいのだが。
「……?」
言葉が出てこない。
自分の右腕から目が離せない。
黒い滑らかな表皮に覆われ、白い手甲をまとった、自分の拳から。
怪人を貫通した腕の部分が、変質していた。
「なに、これ」
ようやく絞り出した言葉に反応するように、怪人が顔を上げた。
いや、ばらり、と頭が七枚の輪切りに分かれた。
その一枚が、正面から飛来する。
「うそ!?」
鼻と耳の下半分が含まれた輪切り。
ゾッとしながらも、変質した腕で受ける。
その瞬間、輪切りは水となって飛び散った。
「つめた!」
輪切りだった水を顔面と左腕で浴びる。その左腕も、泡立つ水によって、見る間に変質していく。
「どうなってるの?」
右手の人差し指で、左手の手甲を押してみる。すると抵抗感とともに指の跡がクッキリと付き、遅れて元の形に戻った。
「海泡石だ」
少し前に、果南のお店で触らせてもらったのを思い出す。
水に浮くほどに軽く、微細な穴と繊維の隙間に水が入り込むと柔らかくなる、海の泡の石。
怪人を殴った時に感じたのと、同じ感触。
「まさか」
顔を上げる。
直後、輪切りの鼻が視界いっぱいに広がり、吹き飛ばされる。
護岸された空き地を飛び出し、背中から浅瀬に叩き付けられる。
「ひゃあ!」
冷たさに声が出た。
「卑怯だよ、不意打ちなんて……」
顔をさすりながら身体を起こし、指先に違和感に驚く。
その原因が分かる前に、水面に映った自分の姿が目に入る。
「なんなの、これ」
黒いヘルメットをかぶったような頭。
橙色の複眼が集合した一対の大きな目。
金属製のようで柔らかい、鈍い先端の角。
目も鼻も口も耳も、結んだ髪も存在しない。
腰に締められた白帯に、橙色に淡く輝く球体。
目を疑う。
水に濡れた黒い身体は、素肌と同じように水の感触を伝えている。
まるで露天風呂で風を浴びているように、身体の色んな部分が敏感になっている。
胸や脚も手甲と同じような白い装甲で覆われているが、その材質は指で押すだけで変形するほど柔らかく、やはり敏感だ。
ウェットスーツや金属の鎧ではない。
これは肌だ。
さっきまで、浦の星女学院の冬服を着て、上履きをはいていた高海千歌は、今や、完全に別の存在に変身していたのだ。
「待ってよ……」
その声に応えるように、鼻の下半分の輪切りを失った怪人が近付いてくる。
水で作られた怪人。
泡で作られた身体。
同じ球体。
「私、怪人になっちゃったの……?」
呆然とする千歌に、怪人が眉の部分の輪切りを放つ。
だが、その動きが見えている。
大きな複眼が捉えた何百もの映像が、その軌道を見せている。
意識せず左腕で受け、その輪切りが水に還る。
その水を浴びて、我に返った。
「そっか、こいつ、ウォータークーラーの水でできてたんだった」
そして原理は分からないが、今の千歌には怪人を水に戻す力があるらしい。
「だったら、手はあるよ!」
立ち上がる。
まるで素足のように、水の冷たさと砂利の凹凸を感じる。
それを蹴って跳躍、空き地に着地、怪人へと走る。
ハミングが聞こえる。
海の中で聞いた音のように。
身体から沸き起こるように。
怪人が頭頂部とその下の輪切りを飛ばす。
そのどちらの動きも見える。
奇妙なほどはっきり見える。
その二つを左手で打ち落とし、
跳躍。
昨日、倒されたの時を思い出せば。
さっき、産まれた時を思い出せば。
弱点は明白だ。
「りゃあッ!」
再度の飛び上段突き。
胸の中心を、右拳が突き破る。
弾力のある手のひら大の泡を掴み――
「割れろお!」
――その奥の球体までをも握り締める。
指の中で、膜が裂ける感触。
直後、怪人の身体が崩れた。
古びた布を着た肉体が、その形が、小さな泡に分解される。
ばしゃり、と足元を濡らし、空き地に黒い染みを残す。
変身したままの千歌は、肩で息をしながら、神経を集中する。
なんの動きもない。
クルマが通るでも、船が通るでもない。
波打ちの音と、葉擦れの音が、思い出したように耳に届く。
「倒しちゃった」
千歌はゆっくりと息を吐き、テンションを緩めた。
残された球体を曇り空にかざすと、中に入っている結晶がするりと動く。
「あれ、形が違う」
結晶は三角形を四枚組み合わせた正四面体だ。同じ正多面体ではあるが、千歌が海で拾った正八面体のそれではない。
「ま、いっか。梨子ちゃんに返してあげよ」
と道路に出て、浦の星女学院に戻ろうとして――
「Wonderful!」
――目の前に現れた人物に、立ち止まった。
「え? な……」
「一応スタンバってたんだけど、心配して損しちゃったァ! アナタなら全然平気そうね!」
頭のてっぺんから抜けていくような甲高さに、鼻にかかる甘ったるさを絡めた声。日本人とは思えないイントネーションだが、日本人としか思えない流暢な日本語で、千歌はリアクションの方向に困る。
いや、それよりもっと大きな要因は。
その人物が、みかん山の上の道路から落ちてきて、難なく道路に着地したからだ。
その人物が、メタリックな銀のアンダースーツと紫の装甲をまとっていたからだ。
「どなた……です?」
警戒を解かずに問うと、その人物はなにが面白いのか、きゃらきゃらと笑い出した。右手に持っている、農家のおばさんが使うバーコードリーダーのようなグリップ型の機械で、口を押さえながら。
口――そこに素顔はない。一対の紫色の大きな丸い目と、涙のように真下に出て顎の下で曲線を描いて繋がる一本の線が醸す雰囲気は、さきほど水面に映った千歌の顔に似ている。
昨日現れた緑色の怪人の顔にも似ている?
