禁じられた森は今、かつてない災厄に見舞われている。
危険な魔法生物が多数生息することで有名な森なのだが、どの生物達も息を潜め、身を隠し、災厄が通り過ぎるのを静かに待つ。
人など簡単に殺せてしまうほどの魔法生物達が恐怖に身を竦ませる現状。災厄とはなんなのか。それは、今も隠れている魔法生物達のすぐそばを風に乗って悠々と通り過ぎていく。
闇だ。
高く聳える木々の隙間を抜い、夜よりも暗い闇が駆け抜けていく。
一つ、二つ、四つ、八つ……。四方八方から闇が禁じられた森へと侵入していき、一目散にある場所を目指す。
彼らの向かう先。そこは……小さな湖がある開けた場所であった。
それ以外特に変わったところはない平凡な場所であったのだが、闇の目的はその場所にはない。……そこにいる人間にこそ、用向きがあるのだ。
「シリウスっ! しっかり、しっかりしてっ……!」
「………………」
次々と闇の体現者……吸魂鬼が集いつつある中、湖畔では意識を失い、横たわるシリウスへと声を荒げるハリーがいた。
自身を呼ぶ声に、しかしシリウスは一切の反応を示さない。……それもそうだろう。彼は今、吸魂鬼達によって魂が半分持っていかれている状態なのだから。
寸でのところでハリーが阻止できたからこそ、シリウスは生きた人形へとならずに済んでいるが、このままでは時間の問題だろう。
……そしてそれは、ハリーの魂も同じであった。
先に来ていた何匹かの吸魂鬼が、痺れを切らしてハリー達の元へと急降下する。
「っ! エクスペクト・パトローナムっ!!」
『…………っ!!』
そうさせないとハリーが杖を振るい、守護霊の盾を張って自身とシリウスを守りきる。……しかし、それはあまりにも脆い。
隙をつき、二匹の吸魂鬼がハリーの背後から彼の感情を貪り奪い去っていく。
「ぐ、ああぁっ! エクス……ペクトッ、パトローナム……っ!」
不意を打たれ、幸福の感情を大分貪られたハリーはしかし、歯を食いしばりなんとか守護霊の呪文で撃退する。
だが、有体守護霊でもない呪文の効力などたかが知れている。吸魂鬼をこの場から追い払うこともできず、奴らの数は増えるばかりだ。
息を荒くさせるハリーの視界を、闇が覆い尽くす。
……ここまで、なのか。
ハリーは、すぐそばで横たわるシリウスへと目を向ける。
最初はただただ憎かった。しかしその想いが見当違いであることを知った。話してみればとても暖かい人で、初めて……親の温もりというものを感じた。
シリウスは言ってくれた。ペティグリューを引き渡し、無実が証明されたならば……共に住もうと。自分と家族になろうと、そう言ってくれたのだ。
シリウスは、自分にとって……たった一人の家族なのだ。
だからこそ。
「……諦められるはずが、ないだろっ!!」
幸福を奪われ、恐怖と絶望に支配されていたハリーは、大きな叫び声に溢れる気力を乗せてそれらを振り払った。
震える身体に鞭打って、両の足でしっかりと立ち上がる。
ハリーは鋭い視線で空を仰ぎ見る。見上げる先は闇の大群だ。
「……っ!」
ただ見ただけ。それだけで再び心が挫けそうになる。
闇が再び心へと侵食していく。しかし次の瞬間、闇はとても大きなものに心までの行く手を遮られてしまった。
闇からハリーの心を守ったそれは、憧れの後ろ姿だった。
とてつもなく大きな背中。いつも自分を、友達を守ってくれる暖かくも力強い背中。
その背中の持ち主は不意にハリーへと振り返ると、なんでもないように笑いかけてくれた。
憧れの背中が、その笑みが。ハリーを闇から守り、力を与えてくれる。
「……んだ」
小さく、小さくハリーは呟いた。
「……守るんだ」
その言葉はまだ小さく、なんの力も持ってはいない。
「守るんだ」
ようやく、その言葉に光が宿る。
「守るんだ!」
光宿るその言葉と共に、ハリーの身体に、心に力がみなぎっていく。
「守るんだっ!!」
しっかりと地面を踏みしめて、ハリーは闇の大群をまっすぐに見据える。
彼のように、大切な人を……。
「絶対に、守るんだぁっ!!」
空を覆う闇の大群へ向けて、ハリーは杖を振り上げた。
「エクスペクト・パトローナムっ!!」
そして、光の奔流が全ての闇を払い去った。
「……ふむ、自分でどうにかしたか。これはポッターの評価を一段上げなければならないな」
