その日も朝から暗い雲が空を覆い、今にも雨が降ってきそうだった。馬車とはいえ、遠出をするにはあまり嬉しくない天気だ。
王家の紋が入った、昨日よりも大型の御者付き馬車に、蒼の薔薇とクライム、ラナーが乗り込む。今回は遠出ということで、メイドが三人ラナーの世話役として少し小型の馬車で同行し、馬に乗った騎士も四人付いている。
「さてと、ラナー。そろそろ、今回の遠出の目的を教えてくれてもいいんじゃないかしら?」
馬車が王都の門を抜け、しばらく舗装されていない街道を進んだ頃、ラキュースが口火を切る。何しろ、ラナーは、詳しい話は馬車の中でといったきり、城では行き先の説明などを全くしてくれなかったのだ。もっとも、ラナーの周りには常にスパイ役を兼ねたメイド達がいるのだから無理もない。それだけ今回の件は貴族たちには知られたくない用事ということなのだろう。
「そうですね。ここなら誰かが聞いているということもないでしょうから……。実は、お兄様にレエブン候の説得を頼まれたのです。流石に、今お兄様が王都を離れるわけにはいきませんし、この状況下でレエブン候のお力添えを頂けなければ、王国はいつ終わりを迎えてもおかしくはありません。しかし、今派閥を牛耳っている貴族達にとってはレエブン候の政務復帰は面白くないことでしょう。ですから、城の中ではお話しすることができなかったのです」
珍しく真面目な顔をしてラナーは答えた。
「なるほど。それは私も同意だな。あの馬鹿貴族どもをなんとか抑えるにしても、レエブン候がいなければどうにもならんだろうし、連中に邪魔されれば上手くいくものもいかなくなるだろうしな」
「全くだわね。同じ貴族として、忸怩たる思いよ。無能な貴族を粛清した帝国の英断は、王国も見習うべきだと私ですら思ってしまうもの。魔導国のように最初から貴族なんていなければ、王国もここまで酷いことにはなっていなかったかもしれないわね」
イビルアイとラキュースの言葉に他の面々も同意したのだろう。馬車の中に苦笑が洩れた。
「そうすると、今回の目的地はエ・レエブルってことか? おとなしくレエブン候も首を縦に振ってくれればいいんだが、これまでザナック王子だって何度も打診はしていたんだろう? それで戻ってくるっていうかねぇ?」
ガガーランの疑問に、ラナーも同意する。
「ええ、お兄様もそれは心配されていました。でも、だからといって、何もしないでいるわけにはいきません。王国の未来の為ですもの。それにあのお優しいレエブン候のこと。きっと今の王国の現状は憂いていらっしゃるはず。ですから、私が行くんです。駄目でもやってみなければ未来は変わりませんから!」
ラナーは重苦しい雰囲気を吹き飛ばすかのように、明るく微笑んだ。
「そうね。確かにやってみなければ何も変わらないわ。ラナー応援してるわよ。頑張ってね」
「はい! 私にできることはこのくらいですから」
可愛らしいパンチポーズを取るラナーに、蒼の薔薇もクライムも励まされた気分になった。このまさに小さな希望とも言うべき姫も、祖国である王国もなんとしても守らなければ……。ラナーの微笑みには、そんな風に思わされる独特の魅力があるのだ。
(本当に、この方こそ王国の至宝である『黄金』。そして、畏れ多くも自分の愛する――)
クライムは自分には手の届かない眩しいものが目の前にあるかのように、ラナーを見つめる。そして、その視線に気がついたのか、ラナーがクライムに微笑み返す。
「クライム、ずっと私の側にいてくださいね? 約束ですよ?」
「も、もちろんです。この生命にかえても……!」
いつものクライムなら、ラナーのそんな言葉に顔を真っ赤にして、うつむくところだろう。しかし、今日のクライムは、どことなく強い意志が感じられ、普段よりも大人びてみえた。
馬車の外ではポツポツと雨が振りはじめ、しばらくすると土砂降りに変わった。
幸せそうな二人を余計な口をはさまずに見守っていた蒼の薔薇だったが、もう何年にも渡って王国を覆っている分厚い雲は、力を合わせて前に進もうとしている、この二人の前に暗い影を落とし、あたかも運命を妨げようとしている、そんな気がしてならなかった。
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エ・レエブルに向かう道は惨憺たるものだった。
