シャルティアとアウラは半分じゃれながらも、神殿周辺にまだ多少残っているアンデッドを片付けている。
アインズとイビルアイは、以前イビルアイの生家があったという場所に向かって一緒に歩いていた。瓦礫だらけの細い路地を何度も曲がり、たくさんの半壊した家を眺めながらしばらくいくと、イビルアイは半分崩れた小さな家の前で足を止めた。しかし、中に踏み込もうとはせず、元は入り口だったと思われる場所で立ち止まったまま動かない。
「イビルアイ、ここがお前の家なのか?」
「……多分、そうだと思います。私は事件を起こしてから、長いこと自分の家の中に隠れ住んでいた……。周り中アンデッドだらけで、話を出来る相手も誰もいないし。とにかく怖くて仕方がなかった。だから、なるべく外には出ないようにしていて……。この家の床の模様や、壊れたテーブルの形は、なんとなく記憶にあるものに似ている。……アインズ様、おかしいとお思いになられませんか? 他のものからすれば、私の方がよほど恐ろしい存在だったはずなのに」
イビルアイは家を見つめながら、自嘲するように笑った。それから左手の何かにそっと触ると、意を決したように中に足を踏み入れた。アインズも黙ってそれに続いた。
中は埃がつもり瓦礫が散らばってはいるものの、この都市の他の場所よりは比較的片付いていた。恐らく、まだこの家に潜んでいた頃に、イビルアイが多少は管理していたからなのだろう。
イビルアイは懐かしそうに家の中を見回して、壊れた食器らしいものを手にとったりしている。家の中のものは殆ど長い年月の間に朽ち果ててしまっているようだ。アインズも変わったものはないかと覗き込んではみたものの、手に取ろうと思えるようなものは何一つなかった。
ようやく一通り見終わって満足したのか、イビルアイが戻ってきた。
「……アインズ様、ありがとうございます。私の我儘に付き合ってくださって」
「気にすることはない。私もお前が住んでいた家というのに興味があったからな。……お前の家族というのはどんな人達だったんだ?」
「ごく普通の人達です。もう、あまり思い出せないですが。父と母、それに、弟……。皆、私が死なせてしまいましたが……」
「それは、悪いことを聞いたな。許してくれ」
「いいえ、アインズ様が謝るようなことじゃありませんから」
不意に何か思いついたように、イビルアイはアインズを見た。
「アインズ様には、その、ご両親とか、いらしたのですか?」
アインズは一瞬答えに詰まった。鈴木悟には両親はいる。しかし『アインズ』にいるか、と問われると正直よくわからない。
(俺というのは一体どういう存在なんだろう。少なくとも、もう人間じゃない。それに、この世界は俺の生まれた場所でもない。そういう意味では、アインズには親などいないんだろう)
しかしイビルアイが求めている答えは、恐らくそういうことではないような気がした。だから、アインズは素直に答えた。
「まぁ、そうだな。両親がいた。かなり昔のことだが。二人とも死んでしまって、顔もほとんど覚えてはいない」
「そう……でしたか。すみません、悪いことを聞いてしまいました。許してください」
「気にするな、別にイビルアイが謝るようなことじゃない」
そこまでいって、ふとイビルアイと目が合い、イビルアイは泣いたものか笑ったものか迷うような笑い声を上げた。アインズも軽く笑い声を上げ、イビルアイの頭を軽く手でポンポンと叩いた。
「さて、そろそろ戻るか。いい加減、アウラもシャルティアも心配している頃だろう」
「そうですね。私も……、十分目的を果たせました。この家をもう一度見られただけで、私は満足です」
名残惜しげに一瞬家を振り返ってから、まっすぐに前を見て歩いていこうとするイビルアイの毅然とした姿は、アインズの目から見ても美しいと思えた。
アインズもすぐにその後を追い、イビルアイの隣をゆっくりと歩く。シャルティア達がいるはずの神殿へと向かいながら、アインズはイビルアイにちょっとした親近感を感じはじめていた。
