AV
「無理無理無理無理!! 絶対無理!」
「無理じゃないよ! むっちゃんならできるよ!」
「始まる前と、曲紹介と、終わりの挨拶だけでいいから! お願い!」
むつがドアまで後ずさり、曜と千歌に脇から固められる。
「なんで私に頼むの!
「できないから言ってるんだよ!」
「放送委員のマイクパフォーマンスが見たいのであります!」
「そんなのないって!」
幼馴染みのむつが困っているのを見ても、内山いつきにはなにもできない。
≪ラブライブ!≫のエントリーが始まった五月九日。
「緊急ミーティング!!」のテキストで昼休みの部室に集まったスクールアイドル同好会の面々は、控えめに言って、窮地に立っていた。
「会場設営も必要よねェ」
「立ち見じゃないの? ライブでしょ?」
「お祖父ちゃんお祖母ちゃんが来たらどうするの?」
長机では鞠莉と善子と花丸が、体育館の利用申請書の写しを見て話をしている。小原鞠莉名義で理事長代理が提出し、いつきたち生徒会が受領した申請書だ。
「じゃあ椅子は必須として、ゲネプロ? 前に準備ね。花丸、手伝える?」
「もちろんずら――です」
「椅子はみんなに手伝ってもらいたいね」
「もういっそのこと、講堂でも作っちゃおうかしらァ」
音ノ木坂女学院のような講堂がない浦の星女学院では、イベントには体育館か校庭を利用するしかない。パイプ椅子を並べて席を作るのにも、体育館の場合は床を傷つけないようにフロアシートを敷く作業が、校庭の場合はパイプ椅子を掃除する作業が、最低でも発生する。その上に放送機材や照明の準備に、使う練習も必要になるのだから、会場設営をスキップしたいと思う鞠莉のは当然の発想だった。アプローチはおかしいが。
「大丈夫かな」
よしみが耳打ちにしてきて、サイドテールの髪がいつきの頬に触れる。
二人は部員たちの邪魔にならないよう、キャビネットの前に突っ立っていた。
「ライブが形になればいいんでしょ?」
「お客さんの数も求められるみたい」
「それ、まずくない?」
いつきたちはヒソヒソ話をやめ、体育館側の窓際に固まっている人たちの声に耳をそばだてる。
「あんまり話題になってないよう……」
「もっと派手に露出しないとダメか?」
「露出!? あ、えっと……。そうですね、≪浦の星女学院スクールアイドル同好会≫だと宣伝が難しいですよね」
「話題になってるかどうかも分かりにくいです」
鉄格子で補強された窓のそばでは、顧問の笠木信代が移動式の黒板に作業の割り振りを書き出し、ルビィと梨子がそれぞれ電話やタブレット端末を操作している。SNSなどをエゴサーチしているのだろう。
「でもでも、曜先輩のポスターは拡散されてますよ」
「でもイラスト部分ばっかり。肝心の情報が見切れちゃってる」
「お、それは誤用だぞ、桜内」
「はい?」
むつが内浦から沼津までバイクで走り回って、ポスターの掲示を依頼し始めたのが、ゴールデンウィーク頭――本番の二週間前。静岡県警に申請した駅前でのビラ配りができるのが明日以降、本番の五日前からだ。これがギリギリなのか、興味がある人に情報が行き渡るのか、渡ったとして予定を開けてきてくれるのか、いつきには想像もつかない。まして彼女らは、スクドルが飽和状態にある二〇一六年に誕生する、実績も知名度もゼロの新人なのだ。
「意外と全方位にノープランだったんだなあ」
「私たちが呼ばれるのも分かるね」
よしみの呟きに、いつきは目をしょぼしょぼと瞬かせて同意した。
五月一五日をターゲットにライブの準備を始めたのが一箇月前で、そこから詞に曲にダンスに衣装に、がむしゃらに走ってきたのはいつきも認めるところだ。だが表に見える部分に注力した余り、それ以外が疎かだったのは否めない。
ゆえに、よしみ、いつき、むつの≪よいつむトリオ≫は、千歌の「どうせ暇でしょ」の一言で、彼女らの手伝いをすべく招集されてしまったのだ。
「絶対無理! ぜぇったいむぅりぃ!」
むつが千歌と曜から脱出し、いつきたちの方に逃げてきた。トリオの二人を千歌たちに差し出すように押し出し、自分はその後ろに隠れる。
「