一連の出来事を少し離れた場所で観察していたシルヴィアは、ハリーが掴み取った結果を見てそう呟く。
小さな顎に細い指を添えて何事かを考え込む彼女の足元には、意識を失った巨体が転がっている。
白い鎖で雁字搦めに捕縛されたそれは、狼人間と化してしまったリーマスだった。ハリーとシリウスを捜索中に彼と出くわしたシルヴィアは、いとも簡単に彼の意識を刈り取り、縛った後にここまで引きずってきたのだ。
大の大人数人がかりでも苦労する作業を片手間に行うシルヴィアは、まさしく天才の名に恥じない。
そんな彼女であるが、ハリー達を助けるでもなくこの場で傍観していたのには訳がある。まあ、偏にハリーの人となりを改めて知るいい機会であると考えたためだ。
最愛に頼まれたのだ。流石に本当に危なくなれば助けてはいたが、いつでも助けられるのならば少し様子を見るのもアリかと思い立ち、今まで傍観に徹していたのだった。
「まあ、仮にも私の最愛を目標にしているのだ。これくらいはやってもらわなければレイのような男を目指す資格はないな」
なんとも厳しいお言葉。しかしシルヴィアの及第点にハリーはなんとか達することができたようだ。
「さて、さっさとこれらを連れて帰るか。……そうだ、帰ったらご褒美にレイに頭をナデナデして貰おう」
うんうん、そうしようそうしようと一人頷いたシルヴィアは、ルンルン気分で男三人を連れて禁じられた森の外へと足を向けるのだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
光の咆哮に吹き飛ばされた吸魂鬼達が遠巻きに見守る中、横抱きにジェシカを抱えたレイとギルバートがセルマ達の元へと駆け寄る。
「ジェシーっ!!」
「きゃっ。……もう、何を泣いているのですかこのおバカは」
レイがジェシカを地面へ優しく下ろしてやると、フィリシアがすぐさま座り込む彼女を抱きしめた。その後にセルマとグレンも心から安堵した様子でジェシカの無事を喜んだ。
「ぐじゅっ、えっぐ、だっで、だっでぇっ……」
「フィー、嬉しいのはわかるが彼女はまだ安静にさせなければならない。少し力を緩めてあげよう」
「……はっ、悪態つく余裕があんなら大丈夫だろ」
「なんです? 逃げるしかなかった負け犬の分際で」
「ぐっ……!」
全くもってその通りなのでグレンは黙り込むしかない。ようやく生意気な狂犬から一本とったジェシカは、これだけで身体を張ってよかったかもなどと思ってしまった。
そんな彼女へと、セルマが心より申し訳なさそうに頭を下げる。
「ジェシー、すまない。私達は……」
「いいんですよ、私が勝手にやったことですし。……それより、私の意を汲んでくれて感謝します。辛い思いをさせました」
「……っ。それこそ、気にするなっ」
友達を見捨てることはどれほど辛いことであっただろうか。
セルマは今まで我慢していたものを吐き出すように、嗚咽をこぼしながら頬を涙で濡らす。そんな彼女へとジェシカは腕を伸ばし、優しく涙を拭ってあげた。
吸魂鬼を警戒しながらもその様子を微笑ましげに見守っていたレイは、キリのいいところで会話を挟んだ。
「悪いな。無事を喜んでいるところだけど、ちっとばかし周りのことも見てくれると助かる」
「ふんっ。状況は全く変わっていないというに、呑気なものだ」
ギルバートの毒にジェシカがキッと義兄を睨みつける。ギルバートはその覇気のなさから彼女が未だ本調子でないことを悟る。
「どうした愚妹? いつものような鋭さも、汚泥のような憎々しさも感じられんぞ? 未だ彼奴らの恐怖が抜けきっていないのならば無理はしないことだ」
そう言ってギルバートは杖を振るう。するとジェシカの身体が橙色の霞のようなもので覆われる。それはジェシカへと抱きついていたフィリシアをも包み込み、その魔法の効力を実感する。
「ほわぁ、あったかい……」
「これは……」
冷え切った身体と心が温められ、内から活力が湧き上がる。
ジェシカが気力を取り戻したことを確認したギルバートは鼻を鳴らした後に顔を前へと向けた。
「お優しいこって」
「ただ適切な処置を施しただけだ。下世話な詮索をするな愚か者」
変わらない秀才の毒にレイは肩をすくめると、ジェシカ達へと振り返り笑いかけた。いつもと変わらない……いや、いつもよりもはるかに力強い笑みを見たジェシカ達は、それだけで不思議と安心することができた。
