5月29日 月曜日 7週5日
授業中、静かな廊下を歩く。目的の場所に着くと私はドアをノックして、少し間を置いてから開けた。
「……ああ、君か」
保健の先生が迎えてくれる。つわりの症状が出てから、私はここ保健室の常連になっていた。
「どれ、体の調子はどうだ……少し熱があるか?」
先生の手が額に触れる。少し冷たいマニキュアが塗られた大人の女性の手。
「最近はずっとこんな感じなので……体調はあまり良くはないですけど、慣れました」
心配そうな顔をする先生に私は笑顔で返す。体調が悪いのはつわりが原因なので、どうしようもないのだけれど、先生に言えるはずもない。
「ところで、今からコーヒーブレイクのつもりだったのだが……君も飲むかい?」
先生の入れてくれるコーヒーは美味しい。何度か頂いたことがあるので知っている。
でも、今はーー
「いえ、コーヒーは、その……お気持ちだけで、すみません」
カフェインはお腹の子供に良くないと言われているので控えたかった。
「ふむ……そうか」
保健の先生は奥の棚の上に置いてあるティーセットの準備を始める。電気ケトルには既に湯気が立ち昇っていた。
ーー授業を休んで喫茶なんて少し罪悪感ありますね。でも、このコーヒーとても美味しいです。
以前、ここでコーヒーを呼ばれたときのアリシアの言葉を思い出す。砂糖とミルクを多めに入れてもらったら、アリシアの舌でも美味しいと思えたんだよね。
そんなことをぼんやり考えながら、並べられるカップが立てる音を聴いていた。
「それで、今は何週目なんだい?」
「えっと、もうすぐ8週目です」
「そうか」
何気ない世間話のように交わされたやりとり。違和感は後からやってきて、
ん……?
「え、ええ!? えええええ!?」
い、今のって!?
「騒ぐのは良くないな。今は授業中だぞ? ーーほら、ほうじ茶だ。カフェインは入ってないから安心して」
「あ、ありがとうございます……」
差し出されたコーヒーカップを受け取る。混乱した頭を落ち着けるため、とりあえずカップに口をつけた。
「あつぅーー!?」
「ほら、慌てて飲んだりするから……まずは、落ち着きたまえ」
「うぅ……」
あらためて少しづつお茶を口に含んで嚥下していく。
乾いた口内が潤されて、体の内側が優しく温められる。
時間を掛けて何度かそれを繰り返しているうちに、大分気持ちは落ち着きを取り戻していた。
「……どうして?」
「そんな風に愛おしそうにお腹を撫でていたら、ね? 他にもいろいろ推測できることはあったけど、一番はそれかな」
アリシアのことを考えていたら、無意識にお腹を撫でてしまっていたらしい。
失敗したなぁ……
「少しだけ話を聞かせて欲しい。相手の男は責任取ってくれるのかい?」
「はい」
「年上? 社会人?」
「いえ……詳しくは言えませんけど、その人はこの子の父親ーー家族になってくれるって言ってくれてます」
自分が退学になったとしても、それが蒼汰に及ぶようなことはあってはならない。
幸い誰が父親なのかなんて証拠が出てくるはずもないので、いくら関係を疑われようがシラを切り通せば問題ないだろう……蒼汰は嫌がりそうだけど。
「親御さんはこのことを?」
「知っています」
「反対されてない?」
「はい」
「そうか……それなら、よかった」
「……叱らないんですか?」
「叱って欲しいのかい?」
「いえ、そういう訳じゃないですけど……」
「悪い大人に騙されていないか心配だったけど、そうじゃないみたいだしな。その様子だと産むと決めているんだろう? 相手の男と親御さんとで話がついているなら、他人が口出しするようなことじゃない」
「そんな風に言われるなんて思っていませんでした。てっきり、高校生なのに妊娠なんてって怒られるのかと」
「体が未熟な状態で子供を産むというのはリスクのある行為だからね。ましてや学生ならいろいろと難しいこともある。だから、避妊はしっかりした方がいいのだけど……今君にそれを言っても仕方ないだろう?」
