仮面ライダーメルシャウム   作:fuki

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第一一話:失敗する予感は - 6(完)

   *

 

 突然の水飛沫が、スクールアイドル同好会の三人を襲った。

「ちょ! ちょっと! なにこれ、ストップ!」

 咄嗟にブレーキをかけた内山いつきは、バンドで帽子に固定したビデオカメラも忘れて背後を振り返り、

「いつき、前見て前!」

 よしみに言われ、前を向く。

 そして目を疑う。

 海面から反り返るように立ち上った海水が割れ、巨大な金属製のタツノオトシゴが現れたからだ。

 その水が、目の前の広場に落下していく。

 ホテルオハラが管理する今は使われていない≪海軍淡島桟橋≫、その根元にある、スティップル状に塗装された赤と緑の上塗りが剥げ、下地のコンクリートが見えている見通しのよい広場。

 そこに海水がぶちまけられ、流れていき――

「意外と容赦ないわね」

 ――真っ白な服を着た女性が残された。

「だっ、大丈夫ですか!」

 自分もしとどに濡れた曜が駆け出し、広場のゲートにかかったチェーンをまたいで女性に向かう。

 千歌は左手の海面から立ち上がった金属製のタツノオトシゴを見上げ、善子は倒れた女性に幽霊を見るかのような視線を向ける。

 女性は上半身を起こし、艶やかな黒檀色の長髪を背中側に流す。

「なになに? どうなってるの?」

 いつきは誰の動きに追随していいか迷い、四人を見比べ、結果的にカメラマンとしての役割とまっとうしていた。

 「宣伝するなら淡島も見せようよ」とは、曜の案だった。

 淡島の周囲をグルリと巡る散歩道は、ファビュラス・ダイバー・ボーイズとカエル館の建物を通りすぎると、急に閑散とした道行きになる。それでも目に留まるものは時折あり、それらをランニングする三人を自転車で追いながらカメラに収めよう、となったのだ。

 といっても、ペンギンが遊んでいる≪いきもの広場≫に、併設された≪ペンギンラボ≫、誰が作ったか分からないが点々と設置されたブロンズ像、鬱蒼と覆い被さってくる植物を破って姿を見せる、ライオンの口のように張り出した獅子岩や、今は閉鎖されている≪淡島釣堀≫、浸食作用で気持ち悪い穴だらけの岩、内浦湾から駿河湾に向けて開けた海、誰も使わない島内専用公衆電話といった、外部の人間の興味を引けるかは疑問なものばかりだったのだが――

(これは、これはちょっと……!)

 ――とんでもないものを掘り当ててしまった。

 海面スレスレに直立する、一〇メートル級の怪人≪カヴァルッチャー・フォーメア≫と、その頭の上に立つ――

「――龍駒?」

 何週間か前に、なんの報道もないタイミングで特設サイトにアップされた、四人目の仮面ライダー。

「いつき、こっち!」

 ポカンと見上げるいつきだったが、むつに手を引かれ、よしみと考朔の方へ導かれた。彼らはレンタル自転車を横倒しにして、桟橋広場の外周に沿って散歩道を走っている。

「どうなってるの!? こんなの聞いてないって!」

 いつきたち現場とは裏腹に、むつの電話が映す配信は大盛況だ。「またフォーメアかよww」「あれ龍駒じゃね?」「龍駒って怪人?」「ライダーって何人いるの?」「宣伝金かけ過ぎww」「人襲われてるww」などとコメントが飛び交い、画面は再び真っ白になる。

 考朔たちのところに追い付くと、いつきは頭を――カメラを状況に向ける。

 使い込んだ鉄板のような緑色のタツノオトシゴが水中に身体を没し、その頭から、同じような材質の鎧を着た龍駒が広場に降りた。だが、仮面ライダーと名付けられた正義の味方は、曜が手を貸して立たせた女性を狙っているように見える。

