選ばれし者と暁の英雄   作:黒猫ノ月

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chrono clubさん、烏瑠さん、甲 零さん、誤字脱字報告ありがとうございます。


41話

穏やかな春風もゆったりと過ぎ去り、その後には涼やかな夏風が足早に駆け抜けていく。そして駆け抜けた後には青葉の爽やかな香りが残り、夏の到来を人々に報せる。

 

そんな夏風の残り香を胸いっぱいに溜め込み、心を落ち着かせていたエステルはそのまま深く息を吐く。そこには既に夏の色はなく、ただただ緊張の色が吐息となって溶けていく。

 

「……よしっ」

 

エステルは声に出して気合を入れ、石畳の廊下から足を踏み出して中庭に出る。そこには今年度の試験が“特例”によって廃止となったために、試験勉強に精を出さなくても良くなった生徒達が伸び伸びと自由に楽しんでいた。

 

試験がないという開放感から一層賑わう中庭であったが、しかしある一点。そこだけは賑やかとはかけ離れた静かな気配が漂っていた。

 

そこは中庭に設置された木々の一つ。木の幹にもたれながら木陰で本を広げる二人の少女達の姿。

 

一人は陽だまりのような金髪を左右に揺らしながら目の前の教科書に頭を悩ませており、もう一人は透き通るような白金の髪を耳にかきあげ、その様子を横目に微笑みながら手元の本に目を落とす。

 

幼くあどけなさが残る少女と、大人びた知性伴う少女。

 

方向性は違えども誰が見ても美少女と言って差し支えない二人が木陰に佇む様は、絶対に踏み入れてはいけない、穢してはならないという一種の強迫観念を周囲に与えた。

 

それもあって、その一角は二人だけの聖域と化していた。

 

やっぱり絵になるなぁ、とそんな二人をしばし眺めていたエステルであったが、頭を振ってもう一度気合を入れ直し、その聖域に足を踏み入れた。

 

彼女がその聖域に足を踏み入れた様子は、もちろん周囲の生徒達も気が付いた。しかし、あの光景を邪魔する者は誰だと誰もが視線を彼女に向けるのだが、一瞬惚けた後、どこか納得するように矛を収めた。

 

なぜなら、その聖域に踏み入ったエステル自身も美少女と呼ぶにふさわしい少女だったからだ。

 

目鼻立ちの整った表情は、普段ならばとても人懐っこく可愛げのあるものなのだが、木の下にいる二人に近づくにつれて緊張で硬くなっていく。

 

温かみを感じる赤毛の髪はハーフアップにされ、後ろで縛られた尻尾が身体の動きに合わせて小刻みに揺れる。それはまるで、彼女の内心を表しているかのようだった。

 

そうして近づいてくるエステルに、実は最初から気が付いていた白金の髪を持った少女……シルヴィアは、横でうんうんととある秀才から出された課題に唸る金髪の少女……アリスの肩を揺すって来客を報せる。

 

目を落としていた教科書から顔を上げたアリスは、エステルの姿を捉えると、ひまわりのような大輪の花を思わせる眩しい笑顔を讃えて来客を迎えた。

 

「マクレイアさん、こんにちはっ」

 

そんな無邪気で無垢な笑顔で出迎えられたエステルは、虚を突かれて気合が抜けてしまった。そしてその笑顔に癒されるように緊張もほぐれていき、釣られるように自身も穏やかな笑みで返した。

 

「こんにちは、バウンディさん」

 

そしてエステルは用件も忘れてアリスと世間話に花を咲かせる。

 

その様子を苦笑しながら眺めるシルヴィア。どこか張り詰めた気配で近寄っていたエステルに、その緊張を緩めようと自身が天使と呼ぶ彼女を差し向けたのだが、思った以上にいい感じで彼女の肩の力は抜けていた。

 

やはり私のアリスは天使だ、と心のうち再度認識を改めたシルヴィアは自らも本を閉じて、アリスと談笑するエステルへと声をかける。

 

「それでマクレイア。なにやら私達に用があるみたいだったが、何用かな?」

 

「え、あっ! そ、そうだった……」

 