「待っててな。サクッとこいつら追っ払って、ステラ達のところに連れてってやるからな」
それだけ言うと、レイはじわじわと近づいてくる吸魂鬼達へと向き直る。そうすると、彼の後ろ姿が彼女達から露わになった。
「…………ぁ」
それは誰のものだっただろうか。いや、もしくは全員だったか。
その背を見たジェシカは、思わずほぅと息をついてしまう。
なんと大きな背中であろうか。それだけではない。その背中からは先程ギルバートが放った魔法と同じような暖かさと安らぎを自分に与えてくれるようだ。
……彼女は気付かないでいるが、その背を持っているのはレイだけではない。
そして、それに気付いているフィリシアは、大きな背中を見せつける“彼ら”へと声を投げかける。
「レイ兄、ギルバートさんっ。ジェシーを助けてくれてくれてありがとう! 頑張ってっ!」
フィリシアの感謝と激励を受け、顔だけで振り向いたレイとギルバートは、一方は力強く頷きを返し、もう一方は少しだけ後ろを見やってすぐに踵を返した。
吸魂鬼達へとゆるりと歩いていくレイとギルバート。その頼もしい後ろ姿をフィリシアは溢れ出る涙で視界に映す。一年前の列車で見たものよりも遥かに大きな背中で自分達を守ってくれている。喜びと安堵で溢れた涙が、フィリシアの頬をゆっくりと伝った。
そんなフィリシアの横では、妹と同じように目の前の大きな背中に守られているグレンが静かに息を吐いていた。
もはや、逃げることも否定することも許してはくれない。……グレンは、完璧にレイに負けてしまったことを悟ってしまった。
それなのになぜか、グレンの内からは怒りや憎しみなどが沸くことはなかった。……いや、グレンには分かっていた。それは、レイの力の全てが誰かのために向けられたものであるからだ。
自分を一瞬で打ち負かした強さも、佇まいだけで屈服させたことも。それは彼の本質ではない。
全ては、大切なものを守るために。
自分のちっぽけさを改めて実感したグレンは、乾いた笑い声を上げてレイの背中を見つめるのだった。
フィリシア、グレン、セルマ、そしてジェシカ。四人の後輩に見守られながら、レイとギルバートは空を覆う吸魂鬼の群れと相対する。
さてやるか、とレイが杖を振るわんとしたところで、隣に立つギルバートがいつもよりも妙に気迫があることに気がつく。
「おっ、なんだよ。やっぱり妹がいると気合が入るか?」
「……それ以上無駄口を叩くのならば、ごみ掃除よりも先に貴様を片付けるぞ?」
「別に恥ずかしがることじゃねぇだろ。兄貴なら当たり前だ」
同じ妹を持つ兄であるレイだからこそ、ギルバートの気持ちもわかる。……まあ、レイは妹のために自害しようとするぐらいだからその重みは凄まじいものがあるのだが。
それを知っているギルバートは、下手に毒を吐けなくなってしまい小さく息を吐くことしかできなかった。
無自覚なレイのズルさに苛立ちを覚え、妹の話題から挿げ替える。
「それよりも、初めての実践で守護霊を扱えたからといって調子に乗るなよ。この呪文は僅かでも心が揺らげば効果を発揮しないのだからな」
「分かってるさ。そっちこそ、妹の前だからっていいとこ見せたさに力むんじゃねぇぞ?」
「……チッ」
どうしても妹の話題へと持ってくるレイに舌を打つギルバート。流石にこれ以上はダメかとレイも茶化すのをやめて杖を握り直す。
口を閉じて前を見据えるレイとギルバートからは莫大な闘気が溢れ出している。先の言い合いの最中でも、二人は一切油断することなく静かに戦意を研いでいたのだ。
吸魂鬼達もじわじわ近づいてはいるのだが、中々レイ達へと襲いかかってこない。それもそうだろう。二人から発せられる感情からは恐怖の類が一切感じられないのだ。
しかし、吸魂鬼達に撤退の文字はない。なんせ後ろには再び幸せな感情を抱き始めたご馳走が4人もいるのだ。レイとギルバートの周囲を飛びまわり、機を計らい、その時を待つ。
……そして、吸魂鬼達は意を合わせて一斉にレイとギルバートへと襲いかかった。
殺到する闇の群勢。それを真正面から待ち構えるのは文字通り死の恐怖が襲いくるものだろう。
だが、しかし。
レイとギルバートの二人には、そのような微塵も揺らぐことはなかった。
二人は悠々と杖を構え、そして……叫ぶ。
「「エクスペクト・パトローナムっ!!」」