 海にいたあの女性を、カヴァルッチャーで広場に引き揚げたのは龍駒のようだが、女性が着ているのは真珠のように滑らかな服に羽織のケープで、海に入れる格好に見えない。

「カメラとめて!」

「撮影中止!」

 曜と善子が叫び、いつきは帽子ごとビデオカメラを頭から外した。

「ありがと、曜さん」

「当然!」

 指示されるが、いつきはカメラの電源がどこか分からず、取り敢えずバンドを解きにかかる。

「どういうつもり? シャイニーならまだしも、瑠璃さんにまでこんなこと!」

 曜が龍駒に向けて放ったのは、黒澤宗家夫人の名前だ。

 いつきはその人物の顔をはっきりとは知らず、隣にいたむつに視線を向けるが、彼女も首を振った。

「曜先輩、そいつが≪ラズリ・フォーメア≫よ! 人間の顔をした怪人なの!」

 善子はいつの間にか龍駒の斜め後ろに立ち、曜の背後にいる人物を指差した。

「え、でも、ラズリって、だってこの前――」

「――だからこの前ブランキアが倒したのが、そいつなのよ! なんで生きてるのかしらないけど、生かしちゃおけないヤツなの!」

 いつにない怒声を放つ善子に気圧されたか、曜は上半身で女性を振り返える。

「ついてないわ、その子がいるなんて」

 女性は息を漏らし、善子を見た。

「瑠璃さん……?」

骸骨(スケルトン)さんには悪いことしちゃったわね」

「瑠璃さんじゃ……ないんです?」

 曜が女性から、一歩、距離をとる。

「さっきから言ってるじゃない」

 女性は笑ったが、曜は腰を抜かした。

「これ、配信しないの? 最高の宣伝じゃない!」

「だって、二人ともダメだって!」

 よしみに文句を言われ、いつきは反論する。

「カメラ、もっと近付けって、って!」

 考朔もむつの電話に流れるコメントを読み、広場を指差す。

「怪人なんでしょ!? 危なすぎるよ!」

 ネットの向こうの声に従うのか、といつきは首を振るが、

「これ以上の宣伝はないって!」

 考朔は業を煮やしたか、いつきのカメラを奪うと、手すりを乗り越えて広場に入ってしまった。

「考朔くん!」

 よしみが彼のあとを追い、少し迷っていたらしきむつも続いた。

 三人は戦場カメラマンのように身を屈め、小走りに近付いていく。

「ウソでしょ?」

 いつきは、自分以外で唯一、桟橋広場に入っていない千歌に目を向ける。

 

   *

 

 三戦に立つ。

 ワンダに変身するための構え。

 だが、指先に力が入らない。

 手の甲が震えている。

 足が動かない。

 あの音が聞こえない。

 ハミングのようなあの音が。

「ワンダ……?」

 かすれ声を絞り出し、ポケットに手を入れる。

 出てきたのは、多孔質の鉱物。

 海水が染み込み、柔らかくなった白い石。

 海泡石。

「な、なんで?」

 μ-フォームを入れたはずだ。

 これがそうなのか?

 失われてしまったのか?

 戦うための、あの白い海泡石の鎧が。

 なにもない私が、やっと手にした輝きが。

「そんなわけない……!」

 勝てる気がしない。

 戦わなきゃいけないのに。

 私が待ってたのは、これだったのか?

 なにもない私には、本当になにもないのだと。

 分かりたかったのか?

「そんなわけない!」

 叫ぶ。

 足が動いた。

 ゲートのチェーンをくぐり、走る。

 海泡石を左手に握り込み。

 練習着のお尻を濡らした幼馴染みに向かって。

 人の顔をした怪人に向かって。

「曜ちゃんから!」

 跳躍。

「離れろお!」

 渾身の飛び上段突き。

 その拳にそっと手を添えられ、逸らされる。

 広場に肩から落ち。

「こらこら」

 受け身、立ち上がる。

 ケープを背中に払い、女性が構える。

「素人相手に使っちゃダメ、って教わらなかった?」

 空手の構えだ。

 緊張。

 師範の言葉が頭を過ぎる。

 死の可能性が。

 いや。

 指の神経を意識。

 対人戦じゃない。

 怪人なら、一撃で終わる。

 変身しさえすれば。

「だッ!」

 先手必勝、踏み込み、右中段突き。

 逸らされる。

 分かってる。

 流れた右肘を胸に押し付け、ケープを掴み。

 前進、至近からの左中段突き。

 握った感触は海泡石のまま。

 音は聞こえない。

 語りかけてくれない。

 でも!

