その矢印の色は   作:恋音

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「行かないで」

 

 

 

 

「あの人は、太陽みたいな人なんだ」

 

 誰もが、エースのことを慕っていた。敵だって1目おいていた。エースはいつだってみんなの中心だった。

 

 だが太陽は、眩しすぎるがゆえに、いつもひとりきりだった。誰も、誰にも寄り添うことができないでいた。なぜなら、となりに立てば、燃えてしまうから。

 

 

「俺は生まれてきてもよかったのか」

 

 

 それがエースの、物心着いた自分への最初の問いかけだった。

 世界中の奴らが自分を認めなくても、嫌われても、大海賊になって見返す。

 それがエースの海賊になりたいと思った原点だった。

 

 スペード海賊団の船長、エースは白ひげに挑み続けていた。サッチが身柄を預かり、ティーチが面倒を見ていた。

 

 100回戦って100回負けて、そしてエースは白ひげの家族になった。

 負けたから、ではない。プライドの問題でも勝負でもない。

 

 100回戦って、100回死んでたっておかしくない。命を取られてもいいはずなのに、白ひげはエースのみならず仲間、そして同居人にメシを食わせてくれた。

 

 100回負けたのではない。100回恩を受けたのだ。

 その恩義を返すためにエースは白ひげ海賊団2番隊隊長のエースとなった。

 

 

 だから──

 

 

 

「──サッチは!!??」

 

 キッチンの奥から、重たい足音がいくつも聞こえてくる。扉が押し開かれ、最初に姿を見せたのはデュースだった。その後ろに白ひげ海賊団の船医たちが続く。しかし、誰もすぐには言葉を発しなかった。視線を落としたまま、重い沈黙だけがその場に落ちる。その様子を見た瞬間、胸の奥で嫌な確信が形を取った。

 

 

 

 

 早朝だった。

 

 モビーディック号の朝は早い。まだ日も昇りきらない時間から、船の一日は静かに動き出す。何十人もの船員が乗るこの船では、食事の準備だけでも一大仕事であり、キッチンはいつも誰より早く火が入る場所だった。早寝早起き健康児ルビーもいつの間にかその習慣の中に溶け込み、毎朝当たり前のように仕込みを手伝うようになっていた。

 

 だからこそ、最初に気付いたのはルビーだった。

 

 キッチンに足を踏み入れた瞬間、視界に飛び込んできた光景に、喉の奥から絞り出されるような悲鳴がこぼれた。その声は朝の静けさを破り、船のあちこちに響き渡った。

 

 その悲鳴で、エースは飛び起きた。

 

 甲板を蹴るように走り、半ば転がり込むようにキッチンへ駆け込む。息を整える間もなく中へ踏み込んだ瞬間、目に入った光景に足が止まった。

 

 床に、サッチが倒れていた。

 

 背を上にしたまま動かず、広がった血が床を染めている。血溜まりは顔の横まで広がり、頬の半分を濡らして貼り付いていた。

 手のひらにはべったりと血が付着していて、指はわずかに曲がっている。まるで最後に何かを掴もうとしたかのようだった。苦しげな表情がそのまま残っており、その顔を見ただけで、何が起きたのかは嫌でも理解できてしまった。

 

 そして血の色と乾き具合が、もう時間が経っていることを示していた。

 

 入口の近くで、ルビーは立ち尽くしていた。

 

 昨日まで普通に笑って話していた相手が、床に倒れている。しかも、こんな形で。初めて目にする姿に、頭が追いついていないのがはっきり分かった。涙がぼろぼろと零れ落ち、肩は小刻みに震えている。立っているのもやっとという様子だった。

 

 エースはすぐに駆け寄り、その身体を引き寄せた。小さく縮こまった身体を腕の中に抱き込み、視線がそれ以上向かないように庇う。

 

「デュース!!」

 

 怒鳴るように名前を呼ぶと、ちょうど悲鳴を聞きつけて駆けつけてきた船員たちが状況を見て顔を強張らせた。誰かがすぐに医者を呼び、他の者たちは言葉少なに道を空ける。そして応急処置、として。キッチンの中に入っていったのだ。

 

 エースの腕の中で、ルビーは震えていた。

 顔を青白くして必死にしがみついている。彼女の口から「ティーチ……」と、かすれた声で小さく名前が零れた。

 

 エースの眉が一瞬だけ動く。しかし今はそれを考えている余裕はなかった。

 

 

 

「エース、姫さんを部屋に連れてってやれ」

 

 マルコの声に、エースははっとして頷いた。

 

「あ、あぁ……!ルビー、移動しよう」

「や、嫌だ!エース、い、行かないで、嫌だ、行かないでちょうだい……お願い…」

 

 小さな力で抱きつくルビーの珍しい弱気な姿を見て、ずきりと胸が痛んだ。

 

 それからまもなくして、応急処置をしようとしていた医者達が短時間でキッチンから出てきたのだった。

 

