仮面ライダーメルシャウム   作:fuki

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第一一話:失敗する予感は - 2

   *

 

「鞠莉先輩、次はこれです。予算的にもう生地は買えないので、慎重にお願いします」

「分かってるってェ」

 待ち針で固定された型紙に沿って、小原鞠莉はチャコペンで生地に線を描く。だが力の入れ具合が安定せず、線が濃くなったり薄くなったりする。

「あ、あ、また、もっと滑らかに――」

「――ペンを寝かせるんでしょォ?」

「は、はい……」

 髪をツーサイドアップにした後輩が首を縮込ませ、視界の隅で黒澤総合警備保障のボディガードが軽く肩をすくめる。

 鞠莉は聞かれないように細く息を吐いて、気を静めた。

「マリーに手伝わせるのが、そもそもMistakeなのでェス」

「そ、それはそうですけど……」

 白い生地を走る紫色のチャコペンは、何日経っても鞠莉の手に馴染まない。

 善子がダンスと体力作りに集中したために、衣装制作の現場は津島家宅から小原家宅へと移った。

 リビングの脇には曜と千歌の衣装を着たトルソーが並び、ソファに沿ったローテーブルには、善子が設計した型紙のプリントアウトが広げられている。鞠莉は三着目、善子用の衣装を作るべく、背中側の部品となるらしい線を布に書いているのだが。

(はあァ……やっぱり向いてないわァ……)

 窓際の丸テーブルに目を向けると、三脚並んだ椅子の背もたれの向こうに、作業途中の布の山が見えた。一件作業が進んでいるように見えるが、既製品のミドルブーツとワンポイントのアンクレットとグローブで進捗が底上げされているだけで、ここ五日間で鞠莉が形にしたのはサイハイソックスだけだ。あとはまだ“切り刻まれた布”でしかない。

(ほんとに終わるのォ? こんなPaceで)

 そんな布に仲間入りする切片の絵を、やっと生地に描き終えた時、

「あれー? まだ廊下じゃん」

 開け放たれたドアから声がした。

「エレベーター出たらそこがそう、ってボーイさん言ってなかった?」

「そうなんだよ、曜ちゃん。これ、スイートルームってヤツだよ」

「ねえ、そこのリトルデーモン。この城の主まで案内してちょうだい」

「え? あ、そっち? おーい、理事長!」

 ドヤドヤ、と声が近付いてきて、鞠莉は肩の力を抜いた。

「ダ・イ・リ! こっちよォ!」

 リビングに入ってきたのは、我らが浦の星女学院スクールアイドル同好会のパフォーマー、善子、千歌、曜だった。

「うわあ、こんなところに住んでたんですか!? 鞠莉先輩!」

 曜が窓際に駆け寄りながら言う。

「そォ! Welcome to ≪Presidential Suite≫!」

 小原家宅――正確には、淡島の北岸に位置する、≪OGIホテル&リゾーツ≫が所有する七階建ての高級ホテル≪ホテルオハラ≫、その屋上に建てられたペントハウス・スイートだ。

 淡島の北を頂点に、東のサンライズウィング、西のサンセットウィングの二棟で構成されたホテルオハラの、ちょうど中央に位置するこのスイートは、全室スイートルームであるホテルオハラの中でも最高級の≪プレジデンシャル・スイート≫として、一九九一年の開業以来いわゆる“各界の大物”が使用してきた。そのスイートを、二〇一四年の四月に内浦にやってきたOGIグループCEOのジョルジョ・ルカーニアが、浦の星女学院への入学を希望する鞠莉のために“自宅”としたのだ。

 つまり現在は名実ともに、≪OGIグループ社長の(プレジデンシャル)スイート≫といえる。

「一室貸し切ってるって噂は聞いてたけど、一番いい部屋なんて」

 曜は北向きの窓から外を眺めた。駿河湾と沼津市内と富士山がいっぺんに望める最高のオーシャンビューだが、今日は残念ながら灰色の空しか見えない。

 千歌は同じ旅館業だからか、壁に掛けられたテレビのサイズを指で測ったり、調度品や壁などを見て回ったりしている。

「一泊いくらくらいするんです?」

 曜が窓に手をぺったり当てながら言った。

「四桁は下らないわね」

「え? 数千円?」

Dollar(USドル)で、よ」

「ドッ……!?」

 窓の指紋を隠すようにこちらを向いた曜を見て、鞠莉はにんまり笑う。

「これ、シルクですね」

 床に這いつくばった千歌が、部屋に敷かれている絨毯に触っている。毛足の長い艶やかなパイル織りのそれは、部屋のサイズに合わせて織ってもらった特注品だ。発注から納入まで二年かかった、父もお気に入りの一品だった。