「うおりゃあ!」

 泡を引っこ抜きさえすれば。

 変身しさえすれば――

「――え?」

 左手は届いた。

 胸と胸の間に。

 なのに。

 水月に掌底が刺さってる。

「あ」

「もう少し鍛えてきてね、じゃないと――」

 力が抜ける。

 海泡石が落ちる。

「――死ぬよ」

 膝が折れる。

 息が吸い込めない。

 いや、次は吐く番か?

 横隔膜が動かない。

 熱いものがこみ上げてくる。

 お昼、なに食べたっけ?

 

   *

 

 一瞬だった。

 千歌のパンチを受け止めた手が、いつの間にか、千歌の腹を殴っていた。

「千歌ちゃん!」

 曜が這い寄り、戻している千歌を抱き上げる。

 ただ一人状況の外にいる内山いつきは、それを見ているしかなかった。

「さてと……」

 女性は足元から白いものを拾い上げ、そして、

「あなた」

 龍駒を指差した。

「あなたはとっくに解放されてるみたいね。いいわ、それでいいのよ」

 文脈を掴めない。

 それは龍駒も同じか、顎を僅かに引いた。

「その子は無理として、四人か。これだけあれば問題ないかしら」

 と、女性が発した直後、

 細長い肌色の物体が、広場を走った。

「なに?」

 いつきの疑問を余所に、それは曜の首に結び付き、むつの首に結び付き、よしみの首に結び付き、考朔の首に結び付き――

「龍駒! あいつを殺して!」

 善子が叫び、その前に金属の鎧を着た仮面ライダーは動き出している。

「間に合う?」

 ――その先端に灯った光が、四人の眉間に突き付けられた。

 それは小さな球体のようだった。

 いつきは広場を縦横に走るその物体が、女性のケープの裾から出ていることに気付く。

(腕? 指?)

 四人はチョウチンアンコウの光に誘引された魚のように、目を見開き、球体の輝きを寄り目で見上げる。

「あなたたちの夜を、見せてくれる?」

 むつの足元に電話が落ち、考朔の手にバンドで固定されたカメラが明後日の方を向く。

「なんなの?」

 いつきが口を開く間に龍駒が跳び、女性に飛び蹴りを放つ。

 女性は爪先でステップを踏み、その足裏から逃れる。

 伸びていた肌色がするすると戻り、女性が人間の形を取り戻す。

「残念、今回は私の勝ちよ」

 広げた指に挟まっているのは、四つの球体。

 広場に力なく倒れていくのは、四人の友達。

「ラズリ!!」

「じゃあね」

 叫ぶ善子に右手を振り――その肘が切断される。

 走る龍駒が、その右腕に装着したタツノオトシゴの頭から、圧縮した水をレーザーのように発射したのだ。

 白い球体が地面に落ちる。

「ハズレよ」

 四つの球体を手に、女性が背後の海に飛んだ。

 その身体が、迸った水の線で真っ二つに切断される。

 女性だった破片が、音を立てて海に落ち、

「やった!?」

 龍駒はとまらない。

「カヴァルッチャー!」

 くぐもった声で叫び、落ちた白い球体を拾うと、女性を追って海に飛び込んだ。

 巨大なタツノオトシゴも、身を翻して海中に沈んでいく。

 その水飛沫が舞い上がり、雨のように桟橋広場に落ちる。

 そして――

「曜先輩!」

 ――駆け寄った善子が、曜の顔を叩いた。

 それを契機にいつきは、すべてが終わったのを実感した。

「みんな」

 いつきは散歩道を戻り、チェーンをくぐって広場に入る。

 善子が倒れた四人に順に声をかけ、その度に起き上がった同級生たちは、首の横に触りながら辺りを見回している。

 その中で、千歌だけが俯いたままだ。

 昼食を戻した跡のそばで、座り込んでいた。

「千歌?」

 声を上げず、汚れた口を拭いもせず、自分の手のひらを見下ろして、しゃくり上げていた。

 だが、涙は出ていなかった。

 

   次回予告

 

