「っはぁ、はぁ、はぁ……っ!」
どことも知れない狭い通路の中で、荒い息遣いが聞こえてくる。
その通路は丸石の積まれた簡素な造りとなっており、石の凹凸のせいか木霊する息遣いや不規則に乱れた足音はあまり通路内に反響しない。
しかし先程まで静かであったこの場所に騒ぎを持ち込んだのは間違いない。その騒ぎの中心であるのは一人の男性だ。
急いでいるのだろう。見るからに疲労困憊と言った様相を見せながらも、足を止めることなく床に積もった埃を辺りに撒き散らす。
悲鳴をあげる身体に鞭打ち、心の臓を抑えて騒ぎの主は手の届く高さからわずかに溢れる灯りを頼りに通路を駆けていく。どうやら男性がいる通路は地下にあるようで、頭上より差し込まれる灯りの正体は燭台の灯りだった。
身体を引きずるようにして走る男性は、ようやく見えてきた目的の場所が視界に入りわずかに安堵した様子を見せる。あと少しの辛抱だと残った気合を振り絞り、男性は通路の先へと足を踏み入れた。
そこは、開けた場所だった。
壁は丸石造りから石煉瓦へと変わり、天井の高さは先の通路の約二倍はある。辺りを見渡すと人一人入るほどの大きさの樽や木箱が点々といくつか並び、床にはそれらを形作っていたであろう木片や釘などが散乱していた。
おそらく昔は食料庫か何かであった場所にたどり着いた男性は、床に散らばる破片を足で適当にどかし、どかりと座り込んで壁に背を預けた。
「…………ふぅっ、ようやく落ち着ける。ここまでくれば誰も追いついてはこれまい」
そう言って一息ついた男性……シリウス・ブラックは、目に入ってくる大量の汗をぬぐいながらそう呟いた。
本当ならばこんなはずではなかった。
いつもの“アレ”を使って誰にも悟られることなく、いつものようにあの子を見守りながら奴を探し出すだけであったはずなのだ。
しかしその途中でまさかあの子と遭遇するとは思わなかった。なにせ夜も遅い時間だ。本来ならば寮でぐっすり寝ていなければいけないはずなのだが、なぜかあの子は夜遅くに友人と外出していた。
そんなあの子の姿を見て、ブラックは確実にアイツの血を継いでるなと笑みを浮かべて一人懐かしんでいたのだが、そこでふと欲が出てしまった。
あの子と一緒にいる少年は、アズカバンの監獄で見た新聞に奴と一緒に載っていた子だ。あの子に聞けば、奴の場所は確実にわかる。それに……あの子と、一度でいいから話したかった。
たとえそれが自分に対する憎しみを含んだものであったとしても。
そして欲を出した結果がこの有様だ。ブラックは憎悪に等しい感情を自分にぶつけていたあの子を思い出し、自分の犯した罪科を実感する。
生まれた時から両親がいなかったあの子はこれまでとても苦労したことだろう。辛かったことだろう。寂しかったことだろう。
申し訳なさと懺悔の思いに苛まれる中、ブラックは改めて誓う。……全てを終えた後は、あの子の手に自分の身を委ねることを。
休息の最中に誓いを立てたブラックは、ふとあの子の友人達が脳裏に浮かんだ。
人質になってしまいあの子のために自分を見捨てろと叫ぶ赤毛の少年。そして……仮にも凶悪犯として認知されている自分に堂々と立ち向かってきた少年。
「蛮勇ではなく勇猛であった、か。はは、将来が楽しみだ」
乾いた笑い声はあげながら、ブラックは自分をここまで追い込んだ少年へと思いをはせる。あの時、自分の前へと姿を現した時。あの子はあの少年をまるで物語の英雄を見るような無垢な面持ちで見ていた。
あの少年は、あの子に何かあるたびにああして駆けつけて杖を振るってきたのだろう。あの子を幾度も守ってきてくれたのだろう。
ならば安心だ。たとえ奴が自分の隙をついてあの子に危害を加えようとした時は、あの少年がまたあの子を守ってくれるのだろうから。
初めて顔を合わせただけであったが、不思議とブラックは少年をそう信じることが出来た。これは少年と一騎打ちをした成果だろうか。
だがしかし、奴のことは自分が遺してしまった負積だ。出来るだけ自分がなんとかしなければならない。それが……自分にできる、あの子への最低限の償いだ。
ブラックは自分の役目を再度確認し終えると、その場からゆっくりと立ち上がる。