そしてレイとギルバートの姿は闇に消え……。
……瞬間、光が爆ぜた。
レイとギルバートへと殺到していた吸魂鬼達は白き光の奔流に呑み込まれる。二人と距離があった吸魂鬼はその余波だけで上空へと吹き飛ばされた。
身構えていたジェシカ達は顔を覆うことで光の爆発を防ぐ。
光の奔流は徐々に落ち着きを取り戻していき、余裕ができてきたジェシカ達は光の爆心地へと目を向ける。
そこには、レイとギルバート。それぞれが光の使い魔を従えて堂々と佇んでいた。
ギルバートのそばに侍るのは、大きく翼を広げた大鷲だ。主人と同じような猛禽類特有の鋭い目が、空へと逃げた吸魂鬼を貫く。
かわって、レイに傅く守護霊は一風変わっていた。
鋭い牙でもって威嚇し、立派な鬣を揺らす堂々たる姿は獅子のそれだ。しかし、その獅子は身体中にいくつもの傷を負っていた。よく見れば凛々しいその顔にも片目を切り裂くように大きな傷が遺っており、それが獅子の勇ましさに大きく磨きをかけていた。
空の王者と陸の王者。
その名に引けを取らない二匹の守護霊は主人の呼び声に参じた。たったそれだけで吸魂鬼の半数以上を禁じられた森の外へと追いやっていたのだ。
感情がないはずの吸魂鬼に、怯えの色が見えるのは気のせいだろうか。だが、ここで杖を引くほどレイもギルバートも優しい男ではない。
すっ、と二人が軽く杖を振るう。主人の指示を受けた二匹の王者は即座に行動を開始した。
大鷲は風を斬るように夜空を飛び回ることで吸魂鬼を退け、獅子はその場で大きく力を溜めて、それを全て解放するように空へと光の咆哮を放った。
縦横無尽の光の刃と、全方位に広がる光の波動。
大鷲と獅子の吸魂鬼狩りは圧巻の一言に尽きた。ジェシカ達はその様を唖然とした様子で眺める。
こうなってしまえば、もはや吸魂鬼達に手立てはない。
最もおぞましいとされる吸魂鬼が、為すすべもなく逃げ惑う様はもはや滑稽とも言えるだろう。
そして、気づけば。
大鷲と獅子によって災厄は退治され、禁じられた森に平穏が訪れた。
辺りを見回したレイとギルバートは、もう安全であると判断して杖を振るう。大鷲は空の彼方へと姿を消し、獅子はもう一度咆哮を上げて姿を消した。
闇の群勢によって遮られていた満月が再びレイ達を照らし、災厄が禁じられた森から去ったことで森の住人達の鳴き声が戻ってきた。
喜びを表すような動物達の声がこだまする中、レイは肩の力を抜くように短く息を吐いた。
「ふぅ、いっちょあがり」
「ふん、初の実戦であれほどの数を相手に大太刀周りができれば上出来だ。……吸魂鬼がアズカバンに撤退する前にアリスにもやらせるか」
「いや鬼かよ」
鬼畜なことをつぶやくギルバートにレイがビシッとつっこむ。
そんな中、ようやく衝撃から立ち直ったセルマがキラキラと尊敬の眼差しをレイ達に向ける。
「あぁ、やっぱり御二方は凄いっ。流石ですっ、レイ殿、ギルバート殿!」
それに釣られるように、感極まったフィリシアがレイへと抱きつく。
「っとと」
「すごいすごいっ。ねぇねぇレイ兄、さっきのカッコいいライオンさんもう一回出して!」
きゃっきゃっとはしゃぐフィリシアに苦笑しながら、また今度なとレイはぐしゃぐしゃと彼女の頭を雑に撫でる。
グレンはその様子を静かに見守る。そして、意味ありげにレイを見たかと思えば、両の手を強く握りしめた。
そして、ジェシカは。……一人、義兄を見つめていた。
自分が見ていることなど分かっているはずなのに、ギルバートはそっぽを向いてこちらを見ようともしない。
別に見て欲しいわけでもないからそれは構わない。今、ジェシカに去来しているものは、やはり義兄に対する劣等感だった。
自分が命を賭して守ろうとしたものを、なんでもないようにいとも簡単にやり遂げてしまう。
二人がかりであったことなどなんの慰めにもならない。先の吸魂鬼の群れならば、どちらか一人だけで事足りたことが理解できないほどジェシカは馬鹿ではない。
ではレイに対する想いはどうであろうか? それも特段思うところはない。それどころか感謝しか湧かない。
ではなぜ、ギルバートにだけこれほど昏い感情が湧いてくるのか。……簡単な話だ。血の繋がり、半端に同じであるからこそ、こうも心を揺さぶられる。
身を呈して守ってくれたことが分からないわけではない。体調を気にしてくれたことが分からないわけでもない。……だが、どうしても。ジェシカは義兄を恨めしく思わずにはいられなかった。