お互い、大事なものと言えるようなものをあまり持っていない。誰もが当たり前のように持っているはずの故郷や家族すら……。普通だったら、もっといろんなものを持っていてもいいはずなのに。
(まぁ、イビルアイには仲間がいるけどな。共に冒険をして生きていける素晴らしい友人が)
そう思うと、アインズは無性に寂しい思いに駆られた。
イビルアイは歩きながら、古い街並みをじっと見ている。どこもかしこも瓦礫やアンデッドの死骸が散乱していて、正直酷い有様ではあった。
しかし、先程まで街全体を覆っていた濃い霧は嘘のように消え去り、崩れた建物や路地は久しぶりの陽の光で明るく照らされ、変に生臭い濁った臭いもかなり薄らいできている。この地に最初に足を踏み入れた時に比べれば、街にはある種の清々しさが漂っていた。それになんといっても、ここはイビルアイにとって大切な故郷なのだ。
(そういえば、アルベド達に新しい都市の建設場所の選定をと言われていたんだったな。さすがにこの荒れようだから、着手するまでにそれなりに時間はかかるだろうが、どのみちここは正式に魔導国の領土にする計画だった。だったら、いっそ、この場所に新たな魔導国の都市を作っても構わないんじゃないか? まぁ、エ・ランテルからは結構離れているし、途中に竜王国を挟んでしまうが、どのみち竜王国も属国になるんだし。それはたいした問題じゃないだろう)
むしろ問題は、誰に都市の運営を任せるかだ。
今のところ各属国はそれぞれの王にあたる人物を、領域守護者相当の地位の扱いとして、それぞれの領域の管理を委ねている。いずれ都市になるカルネ村に関しては、現村長であるエンリ・バレアレを新都市長に任命して、同様の地位を与えればいいだろう。
だが、ここには廃墟となった土地があるだけで、今の所なにもない。完全にゼロからのスタートだ。だとすれば任せるべきなのは、やはりこの地に詳しくなおかつ思い入れがあり、ナザリックとして信頼できる人物ということになるだろう。
アインズは、ゆっくりと自分の脇を歩いているイビルアイを眺めた。
(もし、俺はリアルでやり直せると言われたら、あの場所に戻って人生をやり直したいと思うんだろうか? 確かにユグドラシルは終わってしまったが、リアルでならかつての仲間達と再び出会える可能性は、この世界を探し回るよりも遥かに高いだろう。だが、今の俺は本当にそれを望んでいるんだろうか。ナザリックもNPC達もこの世界で経験したことも出会ったものたちも全て捨てて……)
アインズはしばらく考えたが、本当なら自分の故郷であるはずのリアルが、酷く遠い場所のように感じられた。
あの先のない汚れた世界。ひたすら何も考えずに働いて、使い捨てられて死んでいくのを待つだけの日々。そして、自分に輝かしい希望を与えてくれたけれど、それを何事もなかったように捨てて去っていったかつての仲間達。
(アインズ・ウール・ゴウンは俺の人生で何よりもかけがえのないものだった。そして、今は俺自身がアインズ・ウール・ゴウンそのもの。ユグドラシルがない今、アインズ・ウール・ゴウンが存在していける場所。それは……)
アインズはしばらく考え、一つの結論に至った。そして、脇を歩いているイビルアイをもう一度見た。
「イビルアイ。私から提案があるのだが、良いだろうか?」
「なんでしょうか? アインズ様」
不思議そうに自分を見上げたイビルアイの肩にアインズはそっと手を置いた。
「お前はこの地を再び人の住める地にするのが望みだと言っていたな?」
「……え? あの、それはそう思ってはいます」
「だったら、お前自身の手で、この場所をもう一度綺麗な国……いや、国とまではいわないな。いずれ魔導国の主要な都市になるような、そんな場所にしてみないか?」
「私が、ですか?」
「そうだ。魔導国では今人が増えてきていて、新しい都市をいくつか作らないといけないんだ。もちろん、他の場所も候補にはするつもりだが、お前にその気があるのなら、この場所に、まずは、そう、小さな村を作って人を集め、それから少しずつ大きくしていくんだ。もちろん、この瓦礫を片付けたり土地を清めたり、作物を作れるように土地を肥やしたり。やることはたくさんあるだろうが、それは魔導国が援助する。そうすれば、何年かかるかはわからないが、いずれここはお前が生まれた頃のように、賑やかな活気のある街になるに違いない。どうだ? イビルアイ」