「こ、これも高いんです?」

「二〇万ドルはしなかったはずだけど」

「二〇〇〇万!?」

「そんな驚くこと? ここを三年間貸し切るのに、Two Million Dollars(二〇〇万USドル)くらいかかってるのよォ?」

「ダメだよ千歌ちゃん! ここ、私たちがいちゃいけないところだよ!」

 絨毯の上で爪先立ちになった曜が、ゾンビのように手を上げて千歌の方へ戻っていく。

「安い方じゃない? 我らが≪主神ゼウス≫のおわす天上の楽園なんだから」

 善子に気にする様子はない。

 堕天使後輩の言う通り、三年間で二〇〇万ドルは破格だ。小原家による淡島リゾート化計画により開業したホテルオハラは、バブル崩壊で経営難に陥ったところをルカーニア一族の海外資本で立て直された格好だったが、その業績も二〇一一年の一件で沼津から人が離れたことで陰りが見え始めていた。CEOの娘がここに住んでいることと、ホテルオハラの価値を再定義しようとする力の関係は、沼津の御家問題を囓った人間なら常識であり、元黒澤分家の善子が知っていてもおかしくはない。

 その善子は、羽織っていたウィンドブレイカーを脱いだ。鞠莉が三人のパーソナルカラーに合わせて手配させた、時計を射貫く矢のロゴが入ったOGI製だ。彼女は湿ったそれを、視線も向けずにルビィのボディガードに手渡した。

「降ってきたの?」

「パラパラね。門限で帰ってたら、ルビィも降られてたわよ」

「平気だよ、今日もヘリで送ってもらうんだ」

 ルビィの門限は、鞠莉が小原家経由で交渉したことで、門限を延長してもらい、午後七時になっていた。

「曜もそれ、脱いでね。絨毯にカビが生えちゃうわァ」

 曜はいそいそとウィンドブレイカーを脱ぎ、黒服に恐縮して渡した。女王様のような態度の善子とは対照的だ。

 千歌は制服姿だった。淡島で特訓していた善子と曜と違い、千歌は駅前のビラ配りだったと聞いている。

「千歌先輩、こっちきて。カワズ、衣装の準備」

「承知致しました」

 善子の指示で、ルビィのボディガードの一人がトルソーに近寄り、橙色の衣装を脱がせていく。

「え、今着るの?」

「ほら、これ着たら呼んで。早く。鞠莉先輩、使っていい部屋ある?」

「廊下の向かいにツインの寝室があるわ」

「じゃ、サクッとお願いね」

 千歌はペチワンピを押し付けられ、あれよあれよと部屋を出て行った。

 善子に仕切られるのは面白くないが、鞠莉にも余裕はない。

Here(ほら)、これでどう? ルビィ」

 テーブルに広げたままの生地をルビィに示す。

 ルビィは待ち針でとめた型紙の端をそっとめくっていき、

「問題ないです」

 と上目遣いで頷いた。

「じゃあ、次は切るわよォ」

「鞠莉先輩、もう予算が――」

「――何回目よォ! もォ! セブ、Light!」

「どうぞ」

 鞠莉の八つ当たりに近い言葉に、セブがデスクライトを動かす。

 テーブルランプや壁の間接照明が投げる穏やかな光では、手作業をするには仄暗く、生地に残る薄いチャコペンの紫色は目をこらさなければ見えない。燕尾の黒服を着た専属ボディガードがライトを傾ける姿に、ティーポットで紅茶を注ぐ執事を連想しながら、鞠莉は裁ちばさみを繰る。

 すりすりすり、と滑らかな感触ののち、切れた布の端が手の甲に垂れ下がった。

 汗のかいた手で布をつまみ、捩れた切断線を戻す。

 可能な限りいい道具を用意させたものの、自分の技術までは改善できない。だから一挙手一投足の判定を、すぐそばで鞠莉の動向を見守っている、ルビィの大きな目に任せるしかないのだが。

(やりにくいったらないわァ)