ずり落ちたカチューシャで髪をかきあげ、いつきたちの耳元で喚くむつを見れば、千歌も曜と片目で見合い、
「じゃあ、むっちゃんには放送関係をお願いするよ」
と妥協を受け入れることにしたようだった。
そして二人の目は、いつきとよしみに向いた。
「私、撮影する」
「いつき!? ズルい!」
「ごめんね」
舌を出す。先手必勝だ。
「平気? ダイヤさん、怒るんじゃない?」
曜が人差し指を立てて言う。その指先には、黒澤家長女のダイヤの顔が入った吹き出しが浮かんでいるのだろう。
「ちょうどいいよ。生徒会長も、『スクールアイドル同好会の、部活動への昇格を決める職員会議に必要な資料を入手してください』って言ってたし」
「ダイヤさんが? わざわざ?」
曜が首を傾げ、いつきは頷く。
職員会議で参照する動画は、おそらくそのまま、≪ラブライブ!≫エントリー時に提出するパフォーマンス動画になる。ダイヤは生徒会長として、そのクオリティをチェックしたいのだろう。
「じゃあ、MCはよっちゃんでいいの?」
「それしかない……んだよね?」
千歌の消去法に、よしみは半笑いで言う。
「でも、人前で喋るなんて経験ないよ。なんでむつはやりたくないの?」
「ちょっと、またボールこっちに来るの? 無理だって!」
背中から刺された格好になったむつは、よしみからも距離をとる。
「トリオの切り込み隊長が、今さら恥ずかしがらなくても」
「してないわよ! 切り込みなんて!」
「してたじゃん、ルビィちゃんを勧誘した時とか」
「ピギ!?」
耳聡く自分の名前を聞き取った後輩が、梨子の影に隠れた。
「とにかく、無理なものは無理だから!」
とむつが二年生の集団の間をすり抜け――
「
――鞠莉のお尻にぶつかった。
「あ、ごめんなさい!」
鞠莉のサインペンが滑り、長机で落書きしていたイラストに黒い線が走ってしまった。
「ちょっとォ、全年齢番組に相応しくないSワードが出るところだったじゃないのよォ」
「ごめんなさい! 私、もう行くから!」
むつは頭を下げながら部室のドアへ走り、
「おい、部室は走るな!」
笠木が端末から顔を上げた時には、屋外に飛び出していた。
「千歌ちゃん、あんまり無理に誘ったらダメだよ」
「さすが無理に誘われた筆頭」
「曜ちゃん!」
イタズラっぽく笑う曜に梨子が苦笑を返すが、千歌は釈然としない顔だ。
「できるはずなんだよ、むっちゃん。中学の文化祭とかでMCやってたもん」
「そうなの?」
新しい友達に問われ、曜が含み笑いで口を開く。
「そうだよ。私たちがやった人形劇じゃ、ナレーションもしてたしね」
「懐かしいなあ。よっちゃんが恥ずかしがって、台詞言えなくなっちゃったんだよね」
「そうそう、結局、考朔くんにチェンジしてね。全編アドリブみたいになっちゃって。あれは盛り上がったなあ」
「もう、忘れてよ! あのことは」
よしみが割り込み、千歌と曜とじゃれ始めた。
「松和さん、早く退院できるといいよね」
「ほんとだよ。事故に怪人に踏んだり蹴ったり――」
完全に雑談にシフトした千歌たちから離れ、いつきは一人、自分たちのことを考える。
市立静浦中学校に入学したいつきとむつは、一年次の三学期に廃校となった同校から隣町の沼津市立内浦中学校に転入した。そこで出会った内浦の子供たちと仲良くなり、その中でも強く意気投合したよしみと、三人の名前をもじって≪よいつむトリオ≫と自称するに到ったのは、一回りも小さなむつがいつきを引っ張ってくれたからだ。
そのむつが、いつ、ビラ配りもイヤがるようなキャラになったんだろう。
「私、MCやるよ」
雑談の切れ目、よしみが言った。
「ほんと!? よかったあ!」
千歌は単純に喜び、
「なんで急に?」
曜は疑問を呈した。
「一応、松月の看板娘だし? 少しは顔を売っておくのもいいかな、って」
「そっか……じゃ、よろしくね、よしみちゃん!」
曜は明るく返し、よしみも笑顔で応える。
「担当は決まったか? じゃあ、もう昼休みも半分だし、一旦解散だ。パフォーマーと衣装担当以外は放課後、またここでミーティングするぞ!」
信代が顧問らしく音頭をとり、一年生と三年生は三々五々に解散した。千歌たちは部室でお弁当を食べるらしいが、いつきとよしみはむつを探すべく部室をあとにする。