明らかに耕作している気配のない畑。焼き討ちにあったような形跡のある、半分焼け落ちて打ち捨てられた村々。人が残っている町でも、門の近くには食い詰めて村から逃げて来たらしい人々が、ありあわせの材料で小さな掘っ立て小屋のようなものを作り、野宿をしている。人々の顔は頬がこけ、絶望感から打ちひしがれている者も多い。王家の紋の入った馬車が通り過ぎるのを、憎々しげに見ている者さえいる。流石に石までは投げられなかったが。
本来なら、途中の無事な町か村で一泊したいところだったが、この様子では逆にラナーを危険に晒しかねない。そのため、馬車は近くに集落がない場所を選んで野営するしかなかった。その間、蒼の薔薇と騎士達が交代で周囲の警戒に当たったためか、それともたまたま雨が強かったせいか、流石に襲ってくるような不埒者はいなかった。
気の休まらない夜が明け、早々に一行は出立する。朝方まで土砂降りだった雨も若干小雨になっている。今のうちに少しでも距離を詰め、エ・レエブルにたどり着きたい。そんな思いが自然と全員に共有されていた。かのレエブン候の領地であれば、内政に力を入れている候のこと。荒れた土地も減るだろうし、かなり安全になるはずだ。
王女ですら安全に自国を歩くことができない。突きつけられたその冷たい現実に、普段は強気の態度を崩さないメイド達ですら言葉少なになり、心なしか顔が青ざめているようだ。
半日ほど馬車をひたすら走らせると、舗装されていない街道が綺麗な石畳に変わる。それが、レエブン候の領地であるエ・レエブルに近づいてきたことを示す合図だ。王国でまともに街道整備に取り組む貴族は数少なく、その中の一人がレエブン候だった。
あと一時間ほどでエ・レエブルという場所で、ラナーは一旦馬車を止め、騎士を一人先触れとして送る。
「今夜は、無事にエ・レエブルで過ごせそうですね」
疲れたような顔をしている全員を励まそうと、いつもよりも明るい声でラナーが笑う。
「そうね、今日は暖かいベッドで休みたいものだわ」
「全くだ。今回の旅はろくなことがなかった。今夜はゆっくりさせてもらいたい。面倒くさい話はラナー王女に全部任せる」
「あら、酷いです。私一人で頑張らないといけないんですか?」
可愛らしく頬を膨らませたラナーのおかげか、ようやく馬車の雰囲気がいつもの調子に戻ってくる。
「冒険者は、政治には首を突っ込まないのが約束だからなぁ。頑張りたくても頑張れないだろ?」
「それに、私達、道中は頑張った。今度はラナーの番」
「お土産も期待してる」
「ふふ、交渉が上手くいくように祈っていてくださいね。あと、レエブン候の館までは一緒に来てください。もちろん、クライムもですよ?」
「わかりました。お任せください、ラナー様」
イビルアイは、迷わず笑顔で返事をするクライムに妙に男らしい頼もしさを感じ、ふと王都でのモモンの姿を思い出す。そして、常にクライムが側に付いているラナーを少しだけ羨ましく思う。
他のメンバーには気が付かれないように指輪に触れると、エ・ランテルで抱きしめてくれた彼の細い腕が、今も自分を優しく包んでくれているように感じる。
(そうだ。今、彼が側にいないのは、自分がまだその時期じゃないと決めたからじゃないか。だからこそ、彼にもう一度会った時にもっと相応しい存在でいられるように、私は王国で精一杯頑張るんだ……)
蒼の薔薇の皆が笑って、それぞれが違う道を行くことを決めるその日まで――。
(大丈夫。私だって、いつも彼が側にいてくれている。私はもう一人じゃない)
そう思うだけで、とても強い力が自分を支えてくれているように感じる。アンデッドである自分は体内に熱を感じられるわけではないが、それでも、左手の薬指から何か暖かいものが自分の心の中に流れ込んでくるのがわかる。イビルアイは、そっと左手を握りしめた。
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レエブン候にようやく会えることになったのは、夕暮れも間近な時間だった。
使者として送った騎士の話では、当初はラナーに会うこともかなり渋っていた様子だったが、第三王女直々の訪問ということもあり、流石のレエブン候も折れざるを得なかったらしい。
レエブン候の館は、豪勢ながらも派手すぎず、落ち着いた佇まいで、レエブン候の実直な人柄を思わせるものだった。
