脱獄囚シリウス・ブラックは冤罪であった。
その可能性をまた一つ裏付ける情報を得たレイ達であったが、だからといって何か行動を起こすといったことはなかった。
現時点で何一つ証拠はなく、元々の情報源は暗い過去を持つ公には出来ない人物だ。たとえ広い心を持つダンブルドアに自分達の持つ情報を提示したとしても、彼は動いてくれない……いや、動けないだろう。
結局、誰よりも真実に近づいたレイ達であっても、とれる行動は現状維持しかないのだ。
これで自分達の前にブラックが出てきてくれれば御の字なのだが、そう簡単には行くはずもない。
レイ達は新たに浮上したピーター・ペティグリューという存在を頭の片隅の額縁に飾って今年最後のホグズミードを後にしたのだった。
しかし、そこで話は終わらなかった。
寮に帰宅したレイは、そこで意気消沈した様子を見せるハリーを連れたエステル達と偶然出くわしたのだ。
一体どうしたことかと心配して声をかけたレイ。エステル達はなんでもないと言おうとしたのだが、そこでハリーがレイに聞いて欲しいことがあると言ってきたのだ。
もちろんレイが拒否するはずもなく、ハリーとロンの寝室に場所を移し、そこでハリーから何があったか話を聞かされた。
その内容はまさに、レイ達が『三本の箒』で聞いたものと同様だったのだ。なんとハリーは透明マントを使ってホグズミードに来ており、偶然ミネルバ達の話を耳にしたのだという。
自分の両親を裏切り、死に追いやった者がいる。それも自分のすぐ側に。
ハリーが下唇を噛み、握り拳を強く握りしめる様を目の当たりにしたレイは、心の内で良心と理性の狭間で揺れていた。
実はブラックは犯人ではないかもしれない。
それが悲しみと憎しみにくれる友人に伝えられればどれだけ良かっただろうか。
しかしこの仮説には証拠がない。ここで余計なことをハリーに吹き込み、惑わせてしまうことが下策なのは誰が見ても明らか。しかし……ほんの僅かでも、友の心を楽にしてあげたいと思うレイの思いもまた、共感を得られるものだろう。
……悩んだ末に、レイは最後までハリーに口にしないことを選択した。今は辛くとも、確証のない情報に惑わされることなく、必ず最後に本当の真実を得ることこそが、ハリーを救う最大の近道であることを信じて。
この日、レイはエステル達と共に夜遅くまでハリーを慰めることとなった。レイに、ブラックの件に深く関わる決意をさせて。
………………
…………
……
……
…………
………………
友人に対する心残りを残して、レイは年明けを迎えた。
その彼はといえば、今はエステルからクリスマス休暇中にあった出来事を聴きながら談話室へと向かっていた。
「『炎の雷 ファイアボルト』ねぇ。それってすごいのか?」
「うん、私も少し調べたんだけど20万ガリオンもするんだって。まさに最高峰の箒だよ」
「で、それがなぜかハリー宛にクリスマスプレゼントとして贈られてきた、と」
「そうなの。絶対に怪しいよね」
「ああ、触らなかったハリーは正しいな」
魔法により自動で移動する階段に身を任せながら、レイとエステルは顔を見合わせて苦笑した。手放す際のハリー(とロン)の名残惜しそうな様子がありありと脳裏に浮かんだからだ。
レイは今年度のクリスマス休暇をアリス家で過ごした。久しぶりにお邪魔したレイとシルヴィア、ギルバートの3人を、アリス家の面々は快く歓迎し、休暇中は心置きなく満喫することができた。
そんな中、ホグワーツ残留組であったハリーとロン、ハーマイオニーにエステルの4人にとある出来事が起こる。それが今エステルがレイに説明しているファイアボルトという目が飛び出るような贈り物のことだ。
