仮面ライダーメルシャウム   作:fuki

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第三話:今考えても仕方ない - 2

   B

 

 入口から差し込んでくる雲間の西日に、壁にはめ込まれたステンドグラスの光、揺らめく蝋燭の明かり。

 空間全体が厳かに、だが穏やかに彩られている。

 祭壇の上に据え付けられた十字架には、全人類の罪を背負って死んだ男性の姿。

 国木田花丸は一人、チャペルを歩いている。

 十数秒前にはたしかにあった現実が消え、まるで不思議の国に迷い込んだ、アリスになったような気分だった。

 それは、日本の田舎町にある廃校間近の学校から、カトリック教会に迷い込んだから、ではなく。

 ここが、花丸の知識と記憶にあるカトリック教会とは、似ても似つかない場所だったからだ。

 沼津で入っていた聖歌隊の発表で行った教会は概ね、十字架を模した天井の高い建物で、祭壇はその奥にあった。だがこの建物は、サイズの違う部屋が奥に三つ並んでいる構造だ。全体としては十字架の形なのだが、入口から祭壇まで東西に貫く身廊はないし、身廊と側廊を隔てるアーチを支える円柱もない。

 中央の広い横長の部屋には、信徒席の代わりなのか、簡素なパイプ椅子が並んでいる。信徒はここに座り、奥の部屋の祭壇に祈りを捧げるのだろうか。機能的には近いものを感じないこともない。

「不思議な作りずら」

 花丸は意識せず呟いていた。

「ここは元々、正教会の聖堂でしたからね」

「ずらっ!?」

 自分の声がことのほか響いて、花丸は慌てて口に手を当てた。

 振り返ると、いつからいたのか、黒いキャソックを着た男性が立っていた。

「申し訳ありません、気付いていると思っていました」

 そう言って小さく笑った。

「いえ、あの、オラ――私こそ、勝手に入っちゃってごめんなさい」

「構いませんよ、ここは生徒を含むすべての方に開かれていますから。表のフェンスも開いていたでしょう」

 それもそうだ、と花丸は自分の発言に恥じ入る。

「聖堂だったのですか? でも表にはカトリックの尖塔が付いています」

「ロシア正教に入信した黒澤家が、明治二一年に私立長井崎中学校が創立した時は、“クーポル”という炎を模した立派な装飾が付いていました。カトリック教会に改宗する際に、形だけでも、と尖塔に交換されたそうです」