「Sorry! でも、そうよね、知らなくて当然よね!」
千歌の連想を余所に、マスクが、くぱっと上下に割れた。
「今日から浦の星女学院の理事長代理に就任した、小原鞠莉でェス!」
現れた顔は、やはり日本人離れしていた。名乗った名前も、“マリ”とも“マリー”ともとれる、長音の判別が曖昧なアメリカ人らしい言い方だ。
「もしかして……三年生の?」
「Yes!」
鞠莉と名乗った人物は、その場でクルリと回って見せた。腰のベルトからぶら下がっている平たい部品が、スカートのように翻った。
千歌は首をひねる。一昨年転校してきたハーフの三年生が、理事長代理のわけがないと思ったからだ。
鞠莉と名乗った人物は、スーツから音漏れしているドラムに合わせてリズムを刻みながら歩いてくる。解放された金色の髪の毛を一振りし、右側頭部から垂れていた三つ編みをカチューシャを、左側頭部の髪の一束で輪を作った。
「んー、やっぱこうでなくちゃ! でも早いところ、Shower浴びたいわァ!」
身体をひねった時、上腕部に見覚えのあるマークが見えた。時計をイメージしたロゴに並ぶ、“OGI”の文字。
「小原さん――OGIグループの?」
「
鞠莉は笑うように言って、グリップを持った右手を千歌に向けた。
そのジェスチャーの意味が分からず、千歌は鞠莉の視線を追い、手に持ったままの球体を見る。
「これ? みゅーふぉーむ? これのことです?」
「Yes! ちゃんと覚えてよ。名前は大事なんだからァ」
要求が飲み込めてくるとともに、グリップ型の機械がまるで、寸詰まりのピストルのように見えてきた。
脅されている?
「な、なんなんですか。あいつも、私も。なんで私、こんな海泡石みたいな身体になっちゃったんです!」
「当然じゃない。アナタも≪
分からせる気のなさそうな言葉は上の空で、鞠莉の手元を注視する。
あれがピストルだとして、変身した今の状態なら、弾を避けられるだろうか。
あるいは弾を叩き落として近付ける?
自信はない。
「この街を護る身体になったのよ、私と同じくね」
鞠莉は首を斜めにして言う。言葉の重みに見合わない、軽い口調で。
「アナタもそうでしょ? ……そうね、≪Kamen Rider Wonder≫、かな」
「仮面ライダー……? これが? ≪ワンダ≫って?」
「それとも“Wander”?
それが自分を表現する単語なのだと思い至った時、鞠莉が笑いながらトリガーに添えた指に力を籠めるのが見えた。
直後、音楽が途切れた。
*
トリガーは引けなかった。
「What's!? 時間切れ!?」
耳障りな電子音とともに、ハンドガン型リーダー≪エウリュス≫を構えていた腕がロックされる。
それと同時に上半身の紫色の装甲が消失、銀一色の姿になった。
ベルトにぶら下がった五本のバッテリーが、すべて切れたのだ。
「やっぱり一五分は短いわァ……。セブ、回収して」
小原鞠莉が首元のマイクに言うと、イヤーモニターに「承知致しました」の声が届いた。
そして時間をおかず、みかん山を下る道路から黒塗りのバンが走ってきた。
「え、え、なになに?」
相対していた仮面ライダーがおろおろする前でバンが停車し、黒服を着たサングラスの男たちがゾロゾロと出てくる。
「セブ、せめてSpeakerくらいは別系統にできない? これ脱ぐまで音楽が聞けないなんて、地獄よォ?」
イヤーモニターに「善処致します」の言葉が入り、これは善処しないヤツだ、と鞠莉は口をへの字にする。
そうこうしているうちに、黒服は鞠莉の左右と後ろに回ると、鞠莉を動かなくなったスーツごと、まるで彫像を運ぶように持ち上げた。
「え、そういうレベルで止まっちゃうの? じゃなくて、ちょっと、待ってよ!」
Wonderが近付いてきたが、黒服が懐に手を入れたのを見て立ち止まった。拳銃に脅えているらしい。
「ねえ、Wonder。アナタ、名前は?」
丸太のように運ばれる鞠莉は、唯一自由な頭で仮面ライダーを見た。
仮面ライダーは思い出したように身体をペタペタと触り、やがてベルトの中心に据えられていた橙色のμ-フォームを取り出した。