最初は無邪気に喜んでいたハリーとロンであったが、このタイミングで贈られてきた送り主不明の高価な贈り物にブラックからの罠であると感じたハーマイオニーとエステルが待ったをかけた。
ロンと言い合いになる中、しかしハリーはなんとファイアボルトを諦める選択をしてみせたのだ。今すぐにでも乗りたいという葛藤に苛まれながら……。
未だ14歳の少年が欲望を耐えぬく。その決断の陰に、憧れの少年が影響しているのは確かだろう。
こうして最高峰の箒はミネルバに預けられ、現在調査中であるとのことだった。
「ま、何もなかったらその箒も返ってくるだろ。そんときにハリーの箒さばきを存分に拝むとするさ」
「あははっ、そうだね。ハリーにファイアボルトが合わされば優勝は間違いなし! だね」
レイとエステルはそう笑い合いながらグリフィンドール寮の入り口である『太ったレディ』に合言葉を言って中に入れてもらう。おっちょこちょいなとある友人のように合言葉を間違えることもなく、寮内に足を踏み入れた2人であったが、何やら談話室が騒がしいことに気がつく。
「どうしたのかな?」
「さぁな。また双子が何かしてるんじゃないか?」
そんなときだった。一際大きな声がレイとエステルの元に届く。それは、2人にとって聞き慣れた少年のものだった。顔を見合わせ2人は、駆け足で談話室へと足を進めた。
時は少し遡る。
去年の一時期、ボグワーツ内にて話題を独占した少年……グレンは一人談話室への帰路についていた。彼の周囲に少し前までいた数多くの友人達の姿はない。それもあって、ただ一人でいるだけなのにどこか哀愁が漂っているようであった。
グレンはレイに返り討ちにあってからというもの、一人で過ごすことが多くなっていた。それも全て、己が行った所業ゆえだ。
レイにボロボロにされ、一週間の入院の末に無事退院したグレンは、今度こそと意気込んでグリフィンドール寮へと帰宅したのだが……そこで待っていたのは、仲間達による明確な拒絶だった。
談話室に顔を出したグレンに向けられる数々の侮蔑の視線。嫌悪さえ感じる表情を浮かべてグレンを横目で見ては周囲いる人と小声で何事かを言い合う。
全身にまとわりつく膨大な悪意。どういうことかと近くにいる知り合いに尋ねようとするも、話しかけないでくれと袖にされる。レイに対する敵愾心を共有していた友人さえ、もう関わらないでくれとそそくさと談話室を後にする始末。
何が何だかんだわからないと談話室の真ん中で呆然と佇むグレン。しかしすぐに思い至る。
……簡単な話だ。勇気を尊ぶグリフィンドールは、グレンが仕出かした卑劣な行いを許さなかったのだ。
ようやく己の境遇を悟ったグレンは、怒りを露わにして叫び散らす。しかしグリフィンドール生達は彼に取り合うことなく、返ってきたのはさらなる軽蔑の眼差しだった。
これが一人ないし数人ならさらに噛み付けもするが、相手はグリフィンドール生のほぼ全員だ。グレンはこれ以上荒ぶっても無駄であることを悟り、恥辱に耐えるように下唇を噛み締めて両の手を握りしめることしか出来なかった。
グリフィンドール一年生の兄貴分として肩肘を張っていたグレンは、たった一度の過ちによって孤立してしまったのだった。
ここ数ヶ月のことを思い返していたグレンは知らず歯をくいしばる。ギシリ、と耳障りな音が彼の鼓膜を揺らした。
不快な雑音にまた不機嫌になったグレンであったが、そこで寮の入り口にたどり着く。グレンについて事の次第を知っている『太ったレディ』であるが、なんでもないように取り繕いながら彼に合言葉を尋ねる。
絵画に気を遣われていることを悟り、短く舌を打ったグレンは吐き捨てるように合言葉を言い放ち、寮への入り口を潜った。
