仮面ライダーメルシャウム   作:fuki

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第一一話:失敗する予感は - 4

   *

 

 トライウェア姿の松浦果南は、海水に濡れたお尻をサドルに押し付け、ヘルメットを被り、ふと、その手を止めた。

 淡島への港に併設された駐車場、その脇に立てられたあわしまマリンパークのイベント告知看板に、パステル調のカラフルなポスターが見えたからだ。

 松浦果南は目を細めると、ロードバイクのペダルに力を籠めた。

「今日は星が見られそうだね」

 久々に文句のない晴天だ。早く髪で日光を浴びたい。

 内浦湾の漁船が届けるエンジン音とガソリン臭の中、果南は車道を走る。

 対向車線をクルマが通る度に、手のひらで挨拶。

 朝の通学時間、沼津市内からこちらに向かうクルマはまずいない。左車線は果南のレーンだ。

 いつもの海に、いつもの道。

 変わりはない。

 と、駄菓子屋の表に、またあのポスターが見えた。

 もう少し先にあるコンビニにも、その先にある老舗旅館にも、さらに先にある水族館にも、同じように貼ってあるだろう。先週から目に留まるようになり、祖父やその友人の話では沼津の方にも広がっているらしい。

 スピードを落とさなくても読めるし、読まなくても分かる。

 ≪浦の星女学院スクールアイドル同好会≫の、ファーストライブのお知らせ。

 この海にはなかったもの。

「おはヨーソロー!」

 後ろから聞こえた声に、果南はクランクを回すスピードを緩めた。

「や」

 果南が開いた右手を向けた相手は、スクールアイドル同好会の“水色”――曜だ。

 走るための形をしたロードバイクの果南に、軽快車のギアを目一杯重くして併走してくる。

「今日はゆっくりじゃん、果南ちゃん」

「探しものしててね」

「また“お化け”とか言わないでよ」

「懐かしいね、それ。それよりさ――」

 果南はクランクをとめ、曜が楽に会話できるスピードまで落とす。ラチェットが立てる滑らかな音が、背筋に気持ちいい。

「――グループ名、どうなったの?」

「うーん、みんなパフォーマンスに夢中で、棚上げ!」

「よくないねえ」

「果南ちゃんだけだよ、案、出してないの」

「私は補欠だから」

「理由になってなーい!」

 曜は不平を表明したが、顔は笑っていた。

 果南も唇の橋を持ち上げ、ペダルの重さと太腿の筋肉の収縮に意識を向ける。

(ここまで来るとはね)

 幼馴染みの満足げな顔に、果南は複雑な気持ちになる。

 ダンスの練習にテラス窓の外壁を使わせてほしい、と梨子と善子に頼まれた時、果南は渋った。閑古鳥の鳴いている内浦の、閑古鳥も寄り付かない淡島の、シーズンオフのダイビングショップの、さらに外側とはいえ、あそこは父の忘れ形見だ。本来の使い方以外をさせるのは、いい気分ではなかった。しかも練習の主目的が善子の特訓とあれば、また逃げ出すのではないかと心配するのは当然だろう。

 ところがゴールデンウィーク明けの金曜日から始まった練習は、水曜日まで六日連続で続いていた。初日こそ、淡島の散歩道を走ったり、山頂の淡島神社までの参道を往復したりと身体作りで始まったが、週末に梨子によるマンツーマンでのダンス特訓にシフトしてからは、二〇時越えが当たり前になってしまった。

 ダイビング客を乗せることも減ってしまったジュール丸は、連日彼女らを乗せて本土まで往復している。『ロープウェイが終わっても船は出せるよ』と安請け合いした、先週の自分を呪いたい。いや、善子の上達と根性を思えば、祝うべきか?