 花丸が首を傾げていると、

「ロシアやアラビアの建物にある、タマネギみたいなアレです」

 と砕けた調子で補足した。

 花丸は納得して、装飾の少ない天井を見回しながら感嘆の息を漏らした。

「教会に興味がおありですか? それとも本校の歴史ですか?」

「私、沼津の聖歌隊に入ってて、それで、浦の星に進学したらチャペルの聖歌隊に参加しなさいって言われたんです」

「では、あなたが国木田さん?」

「はい!」

「よかった。先週の件で、来ていただけないかと思っていたのです」

 そう言われて、花丸は思い出してしまった。

 あの頭が輪切りになっていた、天使のような怪人の姿を。

 だが、顔は笑顔を保持する。

 あれは、あの≪仮面ライダー≫という人がやっつけてくれたはずだ。

 そう信じることにしたのだ。

「私、今年浦の星女学院に入学した、国木田花丸です」

「聖ゲオルギオス礼拝堂の司祭を務めております、滝川天吾です」

 名を明かし合い、一つの儀式が終わる。

「あの、私、お寺の生まれで家もお寺なんですけど、いいです?」

「ええ、本校の聖歌隊は宗教と関係ありませんよ。ではお時間がよろしければ、活動についての――」

 言いかけたところで、西日が遮られた。

 また曇ってきたのかと目を向けると、出口に誰か立っているのがシルエットで分かった。

「お待ちください」

 滝川司祭は花丸にそう言って、出口に向かう。

「ようこそ、ここは聖ゲオル――」

「――Ciao! 久しぶりね、ミルキー!」

 その人物は司祭の言葉を遮り、チャペル中に反響する高音で言った。それだけで花丸には、それが朝の全校集会で見た理事長代理の小原鞠莉だと分かった。

「滝川です。呼びたいように呼ばないでいただきたいのですが、小原さん」

「なら私は理事長代理よ。二年前と同じ呼び方はご遠慮いただきたいでェス」

 司祭は花丸に目を向けてキャソックに覆われた僅かに肩を竦めた。

「戻ってこられたのですね」

「一段落付いた、って言えればいいんだけど、まァ、星が巡ってきたのよ」

 鞠莉は花丸ににっこり笑いかけると、二人の間を通りすぎ、祭壇の方へ向かう。

「≪エンジェル・フォーメア≫はここから出てきたのよね?」

「怪人のことですか? 天使を名乗るとは、聞き捨てなりませんね」

「私が名付けたのよ」

 司祭は口を閉じたまま頬を持ち上げた。意外と俗っぽいところがある、と花丸は思う。

「はい、そう聞いています。私はあの日、新入生の洗礼の準備がありましたので、純水の搬入に洗礼盤の設置など、ここを離れていた時間がありました」

 理事長代理は首を傾げた。左側頭部で結わいた大きな輪っかが、遅れて弾む。

「ねえミルキー。アナタ、実は神様のこと、あんまり好きじゃなかったりする?」

 そんなことを、磔にされたブロンズ像を見上げて言った。

「なにを仰るのです。私は神に献身しているのですよ」

 西日が雲に消えていき、光の境界がぼやける。

 祭壇の手前の鞠莉が振り返る。

「怖くない? 人間のことなんて気にもしないで回り続ける、無責任なSystemが」

「仰る意味が、よく分かりませんが」

「そう? アナタは? この星のこと、どう思う?」

 と、その矛先が花丸に向く。

 数秒考えて、花丸は口を開く。

「吉田さんは言いました。『天地をもちて書籍となし、日月をもちてその証明とす』って。オラ――私を無視して回る星のシステムがあるなら、私は私の断面で読み解くだけです。そこに好悪はありません」

 その返答に手のひらを上に向けた鞠莉は、

「まあいいわ」

 と言って、奥に進んだのと同じペースで戻ってきた。

「Sorry、最近おかしなことが頻発しているから、ね」

「構いませんよ。生徒の迷いを聞くのは、カウンセラーとして私の役目です。神と精霊と父は、洗礼を受けていないものの罪を赦すことはできませんけどね」

 鞠莉は片手を振って答え、出口まで行くと、ふと、脇の聖水盤を覗き込んだ。

「空よ。足しておいたら?」

 司祭は大股で近付き、鞠莉の発言が正しいと分かったか首を傾げた。

(いつから空だったんだろう)

 花丸はこのチャペルの活動に、若干の不安を抱く。

 

   *

 

 黒澤ルビィは退路を断たれていた。

 教室棟と管理棟と体育館に囲まれた中庭の、生け垣や立木の生い茂る一角に追い詰められ、三方向から迫る人影に脅えていた。

「あ、あの……」

 話が通じる雰囲気でもなさそうだが、ルビィは対話を試みる。

「ル、ルビィに、よ、用ですか?」

 すると人影のうち、正面の一人が、口を開いた。

「黒澤ルビィちゃん、だよね?」

 オールバックをカチューシャでとめた二年生だ。

「は、はい……」

「ダイヤさんの妹さんだよね、今年入学した」

 高い位置で短いサイドテールを結んだ二年生だ。

「そうですけど……」

「私、ダイヤさんと同じ生徒会よ。入学式で挨拶したでしょ?」

 低い位置の一つ結びに後れ毛が目立つ二年生だ。

「ふ、副会長さん、ですよね……?」

「よし、じゃあこれで私たち、知り合いだよ!」

 もう一度、カチューシャの上級生が言った。

「あ、あ、えっと……」

 上級生の発言でルビィは、肯定の発言を意図的に言わせることで、のちの説得を受け入れやすくするテクニックの存在を思い出した。そういう時は警戒しろと、姉が教えてくれたのだ。

