B
いつか、妹に教えたことがある。
現代社会においてゾンビは、“ブードゥーゾンビ”と“モダンゾンビ”に大別できる、と。
それを一変したのが、ジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』だ。一九六八年、カウンターカルチャーによる若者の革命が下火に向かい、アメリカン・ニューシネマ勃興のタイミングで公開されたこの作品で、ゾンビは人種問題の隠喩となり、「頭を弱点に持ち、生者を襲い増殖していく死者」と定義された。多さと遅さが特徴で、全力疾走ゾンビも本質的にはこちらのバリエーションだ。
だから――
「妙ですわね」
――娯楽室のプロジェクターに、黒澤ダイヤは呟く。
≪ゾンビ・フォーメア≫は分類不能だ。
母の顔をした怪人に使役される集団としてはブードゥー系だが、彼女の指示で行動しているようには見えない。
死体の姿をした緩慢な集団としてはモダン系だが、人間に噛み付こうとはしていない。実体が水である都合、生者をゾンビ化する能力もないだろう。
フォーメアは人間の恐怖により形を得る、と聞き及んでいる。≪ローズ・アジェンダム≫と≪クレイジー・フィッシュ≫の抗争に一般人が巻き込まれた追突事故が、パイルアップ・フォーメアを産み出したように。
ならばこの怪人たちは、フィクションのゾンビから産み出されたのではない、ということか?
「お嬢様、繋がりました」
思考を遮ったのは、防音扉の横に立つ蓮生だった。
ダイヤ専属のボディガードが差し出す固定電話の子機を耳に当てると、毛足の長いカーペットを踏む音が聞こえた。
「シャイニー装着中ではなさそうですわね。なにをしていますの?」
「Oooh! ダイヤァ! 直接連絡くれちゃうなんて、どういう風の吹き回しィ!?」
「質問に質問を返すのはマナー違反ですわ。ブランキアは?」
「一度に二つも質問するのも、Manner違反よォ?」
「鞠莉さん?」
「んもう、いィけェずゥ」
電話口の甘ったるい声に、眉間のしわが深まる。
「では改めて聞きますわ。仮面ライダーはどうしていますの?」
「ShinyはProjectごと凍結、Wonderは現場にいるわァ。Branchiaは――ま、企業秘密ね」
……なんですって?
「シャイニーの凍結理由は?」
「Dadにダメって言われちゃって」
「なぜワンダは現れないのです?」
「お腹が痛いのかも?」
「ブランキアは」
「引退じゃなァい?」
「ふざけている場合ですか!」
黒服の肩が引きつった。
「魑魅魍魎跋扈するあの地獄変でライブイベントを行うなど、仮面ライダーの存在なしにはできない調整だったのですよ!? それを――今動けないのならば、わたくしたちになんの存在価値があるというのです!」
音響環境のいい部屋に怒号が豊かに響き渡り、その振動もやがて収まり、静寂が訪れる。
そこに、
「ふざけてるのはどっち?」
静かな声が重なる。
「みんな本気なのよ。本気でこの街を救おうとしてる。なのにダイヤ。アナタはそこに籠って、なにをしてるわけ?」
「黒澤家が売り渡し、小原家が切り刻もうと計画を立てているこの街に、わたくしになにができるというのです」
いつの間にか立ち上がっていたダイヤは、ソファに腰を下ろした。
プロジェクターではいまだ、黒総警のボディガードとゾンビたちの、泥に杭な攻防が繰り広げられている。
あそこには浦女生に内浦の市民、そしてルビィがいるというのに。
沼津の半分を牛耳る黒澤宗家の長女であり、浦の星女学院の生徒会長であり、ただの女子高生である自分には、誰を護る力もない。