 いずれにせよ、千歌が主体となったスクールアイドル同好会は、三段跳びの最初の“ホップ”に到達しつつある。果南個人の評価がどうあれ、それを認めるのにやぶさかではない。

 だが“ステップ”が一番の難関なのだ。

 そこでつまづけば、すべてが崩壊する。

(予断は許されないか)

 しばらく黙ってペダルをこぎ、トンネルを抜け、海岸通りに出る。

 そこで正面を走るバスを見付け、その後部座席に見覚えのある長い髪を見付けた。

「千歌ちゃんだ」

 曜は立ち漕ぎになって果南の前に出る。

 一列縦隊になった二人は左側を空けたバスの横を通り、千歌に手を振って追い越した。

 そのまま長井崎岬への道の手前まで走ると、自転車をとめる。曜は派手に後輪をスライドさせて、果南は緩やかにブレーキをかけて。

「今日はあっちの練習?」

「うん、飛び込んでないとなまっちゃうからね」

 とろとろとバスが近付いてくる。沼津市内からやってきた車体は、朝日を反射して、この街には似つかわしくない輝きを放っている。

「千歌が言ってたよね。『今度は資質のない人が頑張る番だ』って」

 果南が言うと、曜は片眉を上げて記憶を探る素振りをした。

「ダイヤさんに? 言ってたね」

「本当に資質がないと思ってる? 自分たちに」

「まさか。あるよ、千歌ちゃんとヨハネさんは」

「曜は?」

「ないでしょ」

 あっけらかんとした口調は、長年親しんだ曜を思わせる。

「だから仮面ライダーになりたいわけ?」

 髪を乱して向けられた目は、果南が初めて見る目だ。

 見開き、驚いている目。

 同時に、果南を探る目。

 μ-フォームを盗んだことがバレて焦っている目――

(――じゃないね)

 果南が≪仮面ライダー龍駒≫かどうか疑い、それを確認するのを怖がっている目だ。

 やがて曜は、頬を引きつらせて笑顔を作った。

「べ、別に、なりたくなんてないよ」

「そう?」

「そうだよ、大変そうじゃん。みんな見てると」

「みんな?」

「ああ、えっと、そうじゃなくて――」

「――おっはよー!」

 バスが二人の前で停まり、千歌が降りてきた。

「おはヨーソロー!」

 曜は誤魔化すように大声を出し、千歌が投げ寄越したスクールバッグを軽快車のカゴに入れた。

 だが千歌は曜の後ろに乗らず、走り出した。

「じゃ、みかん山のてっぺんまで、行っくぞー!」

「オトモするでありまーす!」

 曜も当然のように自転車をこぎ始めた。

 同じじゃない。

 なにもかも、変わりつつある。

 果南がこの街を出ても、変わらないと思っていた海も。

 果南を産み、両親を殺し、自らも死にかけている海も。

 千歌たちが動き出したことで、その変化は決定的になった。

 神の如く世界を支配するシステム。

 それに対抗する、人間たちの力が。

「私たちの夢……私たちの海、か」

 願いを失った果南は無力だ。

 

   *

 

「ごめんなさい、全然来られてないのに、こんなお願いまでして」

 聖ゲオルギオス礼拝堂と駐車場を隔てるフェンスの前で、花丸は小さく頭を下げた。

「構いませんよ。ですが、信徒の皆さんがアイドルのライブに興味を持つかは、お約束できませんね」

「まさに神のみぞ知る、ですね」

 滝川天吾と名乗った神父が困ったように笑い、桜内梨子は失言だったと恐縮した。

 日曜日は浦の星女学院スクールアイドル同好会のライブ本番だが、同日には学校付属のチャペルでミサも行われる。そこで、ミサに参加する信徒にも、目の前の体育館のイベントを宣伝しよう、と花丸が昼休みに提案し、放課後、神父に確認をとりにきたのだ。

(まあ、ダメとは言わないよね)

 ニコニコ顔の若そうな神父からは、黒いローブのものと思しき嗅ぎ慣れない匂いがする。

「では日曜は、そちらの開場時刻に合わせて鍵を開けておきますね」

「お願いします」

 一般の信徒にも開放されている聖ゲオルギオス礼拝堂だが、学校での犯罪防止のため、フェンスで区切られている。一般の信徒は教会の裏側に位置する出入口で、生徒は教会の正面にあるフェンスドアから出入りする形だ。神父が言っているのは、そのフェンスドアにかけているシリンダー錠のことだった。