その言葉に用件を思い出したエステルは、少し慌てて顔を引き締める。しかし真剣さを意識しているせいか、顔が完全には引き締まっていない。

 

シルヴィアはそれを見てクスリと笑みをこぼすが、それは胸の内にとどめておいた。そして表面上はエステルに合わせて少しだけ真面目な雰囲気を醸し出す。

 

それはアリスにも伝わったようで、彼女も自分らしく姿勢を正してエステルの言葉を待つ。エステルは二人の話を聞く姿勢を確認した後、一つ息を吐いてここにきた用向きを告げた。

 

「えっと……今日は、コルドウェルさんと話したいことがあって来たの」

 

「私と? ……ふむ。それは二人だけで、ということかな?」

 

「うん。いい、かな?」

 

不安そうに尋ねるエステルに、シルヴィアは大体の話の内容を察する。予想通りの内容ならば、たしかに人前で無闇にするものではない。

 

しかし今日は先にアリスとの約束がある。自身の親友である秀才殿がアリスに課した試験代わりの課題の手伝いが。

 

今年度の特例……『秘密の部屋』事件解決の祝いとして、ダンブルドアが試験を廃止にしたのだが、学ぶことを是とする秀才……ギルバートはこれを許さなかった。

 

試験がない分、一年と二年の総復習を夏休みまでに終わらせるように言い渡され、手渡された課題の数々にレイとアリスは撃沈した。ちなみにシルヴィアは既に合格点であったことは記しておく。

 

それから数週間。レイは順調に課題を終わらせていたのだが、アリスは文字通り頭から煙を上げていた。これではダメだとシルヴィアに泣きついたのが今の現状である。

 

シルヴィアはちらりとアリスを見やる。彼女の言いたいことを察したアリスは、微笑みを浮かべて彼女を促した。

 

「行ってくださいシルヴィさん。私はここで待ってますから」

 

「いいのかい?」

 

「はいっ」

 

混じり気のないその笑顔に釣られて、シルヴィアも笑みを浮かべてそのふんわりとした髪を撫でる。そういうことならばとシルヴィアはお言葉に甘えることにした。

 

「ありがとうアリス。終わったらすぐ戻ってくるからな」

 

「バウンディさん、ありがとう」

 

「いえいえ。お二人とも、いってらっしゃい」

 

シルヴィアとエステルは手を振るアリスに見送られて中庭を出る。その背を見送ったアリスは、どんなお話なのかなと思いながらもギルバートからの課題に再び取り組む。

 

そんなアリスに忍び寄る影が複数。この機会に彼女とお近付きになりたい者共がこれ幸いと歩み寄ろうとしたのだが、しかしそれは彼女の親衛隊によって阻まれる。

 

アリスにはにこやかに声をかけ、周囲には睨みを利かせる複数人の女生徒達。その名を『子熊を絶対守り隊』。

 

実は彼女達、つい一月程前にレイとシルヴィア、ギルバートへの襲撃を決行していた。理由は当然、『秘密の部屋』探索などという危険極まりないものにアリスを付き合わせた制裁として。

 

だが結果は勿論失敗。誰一人傷一つ負わせることもなく撃退される結果に終わってしまった。

 

そんな自分達の不甲斐なさに膝をつく親衛隊一同。しかし打ちひしがれる彼女達に手を差し伸べる者がいた。他でもない、彼女たち同様アリスのことを大切に思っているシルヴィアだ。

 

シルヴィアは彼女達のアリスに向ける底深い愛情に、探索前の過保護であった自分と重ねてしまい、放って置けなくなってしまったのだ。

 

それからというもの、シルヴィアと意気投合した親衛隊一同。徐々にテンションを高め、涙さえしながらアリスとのこれからを語り合う子熊を愛する一同。それを遠くで眺めていたレイとギルバートは呆れ果てて何も言えなかった。

 

後に、シルヴィアの意見を取り入れ、親衛隊の約定の中に『“友達”の定義を誤ることなく、ほどほどに子熊を守ること』というものが追加されたとかされていないとか。

 

確かなのは、今現在アリスを守っている様は全然『ほどほど』ではないということだけである。

 

