選ばれし者と暁の英雄   作:黒猫ノ月

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56話

シリウス・ブラックとの邂逅を終えて、シルヴィア達と別れたレイ。

 

そんな彼が何事もないように広間へと戻ってくると、そこで待っていたのは眦を吊り上げてこちらを睨みつけてくるミネルバと、瞳を潤ませていかにも心配しましたと言わんばかりのエステルの姿だった。

 

それを目の当たりにした瞬間、レイはハンズアップ。観念し、大人しくお縄につくことにした。

 

それから広間で繰り広げられるミネルバとエステルのお叱り。

 

脱獄囚に立ち向かい、ましてや深追いするとは何事ですかとミネルバに叱られ、無茶しないでと約束したのにと泣き声交じりに叱られて。

 

レイとしてもブラックとの一騎打ちには勝算があったことや、シルヴィア達がいたから無茶はしていないことなど彼なりの言い分があったが、ブラックとの一騎打ちはともかくシルヴィア達のことをミネルバの前で言うわけにもいかない。

 

それもあり、レイは大人しくお叱りを受けていたのだが、朝を迎える頃にはその清々しさとは裏腹に彼の心身は憔悴しきっていた。

 

因みにだが、レイが合流した折にはハリーとロン、ハーマイオニーにダンブルドアもいたのだが、レイのお叱りが始まって少しした頃にはダンブルドアの主導の下に全員撤退していた。

 

こうして無事に騒がしい夜をやり過ごしたレイは現在、徹夜明けのままシルヴィア達と今後の方針を話し合うために集まっていた。

 

「大丈夫ですか、レイさん?」

 

「……ダイジョーブ」

 

机に突っ伏すレイにアリスが声をかけるが、明らかに大丈夫ではない。

 

今日は平日なので本当ならば授業があるのだが、シリウス・ブラックに二度も侵入されたこともあって急遽授業はお休み。生徒達は寮に待機して、教師陣がホグワーツ内を隈なく探索することになっている。

 

そんな中、教師達の言いつけをいつも通り破りレイ達は隠し部屋の一つに集まっている。

 

「ふふっ。どれ、また私が膝を貸してやろう。さあレイ、おいで」

 

ポンポンと膝を叩きながら微笑むシルヴィアにいつもなら拒否するレイであったが、いつかと同じように心身が疲労している今、その誘惑には抗えそうにない。

 

そしてそれはシルヴィアも承知済み。誘惑に負けて膝に頭を乗せようとするレイを、シルヴィアは計画通りと口角を吊り上げた。

 

しかし、それを秀才が許すはずもない。

 

「あいでっ!?」

 

「目を覚ませ愚か者。貴様もあからさまに計画的な誘惑をするな」

 

「これは残念。レイ、私の膝は君だけのものだ。して欲しかったらいつでも言っておくれ」

 

艶のある笑みを浮かべてレイを見つめるシルヴィアであるが、当の本人はそれどころではない。なお、その様子を顔を真っ赤にして見ていたアリスには効果抜群だった模様。

 

いつものを喰らい痛みに呻くレイへとギルバートが苦言を呈す。

 

「そこの愚か者、俺達に知らせたことだけは評価してやるが、戦闘本能剥き出しに戦いを挑んだことや、そもそも深追いを前提にしていたことは愚かと言わざるをえん。猛省しろ」

 

「……アイ」

 

プシュー、と額から煙を上げながら机に突っ伏すレイ。その頭をシルヴィアとアリスが慰めるように撫でてあげる中、構わずギルバートはこの場所に集まった当初の目的を果たし始めた。

 

「そこな愚か者が身を切ったお陰で今回の件、大まかなあらましは把握することができた。これでようやくこちらから手を打つことができる」

 

「おや、それならレイの手柄ではないか」

 

「それはそれ、これはこれだ」

 

鼻を鳴らす素直ではないギルバートにシルヴィアはクスリと微笑んだ。ギルバートはシルヴィアをひと睨みし、全く変わらない微笑みに嘆息して話を進める。

 

「『シリウス・ブラックは冤罪だった』。シルヴィアの情報、そして俺達の推察は間違っていなかった。新たな情報はピーター・ペティグリューはネズミの動物もどきであり、『悪戯仕掛け人』の一人であったことだ」