 頼みごとは終わった。これでスクールアイドル同好会の手伝いとしてのすべきことは済んだのだが。

「あの、ミサって、普段はどのくらいの人がいらっしゃるんです?」

 梨子は小さく手を挙げた。

「六〇代以上の方が多いですね。二~三〇代の方は先日引っ越してしまって――」

 梨子がえも言われぬ顔をしたせいか、天吾は口をすぼめて言葉を切った。

「――人数のことですか? 七~八人です」

 多くはないが、少なくない、と梨子は感じた。

「もうそんなに集まってるんです? エンジェル・フォーメアが倒されて間もないのに」

 梨子は西側を向いた教会の入口を眺める。

 ここに来るのは、梨子は初めてだった。梨子は一般的な日本人と同じで、いわゆる信仰心というものがない。どちらかといえば敬遠したいと思っている。ましてここは、梨子が東京でも戦ったエンジェル・フォーメアの、三度目の出現ポイントでもあるのだ。戦った覚えはなくても、近付くのが愉快な体験でないのは想像できた。

 だが今の梨子は、千歌たちのライブを成功させるために力を尽くそう、と決めている。であれば、体育館の目と鼻の先である教会から避けることはできない。

 だから少しでも、情報を集めたいと思っていたのだが。

「梨子さん、失礼ずら」

「え? あ」

 視線を戻すと、神父は困った笑顔を浮かべていた。

「ご、ごめんなさい、私、なに言ってるんだろ」

「事件直後はたしかに、ミサに来る方は減りました。引っ越した方もいらっしゃいます。ですが、あの存在が如何なる場所でも出現する可能性があると知れ、小原さんがそれに対抗する手段を発表したことで、少しずつが、信徒の皆さんも戻ってきてくださいました」

「神様に祈るのは一人でもできます。でも、信徒として成長するには助け合いの心が必須なんです。“教会”という共同体は、その手段でもあるんです」

「迷い、疲労、明日への不安。私たちは日々、心配を抱えて生きています。主の日である日曜日に集まり、主の聖体としてのホスチアと聖杯(カリス)のワインを拝領することは、私たちが神の子としての自覚も新たに、今日を生きる力を得ることなのです」

「そ、そうなんですか?」

 天吾神父と花丸はいつの間にか並び立ち、梨子に教えを説いている。こうなってしまうから、宗教は敬遠したかったのだが。というか、花丸はどういう立場なんだ?

「中には、怪人を『天使の顕現だ』と考えている方もいらっしゃるんですよ」

「フォーメアを?」

 梨子は耳を疑った。μ-フォームを起点に液体が泡立って作られる怪人が、天の使い?

「最初の怪人を、小原さんが“エンジェル”と名付けましたからね。この街の年輩の方には、『小原さんや黒澤さんの言うことは間違いない』と考える人が、まだまだ多いのです」

 その理由は、梨子にはピンとこない。花丸も梨子と同じようだ。

「普段は施錠してるんですか?」

 梨子がフェンスドアの錠を見て言う。

「休日はしてますよ。私が赴任した時には、その指示がありました」

「入学式の時は開いてたんですか?」

「平日ですから」

「入学式の時は、天吾さんはなにを?」

「新入生に洗礼希望者がいらっしゃいましたので、聖水にするための純水を搬入して、洗礼盤を準備しましたね。あとはいつも通り、時課を務めていました」

「純水は、洗礼盤に入れたんです? 入れる前に怪人の騒ぎがありました?」

「前ですね。純水のタンクが搬入されて、盤を裏の倉庫から出して祭壇の前に設置していただいた後、タンクの蓋が開いているのに気付きました。そこで、事務所で搬入元に問い合わせていた時に、騒ぎが発生したのです」

「タンクの水は減っていました? 中に異物は?」

「そうですね、その日は結局洗礼を行わなかったので、タンクは搬入元に返送してしまいました。なので――」

 天吾は思い出すように教会を見、すぐに目を戻した。

「――中身の確認はしていませんね。どうしてそんなことを?」

「あ……いえ」

 怪人が、光る球体と水と恐怖心からできていることは、天吾は知らないらしい。

「天吾さん以外の方は? お手伝いさんとか、そういう方は」

「ここを任されているのは私だけです」

 となると、搬入されたタンクから天吾が離れた隙を突いて、誰かがμ-フォームを入れた可能性が高い。

 誰かが?