 だが、だからといって、包囲網を狭めてくる三人を強行突破するほどの度胸は、ルビィにはない。

「ご、ごめんなさい、私、初めての人には一人でついて行くなって言われてて……」

「謝らなくていいんだよ、少し話がしたいだけなの。いいでしょ?」

 頷くような角度に首を動かしてしまう。

 なんではっきり断れないんだろう。

 なんでボディガードの黒服さんたちは助けに来てくれないんだろう。

 涙が盛り上がってくる。高校一年生なのにこんなことで泣くなんて、またお母さんに叱られちゃう。そう考えると、ますます泣きそうになる。

「ちょっと、ちょっと、むつ、やばいって! これあと一歩で犯罪だって!」

「平気平気、もう一〇〇パー犯罪だから」

「ダイヤ様に殺されちゃうよ!」

 生徒会副会長とむつと呼ばれたカチューシャの上級生が小声で言い合い、

「いつき、よいつむフォーメーションを崩しちゃダメ!」

 サイドテールの上級生が副会長に指示を飛ばす。逃がしてくれる気はなさそうだ。

 こんなことなら、一人でリムジンに乗って帰っていればよかった。

 電話の電源を切っている花丸を探すなんて、ルビィにできるわけなかったんだ。

(うう、お姉ちゃん、マルちゃん、助けてよう……)

「よしみ、早く! あれ!」

 と、よしみと呼ばれたサイドテールの上級生が、散水されて輝く芝生の上に、ちょん、となにかを置いた。

「ね、これ食べたくない?」

「そ、それは!」

 その透明なフィルムに印字された文字と丸い橙色のシールに、ルビィは釘付けになる。

「『みかんスイートポテト』! 今月から菓子屋≪松月≫で販売されている、気鋭の期間限定商品! 食べたかったのにお姉ちゃんが『ルビィは太りやすい』だの『黒澤家ともあろうものが洋菓子にうつつを抜かすなど』だの色々言って結局食べられてない、あの!」

「そ、そうなの? 色々大変なんだね」

 同情的に呟くサイドテールの上級生は、それをくれるというのか。

(じゃあ……悪い人たちじゃない……んだよね?)

 完全にアウトな判断の元、ルビィは警戒心を緩めてお菓子を手に取る。

「やった! ルビィ、やったよ!」

「そうだね、よかったねルビィちゃん。じゃあ、お姉さんたちの言うこと、聞いてくれる?」

 フィルムを開けようと四苦八苦しているところで、気付けば一メートルも離れていない三人から、なにかの契約書らしき用紙が突き付けられた。

「ピギィ!?」

「ここに名前を書いてくれるだけでいいから。ね?」

「あ、あ、あの、あの、あの――」

「――そこまでだよ! 君たち!」

 そこに別の救いの手が現れた。

「とう!」

 ルビィの後ろの生け垣を跳び越えてきた誰かが、上級生の前に立ちはだかったのだ。

「下級生をいじめるなんて、上級生の風上にも置けないヤツら! このちかっちが成敗してくれる!」

 と妙な構えを取り、ルビィを囲んでいた二年生三人を、ばったばったと薙ぎ倒していく。

 いや、本当に手刀とか入ってるけど、平気?