親友の心が昏くなっていくことに、フィリシアは気付いた。彼女はそばに行かなくちゃとジェシカの元へ駆け寄ろうとしたのだが、その前にレイに止められた
「……レイ兄?」
「任せろ」
レイは不安そうにするフィリシアにウインクをすると、おもむろにギルバートに近寄った。
「なぁギル」
「なんだ、一通り落ち着いたのなら早く……っ何をする、貴様っ……!」
突然、レイがギルバートの肩を抱いたかと思えば、ジェシカ達から隠れるように小声で話し始めた。
「この愚かもん。お前は一体何してんだよ」
「あ?」
かなりドスの利いたその声色に、しかしレイは一切意に介することなく話を続ける。
「テメェは仮にも兄貴だろうが。兄貴なら、妹のケアもちゃんとしやがれ」
「……いかに貴様といえど、俺達のことに口を挟む筋合いはないはずだが?」
「そうだな、確かにその通りだ。けどさ……」
レイはちらりとジェシカを見やる。その顔に浮かぶ昏い表情に胸を痛める。
「フィリシアがいても、彼女はお前への憎しみにずっと囚われたままだ。これじゃあお前の本当の目的も果たせないんじゃないか? ギル、この前と一緒だ。やり過ぎたんだよ」
レイはギルバートのお家事情もあらかた耳にしている。そして、ギルバートが自身を憎む妹に特に思うところはないことも。ではなぜ、ギルバートは妹と交流を深めようとしないのか。
「お前にはお前の考えがあるのはわかる。けど、それでお前は2年前アリスで失敗したんだろうが」
「…………」
それは、アリスに自分の理想を押し付けすぎたことの話だ。それを出されてしまえばギルバートもむやみに袖にはできない。
「間違いから学び、次に活かす。お前の信条だろ。こうしてしっかりと話す機会が出来たんだ、今がそん時じゃないのか?」
「…………はぁ」
ここまで言われてしまえば、ギルバートの負けである。
乱暴にレイの拘束を払うと、ズカズカと無遠慮にジェシカへと歩み寄った。
いきなり目の前までやってきた義兄に、ジェシカは戸惑いを覚えながらもキツく睨み返す。
「……なんですか。穢れてしまうので離れて欲しいのですけど」
「ふん、少しはマシになったかと思えば。結局貴様は愚か者だな」
「……っ!」
ギリッと奥歯を食いしばるジェシカにギルバートは上から言葉で押しつぶす。
「さっきのはなんだ? 自己犠牲? ああ、なんとも愛に溢れることだ。万人受けもいい、拍手喝采だろう。……はっ、ヘドが出る」
「なにを……っ!」
「本当にフィリシア・マクレイアのことを考えているのならば、計画性のない自己犠牲などという馬鹿な手段は選ばん」
「っ!?」
「先のセルマはどうだ? 貴様の尊い自己犠牲があやつを苦しめた。貴様は、友を見捨てたという重荷を、セルマ達に一生背負わせるつもりだったのだぞ」
「……っ!」
それからもなお続く暴言の数々。正論と言う名の暴力が、ジェシカの心を滅多打ちにしていく。
最初は堪えていたジェシカも、もはやすでに恥も外聞もなく頬を濡らして俯いている。
もう見ていられないとフィリシアとセルマが駆け寄ろうとした時、またレイが先に動いた。
「おい、本当に分かっているのか……」
「うぉらっ!!」
「ガッ!!?」
なんと、レイは咄嗟にギルバートの両肩を掴むと、その勢いのままにヘッドバッドを繰り出したのだ。
その間わずか一秒と少し。説教に熱を上げていたギルバートはなんの抵抗もなくヘッドバッドを受けた。
「〜〜〜〜っ!!」
あまりの痛みにうずくまるギルバートに、いきなりのことでジェシカさえ呆然とする。
何が起こったのか。
あの、義兄が。孤高を貫く風格ある義兄が、自分の目の前で無様に痛みに悶えている。
あまりのことにジェシカが、現実を受け入れることを拒んでいる中、レイは痛みに悶えるギルバートの胸ぐらを掴む。
「お前に期待した俺が馬鹿だったよこの愚か者! お前は後でアリスとシルヴィと一緒に説教だっ!」
「な、にを、貴様っ……!」
レイは掴んだ胸ぐらを引き寄せ、鼻がくっつかんばかりの近距離でギルバートを睨みつける。
「ジェシカを心配してるのはわかけど、説教の時間が長ぇよ! ただでさえお前の毒は人によっちゃ致命傷なのに、弱ってるところに致死毒をああも過剰摂取させやがって」
彼は今、なんと言っただろうか?