「わ、私は……」
イビルアイはしばらく凍りついたように、アインズを見つめたまま動かなかった。
「私は……、私だって、そういうことを考えたことは何度もあった。でも、それはただの馬鹿な夢だと思って切り捨ててきた。私が作ってしまったこの呪われた場所が……ただの普通の街になって、もう一度、いろんな人が住んで、道を歩いたり、笑ったりするようになるとか、そんなこと……」
話しながら段々泣き声になってきたイビルアイは、そのまま両手で顔をおおうと肩を震わせている。アインズは優しくその肩を撫でた。
「イビルアイ、お前は自分自身の手で贖罪を果たした。少なくとも私はそう思う。お前のタレントは先程の行為で封印された可能性は高い。それは非常に勇気ある行動だ。私は常々、恩には恩を、礼には礼を返すべきだと思っている。だからこそ、お前のその勇気に応えたいと思うのだ。もちろん、蒼の薔薇の一員である以上すぐにという訳にはいかないだろう。だが、どのみちここの土地を浄化するだけでもそれなりに時間はかかるし、何より、我々には時間はいくらでもある。そうじゃないか?」
しばらくイビルアイはそのまま泣いているかのようだった。しかし段々落ち着いてきたのか、身体の震えが落ち着くと、ゆっくりとアインズを見上げ、小さく頷いた。そして、おもむろにその場に跪いた。
「……ありがとうございます、アインズ様。必ず、この場所を前のような、いや前よりももっと素晴らしい街にしてみせます」
「イビルアイ、別にそんなことはしなくていい。先程も言ったように、これは魔導国にとってもメリットのある話なのだから」
アインズはイビルアイに手を差し出して、立つのを手伝った。イビルアイはそのままアインズの手を握ったまま、アインズを見上げていた。なんとなくイビルアイが仮面の下で、はにかんだような笑みを浮かべているような気がして、どことなくくすぐったい気分にかられる。少しばかり焦ったアインズは、ふとイビルアイが竜王国に来る前に話していたことを思い出した。
「そういえば、イビルアイ。お前は私に話があると言っていたな。一体何だったんだ?」
「あ! そうでした! アインズ様にどうしてもお話しなければならないことが……。実は、アゼルシア山脈を探索していて、偶然、不思議な場所を見つけたのですが、それが、どう見ても元ぷれいやーの住んでいた場所のように思われ……」
「なんだって!?」
流石のアインズもイビルアイのもたらした情報は全く予想の範囲外だった。激しく動揺し、精神が沈静化された。確かにそういう情報であれば、イビルアイが他の守護者の前では話したくなかった理由もわかる。アインズは逸る心を抑えた。
「……どういうことなのか、詳しく話してくれないか?」
イビルアイは、その場所をどうやって見つけたのか、そして、中で見たものについてアインズに詳しく話して聞かせた。そして、最後に自分の荷物をあさると、例の洞窟で見つけた本と封筒を引っ張り出し、それをアインズに渡した。
「アインズ様、これを。私にはあまり読めないのですが、ゆぐどらしるの文字が書いてあったので持ってきました。アインズ様なら中身をお読みになれるのではありませんか?」
(まさか、誰かギルドメンバーのものだったりしないだろうか)
アインズはそんなことはありえないと思いつつも、イビルアイから本を受け取り、震える手でその本を開いた。
それは手書きの日記のようだった。書いたものの名前がどこかにないか探したが、それらしいものは特になく、文字もアインズが覚えている誰かのものとは違っている。どうやらこれがギルメンのものではないことに落胆しつつも、アインズはページをめくった。