そんな出来事が自分達の去った後に起こっていると知っているシルヴィアと全く知らないエステルは、お互い言葉を交わすこともなく黙って廊下を歩く。

 

少し先を歩くシルヴィアをそっと隠し見るように見ながら、エステルは最難関門を突破したことに安堵する。

 

エステルはここ数週間の間、ずっとこの機会をうかがっていた。シルヴィアと二人きりになれるこの時を。

 

しかしながらそれは中々に難しいものであった。

 

時間や場所など、色々障害はあったのだが、一番の問題はシルヴィアが一人になる時が全くと言っていいほどないことであった。

 

レイは勿論のこと、ギルバートやアリス、彼女を慕う生徒達。

 

自身がシルヴィアと話したい内容は決して人前で、それも男の子の前で……特に自分の恋する彼の前で彼女を連れ出すのは無理だった。だがしかし、この数週間必ずと言っていいほどレイとギルバートのどちらかは彼女とともにいた。

 

それでも長く機会を伺っていたのだが、そうこうしているうちに今学期もあと少しというところまで来てしまった。

 

これではまずいと焦ったエステルは、ハーマイオニーに相談してジョーカーを切ることにした。……悪戯好きで有名な赤毛の双子に力を借りたのだ。

 

双子には、ハーマイオニーがそれとなくエステルの存在を隠して依頼したのだが、そこは一部では悪魔と呼ばれる双子。すぐに状況を把握した。

 

これにはハーマイオニーも大慌てだったのだが、しかし何故か双子は特におちょくることも言いふらすこともなく、さらには対価を求めることもせず胸を叩いて、姫の恋路は我々が切り開こうと言ってきたのだ。

 

この対応に呆気にとられたハーマイオニーであったが、彼女の不安を他所に、双子は無事にレイとギルバートをホグワーツの外へと連れ出すことに成功する。……彼らが誇るとある地図を使って。

 

その報せを受けたエステルは、すぐにシルヴィアの元に向かった。事前に彼女の予定はレイ経由で知っていたために見つけるのは簡単だったのだが、問題はそのあとだった。

 

それは、シルヴィアが話を聞いてくれるかというものであったのだが、それも今は解決している。

 

さて、あとは話を聞くだけだとエステルが思考の海から顔を出して意気込んでいると、ふと涼やかな風がその頬を撫でる。どうやら無意識のうちにシルヴィアに付いて石畳の廊下を抜けていたようだった。

 

目の前には青空と湖畔へと続く草原と丘が広がる。その光景を目に入れた瞬間、エステルは思わず立ち止まってしまった。

 

彼女はこの道を知っていた。何故ならば、この道は……自分の大切な人が教えてくれた素敵な場所に続く道で。そして……。

 

 

 

自身が恋を自覚した思い出の場所に続く道だったから。

 

 

 

「どうしたマクレイア? 目的地はこの道を下ったすぐそこだ」

 

「あ、う、うんっ」

 

先を行くシルヴィアに声をかけられたことで、立ち止まっていたエステルは彼女の元まで駆ける。そして再び彼女の少し後ろをついて湖畔までの道のりを下っていく。

 

今もたまに気分転換にやってくる場所。たしかにあの場所は二人きりで内緒の話をするのには最適だが……。

 

そんなことを考えているうちに、シルヴィアとエステルは目的地の湖畔にたどり着く。

 

目の前に広がる広大な湖。

 

夏目前ということもあって、適度な温度に湖畔から流れる風の冷たさはとても心地が良かった。

 

しばし、二人はその心地よさに身を委ねる。

 

訪れる沈黙。そのおかげで余計な雑音がなくなり、自然が生み出す声が耳を打ち、二人を包む心地よさは増すばかりだ。

 

しかし、エステルはその心地よさを心から満喫できてはいなかった。彼女の心の内では、隣に立つ少女が何故この場所を知っていたか、という思いがぐるぐると渦巻いていたからだ。

 

エステルは下げていた目線を上げ、そのまま横に向ける。シルヴィアは自分と違い、自然が齎す心地よさを思う存分感受しているようだった。

 

