自宅に帰ってきた俺は、購入してきた服から楽そうな黒のスパッツと黄色のワンピースに着替える。それから、車酔いを覚ますためにベッドにダイブしてしばらく横になっていた。
ひと眠りして目覚めたらリビングに降りる。リビングでは母さんが晩御飯の準備をしていて優奈は自分の部屋のようだ。
特に声を掛けることもなく、俺はリビングのソファーに座ってさっき買った不思議の国のアリスの文庫を開く。
喋る白うさぎを追いかけて不思議の国に迷い込んだアリスは身体が大きくなったり、小さくなったりしながら、へんてこな世界を冒険して、最後は夢から覚めて現実に帰る――不思議の国のアリスはそんなお話だった。
『不思議なお話ですね……』
不思議の国のアリスの独特な世界観や登場人物たちは強く印象に残っている。今でもあらすじを諳んじることができるくらい、子供の頃に何度も繰り返し読んだ作品だった。
「荒唐無稽で理不尽な登場人物が多いけど、何だか楽しくて、けど、読み終えるとどこか寂しくなるような、不思議な魅力がアリスにはあると思うんだ」
『……わかる気がします。わたしはこのお話は今日初めて読みましたけど、挿絵も相まってこの不思議な世界にすごく惹き込まれましたから』
昨日も思ったけれど、やっぱり見たり読んだりした作品の感想を、すぐに話し合えるのはいいなぁ……
優奈も興味を持ったものには一緒に付き合ってはくれるけど、結構気まぐれだし。
そんなことを考えてると玄関の方で物音がした。
俺はもしかしてと、立ち上がり玄関に向かう。そこには居たのは予想通りの人物だった。
長身でガタイの良い体に少しくたびれたスーツ姿、その姿は俺の記憶にあるものと相違ない――俺の父親である如月幾男だ。
「父さん!」
俺は父さんに駆け寄る。
俺の姿を見た父さんは一瞬ぎょっとして、
「……もしかして幾人か?」
と俺に問う。
「そうだよ、お帰りなさい父さん」
「ただいま――お前も良く帰ってきたな。しかし、母さんから話は聞いていたが、お前、随分と小さくなったなぁ……」
そう言って父さんは腰をかがめて、俺の頭をやや乱暴に撫でまわす。
まるでちいさな子供扱いだ。
……本当は父さんよりも身長が高くなってたはずなんだけどなぁ
俺が父さんの身長を超えたのは高校に入ってすぐのことで、その頃父さんは海外で長期出張に出ていた。
だから、次会ったときにはそのことを報告しようと密かに楽しみにしていたのだけど、その機会は訪れることなく、俺は小さな女の子の体になってしまった。
「あなた、お帰りなさい」
「パパお帰り!」
玄関に母さんと優奈がやってきた。
「おう、ただいま。二人共変わりなく……優奈は大分育ったか?」
「えへへ、そうでしょ!」
両腕を腰に当てて、胸を張って答える優奈。育った成果が強調されている。
「……父さん、それセクハラだから。優奈も応えないの」
「これくらい軽い親子のスキンシップじゃないか」
「あたしもこれくらい別に気にしないけど……」
俺はため息をついた。俺は間違ってない……と思う。
『イクトさん、わたしも挨拶していいですか』
アリシアが俺に訪ねる。
『了解』
俺は念話の送り先に父さんを加えた。
『はじめまして、お父様』
念話でアリシアが挨拶をする。
俺は意識をアリシアの動作のイメージに合わせるようにして動き、父さんに向き直る。
『わたしはアリシアと申します。ご子息であるイクトさんには大変お世話になりました。わたくし達の都合でイクトさんのご家族には大変ご心配とご迷惑をお掛けしました。申し訳ありませんでした』
「こちらこそ粗忽者のうちの息子を助けていただき感謝してもしきれません。私は幾人の父親の如月幾男です。息子共々末永くお付き合いをよろしくお願いします」
あまり家族の前で見せない真摯な態度で父さんはそう言うと、頭を下げた。
『こちらこそ、よろしくお願いします』
「……とまあ、固い挨拶はこれくらいにして。アリシアちゃんでいいかな?」
『あ、はいっ!』
「これまでの経緯は母さんに聞いてる。幾人のためにいろいろありがとうな、よろしく」
と、父さんは普段通りの顔に戻って
若干戸惑いながらその手をにぎる
「それじゃあ、玄関で立ち話もなんだしリビングに移動しましょうか。紅茶入れますね」
母さんに言われて俺たちはリビングに移動する。
父さんは一度部屋に戻って荷物を片付けてくるとのことだったので、俺と優奈はダイニングテーブルに腰を下ろして待つ。
母さんは、その間に全員分の紅茶を用意してくれていた。
父さんがやってきて、家族が揃うと挨拶もなくお茶会がはじまる。
テーブル中央に纏めて置かれた個包装されたチョコレートに手を伸ばして口に放る。懐かしい甘さに舌を打ってるとアリシアの声が聴こえてくる。
『何ですかこれ、甘くて美味しいです! 口の中で甘いのがとろけていって、幸せ……』
『これはチョコレートっていうお菓子よ。気に入った?』
『はいっ! 甘いのは大好きです!』
アリシアの味覚に引き摺られているのか、以前より甘い物が美味しく感じる気がする。
俺はもう一個チョコレートの包みを手に取った。
そんな会話している様子を父さんがじっと見ている。
『あー、あー。てす、てす……ふむ、どうやらできたみたいだな』
父さんはどうやら念話に興味があるらしい。
『これが念話というやつか。話には聞いていたが、実に興味深い。幾人、これの有効範囲はどれくらいなんだ?』
『普通だと半径5mくらいかなぁ……ただ、見えている相手に思考を飛ばすのだったら20mくらいまでは届かすことができるよ』
『ふむ、指向性を持たせることも可能か……ますます興味深いな』
『こうやって紅茶を飲んでいてもお話しできるのが便利だよ!』
『ああ、そうだな』
『……優奈、食事中のお話はほどほどにね。あまり行儀良くはないわよ』
『……はぁい』
優奈は肩をすくめる。
しばらくはそんな感じで雑談をして過ごした。
「……さてと。それじゃあ、今後の話をしようか」
紅茶を飲んでお茶会が一息ついた頃、父さんは俺に向き直って口を開いた。
「幾人、お前の選択肢はふたつある――如月幾人として生きるか、それとも全く別人として生きるか、だ」