4月4日(火)
朝。目を覚ますと翡翠が俺の寝顔をじーっと見ていた。
「おはよう、アリス」
「ん……おはよう」
翡翠に挨拶を返しながら、もぞもぞと枕元のダッシュボードを探る。目当ての物はすぐに見つかった。婦人体温計という基礎体温を測る用の体温計だ。それは、普通の物より液晶が大きいしゃもじのような形状をしていた。その柄にあたる細い部分を口に咥え、舌の下で押さえて固定する。
基礎体温とは寝起き直ぐ動かずに測った体温のことを言うらしい。それを記録していくことで妊娠しやすい時期をある程度確認できるそうだ。
女性の体温には低温期と高温期がある。
生理に伴って低温期が始まり、排卵日に体温が少し下がって、それから高温期になる。生理が28日周期の場合、低温期と高温期が大体14日づつ。高温期の長さは大体一定で、俺のように生理周期が一定していない場合は低温期の長さが変わるらしい。
そして、セックスをして一番妊娠しやすい時期は排卵日の前日から前々日と言われている。これは精子が射精から受精できるようになるまで数時間のラグがあるのと、卵子の寿命が一日くらいしかないのに対して、精子の寿命は二日〜七日前後と長いからだそうだ。
『ピピピ』と電子音が鳴って体温計を口から取り出す。
液晶を見ると昨日とほとんど変わらない数値が表示されていた。
「……どう?」
俺の様子をずっと見ていた翡翠が聞いてくる。
「うーん、よくわからない」
基礎体温を測り始めたのは昨日からだ。
それまで体温を測ることなんてほとんどなかったので、今が低温期なのか高温期なのかが判らなかった。前回の生理から今日で27日目だから普通に考えたら生理前の高温期なんだろうけど、過去二ヶ月近く生理が来なかったこともあるからなんとも言えない。
「まぁ、継続して記録することに意味があるから」
「うん」
俺は体を起こしてスマホを手に取ると、アプリに今測った体温を入力した。
「ところで、今日の予定は決まってるの?」
「特にはない――」
と言いかけたところで、蒼汰からメッセージが来ていたことに気づいた。
朝から一緒に外出しないか――か。
随分と露骨なお誘いだなぁ……
まあ、わかりやすくていいけど。
「と思ってたけど、そうでもなかったかも……」
と翡翠に言葉を濁すように言うと、翡翠は直ぐに理由を察したようだ。
「蒼汰なの?」
「う、うん……」
無言の間が怖い。
「…………はぁ、仕方ないわね」
「あ、でも翡翠がどこかに行きたいなら、蒼汰とはその後にしようか?」
「いいわ。今日のところは一晩中アリスの寝顔を見て満足したから」
「……もしかして、寝てないの?」
「一時間くらいは寝たわ」
……なんでドヤ顔なんだろう。
俺の寝顔をそんなに見ていても退屈なだけだと思うんだけど。
「……無理はしないでね」
翡翠は満足そうだし、深く考えないようにしよう。
目が覚めた後は、一階に降りて翡翠を加えた家族みんなで朝ご飯を食べた。
「……父さんはなんでそんな怪我をしてるの?」
朝ご飯の最中、ふと気になって聞いてみた。
昨晩居なかった父さんが居て、何故か体のあちこちに傷を作っていた。
「いや、ちょっとな……」
父さんはばつが悪そうに首の後ろをかく。
「あんまり母さんに心配かけるようなことをしないでよね。もう若くないんだし」
俺は回復魔法を父さんにかけた。大きな傷こそ無かったけど、細かい擦り傷や切り傷がいっぱいだった。
「ありがとな、アリス……気をつけるよ」
それにしても、何でもありの近接格闘術を使う父さんがここまで怪我するなんて……熊退治でもしてきたのだろうか。
ご飯の後、翡翠は一足先に帰宅した
俺を迎えに来る蒼汰と顔を合わせたくないそうで、少し遠回りをして帰るとのことだった。
玄関でいってらっしゃいのキスを唇に要求されたので応えた。
「まるで新妻みたいね」
と、優奈がニヤニヤとしていた。
ほっとけ。
それから外出の準備をする。
今日は普段通りの服装だ。春物のブラウスにチェックの巻きスカート。下着も下ろしたてだけど普段使いのシンプルなやつだ。シャワーも今日はマンションについてから、さっと浴びたのでいいだろう。
「蒼兄とデートなのに……」
優奈は不満そうだった。
「蒼汰相手に気合を入れる必要はもうないでしょ」
初体験の義理は果たした。
「それに、蒼汰はどうせ普段着だよ? 私が気合入れたらバランスが悪くなるじゃない?」
「……それもそうだね」
優奈は深くため息をついた。
「蒼兄から変えないとダメかぁ……」
「ちなみに私は蒼汰を変えようとは思わないから。やるなら優奈にお任せするよ」
そんなやり取りをしていたら蒼汰が迎えに来た。
ジーンズにパーカーといった服装で、やっぱり普段着だった。
……ほらね?