未知を探求することに楽しみを感じて、ユグドラシルを必死でプレイしたこと。同じ志を持つギルドメンバー達と、誰も見つけていない場所の探索に明け暮れたこと。そんな中、一つのワールドアイテムを発見したこと。しかし、その後徐々にギルドメンバーはログインしなくなってきて、ユグドラシルの最終日にギルドにログインしたのはギルドマスターである自分一人だったこと。
それでも、最終日には未だユグドラシルでも辿り着けていない場所で最後を迎えようとひたすら山を登っていたところ、強制終了時間を迎えてもログアウトしなかったこと。人間種であったその人物は、初めは現実とはまったく違う見たこともない美しい世界に喜びを感じ、世界をひたすら探索して歩くことに生きがいを感じていたこと。しかし、何十年かが過ぎるころには身体も満足に動かなくなり、家族も友達もいないこの世界に絶望したこと。必死でリアルに戻る方法を探したが、どうしても見つからなかったこと。
『このまま、自分は一人きりで死んでいくのだろう。しかし、その恐怖に自分は耐えられそうもない。だから、自分はこの世界で一番愛した場所に行き、ギルドメンバーとの冒険の証でもあるワールドアイテムを持って、そこで死ぬつもりだ。そう、塩の味が全くしないあの海の真ん中で。美しいが、ここが本当に異世界であることを感じさせるあの場所で。もし、この本を見つけたユグドラシルプレイヤーの君、一緒に挟んである封筒には、自分がこの世界で探索した地の地図が書いてある。良かったら、君のこの世界での旅に役立てて欲しい。そして、心の弱い自分ではダメだったが、君が良き人生をこの世界でまっとうすることを願っている』
本に挟まれていた古びたメモには、アインズにはよくわからない文字だったものの、恐らくこの世界での日付と「今日リアルに旅立つ」という日本語の一言だけが書かれていた。
読み終わったアインズはしばらく呆然と立ちつくしていたが、内容を理解するにつれ思わずその場に崩れ落ちるように座り込み、乾いた笑い声を上げた。
ようやく、プレイヤーに繋がるはっきりとした痕跡を手に入れたと思ったのに、これでは、振り出しに戻ったも同然だ。
いや、振り出しではない。少なくとも、確実に一人は自分よりも前に転移して、そして孤独に死んでいったことがわかったのだから。
(やはり、今、この世界で生きているプレイヤーは自分一人なんだろうか。ギルメンが誰か一人くらい来ているというのは甘すぎる期待だったのか……)
泣けるものならアインズは泣いていたかもしれない。
しかし、このアンデッドの身体ではそんなことは出来ないし、哀しみなのか絶望なのかはわからなかったが、自分の心を覆う強い感情も次の瞬間何もなかったかのように消えていく。何度も何度も生まれては消えていく感情の波に翻弄され、アインズは普段はありがたく思うアンデッドの精神にも、より絶望感をあおられた。
もしかしたらギルメンの誰かが来ていないだろうかと何度も考えた。終了時間間際までいたヘロヘロか、それとも、自分の呼びかけに応えた誰かが直前にログインしようとしてくれようとしたかもしれないと。そのために、
この日記を書いたプレイヤーに、アインズはなんとなく心当たりはあったが、彼は恐らくギルド拠点もなく、仲間達の残した
いや、人間種ならまだ寿命も短いし、自分のようにアンデッドの精神に引きずられるということもないだろう。そういう意味では、彼はまだマシかもしれない。だが自分は一人きりで、寿命もない永遠の時を生きていかなければいけないのだ。
もう既に鈴木悟だったモノはほとんど残っていない。人間だった頃に普通に感じていた気持ちはとうになくしてしまったし、リアルのことだって半ば忘れつつある。あるのは、アインズが持つナザリックやギルメン達に感じる抑えきれない執着だけだ。
そんな自分が……まだほんの少しだけ残っている『鈴木悟』の残滓すらも消えてしまったら、一体どうなってしまうんだろう。両親のこともリアルのことも、そして愛するナザリックや仲間たちのことすら完全に忘れてしまうのだろうか。
たった一人で、何の希望もなく、ただの
アインズは、静かに、眼の前に広がる崩れた廃墟の都市を眺めた。