半身不随の隠居にも関わらず、いまだに羊の皮をかぶった狼であり続けている祖父とは違うのだ。
「覚えてる? ダイヤ。私たちの家の罪を」
返ってきたのは、鼻にかかるハミングのような声だった。
「……なんの話ですの?」
「さんどっぐ号よォ」
ああ、と音が漏れた。
二〇一一年三月一一日の一六時に発生した爆弾低気圧、その局所的な大嵐により駿河湾に沈んだ大型カーフェリー。
「忘れられるわけがありませんわ」
五二名の死者と一名の行方不明者を出した海難事故は、当初、黒澤宗家党首の黒澤琳太郎が直々に救助に向かった第一報で英雄的に広まった。しかし、沈没の直接原因が機関部の爆発による出火であると判明してからは一転、製造元の≪黒澤造船≫と所有者の≪OGIフェリー≫に矛先が向けられ、特に黒澤家は責任所在を巡って内紛状態になりかけたのだ。最終的には、下請けのボルト製造会社が違う経のネジを混入して納入したことが調査報告で示され、事故の話題自体も未曾有の大災害の陰に消えた格好となったが、少し状況が違えば、黒澤家の屋台骨は叩き折れ、ダイヤの今は失われていたであろう。
「だからこそわたくしたちは、経済の崩壊した内浦地区への助力を――」
そこまで口にして、思い至った。
「――まさか、このゾンビは?」
体育館の半面を占める怪人のモチーフは、さんどっぐ号で死亡した人々なのか?
ならば、舞台で座り込んだままの女子高生に、合点がいく。
当時、沼津市立内浦小学校の六年生だった、さんどっぐ号の船長の娘に。
遺体安置所となった浦の星女学院の体育館で、放心していた少女に。
「言ってたわよね、ダイヤ。『世界の終わりは爆発じゃなくてすすり泣き』だって」
唾を飲む。
クルツは死に、ガイ・フォークスは処刑され、あなたの王国は失われる。
「なら、これがその終わりよ、ダイヤ。計画も、抵抗も、安全も、驚きも、なにもかも消え去るわ。あの学校から。でも――」
と、小さな吐息に続き、
「――シャイニーは動けないのよねェ!」
鞠莉はあっけらかんと笑った。
「まったく、あれだけ宣伝してそれでは、なんの意味もありませんわ!」
「
準備?
「言ったわよね、ダイヤ。『自分は夢を語れなくても、私たちの夢を叶えることはできる』って」
「な」
またか。
「アイツを準備しておいて。私の電話、今度はちゃァんと待ってなさいよォ?」
そして終話された。
子機を耳から離し、スピーカーを見下ろす。
溜め息。
果南も鞠莉も、思い出したようにダイヤの心をえぐる。
「勝手ですわね、本当に。わたくしの時をとめたのは、あなたですのに」
だが。
スクリーンに目を戻す。
モダンゾンビは、世界の変化に取り残された古い人々の隠喩だ。そして大抵の作品で、新しい人々たる生者は負ける。時代の変革者は往々にして、旧来の価値観に押し流されてしまうからだ。
では、浦の星女学院の廃校を阻止するため、スクールアイドルを結成して立ち上がった千歌たちは?
内浦湾一帯の災害対策計画都市化を進めるべく廃校を目指す両家に、負けてしまうのか?
ダイヤは唇を結ぶと、体育館の配信映像を終了した。
ややあって、OGIのロゴがスクリーンに浮かぶ。
その意味は、“光陰矢の如し”。
秒読みは始まった。
放たれた矢は、三本揃わなければ、今回も折れてしまうだろう。
「蓮生」
「はい?」
切り揃えた前髪の下から、専属のボディガードを見る。
「≪オートチェイニー≫を準備してください」
*
左袖を引っ張られた。
引っ張り返すと、ニットのほつれるイヤな音と共に、カーディガンが肩先の縫い目から音を立てて裂けた。
その先には、自分の爪に絡まったアクリルウールを不思議そうに見る水死体。
「ポリちゃん!