「MC、できそう?」
「平気平気。私だけなんにもしないってのも、みんなに悪いしさ」
「どっちにしても、会場設営は手伝わされそうだけどね」
「全校生徒レベルでしょ、それは!」
よしみはケラケラと笑いながら、昇降口への渡り廊下を歩く。
いつきはその少し後ろを付いていく。
むつがよしみの横にいないことを除けば、いつもの位置だ。
よしみが言った理由が体裁なのは、いつきにも分かった。だが曜はよしみの発言から、それ以上のことを読み取ったらしい。そうでなければ、あんな割り切った笑顔で了承しないだろう。
千歌と曜がスクドルを始めると言い出した時は、いつきは大いに驚いた。
だが二人は幼馴染みではないし、毎日朝から晩まで遊ぶ間柄でもなかったので、心境の変化があったのだろうと思える程度ではあったのだが。
よしみとむつは、そうではない。
A
「よし、直ったぞう!」
高海美渡は両腕を天に伸ばしたが、パーティションに区切られた個人オフィスの中に、その成果を共有できる人はいない。平静を装ってキーボードに手を戻し、インスタントメッセージでデプロイ依頼を出す。
先月の途中で異動してきたJN開発室に、美渡はまだ慣れていなかった。防音の磨りガラスから出ていける情報はネットワーク経由以外になく、仕事中には声もジェスチャーも笑顔も必要ない。そんな職場は、ホテルオハラのコンシェルジュ時代にも静岡OGIのJH開発室にもなかったからだ。
と、数秒でリソース管理システムから完了報告と、美渡が書いたコードを反映した処理実行結果が送られてきた。
コンピュータでシミュレートした風洞に、人型モデルが水平に浮かんでいる映像だ。
カウントダウンと同時に、風洞内に風が吹き込まれる。
大気の流動がアニメーションで表現され、その中を、顎を上げ、手のひらと脛から化学ロケットを噴射する人型モデルが飛んでいく。
「……ようし」
シャイニーに実装を予定している飛行機能の制御システム――≪ストローク≫、その内部結合テストだ。
テストケースの表示の変化に合わせ、横風にぶつかり、エアポケットに入り、音速を超え、様々な状況がシャイニーに課せられる。
シャイニーのモデルは、手と足の位置を調整してロケットスラスターの噴射方向をコントロールし、各所のフラップと合わせて姿勢を制御し、状況に対応していく。雲を示す印に飛び込むたびに、
ウェアラブルエアクラフトとしてのシャイニーは、小型かつ小回りが効き過ぎるため、システムからの緻密な四肢制御が不可欠と想定されていた。その実装も、このテストが過ぎれば道程半ばといったところだ。
「うん、オッケー」
美渡のコード修正前にも繰り返された巡航テストケースは、修正後も問題なくパスできた。
そして、攻撃が加わる。
「ここからだぞ」
対空ミサイルを想定した圧力変化に煽られ、シャイニーのモデルが弾かれた。
二発目、三発目の爆圧がアニメーションし、その度に手のひらと脛でスラスターが小刻みに瞬き、コンデンサに蓄えられた電力が小刻みに増減、レッドゾーンの縁を舐める。
だが、それも乗り越えた。
メインカメラで索敵する動作ののち、シャイニーは巡航状態に戻り、次のテストに移った。
「ようし……!」
前回異常終了したテストケースを超え、美渡は息をついた。
もちろん美渡は、流体力学の専門家でも航空力学の専門家でもない。誰かが設計した計算式から切り出された仕様を、仕様書に従って愚直に実装しただけだ。今回の自分の修正が具体的にどう反映されたかも、美渡自身は分かっていない。
それでも、シャイニーの全身モデルのあちこちが動き、大気を裂いて渦を生み、過酷な状況を乗り越える様を見れば、達成感を得ないわけがなかった。
その時、ノックの音がした。
磨りガラスの向こうに人のシルエットを見付け、席を立ってガラス戸を押し開ける。
「お疲れ様です。修正は終わったようですね」
来訪者は主任だった。
「はい。今、確認中ですけど」
「お食事には行かれましたか?」
「まだですけど、なんでです?」
「もう一五時ですよ」
「ウソ!」