よしみ「宣伝……うん、宣伝にはなったよね」

むつ 「私たち倒れちゃったけど、平気なの?」

いつき「自業自得だよ、二人と考朔くんは」

よしみ「グウの音も出ません」

いつき「それはさておき、次回、仮面ライダーメルシャウム第一二話、『誰もが一つ持ってる、勇気の欠片』!」

むつ 「ついにライブ回だ!」

いつき「歌は流せないけどね」

よしみ「一クールラストの前後回だから、予算もたっぷり!」

いつき「絵は出ないけどね」

むつ 「グループ名はどうなる! ついにあの名前が登場するのか!」

いつき「結果は周知の事実なんだけどね」

よしみ「ついでに前回のラストで触れた梨子ちゃんの話も、決着なる!?」

いつき「そこって引っ張りどころだったの?」

4&6「乞うご期待!」

いつき「自由だなあ、私たち」

 

   C

 

 浦の星女学院スクールアイドル同好会とその仲間たちは、本土の港に併設されたロープウェイ乗場を出た。

「誰もいないね」

 渡辺曜は、だだっ広い駐車場に呟く。

 四〇分近くスクールアイドルの宣伝を生配信をして、最後にはフォーメアと仮面ライダーの姿まで流していたのに、野次馬の一人もいなかった。所在地を晒したにもかかわらず、だ。善子の配信番組のファンに、この街の住民はいないのだろうか。

 伊豆三津シーパラダイスで千歌がシェル・フォーメアと戦った時は人だかりができたのに、と思うが、今回はリアルの目撃者がいなかったことを思い出す。それどころか、同じロープウェイに乗っていた若いカップルは、発報されたフォーメア通報が島の反対側の件だと気付いてもいなかった。

 いくらネットで盛り上がっても、リアルにフィードバックはないのか?

 今回の淡島での宣伝は、根本から失敗だったのかもしれない。

 と、遠くからエンジン音が近付いてくるのが聞こえた。その音が誰か、今度は曜にも分かった。

「みんな! 怪我は――」

 駐車場に滑り込んだ中型オフロードバイクからライダーが飛び降り、

「――どうしたの?」

 漫然と立ちすくむ曜たちに、フルフェイスヘルメットの梨子は目をしばたたかせた。

「怪我はないよ。ね、考朔くん」

「うん、まあ」

 発言の通り、曜自身はなんともなかった。

 梨子はヘルメットを脱ぎ、七人を見比べる。

「あの、誰が倒れた……んだっけ?」

「二人と、私と――」

「――俺」

 手を挙げたメンツを見て、梨子は眉を八の字にした。

 ラズリ・フォーメアに襲われて倒れた、曜、よしみ、むつ、考朔は、むしろ平然としている。

「私は平気だったんだけど……」

 と、いつきが無言のままの二人にそっと目を向けた。

 憔悴した千歌と、眉間にしわを寄せた善子は、ここまで一言も口を利いていない。

「どうしよう、私」

 梨子は乗ってきたバイクを一瞥した。後部座席に大きめのコンテナが結び付けてある。

 それを見て、曜はピンときた。

「もしかして、東京に帰るの?」

「どうして知ってるの?」

 梨子は驚いたが、曜には意外ではなかった。元々短期間の滞在と聞いていたし、特に五月に入ってからの二週間、梨子が今までになく色々なセクションに関わっていたのを見て、薄々感づいていたからだ。

「ああ、あれは違うよ、お礼を持ってきたの。みんなにって。帰るのは日曜日だし、でも……」

 梨子は言葉を途切れさせ、千歌を見た。

 千歌も予感があったようだ。黙って梨子を見ているその目に浮かんでいるのは、不甲斐なさか。

「大丈夫? 千歌ちゃん」

 その単語は、と曜が思った時には、千歌はひきつけを起こしたように声を上げた。

 考朔とよしみの幼馴染み組がすぐに千歌に駆け寄り、いつきとむつは所在なげにする。

 梨子の心配は分かる。

 千歌の調子は悪い。先週ラズリ・フォーメアが現れた時に顔が真っ青だったのは体調不良だと思ったが、今日のように、人間の顔をしているとはいえフォーメアと仮面ライダーの戦いを前にして、幼馴染みたちが襲われているのを目にして、変身できなかったのは異常だ。