 

「えっ? そ、そうなんですか?」

 

アリスの驚いた様子に、相も変わらず察しが悪いとギルバートは杖を軽く振るった。

 

「あう!」

 

「本当に貴様は変わらんな。これほど情報が出揃っているのに、なぜ分からないのだ」

 

「うぅ、ごめんなさい……」

 

指をツンツンさせて謝るアリスをシルヴィアが優しく抱きしめて励ます。本当にいつもと変わらない二人にもう一度息を吐いてギルバートはレイに問いかけた。

 

「レイ、貴様は今回珍しくブラックが『悪戯仕掛け人』の一人と見破ったな。では、ペティグリューがその一人だと思われる根拠はわかるか?」

 

「……ルーピン先生の話とブラックの話、あとは『三本の箒』で盗み聞きした話を合わせればいいんだろ?」

 

リーマスは『悪戯仕掛け人』の一人とわかっており、彼の言う3人の友人達の一人が今回明らかになったブラックである。そして『三本の箒』で耳にしたブラックとハリーの父親が兄弟と見間違うほど仲良しであり、そこにもう一人いた気弱な少年、ピーター・ペティグリュー。

 

ここまでわかればあとは簡単だ。『悪戯仕掛け人』のプロングス、パッドフット、ムーニー、ワームテールの四人はハリーのお父さん達のことである。

 

そして、レイはもう一つ察していたことがあった。

 

「なぁギル、もしかしてブラックとハリーのお父さんも動物もどきなんじゃないか?」

 

「……ほう?」

 

珍しいものを見るようなギルバートの態度に自分の考察が正しいと確信を得たレイは続ける。

 

「シルヴィの話が正しいならルーピン先生は狼男だ。そして満月繋がりでムーニーというあだ名がついた。んで、ペティグリューはネズミの動物もどき。ネズミの尻尾はミミズみたいだからワームテール、ってとこか?」

 

自分の考察を語っていくレイに、シルヴィア達は黙って耳を傾ける。

 

「ルーピン先生の話じゃ、四人は学生の頃はめっちゃ仲良かったって話だ。それとルーピン先生の救われたって話。ブラック達はルーピン先生の正体を知り、少しでも救ってあげるためにせめて同じような獣になろうとした。そんで動物由来のニックネーム。プロングスは角って意味だから牛とか鹿、パッドフットは肉球だから犬か猫……かな」

 

ハリーのお父さんとブラックがどっちかは分からないけど、と言ってレイは締めくくった。

 

……つまり、ハリーの父親とその仲間達は各々がなり代われる動物にちなんだ呼び名を付けあった、ということである。

 

考察を語り終えたレイに、シルヴィアとアリスから拍手が送られた。

 

「見事だ、レイ。私と、おそらくギルも同じ考えだよ」

 

「す、凄いですレイさんっ。まるでギルさんみたいです!」

 

混じりっ気のない賞賛にレイは顔をやや赤く染めて頬を掻いた。ギルバートも満足そうな顔をして鼻を鳴らしたあと、レイの考察を引き継ぐように補足説明を加えた。

 

「合格だ。付け足すならばおそらくポッターの父親がプロングス、ブラックがパッドフットであろうな。総じて角のある動物は大型のものが多い。それではアズカバンから抜け出すのは困難だろう。犬か猫ならばまだ抜け出すのは容易い」

 

「吸魂鬼は人の感情には過敏だが、動物ならばそうでもない。だからこそ、あの難攻不落のアズカバンから脱獄することができた、ということだな」

 

ギルバートの補足にさらにシルヴィアの補足も加わり、レイ達は全ての真相を明らかにすることができた。

 

あとは、問題のピーター・ペティグリューを捕らえるだけである。

 

「えと、とりあえずネズミ捕りをいっぱい仕掛けましょうか?」

 

「ふふふっ。それも一つの手だが、仮にも十数年も逃亡してきた男だ。流石に引っかかりはしないだろう」

 

昨日のレイとブラックのジョークを真に受けたアリスの可愛らしさに、顔を蕩かせながらもシルヴィアはやんわりと否定した。

 

ウリウリとアリスに頬ずりするシルヴィアをよそに、レイが提案する。

 