談話室へと躍り出たグレン。そんな彼に元々談話室にいた者達が一度顔を向けるが、それがグレンであるとわかるとあからさまに嫌悪感をあらわにした後、すぐさま興味をなくして各々歓談したり宿題をしたりと作業に戻っていく。
あれから数ヶ月経った。しかし、グリフィンドールは未だグレンを許してはいなかった。
さらに低下していく少年の機嫌。そして……。
「おい見ろよ。卑怯者が来たぜ」
「なんでここに来てんだろうな。卑怯者にお似合いなスリザリンは地下だってのに」
自身を侮辱する声が、鼓膜を揺らした。
……それが、今まで溜め込んでいた憤怒を爆発させる起爆剤となる。
ぶちっ、と。
何かが弾ける音が、グレンの中に響き渡る。そして気がつけば、グレンは自身を馬鹿にした上級生達の目の前に立っていた。
「おい」
「あ? なんだぐぁっ!?」
近づいてきた嫌悪の対象に訝しむ上級生の二人であったが、彼らの都合など御構い無しにグレンは彼らのうちの一人の胸ぐら掴んで無理やり立ち上がらせる。
突然のことに談話室がざわめき出す。
ざわつく中、苦しそうにもがく友人を黙って見ているはずもなく、もう一人がグレンの腕を掴んで離しにかかる。
「お前何をするんだっ!」
「そんなに俺が卑怯者だなんだっつうならよぉ、今から正々堂々やってやろうじゃねぇか。おら、こっち来いよ」
「ぐぇっ、は、離っ」
「はぁっ!? 訳の分からない事を……っ!」
「それともなんだ? 一年生相手にビビってんのかお前ら」
「「っ!!」」
あからさまな挑発。しかし相手が一年、しかも自分達が卑怯者と蔑んだ相手からの挑発だ。彼らに断るという選択肢などあるはずもない。
顔を真っ赤にさせてグレンに掴みかかる上級生二人であったが、それをスッと後方に避けたグレン。彼を追って二人はグレンとともに談話室の中央に踊り出る。しかしそれはグレンの思惑通りだった。
まんまとグレンに誘き出された二人。いきなり騒めく観客達の真ん中に立たされた二人は怒りに染めた顔を一転させて戸惑いを見せる。しかしそんな彼らをよそに、グレンは杖を抜き放った。
「どうした、さっさと杖を抜けよ臆病者。そのザマじゃあてめーらの方がよっぽどスリザリンにお似合いだぜ」
「っ! 言わせておけば……っ!!」
グレンの挑発にあっさりと応じる二人も再び怒りを露わにして懐から杖を取り出す。が、その抜き方一つ見ても二人がこのような状況に不慣れであるのは明らかだった。
鼻息荒く顔を真っ赤に染める上級生二人に、なんら脅威を感じないグレンは口角を吊り上げる。
騒ぎを聞きつけて談話室に生徒達が集まりだしている。多くの衆目の中で正々堂々この二人を片付ければ、自分の悪評も少しはなりを潜めるだろう。
怒りで我を失うこともなくそこまで考えていたグレン。ついでにこれまでの鬱憤をこいつらで晴らしてやると意気込んでさらに相対する二人を煽る。
「おいおい、お手手が震えてるぜぇ? ほら、意地張ってないでママのところに泣きつきに行けよ。今なら見逃してやるからよ」
「「…………っ!!」」
効果は抜群だったようで、怒りが頂点に達した二人はもはや何事を口にすることもなく杖を思い切り振りかぶった。その大ぶりでいかにも狙ってくださいと言わんばかりの二人の様子に、嘲笑を深めてグレンも杖を振りかぶる。
「はっはぁっ! 見え見えなんだよバァカ!」
そして後出しにも関わらず、二人より先にグレンの杖が振り抜かれてその杖先から呪いが二人の片方に襲いかかる。しかし……。
ガシッ! と。
その前にグレンは背後から何者かに杖を持つ手首を力強く掴まれた。
「なっ!?」
に、と言おうとしたグレンであったが、その前に自分と相対していた二人の驚く声に思わずそちらに視線を向けた。
するとそこには空中を舞う二本の杖があり、上級生二人は先程の怒りに染まった顔も何処へやら。杖を持っていた手と口、そして目を大きく開けて間抜け面を晒していた。
