エースは、革表紙に指をかけてしばらく動けなかった。
日記を覗くなど、やってはいけないことだと分かっている。
だが、酒で熱くなった頭が理性の声を遠ざける。
開いた。
紙の端がぱらりとめくれ、インクの匂いがかすかに立ち上った。
ルビーの丸みのある癖字が、几帳面に並んでいる。
ページをめくるたび、日付が飛び飛びに並んでいて、短い日もあれば、びっしり書き込まれている日もある。彼女の性格が見て取れるようで、エースの胸は苦く温かいもので満たされた。
──
〇月✕日
今日は初めて白ひげの船に乗れた。
甲板に出ると潮の匂いがして、帆がきらきら光って、まるで世界が新しくなったみたいだった。大きい船ってやっぱりいいな。
エースは片意地張ってるけど、きっとすぐ馴染むだろう。でも、能力者になった自覚の薄いエースを海から引き上げるのは骨が折れる。
次は落ちる前にちゃんと叫んでほしい。
〇月✕日
昼間、初めて海王類を見た!
あんなに大きな生き物が海にいるなんて知ってたけど見るのは初めて。私、こんな海に潜らなきゃいけないの?楽しいけど、その反面ちょっと怖い。
〇月✕日
今日の晩御飯すごく美味しかった!
〇月✕日
ティーチ──悪魔の実──サッチ──(インクが滲んで殴り書きになっている)
〇月✕日
洗濯当番になったけど、ロープの干し方が分からなくて怒られた。
でも最後はイゾウが教えてくれた。
〇月✕日
今日は嵐だった。
エースが甲板で指示を飛ばしているのを見て、船長やってたひとってサボには劣るけど少しだけ格好いいと思った。
でもそのあと落ちた。二回も落ちた。勘弁してほしい。
〇月✕日
サボは今どこにいるんだろう。
世界はこんなに広くて、きっと見つけるのは大変だけど、絶対に見つける。
見つけたら、ちゃんと「元気でやってたよ」って言うんだから。
新鮮なことが沢山あって、世界中の情報を集めることはすごく難しい。けどどうか、どうか無事でありますように。
月日
マルコってすごく意地悪な方だったのね。からかい方に手馴れがみてとれる。
月日
今日もまたエースが海に落ちたわ。戦闘中に手が空いてるのは非戦闘員の私だから、私が行くのには納得してるけど、ドレスが水を吸うからひとり持ち上げるだけでも大変。どうしようかな。
〇月✕日
今日はデュースとトランプをした。
一度も勝てなかった。絶対ズルしてる。次は絶対勝つ。
──
「……。」
ルビーの日記とともにこの船に乗り始めた時期を思い出す。
仲間やルビーを守らなきゃならないからと、確かに意地張って背伸びしていた。
慣れない悪魔の実の力は、思った以上に手強かった。
海で泳げていた頃の感覚が残っていたせいで、海に対する忌避感がまるでなく、何度も落ちた。
そのたびに甲板の連中が慌てて飛び込み、拾い上げてくれた。今思えば、ずいぶん迷惑をかけたと思う。
ルフィがカナヅチなことを笑っていた昔の自分を思い出す。
いざ自分が能力者になると、海の冷たさも、抗えない重さも、思っていた以上に恐ろしかった。
──それでも。
落ちるたび、海面の向こうから伸びてくる赤があった。
光を受けて揺れるルビーの髪は、水流の中で炎みたいに広がる。それはあまりにも綺麗で、あの光景だけは何度でも思い出せる。
冷たい海水の感覚すら、あの赤を際立たせるための背景にしか思えなかった。
胸が少し熱くなる。
そんな記憶を噛みしめながら、エースはゆっくりと日記に視線を戻した。
1文字、1文字を追う。
そこには他愛もない日常が、あたたかな記憶のかけらが、次々と書き連ねられている。
読むたび、思わず笑みがこぼれた。
「そんなこともあったな」「あぁ、そういやそうだったな」と呟きながら、エースは指先でページをめくる。
──
〇月✕日
今日は波が穏やかだったから、泳ぎの練習をした。
前より少しだけ長く潜れるようになった。
……でも、どうしても海の底が見えないと怖い。
それでも練習はやめない。今度エースが落ちたとき、もっと早く助けられるように。
〇月✕日
赤髪のシャンクスって、実際どんな人なんだろう?