優奈からジト目で見られて訝しむ蒼汰を、俺は手を引いて外に連れ出した。
「そういえば、朝から……するのか?」
望むところではあるのだけど、もう蒼汰との関係は変わってしまったのかと思うと少し寂しい気がした。だけど、蒼汰から出てきたのは、
「ん……? ああ、話してなかったっけ。お前大変だからチェックできてないかと思ってたが、今日はウィソの新しいカードセットの発売日なんだぜ。だから、発売記念トーナメントに参加しようと思って誘ったんだが……」
「聞いてない」
なんだ、相変わらずのウィソ馬鹿か。
……心配して損した。
思わず笑みがこぼれる。
「そうだったか。悪ぃな」
「……てっきり朝からするのかと思ってた」
蒼汰は変わらなくて、なんだか安心したような拍子抜けしたような……
「お前なぁ……そりゃ、アリシアさんを助けるのに必要なことだろうけど、ちゃんと息抜きはしないと続かないぜ?」
「う……全く間違ってないけど、蒼汰に言われるのは理不尽感ぱない……」
「ったく、俺をなんだと思ってるんだ」
「じゃあ、今日はしないの……?」
「あ、いや、それは……」
このスケベ。
がっついてない雰囲気出そうとしても、すぐボロがでてるじゃないか。そんなに慌てて……
「ふふっ、蒼汰ってば必死すぎ! ……冗談だよ。して貰えないと困るのは私だもん」
「そ、そうか……」
安心する態度がかわいいな、この馬鹿。
「……ところで、さっきから気になってたんだけど、なんで体中傷だらけなのさ」
「あー、いやぁ……これは……」
なんとなくピンときた。
「父さん……?」
「おう……昨日久しぶりにおじさんに乱取りの稽古をつけてもらったから……」
「呆れた。なんでそんなこと――」
「ええと、その……男だから、かな」
「そうか……」
ため息ひとつ。
なんだかわからないけど、なんとなくわかった。
通過儀礼という父さんが現状を受け入れるための八つ当たりだろう。
「回復魔法使うから背中向いて?」
「お、おう」
周囲に誰も居ないのを確認してから、蒼汰の背中に両手をあてて、体を寄せ額を背中にくっつけた。
「……わりぃ、な」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いてから、魔法の詠唱をする。体の痛みの記憶は消えないだろうけど、せめて傷だけでも。
蒼汰はどこかばつが悪そうに輝いて治っていく傷を見ていた。
カードショップについたら人がいっぱいだった。大会にエントリーした後は運試しに数パック買ってみたり、箱買いを開封している人の隣で、新しいカードを確認したりしていた。
大会が始まって、発売された新しいカードを使ってお昼過ぎまで思い存分に遊んだ。
とても、楽しかった。
その後、少し遅めのお昼を蒼汰とハンバーガーショップで食べた。新しいカードの感想を話し合いながら食事をしてると、ふと蒼汰が薬のようなものを飲んでいるのに気がついた。
「何を飲んでるの?」
「これは、その……精力剤だ」
言いづらそうに蒼汰は言った。
マカとかクラチャイダムとか亜鉛とかいろいろ入っているらしい。これは、父さんが蒼汰に渡した物で間違いないだろう。
「……昨晩と今朝も飲んだんだ」
「それって効くの?」
「あ、ああ……やばいくらい効く」
「そ、そうか……」
効いた結果どこがどうなるかは明白だった。
つまりはそういうことだ。
それから、お互い意識してしまい言葉が少なくなってしまう。
会話もどこか上の空で、蒼汰の視線がやたら胸や太ももに注がれている気がする。嫌な気分ではないが、なんというか恥ずかしい。
店を出た私達は無言でマンションに向かった。
……今日は五回した。精力剤ってすごい。