まだ疲労は抜けきっていないが、長々とこの場所に居座るのは良くない。ブラックのいる場所はかつての友人達しか知らない隠し通路の一つだ。しつこく自分を追ってきたあの少年を撒くためにとっさに潜り込んだのだが、いかにあの少年であってもここ見つけることは出来ないだろう。
なにせこの場所は、学生時代の自分とその友人達が必死に見つけ出した通路の一つなのだ。“とある地図”でもない限り万が一にも見つかることはない。
しかし、ここには。この場所にはあの現代最強の魔法使いがいる。その万が一を引き起こす可能性を秘めた人物がいる限り、油断はできない。
ブラックはふらつく身体を石壁に手を添えて支えながら、鉛のような脚を引きずるようにして前へ進む。自分が入ってきた場所とは反対の場所にある木製の扉を抜け、しばらく歩けば大木の樹洞にたどり着ける。そこまで行けばひとまずは安心だ。
あと少しだと自分の心身を励まし、彼はゆっくりと、だが着実に歩を進める。
…………そしてブラックは、自分が先ほどあの子達にした行いをその身をもって知ることとなった。
「……悪ぃけど、追いかけっこは俺の勝ちだな」
その声がブラックの鼓膜を打った時には、すでに一つの影が彼の後ろに回り込んでいた後だった。
「っ!!?」
ブラックは反射的に身体を反転させようとしたのだが、次の瞬間には右腕を拘束されその身を勢いよく石壁へと叩きつけられた。
「がっ……!?」
肺から空気が無理やり抜かれて一瞬息ができなくなる。そしてえづいたように慌てて息をし出す頃には首元に杖先があてがわれていた。その杖先からは、僅かでも身じろぎしようものなら即座に呪文を放つぞ、と相手の感情が流れ込んでくる。
疲労もあるだろうが、何よりこの場所ならば見つからないだろうとタカをくくっていたからこその油断。そこをつかれた形となってしまった。
ブラックは自分の身動きを完全に封じた相手へと、刺激しないように視線だけで背後を見やる。そこには……。
「よっ、さっきぶりだな」
この場にはたどり着けないはずの例の少年……レイ・オルブライトが好戦的な笑みを浮かべて見返していた。
真っ白になっていた思考に、レイの顔と声がインプットされたことでブラックの脳内が稼働し始める。だが、次々と湧いてくる疑問の数々に再び処理落ちをしそうになる。
そんな中、ブラックはかろうじてレイに一つの疑問を尋ねることが出来た。
「な、ぜ……っ! ここがっ」
絞り出すように口にしたその問いに、レイはあっけからんと答える。
「ん? そりゃあ俺もこの隠し通路のことを知ってるからさ。ついでにここにショートカットできる裏道もな」
警戒を怠ることなく、レイは目線だけ横へと向ける。その視線の先には、先程まではなかった入り口がレイとブラックのすぐ横の石壁に現れていた。
「残念だったな。ホグワーツの隠し部屋、隠し通路の類はそれはもう、嫌という程念入りにチェックしてあるんだよ」
レイは疲れたように短く息を吐いた。
二年生の頃、『秘密の部屋』探索時の訓練と称して秀才の監修のもとに、ホグワーツ中を探り回ったのだ。あの時の秀才殿のスパルタ加減にアリス共々泣かされたのはいい思い出、と言えるかもしれない。
だが、レイがこの場所を知っていたのはそれが要因ではない。
「いかにアンタと言えども、今回は俺“達”が上手だったようだな。『悪戯仕掛け人』殿?」
「っ!?」
レイのその言葉に、今日何度目かの衝撃がブラックを襲う。その反応は、レイが自分の考えが正しかったことを知るには充分だった。
「半ばブラフだったんだけど、その様子だと正解らしいな」
続けて、レイはブラックの疑問に答えてやる。
「まあ、簡単な話だよ。俺達はアンタ達が作った『忍びの地図』に世話になっててな。この場所は元々地図に載っていた場所で、アンタの足取りが途絶えた場所の近くには俺が知る限りここしか隠し通路はない。と、いうわけでアンタが『悪戯仕掛け人』じゃないかって考えたんだよ」
そんで先回りしてみたらビンゴだったってわけさ、と背後でレイが肩をすくめる雰囲気を感じ取っていたブラックは唖然としていたのだが、少しした後には観念したように身体の力を弛緩させた。
「完敗だよ、少年。君の勝ちだ、好きにするといい」
どこか穏やかな表情を浮かべながらそう言ったブラックを見て、抵抗する気がないことを察したレイは彼を追い詰めた本当の目的を果たすために口を開いた。