金色の斑点がちりばめられた籠手が泡と弾け、目の前のゾンビが内側からロリポリ・フォーメアに取って代わられる。
「もう、お気に入りだったのに!」
その間に
その先に、次のゾンビが立っている。
(手が足りないずら)
国木田花丸は唇を舐めて、視覚以外で四方に気を配る。
手近なゾンビを次々と水に還していくも、常に四~五体のゾンビに囲まれ、ラズリにまったく近付けない。
「シャクミ! カワズ! 何体か破壊しなさい!」
「先生! 倒しすぎよ! 花丸が突っ込めない!」
善子はひっきりなしにリトルデーモン――ルビィのボディガードや先生へ指示を飛ばしているが、四~五〇人に増えたゾンビでは、単純に数が合わない。数を合せるために空間を広く取ろうとすれば、それだけ前線を押し上げられてしまうし、前線を押し返そうとゾンビ破壊のペースが上がると、ラズリ周辺のゾンビ密度が高まって花丸が前進できなくなってしまう。
終わらないモグラ叩き。
ロリポリは強力とはいえ、七対一四本の
それでもラズリを抑えられる唯一の存在として、花丸は渦中に突入しなければならない。
善子は、“油断”と言った。
花丸たちにも、それがあったのは否定できない。
ゾンビの数を増やせると分かっていたら、ラズリから距離をとってはいなかった。
いや、爆発の可能性を承知で、花丸がラズリを倒すべきだったのではないか? 善子に厳禁されていたとしても。
(後悔先に立たず、ずら)
予定通り、待つしかない。
花丸にできることは、ラズリの力が戻る前に、再度ロリポリの制御下に置くことだけだ。
仮面ライダーが来ることを祈って。
意を決し、身を低くしてゾンビの波をかき分け、体育館を入口へと突き進む。
前方のゾンビの奥に、ラズリの顔が見えた。
あと一人――
「――国木田様! 前を!」
黒服の誰かが叫んだ。
目の前のゾンビの胸が弾け、なにかが見えた。
体育館の照明に光る、牙のように鋭いなにか。
(爪!)
とまれない。
身体を捻り、前方のゾンビ左肩からぶつかる。
「ポリちゃん!」
指示を発声する余裕もない。
飛来したμ-フォームに手を伸ばすが、さらに飛来した爪に弾かれる。
濡れたフロアシートに背中から転がる。
見上げた体育館の天井に、複数のゾンビの顔が覆い被さる。
どこに逃げる?
逃げられない。
(ルビィちゃん!)
だがゾンビの手は、花丸に届かなかった。
どん、どん、と腹に響く音と共に、怪人が飛び散ったからだ。
「ぶっ!?」
水死体だった水を顔に浴び、それを拭いながら身体を上げると――
「えっと、≪ヘア・オブ・イナバ≫かしら」
――二本のペンライトを手にした、少女が立っていた。
青みがかった灰色の衣装を着た、お団子頭のスクールアイドルが。
「善子ちゃん!」
「ヨハネだって――」
善子は両手のペンライトを、太鼓のバチのように左右に開いて構え、
「――言ってるでしょお!」
二体のゾンビの頭にそれぞれ振り下ろす。
どどん、と。
中空のペンライトとは思えない低音が響き。
一拍、ゾンビの頭が爆ぜた。
「やっぱり、使い慣れた得物が一番ね」
手の中でペンライトをクルクルと回すと、彼女はラズリを見る。
「遊撃に回るわ。あいつは任せるわよ、花丸」
そして集まってきたゾンビの群に突撃すると、跳躍、彼らの頭を踏んづけて走り去った。
*
「遊撃。そうするしかないわよね」
ゾンビの胸に貫手を突き刺し、その水で爪を補充しながら、ルビィの母の顔をした怪人は笑う。
*
均衡が崩れ始めた。
舞台
こちらに迫るゾンビと、それを抑えるボディガードと担任の信代。
ゾンビの頭や肩を踏んで跳び回りながら、撃ち漏らしたゾンビを潰して帳尻を合わせていく善子。
その境界線が、目に見えてこちらに近付いてきた。
黒服たちが護るべき観客と避難者たちと、ゾンビの間に広がる緩衝地帯が、減っているのだ。
「ヨハネちゃん、ダメだよ」
今まで指示を出していた善子が前に出たことで、全体を見て指示を出す人がいなくなってしまった。
だから、戦闘は派手になったが、戦線は維持できなくなっている。
なのに……。
ゾンビはパイプ椅子をガタガタ踏みならし、時には足を引っかけて倒れながら近付いてくるが、観客たちがステージに上がらざるを得ないほどには近付いてこない。
なぜ?