 自らの恐怖を意図的に発動し、怪人を産み出した、と推測しているのか?

「梨子先輩、理事長代理みたいずら」

「二人目の名探偵ですね」

 花丸と天吾が笑い、梨子は首を傾げる。

「どういうことです?」

「あの事件の翌週、小原さんが同じようなことを聞きに来たんですよ。理事長代理就任から間もなかったですし、今思えば仮面ライダーとしての責任もあったのでしょう」

 梨子は驚いたが、当然か、と思い直した。

 自分の動きが、むしろ遅いくらいなのだ。

(私がこの学校にいる間に、謎が解けたらいいんだけど)

 と、花丸が梨子の背後を見た。

「あ、スコさん来た」

 振り返ると、昇降口からやってくる生徒の姿が見え、

「あの人……」

 梨子は警戒した。

 その人物は、梨子がこの学校にやってきたその日、音ノ木坂女学院の制服を着た梨子を、『スクールアイドルを始めるのか』と質問攻めにした上級生だ。そのせいで梨子は不安定になり、四度目のエンジェル・フォーメア出現の時に、気を失ってしまったのだ。

 顔を背けようと思ったが、梨子は今も音ノ木坂女学院の制服を着ているのだから、素直に諦めた。

「お、桜内さん」

 名前もバレている。

「こんにちは」

 目を合わせないように頭を下げる。

「日曜は俺も行くよ」

「え?」

 思わず顔を上げると、スコと呼ばれた先輩は体育館の方を親指で示していた。

「ようやくだ、ここがライブステージになるなんてな」

 ベリーショートというには短すぎる刈り上げ頭の横顔は、満足そうでもあり、寂しそうでもあった。それはそうだろう、ここから浦の星女学院が盛り上がっていくとしても、それは廃校までの短い期間だし、三年生の先輩にとっては最後の一年だけなのだから。

「そうだ、ルビィ見てないか? ダイヤが探してたんだけど」

理事長代理の家(ホテルオハラ)に行く、って言ってましたよ」

 花丸が答えた。

「やっぱそうか、準備で忙しいもんな」

 その女生徒は、フェンスドアから教会の入口を覗き込んで言った。

「で、マル、今日はどうするんだ? アイドル? 聖歌隊?」

「聖歌隊です。あっちの出番はもう、オラにはないですし」

「じゃあ、今度のミサも?」

「はい、久しぶりに一緒に歌えます。そのあとは会場設営の手伝いですけど」

「そっちは俺もやるよ」

「では、練習を始めましょうか」

 と、天吾が二人に声をかけた。

 つまり、スコと呼ばれた上級生も、この教会の聖歌隊のようだ。

「桜内さんは如何いたします? 見学していかれますか?」

「あ……」

 聞いてみたい、と思った。

 梨子は自分の教えを曜に捨てさせ、自分の好きなように歌ってもらうことにした。

 しかし花丸が、梨子や果南を魅了したあの歌声でもって、聖歌隊として聖歌を型通りに歌うのなら。

 どんな化学反応が起こるのか。

(……ううん)