 

 

 

「サッチは!?」

「──サッチは、もう」

 

 それは死の宣告だった。

 

 次の瞬間、抑えきれないざわめきが甲板に広がる。

 信じられないという声、呆然とした息。白ひげ海賊団の船上が、あまりにも有り得ない報告に揺れていた。

 

 海賊にとって、死は決して遠いものではない。

 海に出れば常に隣にある。

 

 病で倒れる者もいる。戦いで命を落とす者もいる。嵐に飲まれる者だっている。船から落ち、運悪く海に消えてしまうこともある。『仕方ない』と言える理由があるのだ。

 

 だが今は違う。

 明らかに人の手によって殺された、と。

 しかも、仲間が集う平和なこの船の上で。

 

 つい昨日、敵船との戦いがあった。だがその戦いは白ひげ海賊団の勝利に終わっている。戦利品を奪い取り、誰もが無事に帰ってきた。皆はっきり覚えている。

 

 サッチもまた、笑いながら酒を飲んでいた。

 怪我ひとつしていない、いつもの調子で。

 

 

 ざわめく船員たちの中で、一人の男がルビーの前にしゃがみ込んだ。

 

「嬢ちゃん」

 

 声はできるだけ穏やさを保つようにしているが、拳に力が入って震えている。戦闘とは無縁の女の子を怯えさせないように怒りを何とか押さえ込んでいるのだ。

 

「何か見なかったか?人影とか……怪しい奴とか」

 

 ルビーの肩がびくりと震える。

 

「あ…………」

 

 口を開こうとして、言葉が出ない。

 喉がひきつったように動き、息だけがかすれて漏れる。

 

 上手く声が出ない様子を見て、エースは一人の男の事を思い出した。微かにルビーが呟いた名前。

 

「ティーチは!あいつ、いつも食堂で夜中読書をしてたろ!」

 

 エースの言葉に、船員たちがはっとしたように顔を見合わせた。

 

「確かに……」

「そうだ、あいつ夜中はいつもそこにいる」

「だったら何か見てるかもしれねぇ!」

 

 次の瞬間、何人かが一斉に動き出した。

 船内へ駆け込み、廊下を走り、甲板のあちこちで名前を呼ぶ声が上がる。

 

「ティーチ!」

「おい、どこだ!」

「なぁティーチ見てねぇか!?」

 

 船の隅々まで視線が走り、部屋を覗き、甲板を巡る。

 

 だが。

 

 ティーチの姿はひとつも見えず、彼の私室からいくつかの私物が無くなった事と、血痕を発見したことで──誰もが同じ答えに行き着いた。

 

 

 

 ==========

 

 

「親父が今回は特例だって言ってんだ!ティーチは追わなくていい!」

「離せ!俺の隊の部下だ!これを放っておいて殺されたサッチの魂はどこに行くんだ!」

 

 甲板の空気が張り詰めていた。

 

 怒号が飛び、数人の船員がエースの腕を掴んで押さえている。それでもエースは振りほどこうと身体を前へ突き出し、今にも飛び出しそうな勢いだった。

 

「エース……いいんだ今回だけは……妙な胸騒ぎがしてな……」

「あいつは仲間を殺して逃げたんだぞ!何十年もあんたの世話になっといて!その顔に泥を塗って逃げたんだ!」

 

 ルビーは怒りを露わにするエースをどうすることもできず手を彷徨わせていた。

 

 サッチとティーチは親友とも言えるほど仲が良かった。エースはティーチの過激な所が少し苦手であった為、近付かなかった。

 

「(私は、傍観者でしかない)」

 

 本来この場に居なければ、そもそもこの世界の人間では無い。

 

 紙の外側から眺めているだけでしか無かった人間が、キャラクターたちのそばで何をするというのか。

 

 ティーチがサッチを殺すことは、ルビーだって知っていた。

 止めるべきか止めないようにすべきか、ここは物語の起点ともなる場所だ。

 だからルビーは積極的に何かをしようとしなかった。

 

 

──薄情者!

 

「(そう言われるのが、怖かった)」

 

 知っていたのに、防がなかったのか。

 

 どうして止めなかったのか。

 

 そんな言葉が向けられるのが、怖くてたまらなかった。

 物語の外側を知っているからこそ、そこに介入した瞬間、すべての視線が自分へ向く気がした。

 

 もちろん、止めようとして止められたかなんて分からない。

 

「えー、す」

 

 ルビーの捻り出した声はエースに届いた。

 

「ルビー、止めるな。俺はティーチを追う」

 

 ここで止まれば〝くい〟が残る。

 エースの声なき言葉がルビーに突き刺さった。

 

 それは外側から来た部外者でも、ここを現実として生きるルビーも、彼の性質はわかっていた。

 

「行かないで!!」

 