 自分の行動の正誤をつぶさにチェックされるなど、鞠莉の人生にはそう多くなかった。しかも、こんな目前で。

 しばらくの間、そうして神経をすり減らせて。

「ど、どうかな」

 声に顔を上げた鞠莉は、

What the(なん)……」

 裁ちばさみを落としそうになった。

 スタンドライトのLEDに照らされて立つ、橙色の衣装を着た千歌を見たからだ。

「すごい!」

 ルビィがソファから立ち上がり、千歌に駆け寄った。

「やっぱりリボンはここがいいよね!」

 ルビィは腰の後ろについたリボンと、そのギリギリまで届く千歌の長い髪に触ってはしゃいでいる。

「曜先輩! 曜先輩も着ましょう!」

 窓際のテーブルに腰かけた曜は、千歌を見たまま、口をぽかんと開けていた。

「曜ちゃん!」

「あ、私?」

 千歌の言葉で、曜は何度かまばたきを繰り返した。

「そうね、並んだところでチェックしてみよっか」

 善子も同意した。

「でも私、汗だくだよ?」

「どっちにしたって洗濯するわよ。ゲネプロは明々後日(しあさって)なんだし。カンタン、マスカミ、ちょっと」

 善子は黒服たちに落ち着いた口調で指示すると、千歌の衣装をいじくり回しては、タブレット端末にスタイラスを走らせる。

「千歌ちゃん、ツイン? の寝室ってどこ?」

「そのドアの向こうのダイニングの正面のドアの向こうの廊下の左斜め前のドアの中だよ!」

「ドア多すぎない?」

 曜は居間を後にした。

「胸回りがきつそうね。寸法ミスったかな」

「うひゃあ! 揉んだ! 思いっきり揉んだよヨハネちゃん!」

 後ろから善子に胸を揉みしだかれ、千歌が悶えている。

「ん? これって……。ルビィ、ねえ、これ」

「あ、千歌先輩! ちゃんと言ってくださいよ!」

「ちょっと、ルビィちゃんまで! 揉む必要ないじゃん!」

 衣装を着ているからか、千歌は胸を揉んでくる二人を無造作にふりほどけないようだ。

「これ、誤差の範囲だと思う?」

「終われば、たぶん。千歌先輩、本番は平気なんですか?」

「平気、平気だから! 土曜日にまたチェックしてよう!」

「マスカミ、一応記録して」

「承知致しました」

「ちょっと、ルビィ! こっち見ててよォ」

「あ、ご、ごめんなさい!」

 鞠莉の猫なで声に、千歌の胸を揉んでいたルビィがソファまで戻ってきた。

 後輩たちのわちゃわちゃを見ていたいのは山々だが、鞠莉にも作業がある。

「ルビィ、こっちは微調整のデータ集めちゃうから、理事長を頼むわよ」

「うん、任せて!」

 「ダ・イ・リ!」と指摘する余裕は、鞠莉にはなかった。

 千歌の衣装は、ゴールデンウィークのラズリ・フォーメアのドタバタが終わってからの五日間で、体力作りと梨子のダンス特訓と並行して善子一人で制作されたそうだ。それに比べて、同じだけの日数をかけた自分はどうだ。灰色の布を大量生産しただけだ。

 いや、分かっている。目の下をくまで落ち窪ませて、堕天使キャラを作る余裕もない善子は、曜用の一着を作った経験に睡眠不足を上乗せして作業したのだ。ずぶの素人ゆえに、門限のあるルビィの監修下でしか作業できない鞠莉とは、比較にならない。それは分かっている。

 だが、こうも目の前に出されては、焦らずにいられるわけがない。

 ややあって、

「いやあ、やっぱ、やばいかな……」

 水色の衣装を着た曜が、寝室から出てきた。

「おお、いいじゃん!」

 善子に捕われたままの千歌が、曜に称賛を送る。

「でも、うーん、こんな腕と脚が出るんだよね。似合わなくない?」

 曜は心細そうに上腕を撫でると、両腕を背中に隠してモジモジし始めた。それでもノースリーブの袖から出た筋肉質の肩や、薄い生地のソックスに覆われた筋張った腿は隠せない。