「それならルーピン先生に協力してもらうってのは? 多分あの人も真相に気付いてんだろ?」

 

確証はないのだが、『忍びの地図』を手元に持っていることなどからなんとなくそう感じたからこその提案。もし気付いてなくとも、レイ達が真剣に話を持ち込めばリーマスなら話を聞いてくれるだろう。

 

因みにだが、レイがブラックと相対し無事生還したと聞いたリーマスはレイから話を聞きたいのだが、寮にはいないことが発覚。現在、『忍びの地図』を片手にホグワーツ中を走り回っている。

 

しかし『忍びの地図』には記載されていない場所にレイ達がいるために、リーマスがレイを見つけるのはほぼ不可能だろう。

 

そんなことはつゆ知らず、レイの提案にシルヴィアが賛成する。

 

「うむ、それが一番手っ取り早いか。彼も私達の実力は分かってくれている。『忍びの地図』も合わせればこれ以上ない包囲網を築けるだろう」

 

「仮に拒否されたとしても、狼男であることとブラックが動物もどきであることを黙っていた件で脅せば大人しくなるだろう」

 

「お、脅すなんて、そんなのダメですっ。ダメですからね!」

 

アリスはギルバートに詰め寄るが、ギルバートは全く相手にしない。それに頬を膨らませたアリスはギルバートの胸板をぽこぽこ叩くが、効果はない。しかしシルヴィアには効果抜群だったようで、あまりのアリスの愛らしさに鼻を抑えて顔をにやけさせている。

 

騒がしく賑やかないつも通りの仲間達。そんな和やかな光景を眺めていたレイは、ここにはいない友人を想い口を開いた。

 

「ハリー、もうすぐだ。もうすぐお前を楽にしてやれる」

 

 

 

余談だが、この後リーマスの状況を察していたギルバートが人気のないところに自分達の姿をわざと晒し、『忍びの地図』に現れたレイ達にリーマスが無事合流。対話の末、両者は協力関係を結ぶことに成功した。

 

………………

…………

……

……

…………

………………

 

レイ達一行とリーマスの共同戦線。彼らの包囲網はすぐに効果を現した。

 

アリスの『コンパクト両面鏡』をリーマスに貸し出し、『忍びの地図』にペティグリューの名前が載ったことを確認次第リーマスがレイ達に報告。リーマスのアナウンスを頼りにレイ達がペティグリューを追い詰める作戦だ。

 

レイとシルヴィアは単独、ギルバートとアリスがペアとなり三組に分かれた包囲網は確実にペティグリューを追い詰めていた。

 

……の、だが。そこは流石ネズミといったところか。あと少しといったところでペティグリューは『忍びの地図』にさえ写らない場所へと潜り込み、レイ達の包囲網を潜り抜けてしまうのだ。

 

時には授業を抜け出し、ご飯時に抜け出し、休日を返上してあのミミズ尻尾を掴まんとレイ達とリーマスはホグワーツ中を駆け回った。……最低限、他の誰にも悟られないようにだけ気をつけながら。

 

このイタチごっこはペティグリュー優勢に見えるが、実際のところ、捕獲こそされてはいないもののペティグリューの精神は確実に追い詰められていた。

 

ペティグリュー自身、生きていくには食べなければならない。だがしかし、食料を確保しに一歩でも表に出ればレイ達の魔の手がすぐ側に迫ってくる。かといってホグワーツの外に出ようものならいつ復讐に燃える元友人に噛み殺されるか分かったものではない。

 

それもあり、ペティグリューは追われていることがわかっていてもホグワーツに残らざるをえない状況に陥っていたのだ。

 

だがそれも限界だった。

 

約一ヶ月の逃走戦の末、とうとうペティグリューの名前は『忍びの地図』に記載されることがなくなったのだ。

 

もうすぐにでも捕まってしまうかもしれない状況と、いつかはわからないがしばらくは大丈夫だと思われる状況。

 

ペティグリューは後者を取り、ホグワーツをひとまず抜け出すことを選択したのだ。

 

こうなってしまえばレイ達にはどうしようもない。だが、幸いなことにペティグリューは正真正銘の小物だ。ブラックがどこにいるとも知れない状況、そして吸魂鬼が飛び回る現状で大きな動きはしないだろうと予想された。

