4月5
朝、体が重い感覚で目覚める。
もぞもぞ動いて基礎体温を測ると、昨日から0.5度ほど下がっていた。
認めたくはなかったけど、これはもう間違いないないだろう。
生理が来ていた。
スケジュール通りの28日目。今回ばかりは遅れてくれていたら良かったのにと思ってしまう。
「あーー……」
なにもしたくない。
でも、トイレに行ってナプキンを変えないと……
今つけているのは、念のため用の薄いやつだから心許ない。パジャマが汚れたら余計に面倒だ。
俺は気合を入れて体を起こす。
トイレとご飯。それから、みんなに報告。
最低限やらないといけないことを終わらせて。
……それが終わったら今日はずっと寝ていよう。
※ ※ ※
気がつくと俺は辺り一面の暗闇の中にぽつんと立っていた。
スポットライトを浴びているかように水の巫女姿の自分とその周囲だけが白く光っていて、他には何もない。
「これは、夢……?」
『そうさ』
ひとりごとのつもりだったが、意外にも返事が返ってきた。
姿は見えないが若い男の声だった。
『妊娠できなかったな、あんな思いまでしたのに……全部無駄だったというわけだ』
俺の夢の中だというのに随分と失礼な奴だ。
誰だろう……どこかで確実に聞いたことがある声なのだが、思い出せない。
「無駄じゃないよ。そもそも確率が低いことなんてわかっていた。本命は次、今回はその予行演習だと思えばいい」
こうなることは最初から想定内だ。
落ち込むようなことじゃない。
『……でも、もし次もだめだったらどうする?』
妊娠する確率は三割程度と言われている。そして、次がダメだった場合、その次の機会があるかどうかもわからない。
だけど――
「やる前から、できなかったときのことを悩んでも仕方ないさ」
絶望するのは、やれることがなくなってからでいい。
『そもそも、お前のしていることは自己満足じゃないのか? 禁忌の魔法に手を出して、産まれるはずの胎児から体を奪ってまで生きることをアリシアは望まないだろう』
それでも、己のエゴを貫くつもりかとその声は問う。
「そうだね、全部私のわがまま。それでも……」
それが、罪深い行為だったとしても。
それで、みんなに迷惑をかけたとしても。
それを、アリシアが望まなくとも。
「私はもう一度アリシアに会いたいんだ」
罪は抱えて生きていこう。
掛けた迷惑は恩としていつか必ず返す。
アリシアからの恨み言ならいくらでも聞く。
右も左もわからない異世界で、怖くて、苦しくて、辛い思いをいっぱいして……なんど挫けそうになったかわからない。それでも、最後までやり遂げて帰ってこられたのは、いつも側にアリシアが居てくれたからだ。
「アリシアは使命を終えて満足の中で逝けたのかもしれない……だけど、そんなのは私は嫌だ。彼女には自分自身の幸せのために生きてほしかったんだ。だから私は――!」
だから俺は――俺のためにアリシアを救う。
『その結果、人生をやり直すこととなるアリシアに、自分以外の好きな相手ができたとしても?』
「アリシアの幸せには変えられない。考えるだけで胸が張り裂けそうなくらい嫌で、嫌で、苦しいけど……」
『……そうか』
男は俺の答えに満足したようだった。
「……でも、そんなことは聞かなくてもわかっているんじゃない? あなたなら」
今度は俺が声の主に問う。
俺はもうその正体に気づいていた。
『そうだな……だけど、それを確認するのは俺にとって大事なことだから』
ベールが剥がれるのように周囲の闇が一瞬で開けた。急に明るくなった世界に俺は思わず目を細める。
「うわぁ、懐かしい……」
周囲には水の神殿のある湖畔を見下ろす小高い丘の風景が広がっていた。ここはアリシアが育った故郷であり、俺にとっては旅立ちの場所だった。
丘には俺の他にもう一人、男が立っていた。
それは、見慣れた高校の制服を着た男の頃の俺。
「こうして見ると、割とイケてるかも?」
初めて客観的に見た自分の姿は案外悪くないように思えた。
『過信しない方がいいと思うぞ。この姿はアリシアの記憶の中にある俺だからな。脳内補正が掛かっているはずだ』
「そんなこと言うなよ……」
俺の夢の中でくらい良い気持ちにさせてくれてもいいのに。
『事実だからな』
目の前の俺は素っ気なく言う。
聞こえてくる声色に違和感を覚えるのは、アリシアが聞いていた俺の声だからなのだろう。
『この場所で、俺は誓いの言葉をアリシアに言ったんだ』
「……そうだったっけか」
とぼけてみせたが、忘れるはずもない。
それは、異世界の雄大な光景と与えられた使命に高揚して言った、若気の至りと言っていいほど恥ずかしい誓い。
『必ず魔王を倒してアリシアを幸せにする――そう俺は誓ったんだ』
魔王は倒すという方は果たした。
だけど、アリシアを幸せにする方はまだ全然足りていない。
『誓いを果たせ』
「……おう」
それは言われるまでもない。
男の俺が握った右手を突き出してきたので、同じく握った右手を打ち合わせて応える。
男の俺は満足そうに笑った。
※ ※ ※
「……大丈夫?」
目の前に心配そうに顔をのぞきこんでいる翡翠が居た。
いつの間にか眠っていたらしい。
「ん……おはよう翡翠」
「おはようって、もうお昼前よ。アリスの様子を見に来たんだけど、寝てたから寝顔を見てたの。だけど、少し辛そうにしてたから心配で……起こしちゃった?」
「ううん、大丈夫。ありがとう翡翠」
翡翠の手が俺の頭に触れる。
撫でて貰えるの気持ちいい。
生理が来て、少しだけショックだったけど今はもう平気だ。
夢の中で心の整理をすることができたから。
自分自身との対話で励まされた。
「アリスは一人で居たい? それとも一緒に居る?」
「一緒がいい」
「そう。だったら、今日はずっと側にいるね」
「何もしたくないや……」
「いいわよ、好きなだけ甘えても。春休みの宿題も終わらせたし、いくらでも付き合ってあげられるから」
「……うぐっ」
宿題という単語を聞いて俺は言葉が詰まる。
「もしかして宿題が残ってるとか?」
「……いっぱいある」
アリシアのことに一杯一杯で宿題はほとんど手をつけられていなかった。学校が始まるまであと二日しかないのに。
「私も手伝ってあげるから一緒にやりましょう?」
「うう……」
今日は翡翠にくっついて、一日中ぐでーってしようと思っていたのに……