腕時計を見て、その事実に驚いた。
「一三時半くらいだと思ってました」
「結果を確認したら、食べに出ませんか?」
「でも、こんな時間ですよ?」
「早い夕食、ということで」
上品な笑顔を浮かべる主任の提案に、美渡は渋い顔を浮かべそうになり、押しとどめた。
ボサボサだがいつもと違い脂っ気のない髪に真新しい白衣と、彼にしては珍しく身だしなみに気を遣っているのが分かり、無下に断るのも悪いと思ってしまったのだ。
と、マシンがアラートを発した。
「なんだろ」
ディスプレイがアピールしていたのは、フラップの負荷の増大を知らせるワーニングメッセージだった。
「やばい、直ってない?」
美渡が椅子に座り直した時、上背部フラップが根元から破損、
「あ」
という間に、きりもみ状態に入ったシャイニーは風洞のモデルに激突した。
「うわあ……。主任、ちょっと待っててください」
「もちろんです」
美渡は修正したばかりのコードの設計書を最新化し、単体テストコードを再生成からの再実施、そのかたわらで
テストコードはオールグリーン。設計書通りだ。
「風洞シミュレートを取り除いても、立て直すのは不可能ですね。燃料の収支が合いませんでした」
主任が自分の端末を操作しながら言った。実際に飛んでいる状態であの状況に陥ったら、間違いなく助からない、ということだ。
「背中側のフラップ、どこかと干渉してたっけ」
「直接の干渉はありません。空気抵抗も想定内のはずです」
「ですよね」
ロケットは手のひらと脛だ、余程の姿勢と挙動にならなければ背中とは干渉しない。
だがMDRのログを時系列で追っていく限り、テストの進捗に従って上背部フラップの動作効率が落ちているのは事実だ。スプレッドシートにログを転記し、上から下に、左から右に、ディスプレイを指でなぞり――
「――脛だ。脛横のフラップが先に、手のスラスターでやられてる。それをカバーしようとして背中もやられたんだ。でも、なんで?」
主任がそばにいることを意識していない口調で呟き、フラップと熱のデータを絞り込んで並べる。
「主任、センサー系のコードの閲覧権をください」
「でしたら申請を――」
「――後でしますから!」
「は、はい……。これを」
主任の端末をひったくり、身体の各所に存在する
「これだ」
定数系を眺めて、すぐに分かった。
「バグですか?」
「クロックがあってない。TATセンサーの取得がオーバーヘッドだ」
姿勢とフラップの位置を決定するための熱情報の取得が遅延し、実態とズレた熱情報による角度調整が行われた。その積み重ねが系を狂わせたのだ。
「定数のコミットは昨日の夜二〇時五三分、単体テスト用の値で本チャンのソースを上書きしたっぽい」
「猪飼さんですね」
数日前の腕部制御テストの際、左前腕を解剖学的ゼロ度を超えて動かした障害で、名前が挙がった技術者だった。
主任は美渡から端末を返してもらうと、誰かと通話を始めた。
美渡はその裏で、調べた内容をまとめてチームに周知した。名指しはしない。状況は伝わるはずだ。
「よし、ボールは投げたぞ」
独り言と同時に、お腹が鳴る。
「行きません? 食事」
「そ、そうですね……」
恥ずかしさから思わず返事をしてしまい、美渡は後悔する。
妙にこぎれいな成りの主任に“そのつもり”を感じてしまうと、元々男っ気のない二一年間ではあったが、それを求めたことも求められたこともなかった美渡は、対応に困ってしまう。
「あ、でも定数の修正なんてすぐ終わっちゃいますよ? それでまたこっちマターのエラーがあったら?」
「四つ目のμ-6型が発見されないことに、≪ストローク≫のシステムテストは始まらないのです。食事を抜いてまで急ぐ必要はありませんよ」
そして、口元を持ち上げて上品に笑う。
(うーん、まあ、メシくらいならいいか)
結局は腹をくくり、美渡はシザーケースを改造したウェストポーチを手に席を立った。
主任が押さえているドアをくぐり、廊下に出る。
「この時間までランチやってるお店って、あります?」
「市内まで出てみますか」
「わざわざ?」
「散歩がてら、ですよ」
(デートがてら、じゃない?)
