*
トライウェア姿の松浦果南は、海水に濡れたお尻をサドルに押し付け、ヘルメットを被り、ふと、その手を止めた。
淡島への港に併設された駐車場、その脇に立てられたあわしまマリンパークのイベント告知看板に、パステル調のカラフルなポスターが見えたからだ。
松浦果南は目を細めると、ロードバイクのペダルに力を籠めた。
「今日は星が見られそうだね」
久々に文句のない晴天だ。早く髪で日光を浴びたい。
内浦湾の漁船が届けるエンジン音とガソリン臭の中、果南は車道を走る。
対向車線をクルマが通る度に、手のひらで挨拶。
朝の通学時間、沼津市内からこちらに向かうクルマはまずいない。左車線は果南のレーンだ。
いつもの海に、いつもの道。
変わりはない。
と、駄菓子屋の表に、またあのポスターが見えた。
もう少し先にあるコンビニにも、その先にある老舗旅館にも、さらに先にある水族館にも、同じように貼ってあるだろう。先週から目に留まるようになり、祖父やその友人の話では沼津の方にも広がっているらしい。
スピードを落とさなくても読めるし、読まなくても分かる。
≪浦の星女学院スクールアイドル同好会≫の、ファーストライブのお知らせ。
この海にはなかったもの。
「おはヨーソロー!」
後ろから聞こえた声に、果南はクランクを回すスピードを緩めた。
「や」
果南が開いた右手を向けた相手は、スクールアイドル同好会の“水色”――曜だ。
走るための形をしたロードバイクの果南に、軽快車のギアを目一杯重くして併走してくる。
「今日はゆっくりじゃん、果南ちゃん」
「探しものしててね」
「また“お化け”とか言わないでよ」
「懐かしいね、それ。それよりさ――」
果南はクランクをとめ、曜が楽に会話できるスピードまで落とす。ラチェットが立てる滑らかな音が、背筋に気持ちいい。
「――グループ名、どうなったの?」
「うーん、みんなパフォーマンスに夢中で、棚上げ!」
「よくないねえ」
「果南ちゃんだけだよ、案、出してないの」
「私は補欠だから」
「理由になってなーい!」
曜は不平を表明したが、顔は笑っていた。
果南も唇の橋を持ち上げ、ペダルの重さと太腿の筋肉の収縮に意識を向ける。
(ここまで来るとはね)
幼馴染みの満足げな顔に、果南は複雑な気持ちになる。
ダンスの練習にテラス窓の外壁を使わせてほしい、と梨子と善子に頼まれた時、果南は渋った。閑古鳥の鳴いている内浦の、閑古鳥も寄り付かない淡島の、シーズンオフのダイビングショップの、さらに外側とはいえ、あそこは父の忘れ形見だ。本来の使い方以外をさせるのは、いい気分ではなかった。しかも練習の主目的が善子の特訓とあれば、また逃げ出すのではないかと心配するのは当然だろう。
ところがゴールデンウィーク明けの金曜日から始まった練習は、水曜日まで六日連続で続いていた。初日こそ、淡島の散歩道を走ったり、山頂の淡島神社までの参道を往復したりと身体作りで始まったが、週末に梨子によるマンツーマンでのダンス特訓にシフトしてからは、二〇時越えが当たり前になってしまった。
ダイビング客を乗せることも減ってしまったジュール丸は、連日彼女らを乗せて本土まで往復している。『ロープウェイが終わっても船は出せるよ』と安請け合いした、先週の自分を呪いたい。いや、善子の上達と根性を思えば、祝うべきか?