――もしかしたら、この光景を未来の自分が作り出すのかもしれない。それこそ、何もかも跡形もなく破壊し尽くして。その時自分は泣くのだろうか。それとも……
「アインズ様……?」
イビルアイの心配そうな声が聞こえる。しかし、今のアインズはそれに応える気持ちになれなかった。
「アインズ様」
イビルアイの手がゆっくりと自分の骨の手に触れる。お互いに温もりなどない身体だが、触れられたことで何故か少しだけ暖かいものを感じたような気がする。
「アインズ様!」
イビルアイが自分の身体に真正面から強くしがみついてきて、アインズはやっと我に返った。
「何か悪いことが書いてあったのか? それとも、もしかして、知り合いだったのか……?」
どれだけ自分を心配してくれていたのか、さすがのアインズでもよくわかるくらいイビルアイの声は震えていた。そして、イビルアイの体が触れているところから、流れ込んでくる何かが自分の心を少しずつ癒やしてくれるように感じる。アインズはイビルアイをそのまま抱きしめた。その暖かさが少しでも自分に残っている鈴木悟に届くように願いながら。
「ああ、すまないな。少し考え込んでしまったようだ。いや、知り合いというほどの相手じゃない。それに、悪いことが書いてあった訳でもない。……イビルアイ、一つだけ聞いてもいいか?」
「なんでしょうか?」
「お前が知っている範囲でいい。今、この世界にいるプレイヤーは……私一人なのか?」
イビルアイは軽く息を飲んだ。それから、しばらく考えてから、落ち着いた声で答えた。
「以前ツアーから聞いた話だが、ぷれいやーの現れ方には何種類かあるらしい。一度に複数現れることもあるし、単独でくる場合もある。そして、アインズ様が現れる前に来たぷれいやーは恐らく既に全員死んでしまっているはずだ。……これは私の推測でしかないが、ツアーの話しぶりからしても、今この世界にいるぷれいやーはアインズ様だけだと思う。もちろん、確実じゃないが」
「そう……か。そうだよな……」
アインズは乾いた声で呟き、イビルアイは再びアインズを抱きしめる手に力を入れた。
「でも、今はいなくても、また次の百年後には別のぷれいやーがきっと現れる。誰がどんな風にやって来るかはわからないが。この世界はそういうところなんだから。……アインズ様はやはり、ぷれいやーと会いたかったのか?」
「プレイヤーというより、ギルドメンバーに会いたかったんだよ、イビルアイ。笑うかも知れないが、私には他に何も持っていないんだ。確かに、
アインズは自分を抱きしめてくれているイビルアイを見ながら、なぜこんなことを自分はイビルアイに話してしまっているのかと疑問に思った。しかし理由はわからなかったが、NPCたちではどうしても埋めることの出来ない心の隙間を、これまでの何ヶ月、いやもしかしたら、そのもっと前から、イビルアイは確かに埋めてくれていたのかもしれない。今、彼女がそうしてくれているように。
こうして誰かに優しく抱きしめられるというのは、それだけでも不思議と気持ちが良いものなのだ、ということをアインズは初めて感じていた。思い返せば、自分の両親は余りにも忙しすぎて顔を見る暇もほとんどなかったし、こんな風に抱いてくれたことはなかったようにも思う。
「アインズ様、私がこんなことをいうのは、失礼かもしれない。それに、もし、これを聞いてアインズ様が不快に思われたのなら、忘れてくれてもいい。でも……、私は、アインズ様の側にずっといたい。それこそ、千年でも、万年でも。アインズ様の……その、仲間の人達がこの世界にやって来たとしても。アインズ様がそれを許してくれるなら、私は絶対に側を離れない。約束する」
「イビルアイ……」
アインズは、突然何かが腑に落ちた気がした。どうして、自分はイビルアイをどことなく気に入っていたのか。なぜ、イビルアイがいないと寂しいような気がしてしまっていたのか。
(ああ、そうか。俺は……イビルアイに、共に歩んで欲しかったのかもしれない。ただの下僕や家臣ではなく。対等の友人? いやそれとも違うか? 仲間……?)