「そんなことないよ! 私が思った通りの曜ちゃんだよ!」

「そ、そうかな……」

「オレンジと青で、相性バッチリですよ!」

「それは、そうだけど」

「この前ウチで着てたのに、なにを今さら」

「あの時は衣装にビックリしちゃって」

 千歌と善子とルビィは各々曜に声をかけるが、曜の顔は晴れない。体型に関するコンプレックスは、感じたことのない人には意識できないものだ。

「休憩します?」

「ん?」

 ルビィが鞠莉の手元を見ているのを見て、作業がとまっていたことに気付いた。

「ごめんなさい、急がせてばっかりで」

「平気よ、『Time flies』って言うしね」

 ルビィは少し考えて、小さく手を叩いた。

「『光陰矢の如し』」

 鞠莉は口の端を持ち上げる。

 OGIグループである父――ジョルジョ・ルカーニアの座右の銘口癖であり、OGIのロゴマークでもある格言。

「ミシンくらい買ってもいいじゃない。まったく、Moneyの力を使えないマリーなんて、手足を縛られてるようなもんよォ」

「ほんとはルビィがやらなきゃいけないのに」

「いいわよ。金がなかったり、どこを縛られてたり、技術がないとしても、なにもやらないことの言い訳にはならないのでェス」

 ルビィはしゅんとしてしまうが、鞠莉には人の心配をしている余裕はない。

 千歌と曜は並んで振り付けを試し、善子がそのたびに衣装の状態をチェックしている。あの衣装の出来がどれだけよくても、善子が着るべき灰色の衣装が完成しなければ意味がない。パフォーマーが三人なのは、もう発表されているのだから。

 ルビィを指でつつき、裁断を再開する。

(私にこんな手伝いをさせるなんて、なんて子たちなのかしらァ……)

 同好会設立に足る五人を満たすために形だけで書いた名前が、とんだ展開になってしまった。

 理事長代理に就任したからには、スクールアイドルと交わる機会なんてもうないと思っていたのに。

(もっと暇な生徒に頼みなさいよねェ、まったくもォ)

 

   *

 

「ごめん、ずいぶん時間かかっちゃった」

「ううん、大助かりだよ!」

 教室にきた千歌に駆け寄り、井藤むつは紙袋を返した。

「目に付いたお店は全部かな」

 むつは先週の一週間、松月のアルバイトもせず、友達とお店で喋りもせず、スクーターで内浦から沼津まで走り回っていた。それもこれも、グループ名も決まっていない千歌たちスクールアイドルのポスターを、各地のお店に掲示してもらうためだった。

 ターゲットは、コンビニ、駄菓子屋、本屋、旅館、美容室、などなど。顔見知りの店が多いはいえ、最初は訝しげな顔をされたが、元吹奏楽部顧問の笠木先生の名前出すと、あっさり許可してくれた。定期演奏会のポスター掲示の実績が役に立った格好だが、逆にいえば、その信頼をスクールアイドル活動で裏切るリスクを負った、ということでもある。

(学校の名前を冠するわけだしね)

 これが自分たち≪よいつむトリオ≫だったら、と考えると動悸が激しくなる。実際、自分が出演者だと勘違いされるたびに、カチューシャで出したおでこがテカるほどイヤな汗が出たのだ。スクドルを始めなくてよかった。

「あ、それ見たよ、市内で」

 教室の後ろで話していたクラスメイトが、A3のポスターを手にした千歌に話しかけた。

「ほんとにやるんだ。千歌ちゃんってそういうキャラだったの?」

「キャラじゃないけど、やるんだよ!」

「次の日曜日だよね、行けたら行くよ」

「行けたらじゃダメ! 絶対来て!」

「行けたら!」

 席に着いたむつは、すぐ前の席に座っているよしみの背中を叩いた。

「おはよ、よしみ」

「ん、うん」

 ぼんやりしている反応だ。

「どしたの?」

「うん」

 むつは首を傾げながらも後ろを振り返ると、ポスターを手にした千歌も、浮かない顔をしている。

「来てくれるかなあ」

 橙色、水色、白色の三色に塗り分けられた背景に、ポップな絵柄の人物が三人描かれたポスターだ。ポスターカラーの平面的なタッチで塗られた三頭身のデフォルメ絵だが、それが千歌と曜、そしてヨハネと呼ばれる一年生なのは、むつも見ただけで分かった。

 日時:2016/5/15(日)

 開場:午後4時半

 開演:午後5時

 場所:私立浦の星女学院高校体育館

 そんな情報が曜の元気な手書きの文字で、しかし手触りからして高そうな半光沢の紙に並んでいる様を見ていると、

(ほんとにやるんだ……)