「く、クソ! 覚えてろよ!」

 お手本のような捨て台詞とともに逃げていく上級生を眺めたルビィは、

「た、助かりました……」

 安心して芝生の上に座り込みそうになった。

「お嬢さん!」

 そこを助けてくれた上級生がパッと支えてくれる。

「お尻が濡れますよ」

 その顔が近くなる。

 先輩の長い髪が揺れ、その匂いをうっとりと嗅ぎ――

「じゃ、ここに名前書いてくれる?」

 ――そのまま固まった。

「な、な……なんなんですか!」

 ルビィにしては大声を上げ、身体を離す。

「ダメ?」

「ダメっていうか、なんなんですか、先輩たちは!」

 見回すと、さっき逃げていった三人の上級生が、常緑樹の陰に隠れてこちらを見ていた。グルだったのだ。

「まあまあ硬いこと言わないで。ここに名前を書くだけでいいから。形だけ形だけ」

「か、“形だけ”で引き込んであとで美味しい汁をすするのは、ヤクザの常套手段だってお姉ちゃんが言ってました! てか、それ部活の新設申請じゃないですか!」

 と、ルビィは申請用紙の上の文字に目がとまり、

「スクールアイドル部? スクドル始めるんですか!?」

 思わず叫んでしまった。

「どうしたの? もしかして興味ある?」

 目を丸くした上級生に、ルビィは慌てて口を押さえる。

「あ、あの、ルビィ、部活はできないんです。家からとめられてて」

「そうなの? うーん、妹から攻めれば、って思ったけど、上手くいかないもんだなあ」

「上手くいくと思って――」

 かさり、と。

 草の揺れる音が、妙に大きく聞こえた。

「ん?」

 音のした方を見ると、こちらを見ている上級生の向こうの木陰に、太った人影を見付ける。

 片腕をぶらぶらと揺らし、膝の曲がらない脚を引きずりながら、近付いてくる。

 ボリス・カーロフが『歩く死骸』で演じたような、歩き方。

 ルビィは溜め息を漏らし、それを指差す。

「先輩、もういいですよ。ルビィ、部活は――」

「――うひゃあ!!」

 ルビィの発言をかき消すように、上級生が声を上げた。背後からやってきた人影に気付いて、だ。

「よっちゃん! そいつから離れて!」

 長い髪の上級生が叫び、ルビィの前に出て構えをとる。さっきとは違う、緊張した構えだ。

 ということは、これは仕込みじゃない?

 そう考えた時、それは太陽の下に現れた。

「ピギィ!」

「怪人!? まさか!」

 それは、全体では人の形をしている。

 たが、明らかに人ではない。

 皮膚が剥げ落ちて、肉どころか骨さえ見える手足に、髪の抜け落ちた頭、目玉や舌がはみ出した顔。

 極めつけは、藍色と暗褐色の斑点が浮いた腹が風船のように膨らみ、歩くたびに流動性の内容物が内側から表面を蠢かせている腹。

 そんなディテールよりもっとも異様なのは、それらが妙に、ポップなタッチで表現されていることだ。

 まるで現実味のない、記号化された“死体”。

 それが――

「先輩! あっちにも!」

 ――中庭のいたるところから、地面から滲み出るように、次々と立ち上がっていくのだ。

「ウソお!?」

 総勢、七体。

 気付けばルビィは、さっきと同じように退路を断たれていた。

「な、なんでルビィばっかりこんな目にい……!」

 ただし今度の包囲者は、本当に話が通じない存在らしい。

 

   *

 

 初めて浦の星女学院の校舎を見た時、桜内梨子は「学校っぽくない」と感じた。

 浦女の屋上は、南向きにソーラーパネルが立ち並んでいることを除けば、基本的に真っ平らだ。屋上へのアクセスが外階段だけで、階段室が存在しないからだ。そのため、いわゆる“抽象化された学校”に見られる、上部の出っ張りがない。それが学校っぽくなさの理由だろう。

 中庭における千歌と何者かの対面から、数分、遡る。

 梨子は屋上にいた。

 湾の桟橋にいた時に思った通り、潮の匂いはしない。だが長井崎岬の名の通り、ここは海に突き出した岬だ。前も右も左も、生い茂る緑の向こうは海。長い長い波止場、点々と浮かぶ生簀、湾の海岸線沿いの家々。