蒼の薔薇とクライムはレエブン候の館までは共に行ったものの、レエブン候の部屋に通されたのはラナーだけで、残りの六人は案内された応接間に取り残され、出された紅茶を飲んでいた。
「ラナー様、大丈夫でしょうか?」
不安そうにそわそわとしているクライムにラキュースは励ますように声を掛ける。
「信じるしかないわ。ラナーを。そもそも、レエブン候を説得できる可能性がある人なんてラナーくらいしかいないもの。私達が一緒に行っても意味なんてないわ」
「そうだな。あくまでも、俺達は王女様をここに無事に連れてくるまでの護衛だ。後の仕事は任せるしかねぇ。こんなことくらいで動揺するから童貞なんだよ。もっとじっくり構えて座ってな」
「は、はい!」
ガガーランの言葉で少し落ち着いたのか、クライムはじっと主人を待つ犬のような様子になり、ソファーの隅に大人しく座っている。他のメンバーは紅茶を飲みながら、当たり障りのない世間話をしている。
イビルアイはそんな皆の様子をちらっと見てから、出された紅茶には手を付けずに窓へ向かうと、雨がまだ降り続く外の様子をぼんやりと眺めていた。
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レエブン候の執務室は、王都にある屋敷にあるものよりも若干広めではあるが、やはり机の上には多くの書類が積み上げられ、綴られた資料が、部屋に整然と置かれている複数の本棚に綺麗に並べられている。自分の領地で起こっていること全てを把握していると言われても、誰もがそれを信じるだろう。特にレエブン候の手腕を知っている者ならなおさらだ。
その場所で、王国第三王女ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフと、エリアス・ブラント・デイル・レエブンは約二年ぶりに直接対峙していた。
レエブン候は恭しくラナーにお辞儀をすると、ソファーを勧め、その反対側に自分も座る。メイドが一人部屋に入ってきて二人の前に紅茶を並べると、そのまま静かに一礼して退室していく。
メイドが扉を閉めて少ししてから、ラナーがおもむろに口を開いた。
「お久しぶりですね、レエブン候。もしかしたら、お会いいただけないかもしれないと思いましたが……」
「ご冗談でしょう。ラナー殿下。直々にご訪問いただいたのに、門前で追い返すなどできるはずもないではありませんか」
口調は二人とも丁寧だったが、レエブン候の眼光は遠慮するところもなく鋭いもので、ラナーはそれを一見慈愛に満ちたような眼差しでかわしていた。
「それでも、一度は追い返そうと思ったのでしょう?」
「そんなことはありませんよ。ただ、このようなあばら屋に殿下をお迎えするのは失礼かと思ってしまったまでのことです」
「ふふ、それならそういうことにしておきましょうか。こんな話をしにきた訳ではないのですし。どのみち、私の用件はお分かりなのですよね?」
ラナーは無邪気そうな微笑みをレエブン候に向けるが、逆にその笑顔でレエブン候は身構えた。
「さて……。何のことやら私には分かりかねますね。王都を離れてかなり経っておりますし。何分田舎暮らしが板に付いてしまったものですから」
レエブン候は肩を竦めた。
「そうですか……。では、単刀直入に申し上げますね。王都に戻り、政務に復帰してください、レエブン候。これは、私だけではなく、お兄様が強く望んでいらっしゃることでもあります」
「お断りいたします。ラナー殿下。この件については、何回言われたところで、考えを変えるつもりはありません」
固い決意が浮かぶ表情で、レエブン候は拒絶した。
「レエブン候、どうしてそんなに復帰することを頑なに拒むのですか? 貴方は長いこと実質的に王国を支配していらしたはずですし、ザナック兄様にも完全に信用されていたではありませんか。ザナック兄様が即位すれば、貴方はその地位を盤石のものに出来たでしょう。それなのに、なぜそうなる前に引退することを決めてしまわれたのですか?」
レエブン候は少しだけ逡巡し、やがて口を開いた。
「……確かに、昔は権力に執着していました。それは否定しません。しかし、それがいかに浅はかな考えなのか私は思い知ったのですよ。あの戦争……いや、虐殺でね」
「レエブン候、貴方は魔導王陛下が怖いのですか?」
