11月20日 月曜日
出産後2時間は経過観察しないといけないとのことで、体を拭いて着替えさせてもらってから、しばらく分娩台の上で過ごした。
先生のオッケーが出て、やっと部屋に帰れると思ったら、その前にトイレに行くように言われた。
出産後初めてのトイレは必ず助産師さんが立ち会うことになっている。トイレの中で倒れないか見守ったり、出血量を確認したり、それから、おしっこが出るかどうかも大事なのだそうだ。
出産直後は尿意の感覚が麻痺して、おしっこが溜まっているのがわからなかったり、出なかったりするみたいで。おしっこが溜まっていると子宮の収縮に良くないので、もし出なかったら、カテーテルで導尿するのだと説明された。
血塗れになっている座布団のようなナプキンを外して便座に座る。
尿意はなかったけど、恐る恐る力を入れる。
すぐに出なくて少し焦ったけれど、何度か試みるうちになんとか出た。
切った部分の痛みは感じなくてほっとした。
終わった後、そこを拭くのにまた覚悟が必要だった。
ばい菌が入るかもしれないのでトイレットペーパーは使えないらしく、助産師さんから渡された湿った脱脂綿を使う。
恐る恐る触れると、痛みはそれほどでもなくて、腫れている感覚があった。ポンポンと押し当てていくと、割れ目の右斜め下あたりで、縫合に使われた糸と縫われて引きつった部分に触れて、心の中で「ひぃぃ」と悲鳴を上げた。
新しいナプキンをつけて着衣を直すと、助産師さんに声をかけて、出血量を確認してもらった。
大量に出血しているように思ったけれど、これで普通なのだと聞いて、改めて出産という行為の壮絶さを思い知らされる。
病室に戻る頃には日付が変わっていた。
室内には家族が待ってくれていて、大仕事を終えた私のことをねぎらってくれた。
疲れているだろうからと、それから少しだけ話をして。
私は一人になった。
「やっと、終わった……」
一日が長かった。
体はとにかく疲れていて、早く寝たい。
だけど、極度の緊張が続いたせいか、気が張っていてなかなか寝付けない。
病室はとにかく静かに感じた。
昨日まで感じていた気まぐれな胎動も、今はもうない。
もうお腹の中に赤ちゃんは居ない。
そのことが、なんだか不思議で――
「産めたんだよね、私……」
と自分自身で確認の言葉を呟いてしまう。
現実感が乏しかった。
赤ちゃんの顔を一目も見ていないから、というのもある。
体中の筋肉痛や子宮が収縮する痛みが、これは現実だと知らしめてくれるけれど。
四六時中一緒だったお腹の中の存在が居ないことにすごく違和感があった。
結局、眠れたのは夜が明けようとする頃だった。
※ ※ ※
朝、診察で看護師さんに起こされる。
疲労と寝不足でぼーっとしたまま、体温、脈拍、血圧を測られた。
それから、先生による内診。
切開した会陰部の痛みは2~3日くらいで落ち着くだろうとのことだった。
縫合している糸は自然に体に取り込まれるとのことなので、診察が終わったら魔法である程度回復してしまおう。麻酔が切れてドーナツ型のクッションが無いと座ることもできないくらいに痛むようになっているけど、糸が怖くて我慢していたのだ。
子宮の収縮も順調とのこと。後陣痛と呼ばれる痛みはしばらく続くみたいだけれど、陣痛と比べたら全然耐えられる。
子供たちは検査に異常もなく元気だとのことで、この後面会できるらしい。
それから、子供たちのことを考えながら朝ご飯を食べた。
丸一日以上ぶりの食事が体に染み渡る。同時に回復魔法で会陰の傷を癒しておいた。
そして、ついに赤ちゃんとはじめての対面である。
NICUの入り口にはインターフォンがあり、そこで名前を告げるとドアが開いた。
髪をゴムで束ねてから、中の手洗い場で手洗いとアルコール消毒をし、マスクを着用して中に入る。