ルフィの恩人なのは知っているけれど、エースに聞いても「会えばわかる」しか言ってくれない。
会える日が来るのかな。少し楽しみ。
〇月✕日
お気に入りのおやつが切れてしまった。
エースが「次の島で買ってきてやるよ」って言ったけど、あの人の買い物センスは少し心配。
マルコにも頼んでおこうかな。
〇月✕日
今日は船のロープを干すのを手伝ったら、褒められた!
褒められたから、次は甲板磨きもやってみたい。
こういう作業をすると、なんだかこの世界の仲間になれた気がする。仲間じゃなくてあくまでも同居人なのだけどね。
〇月✕日
マルコに頼まれて、大将の目的を探ってこいと言われた。
向かった先に黄猿がいて、肩が抜けるほど緊張したけど、思ったより怖くなかった。
世間話をしていたら、「サボが革命軍にいる」と言う情報がようやく手にはいった。嘘かもしれないけど、それでも黄猿は確実に存在を認識していた。
サボが──生きてる!
記憶がないのは相変わらずなのだろうけれど、それでもいい。
会わなきゃ、伝えなきゃ、ちゃんと再会しなきゃ。
〇月✕日
今日はいつもの宴。早めに寝て明日の後片付けに備えるようにしよう。
──
衝撃が胸を貫いた。
ページの文字が視界に焼き付いて、離れない。
「……サボが、生きてる……?」
声に出した瞬間、喉が詰まる。
ルビーがずっと、死んだはずのサボを探していることは分かっていた。
今もどこかで生きていると信じて、世界中を見渡そうとしているその真っ直ぐさが、ずっと眩しかった。
でも、そんな、だって。
エースはずっとサボが死んだと思っていた。今でも思っている。
しかしルビーの日記には黄猿の名前が出てくる。
公的機関のやんごとない地位にいる海兵が存在を認めたということが、本当であれば。
「(俺が……勝手にサボを殺してるだけじゃないか!)」
思考がぐしゃぐしゃになる。
自分の中ではとっくに終わったことにしていた。
サボは死んだ。だから探す必要なんてない──そうやって、勝手に幕を引いていた。
エースはサボが死んだと思っていた。
ルビーはサボが生きていると思っている。
その差が、胸を裂く。
日記に書かれた言葉が、まるで責めるように迫ってくる。
──お前は薄情だ、と。
──お前だけが諦めた、と。
ページを握る手が震えた。
日記がそう言ったわけではないのに、そう言われた気がしてならなかった。
叫び出したいのに、声が出ない。
ただ、日記をぱたんと閉じて机に戻した。
誰にも言えない。
マルコにも、サッチにも、ルビーにも。
特に、ルビーには。
彼女の信じる「サボの生存」は、眩しすぎる。
それを今さら肯定してやる資格が、自分にあるのか。
ずっと「死んだ」と言い切ってきたくせに。
胸の奥に、黒い塊ができていく。
嫉妬か、劣等感か、悔しさか分からない。
ただ一つ分かるのは、これからルビーの顔をまっすぐ見られそうにないということだった。
日記の中のルビーは、今日も海に出て、笑って、誰かお仲良くして、そしてサボを信じている。
自分だけが、昔に取り残されている。
エースは深く息を吐き、乱暴に髪をかきむしった。
さっきまで残っていた酒気も、もう酔いの役割を果たしてくれない。
このまま部屋に戻ると、また同じ夢を見る気がした。
だから彼は甲板に出て、夜風に当たる。
夜番のティーチがこちらを見て笑って手を振った。
その顔に、妙に苛立ちが走る。
ただの気のせいだと分かっていても、無性に誰かに八つ当たりしたくなった。
誰にも見せない夜が、ひとつ増えた。