ジェシカはレイを穴を開けれるのではないかというぐらいに見つめる。この義兄が、心配している? 自分を? ……なんとも笑えない冗談を口にするものだ。
胸の内で吐き捨てるジェシカをよそに、睨み合うレイとギルバート。一触即発の雰囲気に空気が張り詰める中、構わずレイは続ける。
「ギル、お前が本当に言いたいことはそうじゃねぇだろ? ああいや、長い説教の後に言うつもりだったのかもしれないけど、序論が無駄すぎる。簡潔に、お前の想いを、キチンとジェシカに伝えてやれ」
「…………」
「兄貴だろうが、シャンとしやがれ!」
最後にレイはギルバートの背中をバンッと叩いてジェシカの前に押し出した。
額と背中に鈍い痛みが走る。人を殺せるのではないかというほどに鋭くレイを睨みつけるギルバートであったが、当の本人は怯むどころから早よ行けと顎で急かす。
今のこの状況に軽いデジャヴを覚えたギルバートは、睨みつけることをやめてコメカミを押さえる。
そして、吐き出される深く重い溜息。
どれだけ息が続くのか。身体の中の空気をすべて吐き出したのではと思えるほどに長い間溜息をしていたギルバートは、渋い顔をジェシカへと向けてそばに膝をついた。
生まれて十数年。兄妹の距離が一番に近づいた時だった。
先のこともあり、びくりと肩を震わせて怯えた様子を見せるジェシカ。その様子まで泣き虫とそっくりだと頭の片隅で思いながら彼女と目を合わせ、胸の内を語る。
「……貴様は、俺が次期当主の座などどうでもいい、などと思っているのだろうが……それは全くの見当違いだ」
「…………えっ?」
ギルバートから放たれた信じられない言葉に、ジェシカは目を見開く。
「確かに俺は次期当主になんぞなりたいなどとはカケラも思っていない。だがな、それを無責任に投げ捨てるほど、俺は父に恩を感じていないわけでもない。……愚妹、貴様にならば任せられると思ったからこそ、俺は貴様に次期当主の座を譲ったのだ」
「…………」
そう言ったギルバートはしかし、次にはまた重い溜息を吐いた。
「それなのに貴様といえば下らない優劣や周囲の悪感情に簡単に揺さぶられおって、猛省しろ」
「……なにを、勝手にっ……!」
どうやらギルバートが多少柔らかくなったことで、怯えよりも腹立たしさが上回ったようだ。気丈にも睨みつけるが、そんなものは焼け石に水だ。
「なんだ? 泣くのならマクレイアの妹にでも慰めてもらえ」
「っ……!」
「おいギル」
いつもの秀才節に戻りつつあるギルバートへとレイの注意が入る。いちいちうるさい奴だと嘆息するギルバートに、レイは少し恥ずかしい目にあってもらうかと思い立った。
レイはあることをジェシカへと打ち明けるために、彼女のそばにそそそっと近づいた。
「なぁ、ギルがどうして君にキツくあたるか教えてやろうか」
「え……」
「おい貴様、余計なことをするな」
「却下だこの野郎」
レイはギルバートが何かをする前に、早口にその訳を口にした。
「ギルはな、君にキツく当たる事でワザと君に憎まれようとしてるのさ」
「は……?」
止める間も無くバラされてしまい、ギルバートは盛大に舌打ちをする。
「小さかったギルは自分を守るために必死だった。そのおかげで今の立場を掴み取ることができたけど、ふと辺りを見回したら……苦しんでる君が目に付いた」
ギルバートがようやく周りを見渡せる余裕ができた頃だ。広大な庭の片隅で一人、すすり泣く小さな少女を見かけた。
初めは誰か見当もつかなかったギルバートであったが、少ししてその少女のことを思い出した。
完全に頭の中から抜け落ちていた。しかし人というものは、一つの物事について一度気になってしまえばそれに関する情報を無意識に拾うものだ。
侍従が、父の部下が、義母の一派が。自分とその少女を比べ、噂し、少女をこき下ろしている。挙げ句の果てには実の母親さえも。
それからというもの、幼少のギルバートは少女についてひっそりと調べた。
そして少女が次期当主の座を継ぐに相応しい才能を秘めていることを確信したある日、ギルバートは一つの決断をする。
半分しか血が繋がっていなくとも。せめて一人の兄として、出来ることをしようと。
「自分のせいで苦しんでいる君を見て、ギルはその捌け口に自分からなることにしたのさ。そうする事で君の心を守ることができる。それだけじゃない。ギルに対する憎しみや恨みを力に変えて、君がお父さんの跡を継げるぐらいに成長することを期待したんだ」
そして、君の将来を願って……次期当主の座を譲ったんだよ、とレイは締めくくる。
レイはギルバートからジェシカに関して詳しい話を聞いたわけではない。だが、長い付き合いだからこそ、彼の思惑を察することができたのだ。そしてその予想は完全に的中していた。