武装解除呪文だ。
そう認識したグレンは、先公か監督生でも来たかと改めて背後を振り返り……その正体を見て上級生二人と同じように間抜け面を晒してしまった。
何故なら、そこにいたのは自分が今最も目の敵にしている男だったからだ。
「お前ら。別に喧嘩してもいいけどよ、せめて場所を選ぼうぜ? ここじゃみんなの迷惑……あ、そういや俺も一年の頃ここで喧嘩してた」
今更口にした言葉は取り消さないと気まずそうに杖を持った右手で頬を掻くその男、レイ。彼の左手は変わらずグレンの右手首を掴んで離さなかった。
少しの間唖然としていたグレンは、次には怒りを覚えてレイの左手を振り払おうとした。しかしそこで、レイの背後から今最も会いたくない人物が顔を出した。
「グレンっ! 何やってるの!」
「あ、姉貴……っ!?」
突然のウィークポイントの登場に焦るグレン。とっさに逃げようともう一度レイの左手を振り払おうとして……右手が全く動かないことに訝しんだ。
そして気づく。自分の右手首がかなりの力で掴まれていることに。
エステルが何事か話しているが、グレンにとってはそれどころではない。自分の気に入らない男に、どんなことでも負けたくないグレンにとって、力で負けているのは堪え難い屈辱なのだ。
しかし何度かレイの左手を振りほどこうとするが、全く離れる気配が感じられなかった。
そんなグレンにとうとう姉から雷が落ちる。
「グレンっ!! 聞いてるの!?」
「おわっ!」
物心ついた時から聴きなられ姉からのお叱りの声。半生で身についた経験によって、グレンは怒りや屈辱も忘れて思わず背筋がまっすぐに伸びてしまう。
杖を持った右手を中途半端にあげた状態で直立不動の姿勢を保つグレン。どこか滑稽な姿を見せるグレンに、エステルもようやく弟が何をしようとしていたのかに気がついた。
「ねぇ、レイ?」
「……うーん、そういやあの時も力加減を間違えて……っと、なんだステラ?」
「グレンの右手離してあげて。もう大丈夫だから」
「ん? ……おっとそういや掴んだままだったか、悪りぃ悪りぃ。痛くなかったか?」
レイはようやく無意識に掴んでいたことに気がついて放してやる。バッと手元に右手を引き戻したグレンは、赤くなっている手首をさすりながらギンッとレイを睨みつける。
いたたまれずもう一度謝るレイに取り合うことなく、グレンは掴まれていた手首に目を落とす。そこにある、レイに力では敵わないという証拠。
グレンはあまりの悔しさにさする手をやめて右手首を握りしめた。
そんなグレンにエステルがお叱りを再開しようとするが、そこをレイが止めに入った。
「ステラ、まだよくわかってない状態でグレンを叱るのは良くない。まずはちゃんと話を聞いてからだ」
「……あっ、う、うん。ごめんね? この子ったらここに来てから騒ぎばかり起こしてるから……」
「俺に謝るのは違うだろ? ほら、グレンから話を聞いて、それでグレンが悪くなかったらそん時に謝る。だろ?」
その言葉にエステルは頷いてグレンに詳細を求める。姉からの要求にふて腐れたようにグレンは経緯を語り始めた。
一方、グレンと相対していた上級生二人は飛ばされた杖を拾った後は大人しくその場で待機している。今やその実力を誰もが知っているあのレイを目の前にして、頭の冷えた二人は馬鹿なことをするつもりはなかった。
投げやりな説明をようやく聞き終えたレイとエステルは顔を見合わせた後に溜息をついた。
要はグレンの悪口を言っていた上級生二人に突っかかったという話だ。これだけ見れば二人が悪だが、その内容的にはグレンも人のことを言えない。
喧嘩両成敗……とは違うが、どっちもどっちというのが二人の感想だった。