長浜を高波で洗ったデプレッション・フォーメアは、内浦湾一帯に暴風と間断ない風浪を産み出しているそうだ。
暴走族の一団を病院送りにしたパイルアップ・フォーメアも、江浦湾沿いの県道で暴走行為を続けているらしい。
どちらも、決定的な被害は出していない。
遊ばれている?
いや、真綿で首を絞めてきているんだ。
なんのために?
「恐怖……」
怪人を産み出す人間の感情。
今、私を支配している感情。
狙いは、その最大化か。
花丸とロリポリはたしかに、ラズリを封じる力を持っている。
ゾンビは大群だが、普通の人が戦える程度の存在でしかない。
だからみんな、勝機を信じていられる。
仮面ライダーが来るのを待っていられる。
波のように寄せてくる恐怖を抑える、堤防のこちら側で。
でも、それが破壊されたら?
怒濤だ。
そんなことはさせない。
「戦わなきゃ」
だから、スクールアイドルになりたいって思ったんだ。
仮面ライダーとして戦うって決めたんだ。
すべての希望が失わた時に、それでも「大丈夫だよ!」と叫ぶために。
みんなの笑顔を護るために!
なのに。
「戦わなきゃ……」
*
どれくらい経っただろう。
ルビィ専属のボディガードである四人は、露出した肌のいたるところから血を流していた。
お気に入りのカーディガンを失った花丸も、ロリポリを身体に這わせたり外したりしながら、ゾンビのただ中にいる。
加勢に入った顧問の信代は……姿が見えない。
同級生や先輩、避難してきた大人たちは、パイプ椅子を押し倒してステージ側に集まり、ルビィはその中で小さくなっている。
(これでいいのかな……)
ボディガードを矢面に立たせ、体育館に集まった人々に囲まれ、だが、ルビィはなぜその状況に疑問を抱くのか、疑問に思う。
これが普通だ。
ルビィが花丸と抱き合って震えている間に、ボディガードが傷付きながらも生徒を護り、大人や仮面ライダーが脅威を退けてくれる。
これが普通だったはずだ。
(ううん……)
花丸はルビィを護る道を選び、ロリポリを我が物にした。
善子は黒服を指揮する側に回り、≪因幡の白兎≫のようにゾンビの頭上を飛び回っては、先輩から借りたペンライトでゾンビを蹴散らしている。
ルビィが襲われたどの局面とも、状況は変わっているのだ。
なのにルビィは今も、手提げ袋を後生大事に抱えているだけ。
果南からμ-フォームを与えられたのに。
「……あれ?」
ふとスカートのポケットに触れてみるが、あの球体の感触がない。
落としてしまった? いや、こんなことは前にも――
「探してるか?」
――経験していたから、スクールバッグにぶら下げたピンクのクマの頭のぬいぐるみがピクピク動いているのを見ても、「ピギィ!」と発さずにいられた。
「ス――ベラさん」
「ストーカーじゃなかったのか?」
「だ、だって」
と、先輩の視線を感じて、慌てて電話を耳に当て、クマの頭のぬいぐるみをバッグから外した。
「そんな名前じゃ、ルビィがストーカーに追われてるみたいだし」
「だから
クマの頭のストーカー・フォーメアは、おちょくるようにルビィに言ってから、ひょい、とルビィの頭の上に乗った。
「問題なさそうだな」
「え?」
「忠誠心のある兵士、それを前線から指揮する参謀、王を護る肉の壁。いい布陣だ。これで騎兵隊が来れば、お前が戦う必要はない」
「来てくれるかな」
「どっちにしたって、マントを使っても変身しても、お前一人じゃ勝てないんだからな」
「そうかもしれないけど――」
そう眉を寄せた時、流してしまった言葉に気付く。
「――肉の……壁?」
「ん?」
ぬいぐるみが頭からおり、セーラー服の襟首に腰掛けた。
「何人殺されるまで壁でいるかは、正直俺にも分からん。黒澤家――ってより、お前自身がどれだけ
殺される?