いずれにせよ、千歌が主体となったスクールアイドル同好会は、三段跳びの最初の“ホップ”に到達しつつある。果南個人の評価がどうあれ、それを認めるのにやぶさかではない。
だが“ステップ”が一番の難関なのだ。
そこでつまづけば、すべてが崩壊する。
(予断は許されないか)
しばらく黙ってペダルをこぎ、トンネルを抜け、海岸通りに出る。
そこで正面を走るバスを見付け、その後部座席に見覚えのある長い髪を見付けた。
「千歌ちゃんだ」
曜は立ち漕ぎになって果南の前に出る。
一列縦隊になった二人は左側を空けたバスの横を通り、千歌に手を振って追い越した。
そのまま長井崎岬への道の手前まで走ると、自転車をとめる。曜は派手に後輪をスライドさせて、果南は緩やかにブレーキをかけて。
「今日はあっちの練習?」
「うん、飛び込んでないとなまっちゃうからね」
とろとろとバスが近付いてくる。沼津市内からやってきた車体は、朝日を反射して、この街には似つかわしくない輝きを放っている。
「千歌が言ってたよね。『今度は資質のない人が頑張る番だ』って」
果南が言うと、曜は片眉を上げて記憶を探る素振りをした。
「ダイヤさんに? 言ってたね」
「本当に資質がないと思ってる? 自分たちに」
「まさか。あるよ、千歌ちゃんとヨハネさんは」
「曜は?」
「ないでしょ」
あっけらかんとした口調は、長年親しんだ曜を思わせる。
「だから仮面ライダーになりたいわけ?」
髪を乱して向けられた目は、果南が初めて見る目だ。
見開き、驚いている目。
同時に、果南を探る目。
μ-フォームを盗んだことがバレて焦っている目――
(――じゃないね)
果南が≪仮面ライダー龍駒≫かどうか疑い、それを確認するのを怖がっている目だ。
やがて曜は、頬を引きつらせて笑顔を作った。
「べ、別に、なりたくなんてないよ」
「そう?」
「そうだよ、大変そうじゃん。みんな見てると」
「みんな?」
「ああ、えっと、そうじゃなくて――」
「――おっはよー!」
バスが二人の前で停まり、千歌が降りてきた。
「おはヨーソロー!」
曜は誤魔化すように大声を出し、千歌が投げ寄越したスクールバッグを軽快車のカゴに入れた。
だが千歌は曜の後ろに乗らず、走り出した。
「じゃ、みかん山のてっぺんまで、行っくぞー!」
「オトモするでありまーす!」
曜も当然のように自転車をこぎ始めた。
同じじゃない。
なにもかも、変わりつつある。
果南がこの街を出ても、変わらないと思っていた海も。
果南を産み、両親を殺し、自らも死にかけている海も。
千歌たちが動き出したことで、その変化は決定的になった。
神の如く世界を支配するシステム。
それに対抗する、人間たちの力が。
「私たちの夢……私たちの海、か」
願いを失った果南は無力だ。
*
「ごめんなさい、全然来られてないのに、こんなお願いまでして」
聖ゲオルギオス礼拝堂と駐車場を隔てるフェンスの前で、花丸は小さく頭を下げた。
「構いませんよ。ですが、信徒の皆さんがアイドルのライブに興味を持つかは、お約束できませんね」
「まさに神のみぞ知る、ですね」
滝川天吾と名乗った神父が困ったように笑い、桜内梨子は失言だったと恐縮した。
日曜日は浦の星女学院スクールアイドル同好会のライブ本番だが、同日には学校付属のチャペルでミサも行われる。そこで、ミサに参加する信徒にも、目の前の体育館のイベントを宣伝しよう、と花丸が昼休みに提案し、放課後、神父に確認をとりにきたのだ。
(まあ、ダメとは言わないよね)
ニコニコ顔の若そうな神父からは、黒いローブのものと思しき嗅ぎ慣れない匂いがする。
「では日曜は、そちらの開場時刻に合わせて鍵を開けておきますね」
「お願いします」
一般の信徒にも開放されている聖ゲオルギオス礼拝堂だが、学校での犯罪防止のため、フェンスで区切られている。一般の信徒は教会の裏側に位置する出入口で、生徒は教会の正面にあるフェンスドアから出入りする形だ。神父が言っているのは、そのフェンスドアにかけているシリンダー錠のことだった。