看護師さんに連れられて室内に入り、二つ並んだ保育器の前にたどり着く。
少しだけ浮ついた気持ちは、二人の姿を見て直ぐにしぼんでしまった。
保育器の中の二人はすごく小さかった。
着衣はオムツだけ。そして、口や肌にはいろいろなチューブや測定のための機器がつけられている。
その姿はとても痛々しいもので。
「大丈夫ですよ、お母さん。二人ともす少し小さいですけど、元気ですから」
絶句している私に、看護師さんが声を掛けてくれた。
私は動揺して返事することもできない。
「そんなに小さな体で、二人も。お腹の中でここまで育てて、産んであげられたんです。お母さんすごいですよ」
「……ありがとう、ございます」
看護師さんに慰められて、ようやく私は現実と向き合う気力が沸いてきた。
「まだ抱っこはできませんが、触ってあげてください」
私は如月アリシアと名札のついた保育器の前に立つ。
保育器は赤ちゃんを透明の箱が取り囲む形状をしている。惣菜のパックを大きくしたみたいだと思った。
体温の調整ができるようになるまで、温度や湿度が保たれているこの保育器の中で過ごすことになるのだそうだ。
透明な箱の側面には穴が開いていて、そこから手を入れられるようになっていた。
彼女は眠っていた。私とよく似た銀の髪色。
管はいろいろついているけれど、表情は穏やかそうでほっとする。
「両手で包み込むように触ってあげて下さい。赤ちゃんが安心しますから」
両手を広げたら、全身を包めてしまいそうだった。
手足に至っては指と同じくらいの大きさしかない。
起こしてしまわないように、静かにアリシアに触れる。
「暖かい…」
赤ちゃんの肌は柔らかくぷにぷにしてとても暖かい。
触れられることに違和感を感じたのが、アリシアが少し顔をしかめた。
手の中でもぞもぞと動く。生きてるんだ。
「こっちがお姉ちゃんですね。アリシアちゃんはお母さん似かな?」
家族以外の口から発せられた、その名前を聞いて。
涙がこぼれた。
「……アリシアぁ」
嬉しさ。申し訳なさ。
誇らしさ。悔しさ。
愛おしさ。罪悪感。
ごちゃ混ぜになった感情が溢れてきて、涙が止まらない。
両手は小さな命に触れたまま、ほろほろと。
「――っ」
涙は看護師さんがハンカチで拭ってくれた。
やがて、名残惜しさを感じながら手を離した。
「すみません、もう大丈夫です」
「どういたしまして」
そして、隣の保育器に移動する。
「こちらが妹ちゃんですね。妹ちゃんはお姉ちゃんより大きいから早めに退院できると思います」
「アリサ」
アリサはアリシアと違って起きていて、もぞもぞと動いていた。
半開きになった焦点の合わない目がぼんやりと宙を眺めている。
「アリサは黒髪なんだね」
きっと、翡翠に似た美人さんになるに違いない。
アリシアより少し大きいけれど、やっぱり小さい。
この子がお腹の中に居たのだと思うと不思議で仕方ない。
「私の赤ちゃん……」
アリシアにもしたように、両手で抱くようにアリサに触れた。
「あー」
とアリサが声を上げる。
肌に指を這わせると「きゃっきゃ」と、くすぐったがるように体をよじらせた。
……喜んでるのかな?
ふかふかの黒髪に触れると、お気に召さなかったのか、アリサの口が富士山になる。
「……かわいい」
手に触れると、小さなてのひらが、私の指先をきゅっと包み込む。
くすぐったい。
ああ……産まれたんだな。
娘たちを前にして、ようやく私は母親になったという自覚を得た。
今まで大切な物を取り戻すため、がむしゃらに走り続けてきた。
そして、ようやくここにたどり着いたんだ。
ここはゴールではなくスタートだけども。
あの日から立ち止まってた私は再び歩き出す。
アリシアとアリサ、二人の娘たちと一緒に。