 ルビーの声は大きく、周囲がギョッとするほど。

 周囲の反対を押しのけてストライカーに飛び乗ったエースはその声に目を見開いていた。その視線にエースは弱い。

 

「エース!」

「……っ!だ、めだ」

「お願いエース……行かないで」

 

 

「なら、一緒に行くか?」

 

 ストライカーに乗ったまま、エースはその手をルビーに伸ばした。

 

「あ……」

 

 エースはこの後、黒ひげ──ティーチを追ってドラム王国まで戻り、アラバスタに向かってルフィと会うだろう。

 そしてバロナ島でティーチと再開し、敗北する。その身柄と引き換えにティーチは七武海となり、頂上戦争で命を落とす。

 

 赤犬のマグマの腕でルフィを守るために、その誇りが描かれた背中から、大きな穴が空く。

 

 

 だが、ルビーがついていって何になる?

 戦闘能力も無ければ、生活能力も無い。常識も足りてなくて、頭も足りない。天才的な戦略を思い浮かぶことも出来ず、悪魔の実の能力者でもない。ほんのちょっと泳ぐのが得意なだけの世間知らず。

 足を引っ張るのが関の山だ。

 

 エースが死ぬ。

 エースが、死ぬのだ。

 

「……。やるよ」

 

 エースはルビーに何なを投げた。

 きらりと光るそれが眼前にやってきて、ルビーは慌ててそれを受け取る。落としそうになりながらもぎゅっと握りしめて顔を上げれば、エースは傷ついた様なホッとしたような顔をしていた。

 

 それは即答されなかった寂しさと、明らかに危険な所へ巻き込まなくて良かったと喜ぶ安堵だ。

 

「元気で」

「エース──!」

 

 エースは小さく微笑んでその手をそっと戻した。

 ストライカーに熱源であるメラメラの能力が巡る。ぼうっと吹き出した炎の色は赤く、青い海の水平線へキラキラと光りながら消えていった。

 

 

 

 

「る、ルビーちゃん」

 

 誰かが遠慮がちに声をかけた。

 

 だがルビーは振り向かなかった。

 ストライカーが消えていった海の向こう──水平線を、ただぼんやりと見つめ続けていた。

 

 もう姿は見えない。

 赤い炎の軌跡も、海を滑る影も、とっくに消えている。

 

 それでも視線だけがそこに縫い付けられたままだった。

 

 握りしめた手の中で、何かが小さくチャリっと音を立てる。

 

「……っ」

 

 ルビーははっとして手を開いた。

 掌の上に、小さなアクセサリーが転がる。

 

 細い金属のチェーン。

 華美な装飾は一切なく、飾り気のない、どこか海賊らしい素朴な作りだった。

 

 その中央に、小さな宝石がひとつだけ嵌め込まれている。

 

 丸く丁寧にカッティングされたルビーが、静かに輝いていた。角張った宝石ではなく、柔らかな曲線を持つ丸いカットで、光が当たるたびに内部からじんわりと赤が滲み出るように揺れる。

 

 それは、エースがいつも首に下げているアクセサリーとよく似ていた。

 

 小さな宝石がゆっくり滲む。

 

「エースが……死んでしまう……」

 

 ぽろり、と涙が落ちた。

 その一滴を合図にしたように、次々と涙が溢れてくる。

 

 最初から知っていた未来だった。

 この世界に来たときから、ずっと。

 

 エースは死ぬ。

 

 そういう物語だと分かっていたはずだったし知っているつもりだった。

 それでも。

 

 現実がそこまで迫った瞬間、胸の奥から恐怖が込み上げてきた。

 

──ルビー!

 

 太陽みたいに明るい声。

 

 活発で、真っ直ぐで、時々ぶっきらぼうで。

 それでも、ふとした時に優しく名前を呼んでくれた声。

 

 

 サボが行方不明になった時からこれは現実だと分かっていたつもりだった。

 しかしサボは生きている。ドレスローザ編でルフィと再開するという、心強い記憶があったから、心のどこかで生きているからという拠り所があった。

 

 でもエースは死んでしまう。

 

 

 

「あ……」

 

 喉が震えた。

 

「あ、あぁ……ああ……っ!」

 

 呼吸が乱れる。

 

「エース……エース……!」

 

 声がかすれる。

 

「エースっ!!」

 

 ルビーは叫んだ。

 抑えきれない感情が、そのまま外へ溢れ出る。

 

「エース……ッ!!」

 

 それは悲鳴だった。胸の奥から引き裂かれるように出てきた、本物の叫びだ。悲鳴だ。

 

「っ……行かないで……!」

 

 声が震える。

 

「……行かないで……っ……」

 

 水平線は、何も答えない。

 

 

 

 ──腹を括れ。

 

 出来ることは何か、出来ないことは何か、しっかり考えろ。

 

 ルビーの瞳に涙とは違うものが灯る。

 その矢印は、赤く赤く燃えていた。

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