≪妙法寺≫での会話を思い出す。
平然と、自分と同じフォーメアであるラズリを殺せと言った、ストーカーのことを。
「どうして、そんな簡単に、命のお話ができるの?」
クマの頭は、襟の上で小さく傾いだ。
「言っただろ、俺のベースはお前だって」
電話を当てた耳が汗ばむ。
「そんなことないよ、ルビィ、誰にも死んでほしくないよ」
「おいおい、しっかりしろよ。あいつが狙ってるのはお前の“解放”だ。こいつがそのお膳立てだってことぐらい、分かるだろ」
「分かるけど、それは分かってるけど」
「
「そんな、ルビィは、そんなこと――」
「――ヨハネ! 後ろ!」
先輩が叫び、顔を上げた。
そして見た。
衣装のスカートを引っ張られた善子が、ゾンビの頭を踏み外したのを。
≪因幡の白兎≫のように。
「ヨハネちゃん!」
自分の叫び声が、妙に遠くから、間延びして聞こえる。
善子に掴みかかるゾンビが、コマ送りのように見える。
感覚が遠ざかる。
手提げ袋が手からこぼれ、針ケースが騒々しい音を立てる。
ペンライトや型紙本が滑り出し、フロアシートに散らばる。
“待つ”。
その通りだ。
ストーカー・フォーメアは、ルビィから産まれた。
ストーカーの言葉は、ルビィの言葉に他ならない。
護ってほしい。
何度そう思った?
怪人から、犬から、男性から、親戚から、先生から、水から。
姉に、黒服に、両親に、家に、学校に、街に。
黒澤家は、沼津に巣くう、人々の血を吸って生きる吸血鬼の城。
ルビィは、城の最上階に
その構図が、実体を持って現れただけだ。
なにかを待つだけの、ルビィの世界が。
「違うよ……」
唇に痛みを感じる。
血の味が広がるのを感じる。
「違うよ! もうルビィは、こんなの待ってない!」
叫びの波が広がり。
消えた時、五感が戻ってきた。
クマの頭のぬいぐるみを襟から引き剥がし、電話と一緒にバッグに押し込む。
手提げ袋の中身を、型紙本の表紙を、その人物と視線を交わし、
一歩を踏み出す。
「おい、ルビィ!」
応えないルビィに、密集していた友達が、先輩が、大人が、道を空ける。
その先で、ゾンビの海が同じように左右に分かれる。
濡れたフロアシートに倒れた善子が不思議そうに身体を起こし、ロリポリを腕に乗せた花丸がこちらを見る。
ラズリが娘を受け入れるように腕を広げ、その一〇本の指でゾンビを抑える。
その道を、ルビィは歩く。
倒れたパイプ椅子で転ばぬよう、一歩ずつ。
黒澤家はなんのために、人々の血を吸うことを許されている?