何故こいつは勉学にこの察しの良さを発揮しないのかと頭を抱えるギルバート。
「そんなことが……だって……」
そんなことを突然言われても、ジェシカには到底受け入れられるはずもなかった。それはそうだろう。自分が、自分の意思で、やってきたことすべてが兄の思惑通りだったなどと。
茫然自失してしまうジェシカに、レイはなおも続ける。
「君のことを愚妹って呼んでるのがいい証拠さ。こいつにとって愚か者ってのは将来性があるやつのことを指す。少なくともギルは君のことを一年の頃からそう呼んでいたよ」
自己犠牲を責めたくせに自分が率先してやってちゃ世話ないよなぁとやれやれと首を振るレイに、とうとうギルバートの額に怒りのマークが浮かび上がる。
「俺は自己犠牲における覚悟の有無の話をしていたはずだが? どうやらその耳は都合のいいことしか拾わんらしいな。さすが多くの女生徒を傷つける男は違う」
「なっ!? おま、その話は今は関係ないだろうがっ!」
「確か泣かした子女の数は三十を超えたぐらいか? 子女を無闇矢鱈に泣かせる屑が、よく家族愛だなんだと講釈垂れれるものだ」
「…………」
かっちーん。という音が、そばで聞いていたセルマには聞こえた。
「上等だコラ、杖を抜けよ秀才。頭が良ければ何をしてもいいっていうその根性、ここで矯正してやる」
「はっ。こちらこそ、自分勝手な行動がどれほど周りに迷惑を被らせているのか、その空っぽの頭をカチ割って享受してやる」
「お、お待ちください御二方! どうか、どうか気をお鎮めくださいっ……!」
吸魂鬼を相手にしていた時をはるかに凌駕する戦意の高まりに、アワアワと慌てるセルマに絶句するグレン。
あわや大惨事と大騒ぎが繰り広げられる中、フィリシアはトコトコとジェシカの元へと歩み寄った。そして、呆然とするジェシカを正面から抱きしめる。
「……フィー?」
「えと、僕には話が難しくてよく分からなかったけど、よかったね?」
「……は、何がよかったものですか。ただ、私が滑稽な姿を晒していただけではないですか。……今までのことは、私は、わたしは」
うつむき、ブツブツと何事かを呟き出すジェシカ。そのすぐ近くでは、レイとギルバートの間に割って入り、半泣きになりながらもなんとか場を収めようとセルマが努力していた。
完全に意気消沈してしまっているジェシカ。そんな彼女の顔を優しく上げさせて、フィリシアはチョンっと彼女の鼻先をつついた。
「んもう、ジェシーは難しく考えすぎだよぉ〜」
「……え?」
ぼやけた顔でジェシカはコクリと首を傾ける。そのすぐそばでは、自分の命を賭けると言わんばかりに、レイとギルバートへと土下座を繰り返すセルマに、流石の二人も冷静になっていた。
今までにない無防備な姿を見せるジェシカに、今回は僕が教える番だと無駄にやる気を見せるフィリシアがんー、と人差し指を顎に添える。
「滑稽ってアレだよね、可笑しいって意味だよね? でも、お兄さんはジェシーのことを笑ってなんてないよ?」
僕も面白いところなんてなかったと思うけど、と言うフィリシア。
その通りだ。確かに何も知らず、ギルバートの思惑通りに一人憎み、恨み、足掻いていた姿は滑稽なのかもしれない。少なくとも、ジェシカは自分が無様で、恥ずかしくて仕方がない。
だが、全てを知っていたギルバートはもちろん。この場で知ってしまったレイとジェシカの友人たちは、誰一人として彼女を笑ってなんかいない。
ただ、あるのはたった一つの真実。
「おバカな僕でも、ジェシーがお兄さんにいっぱい愛されていたんだなってことぐらいは分かるんだからっ」
「っ!!」
フィリシアはあっさりと、ジェシカが無意識に逃げていた事実を暴いてしまう。
そう、ジェシカは逃げていたのだ。
滑稽だ、無様だ、恥辱だなどと自分を卑下しているが、それらは全てその真実から逃れるための言い訳に過ぎない。
……ジェシカは、怖いのだ。どうしていいか分からないのだ。
真実を知らされた自分はどうすればいいのか。
「……別に変わる必要はない」
「っ!」
セルマの説得に一先ず停戦を結んだギルバートが再びジェシカの前に立つ。
フィリシアとともに見上げる義妹を見下ろすその目には、どこか優しいものが感じられるのは気のせいだろうか。
「お前は変わらず、俺を敵視していればいい。そして努力しろ。俺は上で、お前が血反吐を吐きながらも足掻く様を悠々と眺めてやる」
義兄の高圧的な言葉に、一瞬戸惑いを見せるジェシカ。しかし、あることに気付く。
あの物言い、態度。気に入らないものは、やっぱり気に入らない。
義兄への態度をどうするか迷っていたジェシカは馬鹿らしくなって、前と変わらずきつい視線を彼に向ける。……義兄に従う形になってしまうのは心底癪であるが。
