ルビーの風邪がすっかり治ったと知れ渡った瞬間、船全体がぱっと色を取り戻した。つい先日まで船員たちは、まるで身内の誰かが倒れたかのような沈鬱ムードを漂わせていたのが嘘のようだ。
同居人とはいえ、彼女はこの荒くれ者だらけの船に咲いた数少ない華だ。甲板を歩くときのコロコロ変わる表情、無邪気に笑う声。それらが背景に混ざるだけで
何より、原因不明の罪悪感を抱えていたエースが通常運転に戻ったおかげで、船全体の士気は完全復活だ。
「上陸するぞ〜!」
その声が響いた瞬間、船員たちがざわついた。
白ひげ海賊団は広い縄張りを定期的に巡っており、食料の補給・顔見せ・治安維持と目的はさまざまだ。
だが、今回は少し事情が違う。
普段は傘下の海賊たちに任せている地域に、なぜか白ひげの本船が直々に訪れるという珍しい状況だ。
海の向こうに見えてきた島は、まぶしいほど色鮮やかだった。
海沿いに立ち並ぶ家々にはカラフルな布が揺れ、通りには観光客らしき人々の姿がちらほら見える。治安も良さそうで、どこか祭りの最中のような賑わいさえある。夏島なのか熱気が漂っているが、これが祭りの熱気なのかと錯覚する。
「すっげ……こんな島あったんだな」
エースが目を細める。
「珍しいだろ。ここは傘下の連中の慰安地だ。順番に休暇を取れるようにしてるんだとよ」
確かに、どこか観光地特有のゆったりした空気が漂っていた。露店に飾られた土産物、海辺の茶店から漂う甘い匂い、遠くから聞こえる軽快な音楽。
戦いや荒事ばかりの日常とは打って変わって平和で明るい色で満ちている。
「え!この島、観光出来るのですの?」
ルビーの声が弾んだ。頬をぱあっと輝かせ、身を乗り出す。
「なんて素敵なことなんでしょう……!私、ぜひ行ってみたいですわ!!」
浮き足立つルビーは今すぐにでも海に飛び降りそうな勢いだ。
「エース、エース!行来ますわよ!」
「おー……」
返事はしているが、エースは完全に押し切られている。
ルビーはそんなことお構いなしに、期待を胸いっぱい詰め込んで弾む声を続けた。
「私、前の島で購入した新しい服に袖を通してきますわ。ふふっ、デートですわね」
「──デッッッッ」
エースがぴしりと固まった。
肩から背筋まで一本の棒を通されたみたいに動かなくなる。顔の温度がみるみる上がり、耳まで真っ赤だ。
ルビーは上機嫌に鼻歌までこぼしながら、るんるんと部屋へ戻っていった。足取りが軽い。髪が跳ねる。扉を閉める動作まで楽しげだった。
姿が見えなくなった瞬間──。
「エースく〜ん?」
待っていたかのように、周囲の船員たちが一斉にエースの背中を肘で小突き始めた。
「デートダッテヨォ?」
「あら、あらあらあらあら」
「若いなぁ坊主?」
炎のように顔を赤くしたエースは顔を覆い隠し、からかわれたこと自体に困ったような仕草を見せた。
「ちが、違うって。俺とルビーはそんなんじゃねぇって……」
耳まで火がつきそうなほど真っ赤になりながら否定するが、言えば言うほど船員たちは「はいはい」と余計ににやにや笑う。
エースは頭を抱えた。
どう言ったって信じてもらえないと悟って、余計に困った。言葉とは裏腹にどこか浮き足立つ気持ちが無い訳でもないのだけれど。
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「さぁ行きますわ、サボとのデート予行練習!」
「──そーーーんな事だと思ったよ」
これである。もう読めていた。
「別に期待も何もしてなかったけど……」
モゴモゴと口の中で言い訳を言うエースの手をルビーが引っ張った。
「お手をどうぞ、レディ?」
「……逆な?お前はサボをレディにするつもりか」
しかも確認せずに取っている雑さ加減の時点でマイナス得点だ。
エースはサボセコムとしてバツ印を出した。
「むぅ……困ったわ、どうすればいいのかしら」
ルビーは頬に指先を添え、首を傾げて真剣に悩み出す。その絵面が全くデートの予行練習に見えないのがすごい。
「別に何も言わなくていいんだよ。どうせお前迷子になるし」
