選ばれし者と暁の英雄   作:黒猫ノ月

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存在しない記憶

ただ、生暖かい風が枝葉を震わせる音だけが辺りに響く。

 

夜夜中を過ぎた、無月の森の奥。

 

普段ならば夜の住人たちのさざめきが耳を打つのだが、そこでは身じろぐ音一つ聞こえてくることはなかった。

 

…………いや。よくよく耳を澄ましてみると、さらに森の奥。暗闇が口を開けたその奥から何かが聞こえてきた。

 

「…………ぁ」

 

それは……人のうめき声に酷似していた。

 

木々を縫う湿っぽい風に諭されるように、暗闇へと飛び込む。しばらく夜闇を駆け抜けていると……ふと、この場にはそぐわない異臭が鼻を突いた。

 

どこか鉄を思わせる香り。……血の匂いだ。

 

ここは自然の只中。弱肉強食が当たり前なのだから、血の匂いくらいしてもおかしくはない……そう、普段なら。

 

しかし先も言ったように、今現在ここら一体の森の住人たちは身を潜めている。だからこそ、血臭が漂うのはおかしいことであった。

 

血風は暗闇のさらに奥から流れてきているようだった。

 

その異変を探るため、血風に逆らうように元凶へと歩を進める。…………目的の場所は、すぐそこだった。

 

多くの枝葉に遮られ、星明りさえ届かない森の奥。

 

 

 

 

そこは、凄惨たる有様であった。

 

 

 

 

闇が濃いために一目では状況が把握できないが、よく目を凝らしてみれば明らかな異変が見て取れた。

 

複数人の人影があたりに転がっている。皆それぞれ闇に紛れるように黒のローブを羽織ってはいるが、ある者は地に伏せ、ある者は木にもたれかかるように、またある者は腹部から溢れる血を手で抑えて蹲っていた。先ほどから漂ってきた血臭は彼らの傷から零れたもののようだった。

 

しかしおかしなことに、これだけの被害があったはずなのに周囲の木々や地面には特に変わったところは見受けられない。

 

「ひぃっ、ひぃぃ……!」

 

そんな時、場にそぐわない悲鳴が端のほうから聞こえてきた。男のものだ。

 

そちらへ意識を向けると、木の根元に蹲る小太りな男の姿があった。…………そして。

 

「…………」

 

その男のすぐ傍に、一つの影が黙然として佇んでいた。

 

影はフードをしており表情は伺い知れない。ただ、闇夜の中でも目立つその図体の大きさだけは特徴的だった。

 

「なんで、なんで君がっ……」

 

「…………」

 

小太りの男は、突き出た前歯をガチガチと鳴らしながらそう尋ねた。そばにいる影の正体を知っているようだが、しかし影はフードの奥から男を見下ろすばかりで何も答えない。

 

影の手には杖が握られている。どうやらあたりに転がる者たちを片付けたのはこの影のようだ。だが影に傷を負っている様子はなく、その身には返り血一つさえもなかった。そして周囲の被害もない。

 

これだけで、影がとてつもない実力者であることがわかるだろう。

 

いや、影が倒した者たちが弱かっただけということもあるだろうか。しかしそれは間違いである。なぜなら彼らは、魔法省が誇る闇祓いなのだから。

 

その闇祓いが全員、影によって意識を刈られていたのだが……一人、影の足元で仰向けになっていた闇祓いが意識を取り戻していた。

 

「……ぐっ。な、ぜ……おまえは、死んだはずじゃっ……!」

 

「…………」

 

息も絶え絶えな闇祓いのその問いに、影は沈黙と……。

 

「がはっ!?」

 

杖の一振りで答えた。

 

再び闇祓いが意識を闇の中へと沈める中、ここで初めて影が口を開いた。

 

「眠れ。目覚めたときには、ここでの記憶は忘却の彼方だ」

 

その声は底冷えのするような男のものだった。

 

「ひぃぃぃ!!」

 

一部始終を目にしていた小太りの男は一際大きな悲鳴をあたりに響かせる。その耳障りな悲鳴に影はフードの奥に隠れている眉をひそめた。

 

「それ以上喚くな。二度と喚けなくしてもいいんだぞ」

 

「ひぇ……っ!」

 

フードの奥から除く鋭い殺気と脅しに、小太りの男は咄嗟に両手で口元を覆った。

 

ようやく静かになったドブネズミにフードの男は短く息をつく。そして無造作に杖を振るった。

 

すると、足元の闇祓いの頭部に淡い光が宿る。これでこの闇祓いはここでの記憶は失った。フードの男は次々と杖を振るい、忘却呪文をあたりに転がる闇祓いたちへと施していく。

 

最後の一人に呪文をかけ終えて、男は一息ついた。

 

 

 

瞬間、少し強めの風が吹いた。

 

 

 

風はあたりに漂う血臭を払うとともに、男のフードをもなでた。

 

フードが捲れ、男の素性が明らかとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこにあったのは……傷だらけの顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フードの男は顔が晒されたことに構うこともなく、目の前で情けなく怯える小太りの男へと告げた。

 

「ピーター・ペティグリュー。我らの主がお呼びだ」




こうして、昏き闇は静かに動き出し……伝説の序章が幕をあげる。
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