陽光に照らされた白金の髪が風になびいて一本一本が優しく煌めく。そしてふわりと舞う髪を抑えて、それすらも心地よいとばかりに目を細めて微笑みを讃える。

 

そう微笑んだまま遠くを見つめるその姿は、この世のものとは思えないほど神々しく、まさに『美』というものをその身で体現しているというに相応しいものであった。

 

女である自分が嫉妬する気も失せるほどの隔絶した美しさ。それを理解しているはずなのに、それでも自分は彼女に……いつもいつも彼の隣に立つ彼女に嫉妬せざるを得ない。

 

その邪とも言える思いを勘付かれたのだろうか。シルヴィアは遠くを見つめたまま、エステルに話しかけた。

 

「……ここはな、私とレイが友好を結んだ場所なのだ」

 

「…………」

 

やっぱり、とエステルの心に黒い思いがポツリと落とされる。この場所が自分と彼だけの思い出の場所ではなかった。そのことがシルヴィアに対する嫉妬心をさらに掻き立てる。

 

「ふっ。やはり、君にとってもここは特別な場所のようだ……彼との、な」

 

「……っ!」

 

シルヴィアは遠くを見つめるのをやめてエステルと向き合う。

 

見透かされている。しかも彼女は自身が彼女に対して抱く思いに気付いておきながら、余裕綽々と可笑しそうに笑う。

 

それはまるで、お前は別に彼の特別なのではないのだと挑発しているかのようにエステルには映った。

 

エステルは真っ直ぐに目の前の強敵を見つめ返す。絶対に引かないと行動で示すように。

 

瞳に自身に対する闘志を宿らせるエステルを面白そうに眺めたシルヴィアは、さてと前置きを置いて本題について口を開いた。

 

「マクレイア。話の内容ははおおよそ見当がついている。……レイの、己を振り返らない自己犠牲という在り方についてだろう?」

 

「……うん」

 

エステルはシルヴィアが悟っていたことにもはや驚かなかった。彼女は全てを悟った上でこの場所に来たのだ。お互いに、レイとの特別な思い出が残るこの場所を。

 

そんな彼との思い出が眠る場所で、エステルは自身の胸の内を語り始めた。

 

「……一年の頃、レイが大怪我を押して助けに来てくれた時ね、すっごく頼もしく思えた。本当なら動けなくなってもおかしくないのに、私とハリーのために……私との約束を守るために“名前を言ってはいけないあの人”から身を呈して守ってくれた」

 

傷だらけの大きな背中。力強い笑みを浮かべる横顔。あの時の光景は今でも脳裏に焼き付いている。

 

「だけど、今回は違った。レイが全身に包帯を巻いて『秘密の部屋』に来た時。包帯に血を滲ませながらバジリスクと戦っている時。そして……傷だらけになりながらもバジリスクに勝った時」

 

レイは全身を駆け抜けているはずの耐え難い激痛をおくびにも出さず戦い抜いた。

 

「嬉しかったよ? 頼もしかったし……それに、格好よかった。でも、でもね、それ以上に……胸が、苦しかった。レイが無理をするたび、無茶をするたび、胸が締め付けられそうだった」

 

それは全てが終わった後もそうだった。ここまで頑張ったのだから休んでもいいはずなのに。痛いって、苦しいって叫んでもいいはずなのに。彼は医務室に運ばれる最後まで泣き言を一つも吐き出さなかった。

 

誰にも、弱味を見せなかった。

 

「その時分かったの。私は、私の大切な……本当に大切な人にこれ以上自分を無下にして欲しくないんだって」

 

大切な人が一人傷ついていく様に、心が悲鳴をあげる。

 

だが、それだけではない。思えば一年の時、クィレルを倒した後にレイが倒れた時がきっかけだった。吹き出る大量の汗に止まらない血、どんどん冷たくなっていく彼の身体。

 

このままレイが死んでしまうかもしれない。そう思い至った瞬間、目の前が真っ暗になったのだ。

 

そう思い至ってからというもの、エステルの頭の中では嫌な想像が頭を離れない。

 