エースは宣言通り、余計な口も挟まずそっとルビーの手を取った。
まずはルビーの希望で、一番人の多い屋台街へ向かうことにした。
街の中心に近づくほど、空気が熱気に満ちていく。
普段見かける島の屋台とは違い、ここはまるで大きな祭りのような賑わいだ。ワノ国の文化を取り入れた屋台では、見慣れない食べ物がずらりと並び、甘い匂い、ソースの匂い、海風が混じって鼻をくすぐる。
「こ、これ!エース、私これ食べたいわ」
ルビーは屋台に並べられた山盛りの焼きそばを指差し、目を輝かせる。
「焼きそば?……この量食べ切れるのか?」
「これだけでお腹いっぱいになりそうかも……」
「一口二口食ったら寄越せよ」
忠告通り、ルビーは一口だけ焼きそばを口に入れる。しょっぱいソースのガツンとした味と匂い、油っこい麺、そして何より清涼剤のようなしんなりしたキャベツが口いっぱいに広がる。
「ん〜〜〜〜!すっごく、美味しくてよ!」
飲み込んだルビーは目を輝かせた。
結局、興味のあるものを次々と買っては少しずつつまむ形になった。
その残りはすべてエースの胃袋へ吸い込まれる。
興味のあるものを次々とつまむ。
エースは胃に自信があるニキなので、ルビーが満腹になる頃にはまだ軽くつまんだ程度にすぎないらしい。彼は「ほら次行くぞ」と言わんばかりに新たな屋台へ視線を向けていた。
「よく食べますわね……」
「生きる糧だからな」
「……そうよね」
液体だけでは命をつなげても糧にはならない。
「……ルビー?」
ふと、世界の境界線が滲んだ気がした。
夏の暑さで目が眩むように、蜃気楼のように。エースの視界の中にある赤が青空と混ざりぼやけた。
「さっ、次はどこ行きましょう?」
ルビーが勢いを取り戻すと、エースも軽く肩をすくめた。
「あ、あぁ。えーっと……この島、何があるか分かんねぇけど」
海賊らしからぬ、のんびりとしたデートの再開である。
「サボが好きそうって言ったらまずは本屋だろ」
「ナイスアイデアですわ。この私が褒めて差し上げますのよ」
「偉そう!」
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「ま、まさか」
「あぁ……」
「まさか演劇がこんなにも面白いとは……!」
「オチもくだらねえのにすごく面白かった!」
夕暮れの浜辺に降りるや否や、ルビーとエースは興奮のまま感想を投げ合った。
砂浜に長い影が伸び、波がさらさらと足元を洗っていく。
「特にあの場面!ほら、あの主人公の方が椅子に座って……」
「急に椅子が壊れて尻もちつんの!あれは反則だろ!絶対ミスだよな!?」
「でもアドリブがすごくお上手で、皆様笑っていらしたわ!」
二人の笑い声は、薄く金色に染まる海風に運ばれて消えていく。
「いやー、食ったし遊んだしオヤジの土産も買ったし」
「色んな物も見て色んな体験もしましたわ」
「楽しかった〜〜〜!」
エースは背中をそらして大きく伸びをした。
夕日が二人の影を長く引き伸ばし、寄せる波がその影をさらってまた置き去りにする。
ルビーは潮風にふわりと髪を揺らしながら、胸に手を当てて軽くため息をつくように言った。
「ええ、本当に……。これでサボとのデートも完璧ですわ!」
「──いーや、まだだな」
エースはビシッと人差し指を立てた。
「俺の目が黒いうちはサボをやらねぇ。サボに相応しい女になってから出直してこい」
「お、お義母さま……っ!」
「せめてお義兄さまだろそこは」
波が足元をさらうように寄っては返し、島の中心部の賑やかさが遠い残響のように潮騒の向こうから届いてくる。
夕暮れ独特の静けさが二人の間に伸び、言葉が自然と慎重になるような、繊細な空気へと変わった。
エースは深く息を吸い、胸の奥に秘めて引っかかったまま、今日のどの瞬間よりも重い言葉を取り出した。
「……サボってさ、生きてるのか」
その一言に、ルビーはまるで雷に打たれたかのように目を大きく見開いた。
瞳が揺れて、驚きがそのまま零れ落ちそうなほど。あっこぼれそうだ。と、無意識にエースは思った。