そう思いながらも、地下へ向かうエレベーターが来てしまう。
美渡はそこに乗るしかない。
*
「浦の星女学院! スクールアイドル同好会でーす! 次の日曜日にライブやりまーす!」
コンビニから出てきた男性が、千歌からB5サイズのビラを受け取った。
「ありがとうございまーす! ご家族お友達お誘い合わせの上、ご来場くださーい!」
丁寧にお辞儀をして次のターゲットを探す千歌を見て、
「浦の星女学院スクールアイドル同好会、ライブのお知らせです!」
小口田よしみも可能な限り声を上げる。
静岡県警に申請したビラ配りの場所は、沼津駅の南口からバス乗場へと続くアーケードの下だった。千歌、梨子、よしみ、いつきの四人は分散し、ロータリーを行き交う人たちに向けて宣伝をしていた。
パステルカラーで描かれた千歌、曜、善子が並ぶビラは、なかなか受け取ってもらえなかった。放課後の学生にはそれなりに出ていくが、大人は学生活動であるスクドルにほとんど興味を示してくれない。少し話ができても、内浦の事情を市内で働く人たちが知っているわけがなく、まして力になる余裕もないと言われれば、ビラを渡すのも気兼ねしてしまう。
「浦の星女学院スクールアイドル同好会でーす! 廃校を阻止するため! ライブのご観覧にご協力をお願いしまーす! はい、ありがとうございます! 内浦の浦の星女学院です!」
それでも千歌は、旅館の手伝いで培ったというには街頭演説のような応対と、歌の練習で鍛えた発声とで、通りすぎる人に自分たちの所属とイベントの詳細を連呼していた。知ってくれれば受け取ってくれるかもしれないし、バス停に並んでいる人も覚えてくれるかもしれない、と思っているのだろう。
だが、手元のビラが減らなければ、気持ちも消耗してくる。
宣伝の合間に、ふと虚脱した千歌が目に入り、よしみは駆け寄った。
「千歌、どんな感じ? こっちはあんまり受け取ってもらえなくてさ」
声をかけられた千歌は、張ろうとしていた声を飲み込むように、口を閉じた。
そこに、いつきもビラ配りを抱えてやってきた。
「ちょっと休憩しない? あんまり頑張ると、喉、潰しちゃうよ」
彼女は眠そうな目でロータリーの先を指差した。そちらには彼女らがよくたむろしている喫茶店があった。
千歌はビラに目を落としたが、口の端を下げて頷いた。
「よし、じゃ――って、桜内さんは?」
歩き出したよしみは、もう一人のビラ配りメンバーが見当たらないことに気付く。
「あそこ」
いつきが指差す進行方向に、女子高生に揉みくちゃにされた梨子の姿が見えた。
「その制服、音ノ木坂のだよね!?」
「桜内さんでしょ? 聞いたよ、スクドルやるんでしょ?」
「あの、私は出ないんです。友達が歌うので、その、あの」
ビラを奪われていく梨子に、よしみといつきは視線を交わす。
「さすが都会もんよのう」
「美少女の人気は違うねえ」
「はいはーい! 私がスクールアイドルの高海千歌でーす!」
そこに千歌が走っていき、女子高生がそれに気付き、ビラを指差す千歌の演説が始まった。
千歌が元気になったのは嬉しいが、しかしあれは元々スクールアイドルに興味のあった高校生が、音ノ木坂の制服に惹かれて集まっていただけだろう。目的に沿う宣伝になるかは疑わしい。
それが一段落すると、よれよれになった梨子を連れた千歌が戻ってきて、四人は歩き出した。
「しっかし、ほんと、変な天気だね」
よしみは降りそうで降らない曇天を見上げて言う。
昨日から降っていた雨は明け方にやんだが、空は午後までずっと雲に覆われていた。ロータリーを行く人の多くが傘を手にしているのを見たよしみは、ビラを受け取る人が少なかったのはそれも大きかったのかも、と今さら思った。
「金曜からこっち、ついてないね。そのヨハネって子、ほんとに雨女なのかな」
「ほんとほんと。曜ちゃんの太陽パワーといい勝負だよ」
いつきと千歌の噂話で、淡島で特訓中の善子と曜は、今頃クシャミをしていそうだ。
「でも、また降ってきそうだよね。雨の中で練習しないといいんだけど」