 部外者のむつも不安になってくる。

「おはヨーソロー!」

 その曜が、大声を上げて教室に入ってきた。

「お、ポスター。ありがとね、むっちゃん」

「うん、他になんか、やることある?」

「ビラ配りはしたくないでしょ?」

「うん、ごめんけど」

「なら、あとは私たちが頑張るだけ!」

 曜は席について、単語カードをペラペラとめくりながら言った。

 千歌はまだ、心配そうな顔でポスターを眺めている。

「むっちゃん、まだやれることあるかな」

 むつが曜に問うたのが耳に入っていなかったように、千歌はむつに聞いてきた。いつも明るい千歌と言えど、本番が近くなればセンシティブにもなろうものか。

「練習以外だと……自分で宣伝する? 動画のアップとかしてないでしょ」

「ちょいちょい上げてるよ」

「わちゃわちゃしてるヤツじゃなくて、宣伝用の」

「『来てくださーい!』みたいな?」

「そう!」

「私たちが? それって宣伝になる?」

 曜が首を傾げた。

「いやいやいや、曜たちがメインコンテンツなんでしょ? それで客を呼べなかったら誰も来ないよ」

「んんん……?」

 千歌も唸り声を上げ始める。

 長年付き合ってきた自分の身体で客を呼べと言われても、ピンとこないかもしれない。だがアイドルとなれば、パフォーマンスをする本人の露出こそが最大のアピールで、その自覚のためにも動画コンテンツは必要だ。

 ただし、下手を打てば、内輪向けやナルシシズムの逆効果で終わってしまう可能性もある。その点で、傾げた頭を机に着陸させた曜と、唸り声のロングトーンに挑戦する千歌には、自意識と適切な距離感があるとは言いがたい。

「ヨハネちゃんは?」

 だから、むつはもう一人の名前を挙げた。

「あの子って、あの子でしょ? 何年か前からネットでなにか生放送してた、≪堕天使ヨハネ≫でしょ?」

「そうなの?」

「そうだよ」

 千歌は初耳のようだが、曜は知っていた。

「あの子だったら、PVの上手い作り方とか、知ってるんじゃない?」

 もしくは、大事故の起こし方とか。

「PVか……」

 千歌は少し考える素振りを見せ、頷いた。

「よし、今日は練習中止! PV撮影で露出アップ作戦だよ!」

「露出!?」

 登校してきた梨子がギクリと肩を揺らした。

「おはヨソロ。どうしたの?」

「いや、だって、露出って」

 梨子はそわそわと視線を逸らしながら隣の席に着いた。

「そっかあ。梨子ちゃんも一緒にやりたいんだ」

 斜め後ろから千歌に言われ、梨子の肩が跳ねた。

「や、やりたくないってば! だ、だいたいこの前からみんな――」

「――ちょっとちょっと、PVに出るのは基本、出演者だけだよ?」

「PV?」

「あと四日しかないんだから、ちゃんと計画立てて宣伝しなきゃ」

「宣伝?」

 梨子が目をパチクリさせて、千歌が顔を背けて舌打ちをしている。なにを考えていたんだ?

 そこで本鈴が鳴った。ガタガタと生徒が席に着き、むつも一限の準備に取りかかる。

「でもさ、だったらますますグループ名がいるよね。『浦の星女学院スクールアイドル同好会です!』とか言うの?」

 千歌はまだ、机にポスターを出していた。グループ名は空白のままだ。彼女たちはそれを決めかねているのだ。

「まあパンチには欠けるけど――」

「――間に合った!」

 いつきが教室に駆け込んできた。

「おはよ、いつき。珍しいじゃん、こんなギリギリ」

 普段は眠そうな目を珍しく大きく開き、いつきは席に着いた。

 先生が入ってきて教室が授業モードに切り替わる中、

「なんかあったの?」

 曜が手を伸ばしていつきの肩を叩いた。

 いつきは首の周りの汗を拭きながら肩越しに振り返ると、眉間にしわを寄せた。

「生徒会長と果南さんが、大変だったのよ」

「え、ケンカ?」

「どうなのかな、結構深刻そうだったけど。だから私の作業、全然進まなくて」

「なんの話で?」

 むつの後ろで千歌が無声音を発した。

「分かんない。私がいたからだと思うけど、なんか、海がどうとか、よく分からなくて――」

「――いっちゃん!」

 曜が顎で教室の前を示した。

 右腕をアームホルダーで吊った矢野先生が、ニコニコして千歌たちの集団を見ていた。

「話は終わったか?」

 一五人しかいないクラスなのだから、数人のごそごそが目立つのは当然だ。千歌、曜、いつきがわざとらしく化学の教科書を開き、話していなかったむつも、ふんわりと投げかけられる先生の視線で額が汗ばんでくる。