頼みごとは終わった。これでスクールアイドル同好会の手伝いとしてのすべきことは済んだのだが。
「あの、ミサって、普段はどのくらいの人がいらっしゃるんです?」
梨子は小さく手を挙げた。
「六〇代以上の方が多いですね。二~三〇代の方は先日引っ越してしまって――」
梨子がえも言われぬ顔をしたせいか、天吾は口をすぼめて言葉を切った。
「――人数のことですか? 七~八人です」
多くはないが、少なくない、と梨子は感じた。
「もうそんなに集まってるんです? エンジェル・フォーメアが倒されて間もないのに」
梨子は西側を向いた教会の入口を眺める。
ここに来るのは、梨子は初めてだった。梨子は一般的な日本人と同じで、いわゆる信仰心というものがない。どちらかといえば敬遠したいと思っている。ましてここは、梨子が東京でも戦ったエンジェル・フォーメアの、三度目の出現ポイントでもあるのだ。戦った覚えはなくても、近付くのが愉快な体験でないのは想像できた。
だが今の梨子は、千歌たちのライブを成功させるために力を尽くそう、と決めている。であれば、体育館の目と鼻の先である教会から避けることはできない。
だから少しでも、情報を集めたいと思っていたのだが。
「梨子さん、失礼ずら」
「え? あ」
視線を戻すと、神父は困った笑顔を浮かべていた。
「ご、ごめんなさい、私、なに言ってるんだろ」
「事件直後はたしかに、ミサに来る方は減りました。引っ越した方もいらっしゃいます。ですが、あの存在が如何なる場所でも出現する可能性があると知れ、小原さんがそれに対抗する手段を発表したことで、少しずつが、信徒の皆さんも戻ってきてくださいました」
「神様に祈るのは一人でもできます。でも、信徒として成長するには助け合いの心が必須なんです。“教会”という共同体は、その手段でもあるんです」
「迷い、疲労、明日への不安。私たちは日々、心配を抱えて生きています。主の日である日曜日に集まり、主の聖体としてのホスチアと
「そ、そうなんですか?」
天吾神父と花丸はいつの間にか並び立ち、梨子に教えを説いている。こうなってしまうから、宗教は敬遠したかったのだが。というか、花丸はどういう立場なんだ?
「中には、怪人を『天使の顕現だ』と考えている方もいらっしゃるんですよ」
「フォーメアを?」
梨子は耳を疑った。μ-フォームを起点に液体が泡立って作られる怪人が、天の使い?
「最初の怪人を、小原さんが“エンジェル”と名付けましたからね。この街の年輩の方には、『小原さんや黒澤さんの言うことは間違いない』と考える人が、まだまだ多いのです」
その理由は、梨子にはピンとこない。花丸も梨子と同じようだ。
「普段は施錠してるんですか?」
梨子がフェンスドアの錠を見て言う。
「休日はしてますよ。私が赴任した時には、その指示がありました」
「入学式の時は開いてたんですか?」
「平日ですから」
「入学式の時は、天吾さんはなにを?」
「新入生に洗礼希望者がいらっしゃいましたので、聖水にするための純水を搬入して、洗礼盤を準備しましたね。あとはいつも通り、時課を務めていました」
「純水は、洗礼盤に入れたんです? 入れる前に怪人の騒ぎがありました?」
「前ですね。純水のタンクが搬入されて、盤を裏の倉庫から出して祭壇の前に設置していただいた後、タンクの蓋が開いているのに気付きました。そこで、事務所で搬入元に問い合わせていた時に、騒ぎが発生したのです」
「タンクの水は減っていました? 中に異物は?」
「そうですね、その日は結局洗礼を行わなかったので、タンクは搬入元に返送してしまいました。なので――」
天吾は思い出すように教会を見、すぐに目を戻した。
「――中身の確認はしていませんね。どうしてそんなことを?」
「あ……いえ」
怪人が、光る球体と水と恐怖心からできていることは、天吾は知らないらしい。
「天吾さん以外の方は? お手伝いさんとか、そういう方は」
「ここを任されているのは私だけです」
となると、搬入されたタンクから天吾が離れた隙を突いて、誰かがμ-フォームを入れた可能性が高い。
誰かが?