「その前に、アンタに尋ねたいことがある」
「……なんだね? ダンブルドアの出し抜き方かい?」
ブラックのその返答に滅茶苦茶気になるレイであったが、ここは好奇心をぐっと抑えて本来の質問を投げかけた。
「シリウス・ブラック、アンタは冤罪なのか?」
その問いを受けて一瞬目を見開いたブラックであったが、こうも何度も驚き続けていれば慣れるものだ。
後ろを見やれば、半ば確信したような面持ちを見せるレイの表情がうかがえる。だがしかし、あの子の……ハリーの近くにいる彼に真実を教えるつもりはない。
「さて、どうだろうね。少なくとも、私は友を死に追い詰めた罪人であると自負しているよ」
嘘は効かないと悟り、ブラックは“ある意味”真実を伝えて誤魔化しにかかる。しかしその誤魔化し方をレイの前でするのは悪手であった。
なぜならば……。
「……そっか。ピーター・ペティグリューがハリーの両親をヴォルデモートに売った。その間接的な原因を作ったのがアンタ、ってわけか」
「っ!? …………はは、君には本当に驚かされる。なにもかもお見通し、ということか」
「別にそんな大層なもんじゃねぇよ。ただ俺もアンタと似たような奴を知ってるだけさ」
そう、レイは悲しげな様子を見せた。
レイには詳しい事情はわからない。だが、ブラックは友のためにと考えた結果、それが友を死に追いやった、ということは想像がつく。
そして自分は、妹を、父親を守るためなどと誤魔化しても、父親を手にかけたことは、恐怖に屈したことは覆らない。
同じなのだ。一見全く事情は違うように見える。だが根本の部分は同じなのだ。
レイも、ブラックも。理由はなんであれ、大切な人を死なせてしまった。その罪科を背負って、今も生きている。
だからこそ、レイは察することが出来た。
その様子を横目に見ていたブラックは何事かを察する事が出来たがしかし、レイへと深く尋ねることはしなかった。
かぶりを振り、湿気た気持ちを追い出したレイは改めてブラックへと向き直る。
「アンタはピーター・ペティグリューの裏切りに気づき、奴を追い詰めた。だけど奴の術中にはまり、冤罪をかけられてアズカバンに送られた。だが最近になって奴がハリーのすぐそばにいることを知って、このままではハリーが危ないと考えて脱獄してここにきた。友人の仇を取るために、友人の宝を守るために」
「…………今度こそ、完敗だよ。私が言うのもなんだがね、君は本当に学生かい?」
ブラックがそう思うのも無理はない。ブラック自身、学生の頃は友人達と学生の領分を越えた事をいくつもやってきたものだが、そのブラックをしても魔法、戦闘、頭脳。どれを取っても一級品の冴えを見せたレイは凄まじいものだった。
だがレイは首を振って否定する。
「俺はただの学生だよ。今の考察も元々は俺の友達が推察していたものまんまだし、俺がこうしてアンタとやりあえたのも全部俺の友達のおかげさ」
アンタがすごいと思ったのなら、それはアイツらがすごいってことさ、と平然と自分を卑下し、友人を持ち上げに持ち上げるレイにブラックは珍しいものを見るような目をして彼を見た。
優秀である事は間違いない。だが、それを誇らず、驕らないその姿勢はブラックからはとても新鮮に見えたからだ。それは今は亡き彼の親友や自分自身を知っているからだろう。
ふと訪れた懐かしさに苦笑を零すブラックに、レイは不思議に思ったが最後の問いを彼へと問い詰めた。
「ブラック、これで最後だ。ピーター・ペティグリューはどうやって身を隠してるんだ? アイツがホグワーツにいるのは『忍びの地図』で確認してる。あとはアイツを見つけるだけなんだ」
「…………」
「俺もアンタと一緒だ。ハリーを守りたい、そして……ピーター・ペティグリューを捕まえて、アイツに真実を伝えてやりたいんだよ」
レイの真摯な言葉にブラックは声を発することもなく静かに瞳を閉じた。ブラックが何事かを逡巡している間、レイもまた静かに彼を待ち続ける。
それから少しして、ブラックは閉じていた瞼を開けた。
「…………本当ならば、私の手でカタをつけたかったのだがな。あの子のためならばそうも言ってられない、か。分かった、教えよう」
そして、ブラックはレイにピーター・ペティグリューの知られざる能力を語った。
「動物もどき……? しかもネズミって……まさかっ!?」