「ええと、私は自分の意志で妊娠を望んだんです。事情はちょっと言えないのですが……」
「そうか……それは、意外だな」
「驚きますよね、やっぱり」
現役の女子高生が妊娠出産を望むなんて普通ではないと自分でも思う。事情を説明することなんてできないし、周囲に受け入れてもらえないのは仕方ない。
それに、理解して欲しい人たちにはわかって貰えている。それ以上を望むのは贅沢だろう。
「でも、学校はどうするつもりだったんだ? 学校が君の妊娠出産を認めることは難しいだろう。親御さんはそれでもいいと?」
「本当は休学して子供を産んで、落ち着いたら復学をと考えていました……ですが、こうなった以上諦めます。元々難しい話でしたし」
二度も高校に行かせてくれた両親には申し訳ないけど、ばれてしまったものは仕方ない。
「ああ、私は学校に報告はしないぞ?」
「え……?」
「私は校医だ、患者の個人情報は守秘義務がある。それに、私個人としては応援したいと思っているーーお腹を撫でているときの君は本当に幸せそうだったからな」
無防備にアリシアのことを想っていたときの顔を見られていたのだと思うと顔が赤くなる。
「仕事柄、妊娠した女生徒から相談を受ける事はときどきあるんだ。だが、相手の男や家族、それから学校といった周囲が、彼女らの妊娠を受け入れるのはなかなか難しくてな……結果、学校を退学したり、中絶したり、望まない結果になって傷ついた子も多かった」
先生は昔のことを思い出しているのか、少し遠い目をしていた。
「だからな、少なくとも私は君たちの味方でありたい。そう考えているんだーーまぁ、一介の校医である私にできることなんて、たかが知れているがね」
「そんなことないです! 先生にそう言ってもらえて頼もしく思います」
食い気味に言うと先生は指で口元を掻きながら「そうか」と答えて、コーヒーを口に含んだ。
「それと、な。私は妊娠出産にはいろんな選択肢があっていいとも思っているんだ。学生だから、社会人になったばかりだから、仕事で責任のある立場だからーーそんなことを言っていたら、いつ子供を産んでいいんだってことになるだろう?」
「そう、かもしれませんね」
「少子化で子供を産むことが望まれているんだ。社会全体がもっと妊娠出産育児を受け入れていくべきだと思う」
女性がいつ妊娠出産をするのかなんて、今まで考えたこともなかった。
高校大学を出て、就職して、結婚して、仕事を辞めて出産ーーというのが全てじゃないってことくらいはわかるけど。
「……それにしても、君の場合は少し事情が特殊というか心配ではあるが」
「あはは……」
私の体の成長具合を心配してくれているのだろう。先生には初潮が来たのが最近なことも知られている。
「ええと、その……実はお腹の中の子は双子なんです」
「……本当に大丈夫なのかね、それは?」
「がんばります」
お腹を撫でながら、私はつとめて明るく先生に言った。
先生は眉間を指で押さえて難しい顔をする。
私のことを心配してくれているのがわかる――いい先生だ。
「……何を言っても無駄なんだろうな。君はもう母親の顔をしている」
「えっと……はい」
……母親の顔ってどんな顔なんだろう?
私はちゃんと母親になれるのか。
「学校に居るときは私を頼ってもらってかまわない、遠慮せず積極的に利用するように。無理は禁物だからな」
「はい、ありがとうございます」
それから、先生はいろいろ私の手助けをしてくれるようになった。
つわりで吐き気が酷いときに教職員用のトイレを使わせてくれたり、度々授業を抜けることを不審に思われないよう他の先生方に話をしてくれたり、中でも体育を見学できるように体育教師に話をつけてくれたのは本当に助かった。
それに、雑談混じりでいろいろ相談に乗ってくれるのも嬉しかった。
妊娠初期の検診は四週間毎で受けるようにと言われていて、その間お腹の中の状況がわからないのが不安だったから。出産こそ未経験とはいえ、保健教諭である先生の知識は豊富でありがたかった。