 

またレイ達……というより、レイとリーマス、ブラックの最優先事項はハリーの安全だ。ここで逃げ出したのならばとりあえずはいいだろうと妥協もしていた。

 

それに本格的に大捕物を行おうとしようにも、レイ達は学生でありリーマスは教師。あと一月もすれば学期末試験がやってくる。これをおろそかにすることもできない。

 

こうして、ペティグリュー包囲網は辛うじてペティグリューが生き残った形で勝利を勝ち取る結果となり、レイ達もとりあえずは学生の本分に身をやつすことにしたのだった。……いつペティグリューが帰ってきてもいいように警戒だけはリーマス共々怠らずに。

 

そしてまた一ヶ月の時が経ち、ホグワーツに在住する多くの生徒を苦しめる学期末試験が目前に迫ってきた。

 

ひと月前から準備を始めているのもあるが、そもそもとうに三年で学ぶところは網羅しているレイ達にとってはそうしんどいものでもない。あのアリスでさえ、いつも課されているギルバートの課題の方が辛いと言うのだから笑うに笑えないのだが。

 

さて。ここで一つ、読者の皆様は覚えているだろうか。

 

ドラコ・マルフォイという、我らが主人公であるレイと奇妙な関係を築き上げた少年に、レイが取り付けた約束を。そう、この学期末試験の変身術で優を取って見せれば何故これほど構うのか答えてやる、というものだ。

 

レイによる変身術講座が始まって数ヶ月。なんだかんだと毎週図書室に通い詰めたマルフォイは、ぐんぐんと変身術の成績を伸ばしていった。

 

実際、彼の変身術における成績の伸びには眼を見張るものがあった。元々の才能もそうだが、レイという人間に長く触れたせいか、ほんの少しづつではあるが人間性が良い方向へと向かっている影響も大きいだろう。……まあ、相変わらずの純血万歳であり、ハリー達とはくだらないことで対立してはいるのだが。

 

とまあそんなわけで。変身術において、マルフォイはいつのまにか頑張れば優を射程圏内に収めるほどになっていた。

 

今年の学期末試験については主にこれくらいであろう。ハリーやロン、エステルはいつものようにハーマイオニーとレイのお世話になり、ネビルはそれ以上に二人にすがりつく。いつもの光景だ。

 

そして、多くの生徒達の時すでに遅い準備を待たずして、学期末試験が始まった。

 

ギギギ、と錆びついた歯車が軋んだ音が聞こえる。

 

特に問題もなく、各教科の試験を終えるたびに大きな息を吐く音が教室内でシンクロし、次には年頃に一喜一憂する姿が目にとまる。

 

ギシリ、と動きを阻害する錆を落とさんとするかのように噛み合う歯車同士が力む。

 

そして試験最終日。その日も特に変わったことはなく、ここ数週間の間の苦行からの解放にホグワーツ中が浮き足立つ光景ももはや見慣れたものだろう。

 

…………しかし、とある少年だけは。そうは問屋がおろさなかったようだ。

 

 

 

ガッチャリ、と。

 

錆だらけの噛み合う歯車が、ゆっくりと動き出す音が聞こえた。

 

………………

…………

……

……

…………

………………

 

学期末試験終了。

 

ホグワーツで学ぶ子供達にとっては一つの節目であり、これを終えればまた今年も終わりかと長いようで短い一年を振り返るいい機会となる。

 

中でも今年入学した1年生は初めての試験ということもあり、試験終了までの緊張は他の学年でも三本の指に入ることだろう。……ちなみに、第ニ位は5年生、第一位は7年生である。

 

初めての試験を乗り切った解放感に満ち溢れている一年生。そのうちの1グループであるフィリシア、グレン、ジェシカ、そしてセルマの四人は、暖かい陽気を浴びながら湖畔で心身を休めていた。

 

「すー……、くぅ……。……えへぇ、ジェシー」

 

「……全く、このおバカは夢でまで私を辱めているのですか」

 

試験勉強疲れだろうか。穏やかな陽気に誘われるように野原の上で横になるフィリシアは夢の世界へと旅立っている。しかしその手は横に座るジェシカの左手を握って離さない。

 