水が弾けるように変身が解除し、中から小柄な少女が出てきた。浦女の制服に、二年生カラーの臙脂色のリボンをしている。
「千歌。高海千歌です」
「ああ、アナタが」
丸太のように担がれた鞠莉は納得したが、こちらを見る千歌の目は戸惑いがちだ。
背中に届く長い髪を結わいた姿に、鞠莉は二年前に別れた友人の面影を感じる。
「千歌、そのμ-フォームはもう、アナタの色に染まったわ。アナタにしか発動できないし、アナタにしか壊せない」
千歌はベルトに入っていた橙色のμ-フォームと、怪人から摘出した無色のμ-フォームを見比べた。
「なにかあったらいらっしゃい。私は浦女の理事長室、それか≪ホテルオハラ≫にいるわァ」
「行ったら教えてくれるんですか?」
千歌と名乗った少女の鋭利な表情に、鞠莉は笑った。
「『二人の囚人が鉄格子の窓から外を眺めたとさ。一人は泥を見た。一人は星を見た』」
「え?」
「アナタはどっち?」
この問いを口にするのは、いつ以来だろう。
目に見えて混乱した千歌にウィンクし、
「じゃ、続きはまた星を改めて、ね。Ciao!」
鞠莉はバンに収容され、後部ドアが閉められた。
次回予告
曜 「仮面ライダーもスクールアイドルも出てきたけど、まだ全然見えてこないよ。メルシャウムは? μ-フォームって?」
鞠莉「だからァ、私が“Meerschaum”って言ったじゃない」
千歌「果南ちゃんとダイヤさんは怖かったし。私、撃たれそうだったし。みんな仲良くしてくれないかなあ」
曜 「怪人は、そんな怖くないんだ……」
鞠莉「そんな心配も、次回、仮面ライダーメルシャウム第三話、『Shall we dance?』で解消ォ!」
曜 「違うよ! 次回、仮面ライダーメルシャウム第三話、『今考えても仕方ない』!」
鞠莉「意味深な出番しかないの、もう、ほんと勘弁してほしいわァ」
千歌「鞠莉さんが出てくると、こっちの声もオクターブ上がるよね」
曜 「敢えて低くいかなきゃ」
鞠莉「次回も見てねー! Shiny!」
C
「千歌ちゃーん!」
みかん山の坂を下りきってターンすると、海岸沿いの道に見知った人物が立っているのが見えた。
渡辺曜は自転車を全力でこぎ、そのすぐそばで急停車した。
「千歌ちゃん、あいつは!?」
髪をまとめたままの幼馴染みは答えず、曜は辺りを見回す。
千歌の足元にはかなりの広範囲に渡って水がまき散らされていた。
それだけではない、道路から波止場へ向かう空き地まで、至るところに水飛沫が飛んだ跡があった。
あの輪切り怪人は水でできていた。
つまり千歌と怪人はこの周辺で戦い、まさに千歌が立っている場所で倒したんだ。
その証拠に、千歌はあの球体を手にしているじゃないか。
「そっか、倒したんだ、千歌ちゃん……。倒したんだ!」
曜は千歌の背中を、ばん、と叩いた。
「ほら、空手やっててよかったじゃん! 私が正しかったじゃん!」
ところが千歌は、叩かれた衝撃でぐらりと揺れ、
「え?」
助ける間もなく肩から道路に倒れてしまった。
「え!? 千歌ちゃんも!? ちょっとちょっと待って! 救急車! ……あ!」
曜は電話を操作する手をとめた。
千歌の手から離れた球体が、さっきと同じように転がっていくからだ。
「ま、待って!」
幸い、球体の転がる先は海ではなくみかん山の方で、しかもアスファルトの凹みに引っかかって止まってくれた。
曜は難なく追いつき、球体に手を伸ばし――
怪人のことを思い出して、恐怖心を覚える。
また、海に飛んでいったら?
いや、アスファルトの水分で小さな天使になったら?
「そしたら、私が戦うよ」
――意を決して球体を掴み取った。
何事も起きなかった。
曜は息を吐き、救急車を呼び、学校にも連絡を入れた。
「お疲れ様、千歌ちゃん。ゆっくり休んで」
と、倒れている千歌を抱き起こして、曜の眉が寄る。
千歌の制服には、倒れる前に濡れた形跡がない。
これだけ水飛沫が飛び散っているにもかかわらず、だ。
水滴に一滴も触らず、怪人を倒したのか?
どうやって?
いや、それよりも気になるのは――
「泣いてたの?」
――濡れている千歌の睫だ。