自分の知らないところで致命傷を負ってしまい、そのまま帰って来ないかもしれない。自分の前では何事もないように装っていた愛しい人が、その数分後に倒れてそのまま目を覚まさないかもしれない。そして、自分を守った代償に……。

 

愛しい人が永遠にいなくなってしまうかもしれない恐怖。それが彼女の心を縛り付けていた。

 

「こんなことを続けてたらいつか……本当に死んじゃうかもしれない。私は、それが怖いの」

 

身勝手な願いだと分かっている。無力な自分がダメなことも。レイが大切な人を守るという、譲れない思いがあってああして身体を張って戦っていることも。

 

だけど、それでも……エステルは彼にもう自分を蔑ろにして欲しくない。

 

そして、だからこそ思ったのだ。目の前で自身の話に真剣な面持ちで耳を傾ける、レイを最愛と言って憚らない彼女はどう思っているのかと。

 

彼女だけではない。この場にはいない二人もそうだ。けれど、エステルはシルヴィアに尋ねたかった。……自分がライバルと定める彼女に。

 

「コルドウェルさん。貴女はそう思ったことないの? 不安にならない? 怖くないの? ……このままだとレイは取り返しのつかない大怪我をしちゃうかもしれない。最悪……死んじゃうかもしれないんだよ?」

 

悲痛な面持ちでエステルは語り終えた。そんな彼女の心からの叫びを受け取ったシルヴィア、そっとその瞼を閉じた。

 

二人の間に再び静寂が訪れる。静寂が訪れている際、不思議と自然の声さえも聞こえることはなかった。

 

……どれくらいそうしていただろうか。長い睫毛が並ぶ瞼がゆっくりと開かれた。それを見たエステルは彼女の答えが決まったことを悟る。そしてその美しい灰色の瞳を覗き込んだ。

 

その瞳に映っていたシルヴィアの答えは……。

 

 

 

「ふん、“くだらない”な」

 

 

 

エステルに対する、失望の色だった。

 

「っ!!」

 

シルヴィアによって一蹴されたエステルは、自身を見るその唐突な失望も合わさって彼女に詰め寄る。

 

「くだらないって……そんなことっ」

 

「いいやくだらないさ。そんな体たらくでレイに想いを寄せるとは笑わせる」

 

「っ!」

 

先ほどの真面目な様子とは打って変わって、エステルに嘲笑を向けるシルヴィア。そんな彼女に黙っていられるはずもなく、エステルは声を上げる。

 

「……何が、いけないの? 大切な人に無理して欲しくないって、傷ついて欲しくないってっ、死んで欲しくないって! そう思って何がいけないの!? 心配することがくだらないことなのっ!?」

 

エステルの必死の叫びに、しかしシルヴィアは静かに答える。

 

「何も悪くないさ。君の想いも、抱える懸念も分からんではない。私も……経験したからな」

 

思い返すのはスリザリンの試練、レイが白の戦士達の猛攻を受けて死にかけた時だ。

 

あの時は心臓が止まりそうになるという感覚を初めて経験した。柄にもなく取り乱して無様を晒してしまった。

 

シルヴィアは自身の不甲斐なさに苦笑する。だがそれも直ぐにしまい込み、自身を睨み上げるエステルに目を向ける。

 

「私がくだらないと言ったのはなマクレイア、君がレイのことを考えているようでまるで考えていないところだよ。それは、ただの独り善がりよりある意味タチが悪い」

 

「……え?」

 

「……その様子では、考えたこともないのだろうな」

 

シルヴィアの言っていることが今ひとつ分からなかったエステルは思わず呆けてしまう。しかし、その様はさらにシルヴィアの彼女に対する失望の色を深めることとなる。

 

シルヴィアは一つ息を吐く。そして……エステルに告げた。

 

自身は知り、彼女が知らない真実を。

 

 

 

「君は知っているのか? レイがなぜ、己が身を犠牲にすることを厭わずに大切な誰かを守ろうとしているかを。そして、大切な誰かが害されることを極度に恐れるのかを」

 

 

 

「っ! それは……っ!」

 

「それは?」

 

「…………っ」

 