自らの恐怖を意図的に発動し、怪人を産み出した、と推測しているのか?
「梨子先輩、理事長代理みたいずら」
「二人目の名探偵ですね」
花丸と天吾が笑い、梨子は首を傾げる。
「どういうことです?」
「あの事件の翌週、小原さんが同じようなことを聞きに来たんですよ。理事長代理就任から間もなかったですし、今思えば仮面ライダーとしての責任もあったのでしょう」
梨子は驚いたが、当然か、と思い直した。
自分の動きが、むしろ遅いくらいなのだ。
(私がこの学校にいる間に、謎が解けたらいいんだけど)
と、花丸が梨子の背後を見た。
「あ、スコさん来た」
振り返ると、昇降口からやってくる生徒の姿が見え、
「あの人……」
梨子は警戒した。
その人物は、梨子がこの学校にやってきたその日、音ノ木坂女学院の制服を着た梨子を、『スクールアイドルを始めるのか』と質問攻めにした上級生だ。そのせいで梨子は不安定になり、四度目のエンジェル・フォーメア出現の時に、気を失ってしまったのだ。
顔を背けようと思ったが、梨子は今も音ノ木坂女学院の制服を着ているのだから、素直に諦めた。
「お、桜内さん」
名前もバレている。
「こんにちは」
目を合わせないように頭を下げる。
「日曜は俺も行くよ」
「え?」
思わず顔を上げると、スコと呼ばれた先輩は体育館の方を親指で示していた。
「ようやくだ、ここがライブステージになるなんてな」
ベリーショートというには短すぎる刈り上げ頭の横顔は、満足そうでもあり、寂しそうでもあった。それはそうだろう、ここから浦の星女学院が盛り上がっていくとしても、それは廃校までの短い期間だし、三年生の先輩にとっては最後の一年だけなのだから。
「そうだ、ルビィ見てないか? ダイヤが探してたんだけど」
「
花丸が答えた。
「やっぱそうか、準備で忙しいもんな」
その女生徒は、フェンスドアから教会の入口を覗き込んで言った。
「で、マル、今日はどうするんだ? アイドル? 聖歌隊?」
「聖歌隊です。あっちの出番はもう、オラにはないですし」
「じゃあ、今度のミサも?」
「はい、久しぶりに一緒に歌えます。そのあとは会場設営の手伝いですけど」
「そっちは俺もやるよ」
「では、練習を始めましょうか」
と、天吾が二人に声をかけた。
つまり、スコと呼ばれた上級生も、この教会の聖歌隊のようだ。
「桜内さんは如何いたします? 見学していかれますか?」
「あ……」
聞いてみたい、と思った。
梨子は自分の教えを曜に捨てさせ、自分の好きなように歌ってもらうことにした。
しかし花丸が、梨子や果南を魅了したあの歌声でもって、聖歌隊として聖歌を型通りに歌うのなら。
どんな化学反応が起こるのか。
(……ううん)
音ノ木坂女学院の制服を着た梨子は、ここに踏み込む権利がないように思う。
校外の信徒を迎え入れているのは分かっているが、梨子はこの街の人間でもないのだ。
だから、首を振った。
「梨子先輩、また明日」
「うん」
二人がフェンスドアの向こうに進み、天吾がそれに続こうとする。
「滝川さん」
「はい?」
「神様のこと、どのくらい信じています?」
産まれたのが“天使”の怪人である以上、エンジェル・フォーメアを産み出したのがこの神父である可能性は高い。
だから、先ほどの発言以上に失礼だと分かっていても、聞かなければならない。
「本当に、小原さんと同じ質問をされるのですね」
天吾は眉を寄せたが、真っ直ぐに視線を向けてきた。失言だと思わないでくれたようだ。
「同じ回答を致しましょう。私は神に献身した身です」
質問から回答までの彼の目に、ウソはない……と、梨子には思えた。
「ごめんなさい。何度も失礼なことを聞いてしまって」