ルビィはなんのために、丁重に
姉や幼馴染みが、教えてくれたじゃないか。
*
ロングヘアの少女が舞台袖から出てきて、ステージに座り込んでいたショートボブの少女を立たせた。二人ともスクールアイドルの衣装を着て、後者の少女は転がっていたハンドマイクを手にした。
だが、ライブが再開される様子はなかった。今の二人はむしろ、観客の側なのだから。
黒澤瑠璃は、そんなステージしか表示しない車載映像に気を揉んでいた。
別アングルの映像に切り替えたいが、リムジンのコンパートメントには自分しかおらず、リモコンの操作方法は分からない。夫の電話を手に取るも、几帳面にロックされている。
手詰まりだ、と電話を持ち主のシートに投げ返し、背もたれに身体を預けた時、
「善子ちゃん、怪我はない?」
ルビィの声が聞こえた。
「平気……みたい」
「先生は?」
「ああ。あいつら、なんか押さえつけてくるだけだったぞ」
「黒服さん、二人をお願い」
「お嬢様、ですが――」
「――下がって」
瑠璃は眉をひそめる。
落ち着いた口調に滲む、有無を言わせぬ凄味に。
「待ちくたびれたわ、ルビィ」
「ルビィちゃん」
「マルちゃん」
「あら、まだみたいね」
車載画面はなにも映していない。
それでもルビィが、瑠璃と同じ顔をした怪人と対峙しようとしていることは分かる。
「まったく……さすがはあなたの娘ですわね」
瑠璃がリムジンの防音ガラスの向こうに目を向けると、横転したバスの上に立つ小太りの夫が見えた。クルーザーの激突で歪んだ非常口をこじ開けようと、テコの原理と
巨大なタツノオトシゴが起こした高波でバスが横転したと聞いた琳太郎は、リムジンを発進させない運転手を引きずり出して通行止めを突破し、海岸通りに辿り着いた。ボディガードはもちろんとめようとしたが、同時に雇い主が聞き入れるわけがないとも分かっているので、今は琳太郎の主導する救助作業に全面的に協力していた。
内浦分遣所からやってきた消防車が見えた時、非常口が根負けし、琳太郎がバスの車内に手を伸ばした。ややあって、男子生徒がバスの側面に登ってきた。
≪黒澤車両運行≫の運転手が走ってくるのも見え、これで夫の英雄的行動も終了か、と瑠璃は鼻息を漏らす。
「お待たせ、お母さん」
そんな時に、また、ルビィの声がした。
「最後の忠告だよ。これを全部片付けて、出ていってください」
「手が震えてるわよ、ルビィ」
自分と同じ声が、甘ったるい口調で言う。
「でも心配しないで、あなたの夜明けはすぐよ。さあ、私の手を取って。闇の真珠に心を――」
「――出てって!」
きん、と。
雑音混じりの叫びが、スピーカーを揺らす。
「解放も、夜も、
ルビィが口答えをした。
自分と同じ顔をした怪人に。
「“ノブレス・オブリージュ”か。やっと、黒澤家に夜がもたらされるのね」
返答は、噛み合わない言葉。
ルビィの顔も、怪人の顔も、いまだ見えない。
スモークガラスの向こうで狼狽する運転手がリムジンに乗れば、状況は変わるだろう。
それまでは、琳太郎が持ち出したキーでしか開けられないリムジンに
「やはり、似ても似付きませんわね。あなたとわたくしは」
*
ラズリ・フォーメアは目を見開き、唇の端を持ち上げていた。
ゾンビを腕で抑える故にジェスチャーは控えめだが、歓迎の意を伝えたはずだった。
だが、変心はなかったようだ。
「ベラさん!」
ルビィの呼び声に応えるように、小さな球体が飛んでくる。
「だから、俺が言った通りになったろ」
語りかけたのは、紫色のコウモリのぬいぐるみ。
「ずいぶん可愛くなっちゃったのね、ベラちゃん」