 それはこの街の人にとって、大切な景色なのだろう。

 だが海が苦手な梨子にとっては、処刑台への階段に思える。

「また会ったね、梨子さん」

 振り返ると、ソーラーパネルのそばに曜が立っていた。

 舌打ちを飲み込む。意識しないうちに背中をとられる機会が続いている。なまっている証拠だ。

「こんにちは、渡辺さん。こんなところにどうしたの?」

 浦女で出会った人はほぼしない苗字呼びで、梨子は答えた。

「スクールアイドルの練習するなら、どこがいいかなー、って思ってさ」

「高海さんの?」

「私たちの」

 曜は慎重な口ぶりで、その言葉を言った。

「私もするんだ。スクールアイドル」

「そ、そうなの?」

 唐突な宣言に、梨子は目を瞬かせる。

「私、この学校が好きだよ。今年で廃校って噂もあるけど、でも、みんながいる限り、ここにいたい。だからさ、教えてよ」

 梨子は曜に向き直る。

「なにしに来たの?」

「え?」

「ただの転校生だなんて、もう、通用しないよ」

 曜の口調は抑制されている。

 だがその裏にある感情を隠していない。

 “仮面”はもう、被っていない。

「もし、もしだよ。梨子さんが、私と同じ気持ちを共有してくれないなら――」

 風が吹く。

 あの匂いが鼻腔を刺激する。

 私の嫌いな潮の匂いが。

「――ここにいてほしくない」

 強烈な危機感。

 ぶつけられた敵意に対してではなく。

 曜の手の中で光を放ち始めた、μ-フォームに対して。

「渡辺さん、その球を捨てて」

「先生以外にそう呼ばれるの、久しぶりかも」

「お願い。地面に置いて」

「なんで?」

「お願いだから!」

「なら答えて!」

 音ノ木坂女学院のブレザーがはためく。

 浦の星女学院のセーラー服がはためく。

「イヤなことがあったんだよ。すごく、すごくイヤなこと。たくさんの人が傷付いて、たくさんの人がいなくなって、でも、みんな、それを忘れようとしてる」

 梨子を睨む両目に、暗い光が灯る。

 その手に握る球体に同期する光が。

「二度と……。二度と、あんなことは起こさせない。梨子さんがその使者なら、私は……」

 言葉は続かなかった。

 代わりに放たれたのは、輝きを放つ弾丸。

「!」

 持ち主の手を逃れたμ-フォームが、梨子へ発射されたのだ。

(発動してる!)

 上半身をひねる。

 顔面を目掛ける射線から逃れ、眼前を通過する球体を視認する。

 手を伸ばせば掴める距離。

 発現する前に、回収できる。

 だが、その手がとまる。

 曜が膝から崩れるのを見てしまった。

 ソーラーパネルを支える鉄骨の構造体に向かって倒れるのを。

「渡辺さん!」

 跳ぶ。

 曜の横腹にぶつかり、抱き合うように屋上を転がる。

「しっかりして! 渡辺さん!」

 意識がない。当たり所が悪かった?

 いや、失ったから倒れた、その順序だ。

「フォームは!」

 曜を寝かせ、屋上の縁から下を見下ろす。

 だがそこには、校庭を始めとする学校施設が見えるのみ。

 いや――

「プール……」

 ――四月にしては透明な水を湛えるに屋外プールに、小さくない波紋が起きていた。

 水影が落ちる底面に、ほのかな輝きが揺れている。

 心臓が早鐘を打っているのを感じる。

 ポケットの膨らみに触れる。

 なにが起こる?