先ほどの勢いは何処へやら。エステルはシルヴィアの問いに口を閉ざしてしまう。……閉ざすしか、なかった。

 

ここでようやく、シルヴィアが言っていたことの意味を知る。自分はレイに無理をして欲しくない一心で、まるで彼の都合を考えていなかった。

 

そして、知る。

 

シルヴィアが知っていることを。……そして、自分は知らないことを。

 

彼女が知っていて。自分は知らない。

 

この事実は、エステルの心に大きな杭となって打ち付けられる。心に穿たれたこの杭は、これからしばらく彼女を苛ませることとなる。

 

心の痛みに胸を押さえて堪えるエステル。彼女の心に杭を打ち付けたシルヴィアは、彼女が苦しむ様を意に介すことなく話を続ける。

 

「もしレイを止めたいのならば、まずはそれを知るところからだな。まあ、今の君にはレイも話さないだろうがな」

 

「っ!」

 

エステルは胸に手を当てたまま、鋭くシルヴィアを睨みつける。それをシルヴィアは口角を上げて堂々と受け止めた。

 

そうしてしばらく両者とも対峙していたが、それも飽きたのかシルヴィアがそっとエステルから目をそらし、湖へと目を向ける。エステルは自分が全く相手にされていないことにさらに怒りを募らせた。

 

そんな彼女に、そんなことはどうでもいいとばかりにシルヴィアは一方的に話しかけた。

 

「まあしかし、先も言ったが君のその想いは分からんでもないよ」

 

「……?」

 

唐突な話題のフリに首を傾げるエステル。彼女に対する怒りも脇に置き、ぐるぐると何のことかと記憶を探るエステル。

 

そんな彼女に、シルヴィアは君がレイを心配している件さ、と肩を諌めて諭した後、続けて自分の意思を述べる。

 

「だがな、私は決してレイを止めることはしない。彼がこの先どれだけ傷つこうと、たとえ……その先で命を落とすかもしれなくてもだ」

 

「どう、して……?」

 

エステルは尋ねる。自分とは違い、全てを知って出した答え。しかしそれも到底エステルには受け入れられないものであったからだ。

 

そうして尋ねられたシルヴィアは、再びエステルと向き直る。

 

「簡単なことだ。それは……」

 

シルヴィアはその瞳に混じり気のない純粋な想いを乗せて、目の前の矮小な少女に胸を張って……告げる。

 

 

 

「私が、レイを愛しているからだ」

 

 

 

「っ!!」

 

衝撃が、エステルの身体を貫く。

 

予想の範囲内であったはずなのに、頭が真っ白になる。そして、真っ白になった頭の中にぞっと黒い感情が湧き出る。

 

レイを愛していると誇り高く口にするシルヴィア。眩しくて直視が難しいその姿に、自然と嫉妬してしまうのだ。

 

「私はレイの全てを愛している。優しくもそれを向ける相手を選ぶところも、勤勉だが過度に謙遜するところも、他者の僅かな違いには聡いのに自身のこととなると途端に鈍感になるところも、勇敢だが蛮勇であるところも、他者を思いやれるのに自身を顧みないところも。そんな彼の一長一短全てが愛おしい」

 

シルヴィアは自身の胸に利き手を当て、心の底から愛しむように微笑を浮かべる。その姿は、嫉妬を抱えていたはずのエステルでさえも見惚れてしまうほどに慈愛に満ちた女神のごとき姿であった。

 

「だから私はレイを止めない。君も知っての通り、彼が己が身を犠牲にしてでも大切なもののために戦うのは自分のためなのだ。自分が自分であるために、つまりは私が愛する彼であるために」

 

レイが自らの意思で無茶な行動をやめたのであれば受け入れよう。それが誰かに諭されたものであっても、最後に決めたのは彼自身だ。彼が決めたのならば、そんな彼もきっと自分は愛しく思うのだから。

 

だが、シルヴィアは何が起ころうとも自らが彼の今を壊すようなことは口にしない。……どれほど彼の身が、心が傷つく様を目にしようとも。その度に酷い胸の痛みに苛まれようとも。

 

彼が彼らしく、自由に生きている様を……シルヴィアは心の底から愛しているのだから。

 