生徒の喧嘩を仲裁する教師の気持ちとはこういうものなのかと、気苦労を察したレイとエステルであったが、こうしていても埒があかない。
いつのまにかまた数を増やしている周囲の生徒達に見守られながら、エステルが判決を下した。
「私から言うのはおかしいかもしれないけど、今回はお互いが悪かったってことでいい? もし何かあるなら話は聞くけど」
その裁定にグレンも上級生二人も顔を下に向けるだけで特に何も言うことはなかった。頭が冷えてきた両者も何処かしらで同じようなことを考えていたのだろう。
何もないことに一つ頷いたエステルは手を叩いてこれでおしまいと集まってきた野次馬を散らしにかかる。
グレンは上の階へと消えていく上級生二人の背を睨みつけていたのだが、不意に背後から聞こえてきたレイの声が耳に入ってきた。
「不意打ちは卑怯、ねぇ? シルヴィもそんなこと言ってたけど、不意打ちは立派な作戦の一つだろうに。そんなに正々堂々が大事かねぇ」
それは、グレンが最も言って欲しかった言葉だった。
しかし、それを言っているのが最も目の敵にしている男からというのはどんな冗談だろうか。
「……が、言うな」
どの口が言うのかと、グレンが晴らせなかった鬱憤をレイにぶつけるのは当然といえた。
「何澄ました顔で言ってやがんだテメェっ!」
「っ!」
グレンは気持ちを抑えきれず、レイの胸ぐらに摑みかかる。だがレイは特に動揺した様子もなく、怒りを向けるグレンを見つめ返す。
「グレンっ!」
弟の突然の行動にエステルはここ1番のお怒りの声を上げるが、しかしそれを掴まれている当の本人が手で押さえた。
姉を止める行動、自分を静かに見下ろすその瞳。何もかもがグレンの琴線を逆撫でした。
掴んだ胸ぐらを引き寄せ、レイの眼前でグレンは吠える。
「テメェのせいだろうがっ! テメェのせいで、俺は……俺はっ!!」
それはお門違いだろう。レイはただ迎撃しただけであり、事の発端はグレンのやり口だ。それ以上吠えればグレンの惨めな姿が晒されただろう。
それを寸でのところで気がつけたグレンは歯を食いしばり、また違う思いの丈をレイにぶつける。
「あの時! 優秀なお友達に庇ってもらった癖に! 今も! 同じ不意打ちで俺達に仕掛けてきた癖に! なんで、なんでテメェは何も言われないっ! なんで、俺だけが……俺だけがっ!!」
「…………」
もはや憎しみさえ抱かんとしているグレンの慟哭。それを横で聞いていたエステルは口元を押さえて驚きをあらわにしている。
相次ぐ騒ぎに再び談話室に人が集まりだす中、その慟哭を目の当たりにしているレイはそれでも全く動揺したそぶりを見せなかった。それどころか、何事かを逡巡しているかのように目を瞑る余裕すら垣間見える。
「……テメェっ!!」
全く自分が相手にされていないことにさらに憤怒を募らせるグレンであったが、そこでレイの目が開いた。
そしてレイは、怒り狂うグレンに構わず彼の肩に両手を乗せた。
「うっし、グレン。俺と喧嘩しようぜ」
「…………は?」
……この場にいる、誰もがレイの言っていることを理解できなかった。
当のグレンも、そばで見守っていたエステルも、遠くでその様子を眺めていた生徒達も。
隙間風が吹き抜ける音が聞こえるほどに静まり返る談話室。しかし構うことなくレイは続ける。
「よく分からないけど、お前は俺が気に入らない。なら話は早い……やろうぜ、グレン。今度は誰にも文句を言わせないように正々堂々」
レイはそう言って、力が弱くなったグレンの両手を胸ぐらから放して伸びた皺を叩く。目を見開いて何も反応を返してこないグレンにレイはいたたまれなくなって頭を掻く。