「……あれ?」

 なにも起きない。

 プールの波紋は、海風によるさざ波にかき消された。

 おかしい。

 μ-フォームは発動していたはずなのに。

「い、いてて……」

 と、曜が起き上がった。

「あれ? なんだっけ。梨子さん?」

 梨子は曜に駆け寄って手を貸すと、その顔を覗き込む。

「渡辺さん、あなたの怖いものってなに?」

「は?」

「怖いものよ」

「え? え? 飛込の水面尻打ちとか?」

「お、お尻ぃ? お尻、えっと、え? それってなにになっちゃうの?」

「あと、交通事故とか? なにって? 話が見えないんだけど?」

 要領を得ない疑問符の応酬に、

「ピギィ!」

 奇声がかぶさった。

「怪人!?」

 先に反応した曜が、立ち上がって走り出した。ソーラーパネルを迂回して、プールと反対側の縁から身を乗り出した。梨子もそこに並ぶ。

 そこは、直角に交わる管理棟と教室棟、そして体育館とその渡り廊下に囲まれた、中庭だ。植物の生い茂るその中に、数人の浦女生と、そうは見えないなにかがいた。

「あれがフォーメア? なんで、フォームはプールに落ちたんじゃ!」

「ストップ、待って! 説明プリーズ!」

 曜が梨子の肩を引っ張った。

「わけ分かんないよ! 梨子さんだけ分かってないで教えてよ!」

 曜に覗き込まれた梨子は、その顔を見続けるのも、目を逸らし続けるのも、無理だった。

「……怪人のこと、私たちは≪フォーメア≫って呼んでるの。≪μ-フォーム≫――あの球体と、人の恐怖心と、水からできた、正体不明のなにか」

「正体不明?」

「まだ分かってないのよ」

 曜は梨子から手を離し、

「フォーメア、フォーメア、フォーム? エア、メア……」

 扇状に広げた単語カードに[form][foam][air][mare][mere]と走り書きしていく。

 梨子はそのうちの二枚を示した。

「“foam”と“mare”で、“foamare”。“泡”に、“悪夢”“悪い”“嫌な”――怖いもの?」

 梨子が頷くと、

「“恐怖の泡”ってところか。分かった、これ以上は今考えても仕方ないね」

 曜は自分を納得させるように呟いた。

「とにかく、なんとかしないと。梨子さん、理事長の番号分かる?」

「なんで?」

「なんで、って! ≪仮面ライダー≫って人に来てもらわなきゃ!」

「あ、そ、そっか」

 だが電話を取り出す梨子の肩を、またしても曜が掴んだ。

「こっちにも来た!」

「こっち?」

 曜の指差す先を見ると、今まさに足を引きずるように歩くなにかが、ソーラーパネルの向こうから現れたところだった。

「“お化け”から死体が産まれた?」

 呆然とした曜の呟きは、前半は意味不明だが、後半は真だった。

 水を滴らせて近付いてくるのは、身体のあちこちが腐った死体。

 それも一・五倍ほどにも膨れ上がった、水死体だ。

 それが、まるでパブロ・ピカソの『ゲルニカ』のように抽象化されている。

 ゆえに肉体的な気持ち悪さはなく、だからこそ生理的な嫌悪感だけが刺激される。

 それが今回の怪人――フォーメアだった。

「下がって、渡辺さん」

 曜を背中で隠すように、前に出る。

 その時、どこかから複数の叫び声がした。校舎の中らしい。

「なんでこんな、こんなところに」

 曜は疑問を口にしたが、そもそもプールに落ちたμ-フォームから生まれたフォーメアが、中庭に出たのがすでにおかしい。

「渡辺さん、ここのプールの水、再利用してる?」

 問いかけるが、曜は微動を繰り返す瞳で水死体を凝視しているだけだ。

「渡辺さん! しっかりして!」

「え? あ、うん、たしか……トイレとか、中庭の植物の水やりとか」

 中水として繋がっているのか。もう水泳部が使い始めているのかプールの水は綺麗だった。なら濾過システムや雨樋を通じて、学校のどこにも来られるはずだ。

 そうこうしている間にも、死体の形をした怪人は、ギクシャクした動きでこちらに近付いてくる。斜めになっているソーラーパネルを踏んでバランスを崩し、地面に転がってもまだ這い進もうとする姿は、水死体というより――

「――≪ゾンビ・フォーメア≫、かな」

 じりじりと距離を詰めてくるフォーメアに、梨子はポケットの中のシーリングされた球体に触れる。

「梨子さん、早く避難しよう!」

「慌てないで、動きは遅いわ」

「この数でも!?」

「数?」

 梨子は周囲を見回し、息を呑んだ。

 同じような姿をしたフォーメアが、前からも後ろからも、ぞろぞろと出てきたのだ。視界に入るだけも一〇体はいる。

「なんでこんな! いっぺんに!」

「ゾンビなら多いのは当たり前だよ!」

「論理的!」

 曜に手を引かれ、ソーラーパネルに沿って管理棟の屋上を走る。向かう先は教室棟の外階段だ。

「渡辺さん、校庭に避難して! 乾燥したところに! 校内放送は!?」

「できるけど、梨子さんはどうするの!?」

「私は……」

 ただの検査旅行だった。

 なにもしなくていいはずだった。

 ポケットの中のμ-フォームだって、“そういう目的”で渡されたわけじゃなかったのだ。

 この街に来てから、この学校に来てから、なに一つ、予定通りにいっていない。

 あの時は無我夢中だった。

 いや、その記憶さえない。

 なのに、また、求められるの?