アインズはもう一つの選択肢を更に思いついて、一瞬パニックに陥り、即座に精神が沈静化された。しかし、自分の中にいつからか存在していた気持ちに気づかずにはいられなかった。
「ああ、そうだな。イビルアイさえ良ければ、ずっと俺の側にいてくれないか? ただ、俺は正義でもなんでもないし、いつか、今はまだほんの少しだけ残っている自我をなくして、世界を滅ぼすただの化物になってしまうかもしれないが……それでもいいのか?」
イビルアイはくすりと笑い、アインズを抱きしめている腕に更に力を込めた。
「大丈夫だ。その時は、私も一緒に化物になろう」
「そうなのか?」
「ああ、そうだとも」
二人はしばらく顔を見合わせると、明るい笑い声を上げた。――それから、アインズは震える手で、そっとイビルアイの仮面を外した。イビルアイは一瞬小さな声をあげたが、抵抗はしなかった。
久しぶりに見るイビルアイの素顔は、若干戸惑いながらも嬉しそうに頬が紅潮していた。綺麗な赤い瞳は、自分をまっすぐに見つめている。
アインズは自分が今からしようとしていることを考えて激しく緊張したが、それはありがたいことに自然と沈静化する。それからアインズは思いっきりぎこちなく、初めて自分の意志で誰かにキスをした。
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神殿前に戻ってきたアインズとイビルアイは、掃討を終えて時間を潰していたシャルティアとアウラと合流し、竜王国へと帰還すべく魔獣に乗り込んだ。
その時、空から一人の蛙頭の男がコウモリのような翼を大きく広げて舞い降りてくると、アインズの前に跪いた。
「デミウルゴスか。どうした、私達はこれからちょうど竜王国に戻るところだったが」
「はい、まずはご報告から。一つ目ですが、ビーストマンの国は全て魔導国の支配下に入りました。現在は、コキュートスがビーストマンの国全体を管理しております」
「ほう、早かったな。コキュートスの今回の働きぶりは見事だった。後で褒めてやらねばな」
「はい、コキュートスもさぞや喜ぶことでしょう。それと二つ目ですが、竜王国とは近々属国に関する諸条件について詳しい話し合いを持つことになりました。草案についてはどのように……?」
「草案についてはアルベドとデミウルゴスに任せよう。二人の案がまとまったら、見せてくれればよい。ああ、ただ、ドラウディロン女王との婚姻に関しては、条件には入れないようにしてくれ」
「畏まりました。そのようにいたします。それと朱の雫は既に魔導国に向かったそうです」
「そうか、それは何よりだ。彼らは恐らく魔導国でもかなりの活躍をしてくれるだろう」
「おっしゃる通りかと。それで、アインズ様、その……」
そこでデミウルゴスは、一旦躊躇するように言葉を切り、不審に思ったアインズは先を促した。
「先日の、私への褒美の件でございますが」
「ほう? ようやく決めたか。それで、何にするのだ?」
デミウルゴスは珍しく強い意志を感じさせる視線でアインズの顔を正面から見た。
「私の望みは、アインズ様のお世継ぎの顔を見せて頂くことでございます。他には何も望みません」
「…………えっ?」
アインズは思わず間抜けな声を上げた。しかし、デミウルゴスは畳み掛けるように言葉を続けた。
「お相手に関しましては、アインズ様の御心のままに。私としてはどなたでも思うところはございません。ですから、どうか私にアインズ様の御子を抱かせてくださいませ」
そういうと、デミウルゴスは跪いたまま深く頭を下げた。そして、それと同時に微妙に熱を帯びた視線が複数自分に集まって来るのを感じる。さり気なく見ると、シャルティアは当然として、何故かアウラやイビルアイも変に慌てているようだ。
アインズは自分の大きな失策に気が付き青くなった。なぜ、あの時、褒美は物品に限るといわなかったのか。いや、それよりもアインズは、デミウルゴスがしている大きな勘違いをこの場で正すべきかどうか激しく悩んだ。正直男としてはこんなことを人前で話したくはないし、部下に知られたいことでもない。しかし、言わぬは一時の華とかいうのだったか、とにかく一度口にしてしまえばそれで全て丸く収まるはずだ。
「あー、その、デミウルゴス。お前に話していなかったことがあるのだが……」