「そう、ウィーズリーの子が飼っていたネズミ。あれがピーターだ」
瞬間、レイの頭の中で全ての話が繋がっていく。
十年以上も生きている小指のかけたスキャバーズ。血統からもわかる賢いクルックシャンクスの行動。『忍びの地図』に名前だけが載っていた理由。そして、未だ行方知れずのスキャバーズ。
全ての辻褄が合い、大いに納得したレイはそっとブラックの拘束を解いた。
「教えてくれてありがとな。これだけ聞ければ充分だ」
「……いいのか?」
「いいも何も、アンタは冤罪だった。しかもハリーを守ろうとしてくれている。アンタを捕まえる理由なんか俺にはないさ」
ここまで追ってきたのも、真実が聞きたかっただけだしな、とあっけからんと言ってのけるレイに、思わずブラックは呆然としてしまう。しかし、次には大きな笑い声を部屋に響かせた。
「くははっ! なるほどなるほど、君は自分を普通だと言うが、君のような子が普通ならば世はもう少し住みやすいだろうね」
「……馬鹿にしてるよな?」
「いいや、最高の褒め言葉さ」
ニヤリと悪戯っ子全開の笑みを浮かべるブラックに、レイはこれ見よがしにため息をついた。
「いやー、ここまで声を上げて笑ったのは本当に久しぶりだ。感謝するよ少年、いやレイ、だったかな?」
「そりゃどうもブラックさん。レイであってるよ」
不貞腐れた様子を見せるレイにもうひと笑いしたブラックは、痩せている右手をレイに差し出した。
「レイ、これからもあの子をよろしく頼む。君になら安心してあの子を任せられる」
「あいよ、任された」
今夜、激しい攻防を繰り広げた両者は握手を交わし、こうして平和に終わりを見せた。
「私はこのまま外でやつを探そう。君はホグワーツ内を頼む。ここまで騒ぎを起こしてしまった以上、おそらく私がホグワーツに入るのはもう無理だろうからね」
「了解、ホグワーツ中にネズミ捕りを仕掛けておくよ」
「それはいい。奴の好物は甘いお菓子だ。我慢の効かない奴のことだ、案外あっさりと罠にかかるかもしれないな」
「それならこっちも手間がかからなくて助かるんだけどなぁ」
そう言って二人は笑い合う。そしてブラックはその場から去ろうとしたのだが、最後にレイへと言葉を投げかけた。
「レイ、これは殺し合いをしたことがある私からの忠告だ。逃げていく敵に対して、あまり深追いをしないことだ。大体は痛い目に遭って後悔することになる」
若い頃、闇の帝王とその部下たちと死闘を繰り広げたブラックだからこその言葉だった。その言葉には重みがあり、経験したことがあるような様子が見られる。
しかし、レイも馬鹿ではなかった。
「ご忠告どうも。でもな、俺も何も考えずにアンタをここまで追ってきたわけじゃないのさ」
レイの言葉の意味が分からず、どういうことだと尋ねようとした時、彼の言葉を合図にしたかのように突如複数の気配をブラックは感じ取った。
慌てて辺りを見渡すブラック。そして……彼らは現れた。
ブラックがこの部屋に入ってきた入り口の影。その奥の暗闇からは、薄暗い中でも太陽のようにきらめく金髪を不安げに揺らす可愛らしい少女が。
これからブラックが出て行こうとした出口の扉。その影からは知性を感じされる面持ちと、猛禽類のような鋭い目つきを眼鏡の奥から覗かせる少年が。
そして、レイが現われ出でた隠し扉。そこからゆっくりと歩み出てきたのは、ブラックをしても思わず見惚れてしまいそうになる程の絶世の美少女だった。彼女は不敵な笑みを浮かべながらレイの隣に並び立つ。
今ここに、レイとその仲間達であるアリス、ギルバート、そしてシルヴィアの3人がブラックの前へと姿を現した。
「紹介するよ。こいつらが俺の親友達、大切な宝物さ」
「…………」
これには驚き慣れてきたブラックをしても驚きを隠せなかった。閉口するブラックをよそにレイはしてやったりといった風貌で口角を吊り上げた。
「アンタがこの場所に通じる隠し通路に逃げ込んだと分かった時に、あらかじめこいつらに連絡しといたんだよ。これなら俺がたとえ罠にかかっても、アンタを取り逃がしそうになっても、みんながいればどうとでもなるだろ?」
「…………はぁ、君には本当に驚かされてばかりだ」
子供達に見守られる中、ブラックは今日何度目かの乾いた笑い声をあげるのだった。
次回、そして止まった時が動き出す。