頭を深々と下げる。信仰心を試すなど、謝って済むことではないとは思いながら。
「あなたは如何です?」
「え?」
顔を上げる。
「あなたは、あなたの主を、愛していますか?」
「私の、ですか?」
質問の意味が分からない。
「私に神様はいないです。いれば私は、今ここにいませんから」
私は父と母と三人で、東京にいたはずだ。
私がピアノを引いて、貫禄のない父と気の強い母が聞いていたはずだ。
こんなにも「どうして」を繰り返さずにいたはずだ。
私に神様がいれば。
「そうですか」
天吾は微笑み、頭を下げると、ローブの裾をはためかせて教会に向かう。
フェンスドアが梨子の前で閉じられる。
神父は待っていた二人の生徒を促し、厳かな光に満ちた建物へと入っていった。
その後ろ姿が幸せそうな家族に見えて、梨子は目を伏せた。
*
「ルビィ、宜しいです?」
黒澤ルビィはすぐに、それが姉の声だと分かった。
だが、風呂上がりの髪をぐしゃぐしゃとタオルで拭いて、聞こえない振りをした。
昨日の夕食に大きな音を出してからこちら、家族とは一言も口を利いていなかった。登校時のリムジンでは黙ったままだったし、鞠莉の手伝いをした後もわざと門限ギリギリを狙ってOGIのヘリで帰ってきた。
それが子供っぽい行動なのは、ルビィ自身も分かっている。それでも、この矛をどう収めるべきなのか、姉妹ゲンカもろくにしてこなかったルビィには分からないのだ。
「昨日はごめんなさい。ルビィの気持ちを聞きもしないで、わたくしたちの意見ばかり」
だから、相手が折れるのを待っていた。
「ルビィは子供だから」と思ってくれるのを、期待していた。
そんな意図を自覚できるくらいには子供じゃないことも、分かっているのに。
「いいよ、もう」
タオルを肩にかけると、下ろした髪の間に姉の寝巻が見えた。その上にあるであろう、妹を気遣う姉の顔を見る覚悟は、ルビィにはまだない。
なのに、
「『魔人ドラキュラ』、見ませんか?」
その提案には、顔を向けずにいられなかった。
しっとりと濡れた髪をまとめたダイヤは、小さく頬を持ち上げた。
恥ずかしくなって、ルビィはまた視線を外してしまう。
「昨日、なにも見なかったの?」
「ええ、一人で見ても楽しくありませんから」
妹が口を利いたことで安心したのか、ダイヤは廊下へのドアを開け、ルビィを促した。
外廊下に出ると、夜陰に落ちた沼津御用邸記念公園から、虫の鳴く声に乗って穏やかな風が流れてきた。
姉はこの空気に、ツツジの香りを、そして初夏を感じているのだろうか。ルビィには、あの匂いがよく分からない。
先を歩く姉の後ろ姿は、母のようにも思える。
二重ガーゼの綿に染められた、梅の花と桃の花。同じ素材で同じ型の寝巻なのに、自分が着ると女児用ロンパースのようだ。
なぜだろう。
同じ家柄に産まれ、同じ家で育ち、同じものを見てきたはずなのに、ルビィはダイヤとまるで違う。
口調も、態度も、佇まいも。
得手も、不得手も、映画の好みも。
なにが、姉の今を形作っているのだろう。
どうしたら、姉みたいになれるのだろう。
「お姉ちゃんって、怖いものってあるの?」
だから、そう聞いた。
「教えると思いまして?」
「じゃあ、あるんだ」
「内緒ですわ。寝首をかいてくれ、と言っているようなものです」
姉が笑い、ルビィもつられる。
外廊下を折れ、居間と台所の間を歩く。ややあって、日本家屋には異質な壁が現れ、やはり異質な戸を姉が引き開ける。
二人が足を踏み入れたのは、父が作った娯楽室だ。防音処理された部屋に窓はなく、四面の黒い壁で橙色の間接照明が長い光を描いている。
ダイヤはリビングテーブルから端末を拾い上げ、プロジェクションスクリーンを下ろす。ルビィは冷蔵庫から麦茶のピッチャーを出す。二人で映画を見る時のルーチンワークだ。