(PVかあ……)

 撮影となれば、ビラ配り以上に人目につくかもしれない。

 言い出しっぺのむつは、協力しないといけないのかもしれない。

(適任者きてくれないかなあ……)

 名前を貸しただけ状態になっている先輩にも、そろそろ表舞台に出てきてほしいものだが。

 

   *

 

「会合には出ませんの? 果南さん」

 高いポニーテールが揺れ、だが相手が振り向かないのを見て、黒澤ダイヤは鼻から息を漏らす。

「日曜のライブ、今が正念場でしょう」

「あの子たちにとっての、ね」

 果南は防水バッグから出した靴を履き、西日の差す昇降口を出ていく。

「待ってください!」

 ダイヤは自分の下駄箱に向かうか迷った末、上履きのまま昇降口を出た。

 果南は律儀に待っていた。春の装いを捨て去った、緑の茂る桜を眺めながら。

「協力する気はないのですか?」

「練習場所を提供したよ。お寺の上と、ウチの前」

「一人でも多くの手が必要な状況ですのよ」

「なんであんたが手伝わせようとするわけ? あの子たちを拒絶したクセに」

 果南は正門脇の駐輪場へと歩き始め、ダイヤもそれを追う。今朝海水をくぐってきたらしき藍色のスポーツウェアは、春の陽気では乾ききっていない。

「手伝ってほしいとは言っていませんわ。同好会に参加したあなたが、浦の星女学院の生徒として恥ずかしくない行動をしているか、評価しているのです」

「知ってる? そういうのツンデレっていうんだよ」

「建前というのです」

 ダイヤは眉根を寄せたが、果南の口の端はかすかに上がった。

 駐輪場に辿り着いた。幅二〇メートルばかりのスペースには、自転車一台、原動機付き自転車五台が施錠されて立っているだけだ。岬の丘の上にある高校で、生徒と教師を含めてこれは寂しい入りだ。

 果南は屋根を支える細い鉄柱に触れる。そしてこちらを見た。

「『わたくしは夢を語れませんの』」

「な」

「『でも、あなた方の夢を叶えることはできますわ』」

「な、なにを言っているのです! 果南さん!」

 完全な不意打ちだ。

「ん、『語れませんわ』、『できますの』だったっけ?」

「果南さん!!」

「お返しだよ、朝のね」

 顔が赤くなるのを意識する。

「お互い、記憶力はいい方ですわね」

「まだ二年だしね」

 果南は、剥げたペンキから錆びの覗く鉄柱を一周する。

 スポーツシューズが踏んでいるのは、三拍子のボックスステップ。

 手を取りたい、とダイヤは思う。

 だが今の果南のお相手は、物言わぬ四角柱だ。

「分かってる。この海はもう、私たちのものじゃない。明け渡す時が来たんだって。でもね……」

 果南の歩調がリタルダンドしていき、やがてとまる。

「アレが背負ってるのは、私たちの願い。私たちの夢。私はそれを、誰かに背負ってほしくない」

「果南さん……」

 果南は足を止め、柱に触れていた手をはたいた。そして高く結んだ髪を競技用のヘルメットに押し込み、グローブをつけると、やはり競技用の自転車を日向に押してきた。

「鞠莉さんとは、お話しましたの?」

 すぐにダイヤは、口を滑らせたと気付いた。

 果南の顔が瞬時に無表情になったからだ。

「言ったはずよ。したいようにするって」

 そして自転車にまたがると、手を広げてみせることもなく、校門へと走り去ってしまう。

「待ってください!」

 先ほどと同じ言葉を繰り返し、ダイヤは上履きのまま校門を出る。

 今度は、果南は待たなかった。

「あなた方の夢は! 高海さんたちの夢と同じはずですわ!」

 見慣れた背中はすぐに小さくなり、緩やかにカーブする道の向こうに消えていった。

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