 音ノ木坂女学院の制服を着た梨子は、ここに踏み込む権利がないように思う。

 校外の信徒を迎え入れているのは分かっているが、梨子はこの街の人間でもないのだ。

 だから、首を振った。

「梨子先輩、また明日」

「うん」

 二人がフェンスドアの向こうに進み、天吾がそれに続こうとする。

「滝川さん」

「はい?」

「神様のこと、どのくらい信じています?」

 産まれたのが“天使”の怪人である以上、エンジェル・フォーメアを産み出したのがこの神父である可能性は高い。

 だから、先ほどの発言以上に失礼だと分かっていても、聞かなければならない。

「本当に、小原さんと同じ質問をされるのですね」

 天吾は眉を寄せたが、真っ直ぐに視線を向けてきた。失言だと思わないでくれたようだ。

「同じ回答を致しましょう。私は神に献身した身です」

 質問から回答までの彼の目に、ウソはない……と、梨子には思えた。

「ごめんなさい。何度も失礼なことを聞いてしまって」

 頭を深々と下げる。信仰心を試すなど、謝って済むことではないとは思いながら。

「あなたは如何です?」

「え?」

 顔を上げる。

「あなたは、あなたの主を、愛していますか?」

「私の、ですか?」

 質問の意味が分からない。

「私に神様はいないです。いれば私は、今ここにいませんから」

 私は父と母と三人で、東京にいたはずだ。

 私がピアノを引いて、貫禄のない父と気の強い母が聞いていたはずだ。

 こんなにも「どうして」を繰り返さずにいたはずだ。

 私に神様がいれば。

「そうですか」

 天吾は微笑み、頭を下げると、ローブの裾をはためかせて教会に向かう。

 フェンスドアが梨子の前で閉じられる。

 神父は待っていた二人の生徒を促し、厳かな光に満ちた建物へと入っていった。

 その後ろ姿が幸せそうな家族に見えて、梨子は目を伏せた。

 

   *

 

「ルビィ、宜しいです?」

 黒澤ルビィはすぐに、それが姉の声だと分かった。

 だが、風呂上がりの髪をぐしゃぐしゃとタオルで拭いて、聞こえない振りをした。

 昨日の夕食に大きな音を出してからこちら、家族とは一言も口を利いていなかった。登校時のリムジンでは黙ったままだったし、鞠莉の手伝いをした後もわざと門限ギリギリを狙ってOGIのヘリで帰ってきた。

 それが子供っぽい行動なのは、ルビィ自身も分かっている。それでも、この矛をどう収めるべきなのか、姉妹ゲンカもろくにしてこなかったルビィには分からないのだ。

「昨日はごめんなさい。ルビィの気持ちを聞きもしないで、わたくしたちの意見ばかり」

 だから、相手が折れるのを待っていた。

 「ルビィは子供だから」と思ってくれるのを、期待していた。

 そんな意図を自覚できるくらいには子供じゃないことも、分かっているのに。

「いいよ、もう」

 タオルを肩にかけると、下ろした髪の間に姉の寝巻が見えた。その上にあるであろう、妹を気遣う姉の顔を見る覚悟は、ルビィにはまだない。

 なのに、

「『魔人ドラキュラ』、見ませんか?」

 その提案には、顔を向けずにいられなかった。

 しっとりと濡れた髪をまとめたダイヤは、小さく頬を持ち上げた。

 恥ずかしくなって、ルビィはまた視線を外してしまう。

「昨日、なにも見なかったの?」

「ええ、一人で見ても楽しくありませんから」

 妹が口を利いたことで安心したのか、ダイヤは廊下へのドアを開け、ルビィを促した。

 外廊下に出ると、夜陰に落ちた沼津御用邸記念公園から、虫の鳴く声に乗って穏やかな風が流れてきた。

 姉はこの空気に、ツツジの香りを、そして初夏を感じているのだろうか。ルビィには、あの匂いがよく分からない。

 先を歩く姉の後ろ姿は、母のようにも思える。

 二重ガーゼの綿に染められた、梅の花と桃の花。同じ素材で同じ型の寝巻なのに、自分が着ると女児用ロンパースのようだ。

 なぜだろう。

 同じ家柄に産まれ、同じ家で育ち、同じものを見てきたはずなのに、ルビィはダイヤとまるで違う。

 口調も、態度も、佇まいも。

 得手も、不得手も、映画の好みも。

 なにが、姉の今を形作っているのだろう。

 どうしたら、姉みたいになれるのだろう。

「お姉ちゃんって、怖いものってあるの?」

 だから、そう聞いた。

「教えると思いまして?」

「じゃあ、あるんだ」

「内緒ですわ。寝首をかいてくれ、と言っているようなものです」

 姉が笑い、ルビィもつられる。

 外廊下を折れ、居間と台所の間を歩く。ややあって、日本家屋には異質な壁が現れ、やはり異質な戸を姉が引き開ける。

 二人が足を踏み入れたのは、父が作った娯楽室だ。防音処理された部屋に窓はなく、四面の黒い壁で橙色の間接照明が長い光を描いている。

 ダイヤはリビングテーブルから端末を拾い上げ、プロジェクションスクリーンを下ろす。ルビィは冷蔵庫から麦茶のピッチャーを出す。二人で映画を見る時のルーチンワークだ。

 背後のプロジェクターからスクリーンに、時計とそれを射貫く矢――OGIのロゴが投影された。次いでライブラリのリストが表示され、ふかふかのソファに腰を下ろしたダイヤが端末で操作する。