一方のルビーは心底驚いたように、声を震わせる。
「貴方…………まだ信じてないの????」
「ルゥビィ─……?、」
「あっ……ごめんなさい。馬鹿にしたわけじゃなくてよ?」
両手をぱたぱたと振り、慌てたように否定する。
「単に、疑り深い信仰心の低い低脳だなと思っていただけで、馬鹿にした意図はないのよ」
いや絶対馬鹿にしてんだろ、とエースは口をつぐむ。
「黄猿と会った時、サボの名前を聞いたんだろ。同一人物……では無い、よな」
エースの声は、怒りでも嫉妬でもなく、ただ苦しむように掠れていた。
「私は同一人物だと確信していますわ」
「なら!」
エースは砂を蹴った。
自分でも抑えきれず声が荒れる。
「ならなんでサボは俺の、俺たちの前に現れねぇんだよ!薄情じゃねぇか!」
勝手に死んだことにした負い目が、怒りへ変換されてしまっていた。
その感情の正体に、エース自身も気付いているからこそ余計に苦しい。当てつけだ。ただの八つ当たりだ。信じる彼女へ自分の未熟さをぶつけているだけに違いない。でも抑えきれない感情がぶつかる。
「……その理由に関しては、きっと身動きが取れないか記憶を失っているかのどちらかですわ」
あまりにも具体的な物言いに、エースは思わず訝しげに眉を寄せる。
しかしルビーはその視線すらまっすぐ受け止め、確信した眼で見返してきた。
夕日が沈みかけて、二人の影がまた長く伸びる。
言葉にならない何かが胸の奥で混ざり合って、エースは拳をぎゅっと握りしめた。
「エース。貴方が死ぬときっとサボは必ず泣くわ。何日も熱を出して寝込むほど」
「嫌に具体的だし例え話で俺を殺すな」
「……でも、お前は……信じてたんだよな」
「えぇ。たぶん異常なほどに。私、こういうところ根拠のない希望を抱く節がありますの。お恥ずかしい話ですわ」
ルビーは小さく肩をすくめて笑った。
それは自嘲ではなく、どこか照れたように誇る姿だ。そういう真っ直ぐで自信に満ち溢れたルビーのことを──。
エースは下を向く。指先に力が入り、砂がぱらぱらと音を立てた。
「……お前の方が、ずっと、サボのこと……」
言いかけて言葉が途切れる。
自分より大切に思っている
自分より信じている
自分より強い
そんな言葉たちが胸の内で暴れ回り、形になって出てこない。
悔しい。
情けない。
負けたようで、無性に腹が立つ。
でもそれら全部が、自分の劣等感と自信のなさの現れだと分かっている。
ルビーはそっと、砂浜に座り込むエースの隣に触れるほどの距離で座り直した。
間近に感じる体温。波音がふたりの沈黙を埋めていく。
「エース。貴方は薄情者なんかじゃなくてよ。むしろ、貴方ほどサボを大切に思っている人は、他に居ないのよ、分からない?」
エースは顔を上げられない。
そんなことを言われたら、涙腺が緩むからだ。
「……っ、なんで……そんな」
「だって、見ていれば分かるもの。船が違っても、海が変わっても、貴方の心の中には必ずサボがいるわ。帽子を被るようになったのも、きっとサボとルフィを真似ているのよね?」
その言葉に、エースは唇を噛むしかなかった。
波が寄せては返し、誰かが作った小さな砂の城を崩し、また削っていく。
海は何も知らないように穏やかで、だけどとても広く遠い。
「……ルビー。もし、もしも……」
声が震える。
「もしもサボが、本当に生きてるなら……」
その先を言う勇気が出ない。
願い事のようでもあり、恐怖のようでもあるからだ。
ルビーはゆっくりとエースの手に触れた。
握るではなく、ただ触れただけ。
それだけで震えがほんの少し収まる。
「エース。どんな形であれ──きっと、貴方はまたサボに会えますわ」
夜風がふたりの間をすり抜けていく。
「そしてその時……貴方はサボにこう言ってしまえばいいのよ」
ルビーは柔らかく笑った。
「『バカな兄弟だな、心配かけやがって』って」
エースの喉が詰まり、声が出ない。
ただただ胸の奥が熱く痛い。
夕陽の残光が完全に消え、海岸には月明かりだけが二人を照らしていた。