寝言でまで甘えてくるフィリシアにジェシカは軽く頬を染める。悪態をつきながらも、なんだかんだでその手を振り払うことはなかった。

 

そんな彼女の膝の上には教科書が開かれており、今回の試験の復習を行なっているところだ。こうしてみたところ、大きなミスは犯してないように見えたため、胸の内でひっそりと安堵した。

 

余裕ができたジェシカは隣で呑気にねむりこけるおバカの反対を見やる。するとそこには、ジェシカと同じように教科書を広げながらも、顔を青ざめているセルマの姿があった。

 

「…………やって、しまった。……あぁ、ああっ、どうしようっ。こ、これでは、レイ殿やギルバート殿、何より……シルヴィア様に合わせる顔がないっ……!!」

 

どうやら試験で単純なミスをしでかしてしまったらしい……しかも割と多めに。軽く見ただけなのでそのミスが確かなのかは未だわからないが、人間一度思い込んでしまえば中々そこから抜け出せないものである。

 

今後のことを思い、声を上げながら悲嘆にくれるセルマ。しかしその慟哭はすぐに聞こえなくなった。

 

「ど、どうすればっ……んにゃっ!?」

 

「アホか、どうもこうもすでに手遅れだろうが。ここでグダグダ吐かしてるヒマがあるんなら、さっさとご主人様のところに頭下げに行けや。目障りだ」

 

頭のてっぺんから突き抜けた痛みに悶えるセルマの隣には、教科書の背表紙を振り下ろしたグレンの姿が見えた。

 

グレンはセルマが静まったことを確認すると、手に持った教科書を枕にして妹と同様寝る姿勢に入った。どうやら他の面々とは違い、成績にそれほど執着はないようである。

 

友人達……ジェシカ自身は友人などと認めているつもりはないが……の自由気ままな様子に嘆息したジェシカは、セルマが義兄の名を口にしたことで思考がそちらに誘導される。

 

ジェシカは今回の試験に確かな手応えを感じている。何事もなければ学年主席は彼女のものだろう。だが、それは必死に勉強してやっと手に入れたものだ。

 

しかし彼女の憎き義兄は違う。彼にとっては学校の試験など、すでにお遊戯のようなものだろう。ジェシカが必死に努力して手に入れたものを、ギルバートはわずかな労力で掻っ攫っていく。そして……その学年主席という立場も彼にとっては二束三文の価値しかないのだろう。

 

そう、商会当主の座と同じように。

 

そう思い至ったジェシカは両の掌に爪が食い込まんとするほどに力を込めて握りしめる。それはまるで、怒りや憎しみなどの溢れ出る負の感情をどうにか堰き止めているようにも見えた。

 

あわや掌が爪で破れる。そんな時、ジェシカは背後から伸びてきた両腕にそっと抱きしめられた。

 

温かくも柔らかい感触。ジェシカはハッとして、ゆっくりと振り返った。

 

「……?」

 

「ジェシー、大丈夫だよ」

 

ジェシカを抱きしめた者の正体は、いつのまにか起きていたフィリシアだった。フィリシアはジェシカの握りこぶしを優しくほぐしてやり、キュッと指を絡めるように両の手を重ねた。

 

なんのつもりかと問おうとしたジェシカであったが、そこにあったフィリシアの優しげな笑顔に思わず目を奪われた。

 

呆然とするジェシカにフィリシアはふわりと微笑む。

 

「僕ね、ジェシーが大好き」

 

それはこの一年で言われ慣れた言葉。だけど、そのどれとも比べ物にならないほどに愛情がこもっているように感じられた。

 

「自分のことで大変なのに、僕のことを考えてくれる優しいジェシーが好き。セルマとグレンとも仲良くしてくれるジェシーが好き。最後までおバカな僕を見捨てないでくれるジェシーが好き」

 

そこから次々と溢れ出す褒め言葉の数々。いつまでも尽きない褒め言葉にジェシカは顔を真っ赤にさせて、羞恥に身を縮こませる。

 

それは意気消沈していたセルマや、寝る体勢に入っていたグレンの耳にも届く。しかし二人は茶化すことはせずに、黙したままフィリシアとジェシカを見守る。

 