彼女は気づいているであろうか。ギルバートを見るその視線に、前まであった昏い感情が乗ってはいないことに。
いつもの調子を取り戻した義妹に、ギルバートは鼻で笑った。
「せいぜい俺を超えて見せるんだな。それぐらいしてもらわなければ、エリス商会を存続させることなど夢のまた夢だぞ」
「……ええ、ええっ! やってみせますとも! 見ていなさい、最後に勝つのはこの私です!!」
激しく火花を散らす兄と妹。
そして、やはり妹は気付かない。彼が妹へと向けた言葉は、全て彼女に対する期待の裏返しなのだと。
お前ならばやってくれるという、確かな期待なのだと。
それに気付いていたレイは、同じように気付いたフィリシアと顔を見合わせて笑った。
少し遠くで、セルマとグレンが肩を並べてその光景を眺めていた。
ギルバートはどこか満足げな表情をした後、いつまでも睨みつけてくる義妹から背を向けて歩き出した。
「無駄な時を過ごした。帰るぞ愚か者、暴れ柳の下で先の続きだ」
「おうさ。目にものを見せてやる」
「えぇっ!? 御二方、納得していただいたのでは……っ!?」
愕然とするセルマを無視して、ギルバートは完全に忘れられていたピーター・ペティグリューを魔法で連れて行く。
その途中で、不意に足を止めた。
「……一つ、訂正しよう」
「……なんです?」
それが自分に言われたことであるとわかったジェシカが、嫌々返事をする。
ギルバートは彼女に振り返ることなく、言葉を続けた。
「……ジェシカ、お前はお前になれ」
「…………」
ジェシカは息を呑んだ。偶然にも、その言葉はフィリシアがジェシカへと送ったものと同じだった。
「母親の傀儡でもない。商会の偶像でもない。ましてや俺でもない。お前は、これが自分なのだと誇れる者となれ」
「…………」
フィリシアに言われた時も、頭の片隅である思いがあった。
母親とその一族の言いなりであり、大商会の後継者として型にはめられた今までの自分を全てを否定されては、自分には何もないではないか、と。
しかし、そんな勘違いしているジェシカに、ギルバートはその勘違いを正す。
「愚か者が。意識を広げ、よく周りを見渡してみろ。少なくとも、誰でもなく、そして他でもないお前を愛していると言ってくれる者がそばにはいるのだろう? お前の死を心から悲しんでくれる友がいるのだろう?」
その言葉にハッとしたジェシカは、自分を大好きと言ってくれた友達を見る。目を向けられたフィリシアは、恥ずかしげにしながらも満面の笑みを返した。
自分との関係が好きだと言ってくれた友達を見る。ジェシカから目を向けられたセルマは中性的な面持ちに優しい笑みを浮かべた。
悪態を言い合いながらも、自分の素をさらけ出せる友達を見る。最後に目を向けられたグレンは、気恥ずかしさを誤魔化すように顔を背けた。
一つずつ、ゆっくりと確認して行ったジェシカは、不意に頬を伝う温かいものを感じた。そっと頬に手を添える。それは、なんとも暖かい涙であった。
頬を濡らす彼女へとギルバートは語る。
お前の色は、確かにあるのだと。そしてそれは、確かに意味があるものなのだと。
「自分の手の中にあるものを確認したのならば、あとは簡単だ。まずは自分が一人ではないことを誇れ。次に友に愛されていることを誇れ。そして……」
それは義兄が生まれて初めて義妹に贈る……。
「自分を愛していると言ってくれる友を、命を賭して助けたいと思えた自分を誇れ。それが、新しいお前の始まりだ。ジェシカ」
自分自身という、かけがえのないプレゼントだ。
「……っ、……っく」
今まで朧げだったジェシカの色に、はっきりと確かな色がジェシカ・エリスという少女に彩りを与えていく。
自分が形作られていく最中、ギルバートはフィリシアへと声をかける。
「フィリシア・マクレイア」
「え? ふ、ふぁいっ」
「グレン・マクレイア、セルマ」
「お、おう」
「はいっ」
義妹の友人達の名を呼んだギルバートは、少し間を置いて最後に一言伝えた。
「愚かな妹であるが、これからもよろしく頼む」
ジェシカとその友人達に言葉を贈るギルバートの表情が最後まで伺えることはなかった。しかしその顔は、きっと……。
とても優しい色で満たされていたはずだから。
ギルバートはそれだけを伝え終えた後、失神しているペティグリューを連れて一足先に森の中へと姿を消していった。
最後の最後に素直になりやがって、と完全に拗らせている親友に呆れてレイは苦笑した。
夜空に輝く満月が、涙をポロポロとこぼして心を洗っているジェシカを励ますように優しく照らしている。
フィリシア達が慰めている様を遠巻きにしながら、レイは夜空に輝く満月をゆっくりと眺めるのだった。
次回、そして少年は壁へと挑む。