背後のプロジェクターからスクリーンに、時計とそれを射貫く矢――OGIのロゴが投影された。次いでライブラリのリストが表示され、ふかふかのソファに腰を下ろしたダイヤが端末で操作する。
「知ってしまうこと、ですわ」
唐突な言葉に、ルビィは麦茶を注ぐ手をとめ、姉の顔を見る。
「怖いものです」
「知ってしまうこと?」
スクリーンのリストが絞り込まれ、一九三〇年代公開のユニバーサル・スタジオ製作のホラー作品が並ぶ。大昔、面白半分で見たり見せられたりしては、散々泣かされたタイトルたちだ。
「たとえばルビィ、あなたが、ドラキュラも、フランケンシュタイン博士やその怪物も、ミイラ男も、ホレース邸も、狼男も、大アマゾンの半魚人も、あらゆる怪物を知らなかったとしたら、深夜の暗闇の奥に想像します?」
「うーん……。お父さん?」
「怖いですか?」
「怖くはないよね」
ルビィは笑ったが、ダイヤは笑わなかった。
「“知識”とは呪いですわ。この世界が地獄だったと気付いてしまえば、自分こそが怪物だと気付いてしまえば、二度と元には戻れない。フィルムに定着した時間を戻せないように」
ダイヤは言葉を切り、こちらを見た。
「不可逆性。きっとそれが、わたくしの怖いものだと思います」
「不可逆性……」
見下ろすグラスの中で、琥珀色の液体が揺れる。
結露して汗をかいたガラスの表面を、お盆に向かって水滴が流れる。
「ルビィ、昔はケイシちゃんたちのこと、怖がってなかったの?」
「もちろんですわ。ルビィが産まれた時から、ケイシはもちろん、ライフもアスペットも、ずっと仲良しでしたのよ」
そんな記憶はない。
ただ、犬は恐ろしいという認識だけがある。
「ルビィも、なにか知っちゃったのかな。だから、パフェも、男の人も、怖くなっちゃったのかな」
叔父の琢朗は、昔は抱き付きに来たのに、と言っていた。
先日も、ルビィを助けてくれた黒服の辰本が、突然怖く思えてしまった。
なにが変わったのかな。
せっかく、情熱、勇気、命を象徴する
いつの間にか、ルビィの心は砕けちゃったみたい。
その欠片をなんとか並べて、ルビィの形に見せているだけなのかも。
太陽に照らされた時だけ輝く、ステンドグラスみたいに。
「わたくしには分かりかねますわ」
ダイヤは鼻から空気を漏らして、『魔人ドラキュラ』にカーソルを合わせた。
グラスをテーブルに並べ、濡れた髪に気を付けながらダイヤの横に座る。
姉の親指が端末を操作すれば、あの白黒の映像が流れ出す。
自分が産み出したストーカー・フォーメアに似た、遠い昔に亡くなったベラ・ルゴシの映像が。
ルビィはそれを確認したかった。
フォーメアの基盤があの映画なら、ストーカーに操られないようになるヒントも、そこにあると思ったから。
でも。
「あの、お姉ちゃん」
ダイヤの視線を、上目遣いに受ける。
「やっぱり……『モンスター・ハウス』にしようかな」
「よろしいのです?」
「うん。ルビィ、今見たら、怖くて泣いちゃうかも」
そう言いながらすでに涙ぐんでいるルビィに、ダイヤは眉尻を落とした。
「分かりましたわ」
リモコンを操作するダイヤを余所に、ルビィは目を伏せる。
やっぱり自分は子供じゃないんだ、と思う。
もしここで、当初の目的を達成したなら、なにかが変わるかもしれない。
フォーメアに与えられた鎖を、破れたかもしれない。
でも今は、「知識が不可逆の呪いを産み出す」という知識そのものが、ルビィの新しい鎖になってしまった。
ストーカーが、その鎖を解き放つ勇気がない自分を、護ってくれる存在なら。
それがたとえ
そんなずるい子供はいない。