 どうして。

 その時、ソーラーパネルの上からゾンビが転がってきた。

 先行する曜は気付いていない。

「危ない!」

 曜を突き飛ばし。

 相手をいなすべく、構え。

 遅かった。

 回転するゾンビの手が、梨子の顔に届いた。

「いッ!」

 視界が黒くなり、赤くなり、明滅する。

 激痛と熱が走る。

「梨子さん!」

 顔に触れた手に、熱い液体で濡れる。

 目を開けると、青緑色の血が見える。

 違う。

 目が赤い光を反射するようになったから、血の赤が見えなくなっただけだ。

 それも一時的、急速に色順応が始まり、世界の色が戻る。

 だが手は緑色のまま。

 緑色の泡に覆われる。

 熱を持つ緑色の泡に。

「梨子……さん?」

 全身を覆う泡は硬さを帯び、苔のようにドロドロした質感に変化していく。

 身体の熱さは、まるで裸になったような涼しさにとって代わられ。

 ついで、五感が失われ、繭のようなものの中に閉ざされる。

 その繭から、“梨子”が離脱する。

 それを客観視する。

 やがて、繭から脚が分離し、腕が分離し。

 両肩から取り込まれた空気が肺を巡り、爆発的なエネルギーを与え、脇腹に開いた鰓から音を立てて噴き出した。

 水の滴る苔のような物質が、染みこむように身体へと消えていく。

 現れるのは、鋭い刃が連なったナイフのような一対の触角、赤い大きな複眼。

 腰のベルトでひとたび強く輝く、桜色の球体。

「ふう……」

 立ち上がり、ゆっくりと息を吐く。

 身体も、服も、靴も、痛みも、熱さも、涼しさも、どこかに消えた。

 あるのは、メルシャウムと名付けられた物質の塊。

 その怪人に、“梨子”が合流する。

 それを主観視する。

 変身してしまった自分を。

「≪ブランキア≫、まさか、梨子さんが」

「ふッ!」

 曜に掴みかかろうとしたゾンビの腕を取り、地面に引き倒す。

 そのまま胸の辺りを踏み抜くと、ゾンビは水に還り屋上を濡らした。

「行こう」

「う、うん」

 今度は曜を先導し、道々にいるゾンビを弾き飛ばし、管理棟から教室棟への短いブリッジを渡る。教室棟の屋上にはゾンビがおらず難なく縦断して外階段まで辿り着いた。

「避難して、渡辺さん」

「梨子さんは、どうするの?」

「私は――」

 再度の問いで、曜の詰問が思い出される。

「――分からないの」

「え?」

「なにをしに来たのか、分からないのよ」

 『あの音ノ木坂』。

 ベリーショートの三年生はそう言った。

 “あの”が指す意味は、分かっている。

 “μ'sによって廃校を救われた”、だ。

 その属性を帯びた人間なのだと。

 喜び、歓迎したかったのだろう。

 そこに、他意はなかったのだろう。

 だが梨子は、そこに拒絶を感じた。

 音ノ木坂を追い出され、東京から離れたのに。

 音ノ木坂の制服を脱げないまま、内浦にいる。

 この街で梨子を意味する記号は、梨子が捨てたかった記号なのだ。

 二つの相を隔てる、泡のように不確かで曖昧な境界そのものが私。

 じゃあ、私はなにができる?

 じゃあ、私の居場所はどこ?

「梨子さん……」

 鋭敏な聴覚が、曜の呟きを捉える。

 大きな複眼で曜を見る。

「でも」

 彼女の言う通りだ。

 今考えても仕方ない。

「私、≪仮面ライダー≫だから」

 曜は泣きそうに顔をゆがめたが、やがて頷いた。

「一時間もしないで雨がくると思う。それまでに終わらせて、梨子ちゃん」

「ありがと……曜ちゃん」

 仮面の奥で笑い、梨子は屋上から飛び降りた。

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