「いやさ? 俺は別に不意打ちでもなんでもいいんだけどよ。なんでか他の奴らはそれじゃあ納得しないらしい。だったら、さっきのグレン達みたいに正面からやり合えば勝っても負けても誰も文句なんて言えないだろ?」
ニカッと笑うレイに、ようやく状況を飲み込め出したグレンはレイの言っていることが冗談だと思い再び怒りをあらわにする。
「ふざけたこと抜かしたんじゃ……っ!」
「ふざけてねぇよ」
「っ!?」
気づけば、グレンの目の前に杖先が突きつけられていた。
その視線の先では、先ほどとは打って変わって真剣な面持ちを見せるレイがいた。
「グレンがなんで俺をそこまで気に入らないのかはよく分からない。不意打ちを異常に嘲る他の奴らもよく分からない。俺はさ、分からないことを分からないままってのはどうにも気持ち悪くて嫌なんだよ」
グレンから杖を下ろし、レイは回れ右して談話室の入り口付近へと歩きだす。そして入り口の目の前で立ち止まったレイは再びグレンに向き直った。
「だから正々堂々と喧嘩だ。知ってるか? 喧嘩ってのは手っ取り早い意思疎通の方法なんだよ。これは何度もギルやシルヴィ、双子なんかとやりあった俺が言うんだから間違いない」
アリスは根が素直だから別な、と冗談を混ぜながらレイはまた笑みを浮かべる。
「まあ、本当は場所を移したいけど、それだとミネ……マクゴナガル先生に見つかるしな。それにみんなの前でやった方が好都合だし。これでグレンの卑怯って言うレッテルもなくなるし、俺もお前が何を考えてるのか知ることができる。な? いい事づくしだろ?」
杖を手の中で弄んていたレイは、次には風を切るような音を立てて杖を振り払う。
「さあ、やろうぜグレン。お前が納得するまで何度だって付き合うぜ? 何たってこれは他でもない、俺のためなんだからな」
レイはグレンにまた笑いかける。しかし、その笑みはグレンが今まで見たきたどれとも違う毛色の笑みだった。
澄ましたものでも、無邪気なものでも、苦笑でもない。……一角の勇士が浮かべる、好戦的な笑みであった。
その笑みを向けられたグレンは一瞬気圧されそうになったが、それをかぶりを振って振り払い、気合いを入れ直すように勢いよく杖を払う。しかし、そこにはレイのような鋭い切れ味はなかった。
ようやく状況を飲み込め出した野次馬達が、今度は楽しげに騒ぎ出した。ところどころから聞こえてくる声に耳を傾ければ、賭け事に興じているもの達もいるようだ。
いい見世物にされているグレンであったが、彼の意識は周囲には散っていなかった。
よく考えれば、これはグレンに訪れた最大の好機なのだ。
相手からわざわざ手を出す口実を得られた。ここで勝てば最愛の姉や公衆の面前でレイの化けの皮を剥ぐことができ、かつ無様は晒すことができる。しかもレイをサポートする奴はどこにもいない。正真正銘の一騎打ち。
そう考えたグレンにもレイと同じような笑みが浮かび上がる。身体のうちから闘志が溢れ出し、意気軒昂と杖を構え直して前を向く。そしてレイの一挙一動を視界に収めながら、どう料理してやるかと頭の中で試行していく。
そして……。
グレンは、敗北した。
「………………っ!?」
馬鹿な。そんなはずはない。
背を伝う冷や汗に気づかないふりをして、グレンはもう一度目の前に佇む男を観察する。
レイは杖を構えることもなく、笑みを浮かべてグレンの出方を伺っている。その様だけを見れば、隙だらけでいかにも手を出してくださいと言わんばかりの佇まいだ。
しかし、だけれども。
グレンには、杖を振り抜くことができなかった。
彼には、見えてしまっていたのだ。どこをどう狙おうと、次には地べたに這いつくばっている未来の自分の姿が。……そう、数ヶ月前の自分に起こった悲劇のように。
違うっ! そんなはずはない!!