ラナーの微妙に含みのある言葉に、激昂したレエブン候は立ち上がり、目の前にあるテーブルを叩きつけると怒鳴り声をあげた。
「あなたは!! あの惨状を見ていないから、何とでも言えるのです! 私は、とにかく、あんな化物とは関わり合いになりたくないし、私が今望んでいるのは、息子に無事この領地を譲ることだけだ! 王政に関われば、いずれあの化物の相手をする羽目になる。そんなのは、私は御免こうむる! わかったら、帰って、もう二度と私の前には姿を現さないでくれ!」
レエブン候は肩で息をしながら、ラナーを睨みつけていたが、やがて力無く椅子に座り込んだ。
「貴方の言いたいことはわかりました、レエブン候。しかし、貴方は大事なことを見落としてはおられませんか?」
「大事なこと? 私が何を見落としていると言うんです?」
「このままでは、王国は遅くともあと一年以内に内乱になるでしょう。そうすれば、どうなると思いますか?」
「…………」
「もはや、帝国は魔導国の属国ですし、法国も含め、現在王国に対して友好的な国などほぼありません。それにも関わらず、去年の冬の食糧不足を乗り切れたのは、魔導国から実質的には援助と言ってもいい廉価での穀物の大量輸入ができたからこそ。つまり、今一番王国に同情的なのは、貴方が仮想敵と見なしている魔導国なのです」
「……殿下、要するに、内乱になれば、魔導国が介入してくると言いたいのですか?」
「間違いなくそうなるでしょう。困っている隣人を助けるため、と言えばいくらでも大義名分は立つでしょうし、それに反対できる国も現状見当たりません。そして、レエブン候、その時に、何もせずに引きこもっていた貴方の領地が無事に安堵されると、本当に思っておられるのですか?」
レエブン候は苦々しげに唇を歪ませる。
「……全く思えませんな」
「それに。実際のところ、私は、魔導国と手を組んでもいいと思っています」
「殿下!? な、何を仰るんです!?」
あまりにも信じられないことを聞いた衝撃でレエブン候の顔は真っ赤になる。その彼の顔を面白そうに眺めながら、ラナーは話を続けた。
「別に驚くこともないでしょう。レエブン候。もはや、王国は自力で復興するのは困難なところまで来てしまっているのです。レエブン候の領地では今年の冬も問題なく越せるでしょう。しかし、それ以外の場所では大規模な飢饉が間違いなく起こります。そうなれば、大勢の民が死ぬでしょう。少なくとも、カッツェ平野で亡くなった人数以上の犠牲を出して」
「…………」
レエブン候は穏やかな笑顔のままのラナーを睨みつける。
「そうなったら王国はおしまいです。であれば、魔導国に頭を下げて、帝国のように庇護下に入れて貰ったほうがよほど民のためだとは思われませんか? 帝国では以前とほぼ変わりない程度の自治権を認められていると聞きます。レエブン候。このまま滅びの道を辿り、大勢の無辜の民を見殺しにするのと、一時の屈辱に耐え、民と国を、そして貴方の領地の未来を守るのとではどちらを選ばれるのですか?」
レエブン候は、しばらく苦悩に満ちた表情で動かなかったが、やがて声をなんとか絞り出すようにして答えた。
「……殿下、わかりました。恐らく、その道しか王国には残されていないのでしょう……」
「貴方ならわかってくださると思っていました、レエブン候。では、交渉はこれで終わりということでよろしいですか?」
ラナーは、薔薇のような笑顔になって右手をレエブン候に向かって差し出す。レエブン候は、暫し逡巡したものの、諦めたようにその手を握り返した。
「全く、殿下には敵いませんな」
レエブン候は重苦しいため息をついた。
「それでは、なるべく早めに王都に戻ってきてください。事態は非常に深刻です。もちろん、レエブン候は状況は把握していらっしゃると思いますけれど」
「やはり、殿下にはバレていましたか……」
「もちろんです。こう見えても、いろいろ知る手段はありますからね」
ラナーの一見幼ささえ感じられる微笑みに、完全にお手上げといった風情でレエブン候も不承不承笑顔を返す。
「なるべく急ぎで出立致しましょう。ザナック殿下には、長きにわたる不在をお許し下さいとお伝えください」
「わかりました。それでは、王都でまたお会いしましょう」
レエブン候はソファーから立ち上がり、恭しくラナーに一礼をした。
佐藤東沙様、アンチメシア様、誤字報告ありがとうございました。