梨子が口にした心配は、よしみも同感だった。雨の中で練習を頑張りすぎて身体を壊すのは、あのμ'sが犯した失敗でもあるのだ。
ロータリーを出たよしみたちは、≪NAKAMISE≫と書かれた入口をくぐってアーケードの商店街に入った。
「ごめんね、小口田さん。せっかくお店休んでまで来てくれたのに」
梨子に話しかけられ、よしみは首を振る。
「平気平気、今日は配達も少ないし」
「むっちゃんが店番代わったんだっけ? 珍しいよね。ビラ配りなんて、むっちゃんがむしろやりたがりそうなのに」
千歌が口を挟んできて、
「MCもやりたがらないし、裏方が好きになったのかもね」
と、いつきが曖昧に笑うが、よしみはそんな話を聞いたことはなかった。
「って、曜もじゃない? なんで来なかったの?」
よしみは千歌に話題を投げ返した。
「『梨子ちゃんとばっかり練習してるのはよくない』って、ヨハネちゃんが言って」
「私、四日も付きっ切りでダンスの特訓してたから――あ、あそこ? やばコーヒーって」
と、梨子が指差した。
アーケードの商店街と狭い車道の交差点に、≪やば珈琲店≫の看板が見えた。広い店内だけでなく、全面解放されたアーケード側に狭いながらテラス席も準備された、市内に遊びに来たよいつむトリオもよく利用していた喫茶店だ。
「やば珈琲? へえ、意外とお洒落なんだね」
「意外?」
「あ、ううん、あの、えっと」
「あいせー! やば! やば! やばコーヒー!」
「なに、その替え歌」
梨子に問われ、よしみは忍び笑いをする。
「最初に『Start:Dash!』を聞いたのがここでさ。なんか、クセになっちゃって」
「μ'sの歌って、替え歌にしやすいよね」
「その部分だけじゃーん」
いつきの意見に、千歌はビラの入ったビニール袋を振り回して異を唱えた。
「でも、そっか。『私たちも≪ラブライブ!≫に出る!』とか言ってよっちゃんたちが歌ってたの、基本μ'sの替え歌だったよね」
「お、よいつむトリオの黒歴史に触れる?」
「まあ、あの時はみんながみんなラブライブ!を目指して――」
と、交差点に四人が差し掛かった時、千歌が言葉を切った。
「――うわっ、千歌ちゃん?」
立ち止まった千歌の背中に梨子がぶつかり、声を上げる。
「どっちにしても、今のパラメーターだと、あの小回りが活きませんよ」
千歌の焦点はよしみを通り越し、交差した車道の先を見ていた。
よしみはその視線を追う。
「スラスターを直接浴びても平気な素材を使わないと。今より少なくとも二二五パーセント強いヤツです」
「その数値には同意です。飛行機能の実装自体が現状のスペックでは不可能だ、と実証する材料としては十分でしょう」
「不可能? え、じゃあ、あの失敗も想定内なんです?」
「猪飼さんの設定ミスは想定外ですよ」
白衣の男性とグレイのパンツスーツの女性が、そんな会話をしながらアーケード商店街に近付いてきた。
その一方の声と姿に、よしみは覚えを認める。
「千歌、あれって美渡さ――」
「――なにしてんの! 美渡姉!」
千歌が叫び、よしみたち三人はビクリと肩を揺すった。
目の前にいる高海家の次女、千歌の姉の高海美渡もそうだった。
*
「ち、千歌!?」
「忙しくないじゃん! 朝帰りじゃん!」
「いや、違うって!」
「昨日の服のまんまじゃん!」
自分の服を見下ろし、千歌に戻した視線は、明らかに狼狽している。
「あなた! いつから!?」
美渡と一緒に立ち止まった三〇代らしい男性が、驚いたように目を開いた。
「僕? なにがです?」
「いつから美渡姉と付き合ってるの!」
「付き合ってないわよ!」
「じゃあ昨日なんで帰ってこなかったの!」
「仕事が忙しいって言ったでしょ!」
「ウソ! こんな時間に出歩いて!」
「お昼だよ!」
「おやつじゃん!」
大して広くない交差点で、千歌と美渡がツカツカと歩み寄り、一メートルの距離で言葉の撃ち合いを始めた。
弾かれた女子高生三人と男性一人は、なんとなく合流する。
「なんか、ごめんなさい」
「こちらこそ、ですね」