これは何かの間違いだと、この男にそんな力があるはずがないと何度も心の中でかぶりを振り、仕掛ける方法を模索する。
しかし……どの道にも、最後には這いつくばる自分の姿があった。
これは、なまじグレンが他の者よりも中途半端に優れていたからこそ見えた未来だった。戦いのたの字も知らない他の者たちがレイと相対してもその未来が見えず、無造作にレイに仕掛けてあっさりと返り討ちに遭うだろう。
ここにきて、こうして相対してやっと。少年はようやく凡人と呼ばれる男との隔絶した差を目の当たりにしたのだ。
「っ!!」
認められない、認められるものか!
グレンは勝手に震える身体に鞭打って叱咤する。しかし、彼の本能も、理性も、そして心さえもすでに敗北を喫している。
今の彼を支えているのは、意地とプライドだけだった。
本命と戦う前に、自身との戦いに身を投じるグレン。それはグレンの明らかな隙であるが、レイは手を出すことなくグレンの出方を静かに伺う。
止める暇もなく大好きな二人が喧嘩へと移行したことに歯がゆさを感じていたエステルも、弟の様子のおかしさに訝しむが、今更二人の間に割って入ることもできない。エステルはただじっと二人の行く末を見守ることしかできなかった。
だがしかし、野次馬達はそうはいかない。
すぐに派手な動き……主にレイの圧勝が観れると期待していた生徒達は、動きのない二人に不満げにざわつき始める。
ざわざわと騒ぎが徐々に大きくなっていく中……。
「クッソがあぁっ!」
グレンは、どうにか身体の所有権を取り戻す。そして露呈した己の弱さに悪態を吐き捨てながら、構えていた杖を思い切り振りかざした。
…………しかし。
すっ、と。次には杖を握っていた手をダラリと力なくぶら下げた。
身体の所有権を取り戻したはいいが、すでに彼の本能は、理性は、心は。意地っ張りなグレンという自分達の主人に、レイという大きな壁の高さを深く刻みつけていたのだ。
「…………クソったれが」
もう一度、グレンは小さく吐き捨てる。そこには、弱き己に対する失望があった。
自ら正々堂々の闘いから身を引いたグレンに向けられる嘲笑を含んだ多くの悪意。しかしグレンはそれらに何一つ反応を返すことなく、煤けた背中をレイに見せて談話室から去ろうとする。
「グレン……」
エステルは意気消沈した弟に心配そうに声をかけるが、彼は何も言わないまま自室に続く階段に足をかける。
「グレンっ!」
しかし、そこでレイの声がグレンの背にかかった。
怒号か、罵声か、嘲りか。足を止めたグレンは静かにレイの続く言葉に耳を傾ける。
どんな悪態も全て受け入れる覚悟を決めたグレンであったが、彼の予想は全て外れる。
「いつでも来い、待ってるぞ」
「……っ!!」
レイは闘いを拒んだグレンに怒りを向けることも、激しく罵ることも、嘲笑で見下すこともしなかった。
ただ、小さくなった背中を見せる少年に『待つ』とだけ伝えるだけだった。
そこに、確かな期待を込めて。
それを聞いたグレンは思わず涙がこみ上げてきてしまう。しかし瞼をキュッとつぶり、歯をくいしばってなんとか耐え抜いた。
それはほんの僅かなひと時だった。グレンは止めていた足を再び動かして階段を登っていく。
先ほどよりも心なしか少しだけ大きくなった少年の背中は、ゆっくりと上階へと消えていったのだった。
次回、少年達の歪な関係。