時間としては十数分といったところか。ひとまずは褒めることに満足したと言わんばかりの表情を浮かべたフィリシアは、羞恥で目を合わせてくれないジェシカにそっと囁きかける。

 

「ジェシーにはね、こんなにもね、いぃーっぱい良いところがたくさんあるんだよ? だからね、ジェシー……もうね、“お兄さんになろう”としなくていいんだよ?」

 

「っ!!?」

 

ジェシカは、身体中に電撃が走り抜けたのを感じた。

 

なんとも屈辱的な言葉であろうか。あろうかとかフィリシアは、自分があの憎くて仕方のない義兄になりたいと考えていると吐かしたのだ。これには流石にジェシカも黙ってはいられなかった。

 

……だが、しかし。ジェシカの口からは罵倒も、否定の言葉すら出てはこなかった。

 

口を開けては閉じてを繰り返すジェシカに、フィリシアは続ける。

 

「僕はおバカだから、難しいことはわかんない。ジェシーが今までどんなだったのかも、どれだけしんどい思いをしてきたのかもわからないけど……」

 

えへへ、と困ったように笑うフィリシア。しかし不思議と、ジェシカは侮辱されたことによる怒りの感情が静まっていくのを感じた。

 

「ジェシーは、ジェシー。とっても怖いお兄さんじゃなくて、いつも僕の手を引っ張ってくれるジェシーが、僕は大好きです」

 

今度はにへら、と顔を綻ばせたフィリシアに、唖然とした様子でジェシカは彼女を穴が開くように見つめる。

 

なんと能天気で勝手な物言いだろうか。自分がどれほどの想いでこの数年間を生きてきたとも知らないで。

 

しかし、それでも。ジェシカは不思議と、フィリシアへの怒りを再燃させることはなかった。……いや、負の感情そのものが、暖かくも優しいものに包まれて、交わって、溶かされていくようであった。

 

心が落ち着いていくのを感じているジェシカ。それを肌で感じ取ったフィリシアは、一度だけぎゅーっと抱きしめた後、そっと彼女から体を離した。

 

呆然とするジェシカをよそに、フィリシアは先ほどとは打って変わっていつもののほほんとした様子でみんなに語りかけた。

 

「僕、お腹減っちゃった。みんな早く帰ろっ」

 

気付けば、夕陽の半分ぐらいが山の奥へと沈んでいる。

 

フィリシアとジェシカを見守っていたグレン、セルマの二人は、特に何を言うでもなくフィリシアの言う通りに立ち上がる。

 

衝撃から立ち直れず、呆然としたままのジェシカに、フィリシアは手を伸ばした。

 

「ジェシー、行こっ」

 

手を伸ばすフィリシアの後ろでは、グレンとセルマが立っている。一方はフィリシア同様に優しげに微笑んで、もう一方は小生意気に鼻を鳴らして。

 

ジェシカへと伸ばされる“三つの手”。重いものを背負いこんでいるジェシカを見捨てることもせず、手を伸ばしてくれている彼女達は、きっと……。

 

「……ふぅ、全く。あなたは本当におバカですね」

 

…………きっと、ジェシカにとって大切なものなのだろうから。

 

伸ばされた手をとったジェシカの表情には、今までにないほどの穏やかな笑みがあった。

 

 

 

 

 

 

ギャリギャリ、と。

 

長い年月をかけて張り付いた錆をすり潰すように、歯車達は回り始める。

 

 

 

「……あれ? スー姉?」

 

「フィー? それにみんなも。どうしたのこんな時間に?」

 

「それはこっちのセリフだろ姉貴。大広間は反対だぜ」

 

「それが……ロンのネズミが見つかったんだけど……」

 

「おい、こらまてネズ公っ! 止まれって!!」

 

 

 

ギリギリ、と。

 

回り始めた歯車は、だんだんとその勢いを増していく。

 

 

 

「ああ、一度だけやつの名前が地図に載った。それをハリー達が追いかけているようだ。彼らの方向からして、行く先に心当たりがある。追って伝えるから、君達はいつでも出れるように待機しておいてくれ。……うん、頼んだよ」

 

 

 

キリキリ、と。

 

過去に動きを止めていたはずの歯車達が、再び動き始める。




次回、闇を祓う光。
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