その矢印の色は   作:恋音

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「ごめんな」

 

 白ひげ海賊団は、どこか根っからの貧乏性だった。

 金や宝は手に入れても、飾り立てたり贅沢に使ったりすることはほとんどない。

 

 そんな彼らと一つ屋根の下に暮らす同居人のルビーも、自然とその空気に染まり、王女でありながら質素な暮らしを受け入れていた。

 

 だが、それがかえって船員たちの心をざわつかせることもある。

 お姫様に質素な生活をさせていいのか?

 その罪悪感が、彼らの胸をちくりと刺すのだ。だから時折、皆はエースにそれとなく尋ねていた。

 

「なぁエース、ルビーちゃんが質素な暮らしで不満を抱いてたりしねぇか?」

「ほんとに大丈夫か?」

 

 心配げな問いに、エースは深く溜息をついて肩を竦めた。

 

「あのなぁ、姫様だっつっても、ルビーは10年以上前から俺と一緒の生活してたんだぜ?」

 

 呆れたような声音に、船員たちは「あぁ、そうだったな」と頷き合う。

 

 エースは野生児そのものだ。

 山奥で兄弟と共にたくましく育った彼は、サバイバルの知識も精神の逞しさも常人離れしている。

 ルビーはそんな彼らの家に幼い頃から居候のように転がり込み、姫らしからぬ暮らしを共にしてきたのだ。

 

 酔いが回るたび、エースが繰り返す話を白ひげ海賊団はもう何度も聞かされていた。

 

『あいつ、兄弟盃を断ったんだぜ!』

『サボの嫁になるんだってよ!』

 

 ルフィ、ルフィ、サボ、ついでにルビー。酒が入れば話題はいつも同じ巡り方をする。今ではエースの過去は船の上で語り尽くされた公然のエピソードとなっていた。

 

「姫さんもすげぇよな。根性が逞しい」

「だよな。普通の女や子供なら、白ひげ海賊団に乗り込もうなんて思わねぇだろ」

 

 口々に飛ぶ賞賛の声に、エースはどう返せばいいのか分からない。誇らしく思うべきか、嫉妬すべきか。いやいや、そんなことはないと否定すべきか、分からなかった。

 

「(でも、サボを探すために泳ぎがすっげー上手くなったのは……)」

 

 思い出すのはサボが死んだあの時。

 

 記憶がよみがえる。

 ルフィと共に泣き崩れた自分の傍らで、ルビーだけは1人必死に海に潜っていた。

 

 それは泳ぎというより、溺れているのかと見紛うほどに下手くそで危なっかしい動きだった。けれど彼女の瞳には、強い光が宿っていた。

 

──……海の中に、サボの死体が無ければ。それはつまり生きているという事、ですわ。

 

 怖がりながらも、強いあの赤い光。

 誰も言葉にできなかった希望を、ルビーだけが信じたいと願っていた。

 

「(本当に、あいつは……すげぇよ)」

 

 たった一人のために、命懸けで海に飛び込み、文字通り溺れるくらいの恋をして。

 その姿を思い出すだけで、エースの胸に痛みが走る。

 

──ズキリ

 

 

 酒瓶を掴み、喉に流し込む。

 焼けつくような熱さが胃に落ち、鈍い痛みを誤魔化す。酔えば考えずに済む。あいつのことも、サボのことも、──何も出来なかった自分のことも、少しは頭から追い払える。

 

 だが、飲んでも飲んでも消えないものがある。

 胸の奥で、あの赤い瞳が、あの日の海が、ずっと離れない。

 

「(勝手に諦めてるのは、俺だけなのに)」

 

 

 

 

 

 エースが起き上がると甲板はすっかり静まり返っていた。

 酒瓶がいくつも転がり、ひっくり返ったまま泡を吹き零している。

 

 白ひげ海賊団の男たちは、宴が終わるとその場で気絶するのが常で、豪快ないびきが夜空に響き渡る。

 波間の静けさに似つかわしくない騒々しさだったが、船は穏やかな海域の凪いだ海に浮かんでおり、珍しく人気のない夜だった。

 

「……エース隊長、早いお目覚めだな」

 

 夜番のティーチが、甲板の端に腰掛け、にやにやと歯を見せて笑っていた。

 ランタンの灯りに浮かび上がる顔は影が濃く、闇が覆いかぶさっているようだった。

 

 

「ティーチは飲まなかったのか」

「へへ、酒より夜風の方が性に合うんでな。ほら、俺が夜眠らないのは知ってるだろ?」

 

 冗談めかすその調子に、エースは短く笑い返し、便所へと歩を進めた。

 

 

 用を済ませて戻る途中、ふと耳に残るのは潮騒といびきの合唱。酒気が抜けきらず、意識が半ば夢の中に溶け込んでいく。頬はまだ赤く、目の奥は熱を帯びてじんじんしている。

 

「……。」

 

 そして──足が止まった。

 

 そこはルビーの部屋の前だった。

 スペード海賊団の連中や、看護師たちの部屋が並ぶ一角。扉は固く閉じられているが、不思議とその向こうに温かな気配を感じ取れる。

 

 エースは一度、視線を外した。

 けれど、次の瞬間には手が扉にかかっていた。酒が背中を押したのか、それとも胸の奥に絡みつくものがそうさせたのか。

 

 ぎぃ、と扉の軋む音。

 

 部屋の中には、すーすーと規則正しい寝息を立てるルビーがいた。

 

 布団の端にぴたりと揃えられた左手。寝返りひとつしない几帳面さ。

 

 山奥で過ごした少年の日々。

 ルビーが彼ら兄弟の小屋に転がり込んで来た夜も、彼女は今と同じように、小さく真っ直ぐに寝息を立てていた。

 

 あの時と寸分違わぬ姿が、今ここにあった。

 

「ルビー、ごめん」

 

 酒に濡れた声が、零れるように漏れた。

 

 

 エースにはひとつ抱えたままの秘密がある。

 

 サボの手紙だ。

 「先に海へ出る」とだけ記された別れの言葉の手紙。その奥には、もう一通、ルビー宛の封書が入っていた。

 

 本来ならば彼女に渡すべきもの。

 けれど、それは結局「遺書」となってしまった。未来を語るはずの文字が、残酷な終わりの証に変わって。

 

 ルビーに宛に書かれた手紙は今も尚、エースのカバンの奥底で火の目を見ることなく仕舞われている。

 

「…………。」

 

 胸に重石を抱えるように、エースは目を伏せた。

 そして踵を返そうとした、その時。

 

 机の上に、何かが置かれているのが目に入った。

 ランタンの淡い光に照らされるそれは、一冊の日記だった。

 

 普段なら絶対に触れない。彼女の心の中を覗くなど、してはならないことだ。

 だが、今夜は酒が理性を鈍らせている。酔った勢いだと、自分に言い訳できる。

 

 エースは、しばらく迷っていたが結局手を伸ばした。

 

 

 指先が革の表紙を撫でる。

 

 心臓が妙に早鐘を打っているのを感じながら、彼は静かに日記を開いた。

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