そして次の瞬間、エステルはシルヴィアの放つ気迫に思わず身を引いてしまうこととなった。

 

慈愛の女神は微笑を捨て、決意を讃える戦女神のような気配をその身に纏わせたその姿に。

 

「私とて、彼が傷つく様をただ指を咥えて眺めるのは御免被る。ならばこそ、私はレイが己が信条のために駆け抜けられるようこの命を賭して力となろう。彼が突き進む茨の道を共に行くと、私は……私達は、彼に誓ったのだ」

 

戦女神は謳う。目の前の矮小な存在に彼を想う覚悟を見せつけるように。

 

「それに私は信じているからな。レイは必ず生きて帰ってくると。……レイも、私にそう約束してくれた。ならばあとは、私が誰よりも隣で彼を支えるだけだ」

 

「…………」

 

自身の覚悟と決意を語り終えた戦女神は、その気配を霧散させて一人の少女の姿を取り戻す。

 

そんな彼女が微笑む様をただ呆然と眺めていたエステルは、もはや何も言葉にすることが出来なかった。……いや違う、言葉にするべくもなく思い知らされたのだ。

 

負けている。

 

彼に対する愛の強さも、信じる想いも、覚悟の強さも、何もかも。

 

それだけではない。自分が知らない愛しい彼のことを目の前の女神はいくつも知っている。それはおそらく、彼の過去さえも。

 

自分が知らない、レイの過去。

 

思い返すのは一年前、この河畔で見せた優しくて、寂しくて、苦しくて、辛い。そんな色々な思いがごちゃ混ぜになった、とても見ていられないような顔で笑っていたレイ。

 

彼の過去に何かあるのは薄々分かっていた。それが彼の普通ではないところにも起因していることも。

 

知りたくて、だけど手を伸ばせなかった彼の最も深く、脆い場所。

 

けど目の前の人は知っている。その場所に手を伸ばし、全身全霊の愛でもって優しく包みこんでいる。

 

私はダメで、彼女はいい。

 

ズキっ、と。心に穿たれた杭がさらに深く食い込んだ気がした。

 

そうしてエステルが苦しむ様を一瞥したシルヴィアはすぐに目をそらした。

 

「話はこれで終いだ。まあ頑張ってくれ。私も君が彼の心を射止められることを祈っているよ。……その時には、彼の心は私で満たされているかもしれないがね」

 

「…………」

 

エステルは余裕綽々と笑みを浮かべるシルヴィアを無言で睨み返す。だが、シルヴィアは全く堪えた様子を見せず、逆に笑みを深くしてエステルに背を向ける。

 

そして、シルヴィアは一度も振り向くこともなく去っていくのだった。

 

「…………」

 

その背を親の仇のようにぎらりと睨みつけていたエステルは、その背が消えたところで深く、身体に渦巻く全てを吐き出す用に深く息を吐いた。

 

そして気分落ち着かせるように目の前の広大な湖を遠くまで眺める。

 

「……っ」

 

ズキリ、と胸が痛む。思わず胸元を押さえるが、その痛みはしばらく止みそうにない。

 

湖から目を落とし、顔をうつむかせるエステル。そんな彼女を励ますように、涼やかな夏風が彼女の周囲を駆け抜ける。

 

靡く髪、はためくスカート。しかしエステルは押さえることをしなかった。

 

……どれだけそうしていたであろうか。エステルは不意に顔をうつむかせたまま何事かを呟いた。

 

「……け…もん」

 

そして、それは呟きでは収まらなかった。エステルは徐々に肩を震わせていき、そして……。

 

「絶対に、負けないもんっ!」

 

まるで想い人との思い出遺るこの地に誓うように、恋する乙女は大きく叫んだ。




これだけの決意と覚悟、深い愛情を向けられてもなお、英雄の片鱗を見せる少年は彼女達を振り返ることはない。……少年はただ、己が信念を貫くために前だけを見つめるだけである。



これにて二章完結です。皆様のおかげで無事完結することができました。応援ありがとうございました!

これからのことに関しては活動報告に上げますので、そちらをご覧くださればと思います。
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