 曜にはこれが、ここ数日間で終わる問題とは思えなかった。今まではフォーメアが現れる度に、新しい仮面ライダーやそれに類する力が現れていたから顕在化しなかっただけだとすると、その一翼であるブランキアがこの街を去るのは、危険かもしれない。

「心配しないで。この街のことは、この街の人間が解決するわ」

 曜の懸念を余所にそう宣言したのは、善子だった。

「スクールアイドルと仮面ライダーにおんぶにだっこじゃ、学校を救うなんて夢のまた夢よ。やれる人がなんとかしなきゃ」

「この街って、善子ちゃん、沼津の人でしょ?」

「その差、重要?」

 善子の態度が普段とも堕天使ヨハネとも違い、曜はつい本名で呼んでしまったが、善子はそれに気付かなかったようだ。

「とにかく、リリーは自分のしたいようにしなさいよ」

 ぶっきらぼうにそう言うと、善子は腕時計を一瞥した。

「バス、あと五分で来るけど。明日は予定通りゲネプロでいいのね?」

「ヨハネちゃん、練習は?」

「続けられると思う?」

 善子は駐車場を斜めにつっきって歩いていく。

 その背筋の伸びた後ろ姿は鮮烈で、なぜそんなにも強いのだろう、と曜は思う。

 ただでさえギリギリの状況なのに、すべてを台無しにしてしまいそうな出来事が起きた。そんな局面であって、善子は一向に折れる気配がない。

 曜が次々と底が抜けていく現実に耐えられているのは、千歌やよしみたちがいるからだと思っている。正確に言えば、折れそうな誰かを見ているからだ。自分が見た絶望的な光景を、誰にも見せたくないからだ。だから、折れそうな誰かに支えるために、踏ん張っていなければならないと思う。

 善子もそうなのだろうか。

 あの子も、地獄の底を見てきたのだろうか。

「俺たちも行こ」

 考朔の声に、曜は我に返る。

「元気出してよ千歌、明日はウチから差し入れ持ってくからさ!」

「そうだよ、学校のみんなが準備に集まるんだから、頑張らなきゃ!」

「あと一日あるんだし、配信も後追いで広まってくって!」

「俺は明日は無理だけど、明後日は絶対見に行くから! 西高のヤツら連れて!」

 よいつむトリオと考朔も、一部はバスに乗るべく、一部は徒歩で帰るべく、善子のあとを追い、

「うん、よろしくね!」

 曜はそれに手を振った。

「千歌ちゃん」

 梨子の声に、千歌は表情のない顔を向ける。

「言うのが急でごめんね。ほんとは先月いっぱいの予定だったんだけど、ズルズル伸びるうちに、言いそびれちゃって」

「うん」

「ほんとはライブが終わるまでいたかったけど、復学の手続きがあるから」

「うん」

 会話が続かない。

 バスの音が近付いてきて、停まり、走り去る。

 梨子が革のライダーブーツの爪先でコンクリートを叩き、数センチ転がった小石を千歌が見る。

 背中まで届く二人の髪が、生ぬるい海風に煽られる。

 気まずい沈黙。

 またエンジン音が近付いてきた。美渡の軽自動車が迎えに来たのだ。

「じゃあ私、あいさつに行ってくるね。また明日」

「うん」

 千歌は頬を持ち上げて、手を振った。

 梨子はそれを見て、瞼を伏せた。

 千歌の顔が、笑顔に見えなかったからだろう。

 梨子がバイクで走り去り、入れ替わりに軽自動車が駐車場に入ってくる。

 千歌の手は力なく垂れた。

「千歌ちゃん、ごめんね」

「え?」

「瑠璃さんが――ラズリが怪人って分かった時、私、すごく怖かった。でも千歌ちゃんは、いつもあんな思いしてたんだよね」

「曜ちゃん」

 千歌が口を開きかけたが、曜は彼女の手を握った。

「善子ちゃんの言う通りだよ。ここは私たちの街なんだから、私だって頑張らなきゃ」

 なのに。

 まだ手が震えている。

 目尻が熱くなってくる。

 頭を空っぽにしたいのに。

「帰る?」

 やってきた美渡が、二人に呼びかけた。

「うん」

 千歌は結局、泣かなかった。

 ただ、途方に暮れた顔をしていた。

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