小口田よしみが声をかけると、男性は目を合せずに答えた。スウェットの上下に重ねた白衣は綺麗だが、あまり身だしなみに気を遣っているようにはみえない人だ。髪もボサボサで、男女関係以前に美渡がお近付きになるタイプとは思えない。
と、千歌たちに視線を向けながら通りすぎる人の流れに、真っ黒いセダンが車道を走り込んできた。スモーク処理されたガラスで、明らかにそっちの道の方々のクルマだと分かる。
車道の真ん中で口論していた千歌と美渡は一時休戦すると、千歌が珈琲店側に、美渡が駅側に分かれて車道から離れる。
ところがクルマは二人の間に停車し、降りてきた黒い服を着た男性に千歌が囲まれてしまった。
「え、え、なに、私?」
「高海千歌さんですね」
「は、はい!」
「津島善子様がお待ちです」
その言葉で、千歌は首を傾げる。
「ヨハネちゃんが? なんでです?」
「理由は存じません」
よしみがいつきを見ると、彼女も不安そうな顔でこちらを見ている。
「黒総警ですか」
男性が呟いた。よしみが見上げると、彼はセダンのフロントグリルを指差した。そこにある四つ葉のカタバミは、黒澤家の家紋だ。
「いらしていただけますか」
千歌はこちらを一度見ると、口を結んだビニール袋を美渡に投げた。
「あとでちゃんと説明してもらうからね! お母さんにもだよ!」
「なによこれ! あ、千歌! バカチカ!」
美渡がビニール袋を見ている間に、千歌は黒塗りのクルマに乗り、アーケードを走り去ってしまった。
「はあ……? ちょっと、なんなのよ」
ビニール袋の口を解いた美渡が、据わった目でよしみたちの方を見た。
「もしかして、私にビラ配りを手伝えっての? こんないっぱい?」
「ち、ちち、違います違います!」
交差点を渡ってきた美渡にいつきが駆け寄り、袋を受け取った。梨子は不思議そうな顔をしているが、内浦を生きたものなら、美渡と対等に渡り合えるのは千歌だけだと理解しているのだ。
「ったく……主任、行きましょう」
「では、僕らはこれで――」
「――あの」
と、梨子が袋からビラを出して、美渡と、主任と呼ばれた男性に手渡した。
「よかったら、これ、もらってください」
「スクールアイドル? ですか? あなたが?」
男性は梨子の顔と、ビラに描かれた三人と見比べている。
「私たちじゃないです、千歌ちゃ――美渡さんの妹さんと、その友達です」
よしみが横から訂正すると、
「ああ、そうでしたか」
男性は安心したように、頬を緩めて息を吐いた。
「日曜日が本番ですので、ぜひ、浦の星女学院に来てほしいんです。美渡さんも一緒に」
と梨子はビラを胸に訴えるが、
「せっかくのお誘いですが、僕らは難しいと思います。ゴールデンウィークも出社していたくらいですから」
自分の年齢の半分ほどの女子高生に、男性は上品な笑顔と丁寧な口調で謝辞を告げた。
「そ、そうですか、ごめんなさい」
「でも……そうですね、社内には検討する人もいるかもしれません。もう少しいただけますか?」
「いいんですか!?」
「もちろんです。浦の星女学院は、廃校かどうかの瀬戸際ですからね」
差し出された救いの手に、梨子が一五枚ほどのビラを渡す。
「よく知ってますね。ビラをもらってくれた人だって、浦女の名前も知らない人ばっかりだったのに」
よしみが言うと、男性は口元で小さく笑う。
「僕にとっても、あそこは大切な場所ですから」
沼津市内でビラを配っても意味はないのではないか、一〇キロも離れた片田舎の状況を誰が気にするのか、とビラ配り初日で思い始めていたよしみには、男性の言葉は一縷の希望だった。
服装と髪は雑で、美渡が好きになるタイプではなさそうだが、いい人のようだ、とよしみは男性の第一印象を上方修正した。
「では、僕らはこれで」
男性は同じ台詞を繰り返し――
「あ、高海さん!? どちらに!」
――来た道を引き返す美渡に声を上げ、追いかけていってしまった。
「……あの人たち、やば珈琲に来たんじゃないの?」
「戻ってくるかな。ねえ、他にドトールとかない?」
「あるけど……」
いつきと梨子が喋る横で、よしみは美渡の後ろ姿を見ている。
千歌の姉は、ビラを目にしてから一つも言葉を発しなかった。