「うるさい」
ルビィの頭上をフラフラと羽ばたくたびに、笛のような音をなびかせるコウモリが、ルビィの闇の真珠、ということ。
明確な非日常の存在に、アリーナの奥で民衆が声を上げる。
「あいつ腕、マントだけじゃ勝ち目はないぞ。また俺が、お前の力を借りて――」
「――違うよ」
ルビィが宙に手を伸ばし。
その球体を掴む。
「ルビィが力を借りるんだ」
「おい! 待て――」
――ぶちり、と。
乾いた音が響いた。
左手の甲に押し付けられたぬいぐるみが、その中の闇の真珠が、その中の正多面体が、皮膚を破る音が。
「ルビィ!」
ツーサイドアップにまとめた髪が広がり。
制服の腰を、鎖がベルトのように締め上げ。
頬に血管のような文様が浮かび。
強く閉じた瞼から、涙がこぼれる。
痛みに耐えるように。
「もう、ルビィ」
ラズリはゾンビを腕で抑えたまま、一歩、娘に近付く。
押さえたままのルビィの左手から、一筋、血が流れる。
「だから、解放してあげるって言ったのに」
ルビィは瑠璃の手で、痛みを伴う行動から遠ざけられていた。
一番大きな怪我でも、膝小僧をすりむいた程度と聞いている。
なのに、自分で自分を傷付けてしまうなんて。
「無理しないで」
ラズリはもう一歩近付き。
娘の大きな目が開かれる。
瞳孔が散大した目が、金色に輝く。
砂浜で再会した、あの夜と同じ。
すべてを反射し、拒絶する光。
いや。
二つの満月が欠けていく。
半月から三日月へ。
そして新月へ。
元の黒へ。
「ルビィ?」
広がっていた髪が収まる。
瞳孔が収縮する。
もう泣いていない。
「ごめんね、お母さん」
そしてコウモリの球体を――
「変身!」
――鎖のベルトにねじ込み――
「おいルビィ! こっちじゃない!」
――ルビィは砕け散った。
*
ルビィの心は、どれくらい残ってるんだろう。
これまで知ってきた恐怖に、トンカチみたいに叩かれて。
叩かれて、叩かれて。
欠けた月みたいに、もう欠片しか残ってないと思う。
あと一度叩かれたら、きっと、ルビィは砕けてなくなっちゃうかも。
なのに、戦うの?
戦うんだよ。
恐怖が怪人を強くしちゃうなら。
ルビィに残された最後の欠片は、一番純粋な恐怖は、今、使うべきなんだ。
ノブレス・オブリージュ。
街の血を吸って生きる黒澤家の人間として。
せめて、食らい付いてから砕けてやる。
*
ルビィの形をした切片が、ガラスのように飛び散り。
フロアシートに落ち、泡のように弾けて消える。
だが、ルビィはそこにいた。
高い襟で首までを覆う黒鉄色の鎧をまとい。
骨をむき出しにした前腕と脛に鎖を巻き付け。
角と牙を表わすコウモリのような仮面を被って。
ブランキアやワンダのようで、まったく違う姿で。
「フォーメア……?」
誰かが呟いた。
「ルビィが……」
ざわめきが広がる。
だから、
「仮面ライダーだよ!」
渡辺曜は叫んだ。
「そうよ! 仮面ライダー! 仮面ライダー……ヴァラーよ!」
“Valor”――“勇気”か。
善子の命名が残響する体育館に、歓声があがった。
「引っ張りすぎだぞルビィ!」
「頑張れルビィ!」
「バラ!」
「頼むぞバラー!」
薔薇?
「え、違うって! ヴァラーよ、ヴァ!」
「バラ!」
「バラー!」
「だ、だから! バラじゃなくて、ヴァ・ラ・ア!」
「バラー!」
「だーかーらー!!」
よかった。
ルビィは仮面ライダーになった。
怪人なんて、あんな子には似合わない。
ルビィ――≪仮面ライダーヴァラー≫はギャラリーに惑わされず、ゆっくりと腕を構える。
じゃらり、と。
その腕は、鎖で縛られたまま。