「知ってしまうこと、ですわ」

 唐突な言葉に、ルビィは麦茶を注ぐ手をとめ、姉の顔を見る。

「怖いものです」

「知ってしまうこと?」

 スクリーンのリストが絞り込まれ、一九三〇年代公開のユニバーサル・スタジオ製作のホラー作品が並ぶ。大昔、面白半分で見たり見せられたりしては、散々泣かされたタイトルたちだ。

「たとえばルビィ、あなたが、ドラキュラも、フランケンシュタイン博士やその怪物も、ミイラ男も、ホレース邸も、狼男も、大アマゾンの半魚人も、あらゆる怪物を知らなかったとしたら、深夜の暗闇の奥に想像します?」

「うーん……。お父さん?」

「怖いですか?」

「怖くはないよね」

 ルビィは笑ったが、ダイヤは笑わなかった。

「“知識”とは呪いですわ。この世界が地獄だったと気付いてしまえば、自分こそが怪物だと気付いてしまえば、二度と元には戻れない。フィルムに定着した時間を戻せないように」

 ダイヤは言葉を切り、こちらを見た。

「不可逆性。きっとそれが、わたくしの怖いものだと思います」

「不可逆性……」

 見下ろすグラスの中で、琥珀色の液体が揺れる。

 結露して汗をかいたガラスの表面を、お盆に向かって水滴が流れる。

「ルビィ、昔はケイシちゃんたちのこと、怖がってなかったの?」

「もちろんですわ。ルビィが産まれた時から、ケイシはもちろん、ライフもアスペットも、ずっと仲良しでしたのよ」

 そんな記憶はない。

 ただ、犬は恐ろしいという認識だけがある。

「ルビィも、なにか知っちゃったのかな。だから、パフェも、男の人も、怖くなっちゃったのかな」

 叔父の琢朗は、昔は抱き付きに来たのに、と言っていた。

 先日も、ルビィを助けてくれた黒服の辰本が、突然怖く思えてしまった。

 なにが変わったのかな。

 せっかく、情熱、勇気、命を象徴する宝石(ルビー)の名を授かったのに。

 いつの間にか、ルビィの心は砕けちゃったみたい。

 その欠片をなんとか並べて、ルビィの形に見せているだけなのかも。

 太陽に照らされた時だけ輝く、ステンドグラスみたいに。

「わたくしには分かりかねますわ」

 ダイヤは鼻から空気を漏らして、『魔人ドラキュラ』にカーソルを合わせた。

 グラスをテーブルに並べ、濡れた髪に気を付けながらダイヤの横に座る。

 姉の親指が端末を操作すれば、あの白黒の映像が流れ出す。

 自分が産み出したストーカー・フォーメアに似た、遠い昔に亡くなったベラ・ルゴシの映像が。

 ルビィはそれを確認したかった。

 フォーメアの基盤があの映画なら、ストーカーに操られないようになるヒントも、そこにあると思ったから。

 でも。

「あの、お姉ちゃん」

 ダイヤの視線を、上目遣いに受ける。

「やっぱり……『モンスター・ハウス』にしようかな」

「よろしいのです?」

「うん。ルビィ、今見たら、怖くて泣いちゃうかも」

 そう言いながらすでに涙ぐんでいるルビィに、ダイヤは眉尻を落とした。

「分かりましたわ」

 リモコンを操作するダイヤを余所に、ルビィは目を伏せる。

 やっぱり自分は子供じゃないんだ、と思う。

 もしここで、当初の目的を達成したなら、なにかが変わるかもしれない。

 フォーメアに与えられた鎖を、破れたかもしれない。

 でも今は、「知識が不可逆の呪いを産み出す」という知識そのものが、ルビィの新しい鎖になってしまった。

 ストーカーが、その鎖を解き放つ勇気がない自分を、護ってくれる存在なら。

 それがたとえ吸血鬼(神への反逆者)だとしても、そばにいて欲しいと思っている。

 そんなずるい子供はいない。

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