「なんでございましょうか?」
「その……私はだな、子どもを作ることは……不可能だと思う。お前の願いを叶えてやれないのは非常に残念ではあるが、こればかりはどうしようもない。だから、他のものにしてくれないだろうか?」
「いいえ、アインズ様、私はこの件ばかりは譲るつもりはございません。では、アインズ様が御子をなすことがお出来になれるのであれば、私の願いをお聞き届けくださるのですね?」
「えっ? ああ、まあ、そうだな?」
アインズは、曖昧な返事をした。
確かに方法は全くないわけではないだろう。しかし出来ることなら、それらの手段は緊急事態の対策用として温存し、自分の子どもなどというつまらないことに使ってしまいたくはなかった。何より、強い効果を持つものほど使える回数は限られているのだ。
「承知いたしました。では、アインズ様、このデミウルゴス、なんとしてでもアインズ様にお世継ぎを作って頂けるよう努力させていただきますので、アインズ様にも御協力を賜りたいのですが、それはよろしいでしょうか?」
(御協力ってなんだ?)
アインズはデミウルゴスを問いただしたかった。しかし、詳しいことを聞いてしまうと墓穴を掘りそうな気がしてならなかった。
「わかった。では、何か必要なことがあれば言うが良い。全てとは限らないが、努力しよう」
「有難き幸せでございます」
顔をあげたデミウルゴスの笑顔は非常に晴れやかで、アインズはどうしても、デミウルゴスの策に嵌められたような気がしてならなかった。
「そうだ。デミウルゴス、私の方からも話しておく必要があることがあった」
「なんでございましょうか?」
「この地を整備し、新しい魔導国の都市を作ることにする。そしていずれ状況が整ったら、都市の管理者としてイビルアイを任命する。構わないな?」
デミウルゴスは小さく「左様でございましたか……」と声を洩らしたが、再びアインズに恭しく頭を下げた。
「全てはアインズ様御心のままに。確かにこの地であれば、整備さえすれば都市の立地としても問題ないでしょう」
「まぁ、かなり荒れているから、まずはアウラとイビルアイによる調査が終わってからの話にはなるが。だから実際に着工するのはかなり先の話にはなるだろう」
アインズとデミウルゴスの話を聞きながら、イビルアイはもう一度これまで打ち捨てられていた自分の故郷を眺めた。
(そうだ。ここはもう一度、いや、違うな。私はこれから、アインズ様と共に新しい故郷を作っていくんだ。作るだけじゃない。それを育て、私の力で守っていくんだ。それこそが、私が本当にやるべき贖罪でもあるんだろう)
そして、イビルアイは誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。
「ただいま……」
冬野暖房器具様、誤字報告ありがとうございました。
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第三章、最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。
日記は誰のものだったのか、アインズの問いにイビルアイはどう答えるのか、賛否両論あるとは思いますが、いろいろ考えた結果、私としてはこのような形での結末にしました。
どうでもいいことですが、この話はどうしても、アニメ三期の特典小説が出る前に書いてしまいたかったので、ギリギリ間に合ってよかったです。亡国の吸血鬼で明かされる真実とは異なる部分が山程あると思いますが、その辺は別時空の話ということで、思い切り笑い飛ばしてやってください。
この後についてですが、また二話くらい幕間をはさんで四章になります。
ただ、今回三章を書くのに二ヶ月以上かかってしまったので、四章の公開は来年三月とかになっちゃうかもしれません。
メインの物語としては四章で一応終わりのつもりなのですが、なんとなく四章ではこの物語の本当のラストまではたどり着けなさそうな気がしているので、その場合は、四章の後にエピローグをつける感じにする予定です。
よろしければ、最後までお付き合い頂けると嬉しいです。
お読みくださった皆様、そして感想、誤字報告、評価などくださった皆様、本当にありがとうございました。