後ろからは、まだ、にぎやかな笑い声がしている。
その輪から離れ、再び仮面を被ったイビルアイは、自分の前を行くデミウルゴスの後をついて歩いた。
デミウルゴスの鋼で鎧われた尻尾が、もの思わしげにゆらりゆらりと揺れている。
そうだ。この尻尾も……。
イビルアイは頭の中で、今目の前を歩く男の姿に、忘れようにも忘れられない不思議な形状の仮面を被せてみる。
それは、間違いなく、同一人物だった。
何故、という疑問が頭の中に溢れた。
あの時、アインズ様は、間違いなく王国を助けるためにあの場に来てくださったはずだ。
それに、レエブン候が冒険者組合を通して「漆黒のモモン」に指名の依頼を出したと聞いている。少なくとも、この件に関してレエブン候が嘘を言う理由はない。
アインズ様だって、同じ冒険者として自分の要請に耳を傾け、ヤルダバオトと対峙したはずだし、ヤルダバオトもアインズ様に本気で斬りかかっていたはずだ。
なのに……、それは真実ではなかったのか?
ただ一言、デミウルゴスに尋ねれば全ての疑問は解決するのだろう。
だが、それを口に出してしまったら全てが壊れてしまいそうな気がして、イビルアイはどうしようもなく身体が震えた。
(これじゃ、まるで、死刑宣告を待つ囚人のようだな)
自嘲気味に心のなかでつぶやくが、それはまさしく真実だった。
目の前にいる男は、何事もなかったかのように優雅に歩いていたが、第六階層の森を抜け、転移門へとつながる通路に入ったところで、急にピタリと立ち止まると、くるりと振り返った。ギクリとしたイビルアイも慌てて足を止めた。
彼我の距離は五メートルほど。デミウルゴスが自分を殺す気なら、ないも同然の距離だ。
既に無いはずの心臓がバクバクと音を立てるような気がする。
「イビルアイ。あなたは……、気が付いたんですね?」
デミウルゴスの妙に優しげな声に返す言葉もなく、イビルアイはその場に立ち尽くした。
違う、と答えようとしたが、それはできなかった。
口の中がカラカラに乾いて言葉が出ない。
なにしろ、目の前にいるのは、あの恐怖の魔皇、王国や聖王国に大惨事を引き起こした張本人、ヤルダバオトなのだから。
「まぁ、いずれはわかることだと思っていましたから、私としては別に構いません」
穏やかな物言いではあったが、眼鏡に隠れて見えないデミウルゴスの視線は鋭く、自分の仮面をも貫くように感じられる。
あの王国の事件の時もこうだった。
イビルアイの心の中では、数年前、アインズと初めて出会った運命の夜に感じた様々な思いが渦まいていた。
一足先に逃そうとしたのに、なすすべもなく無残に倒れたガガーランとティア。
自分の力では勝つことのできない強大な相手に立ち向かう絶望。
モモン――アインズへのどうしようもないくらい大きな恋慕。
そして湧き上がる『嘘だ』という言葉と、『何故?』という疑問。
逃げるべきだと何かが囁くが、そうしてはいけないと直感が告げていた。
心も身体も思うように動かない。ただ、デミウルゴスの視線を受け止めて立っているので精一杯だった。
「やはり、あなたは思いのほか度胸がある。そういう相手は嫌いではありません。察するに、あなたは理由を知りたいのではありませんか? それとも――」
デミウルゴスは感心したように言うと、軽く腕を組んだ。
「この私と戦いたいんですか?」
目の前の悪魔は不敵に笑い、その声に一段と力がこもる。
先程までは微塵も感じられなかった強烈な力の波動が容赦なく襲いかかってきて、イビルアイは思わず少し後ずさった。
そこにいるのは、普段の紳士然として礼儀正しいデミウルゴスではない。
紛れもなく、悪夢そのものの体現であるかのような焔の大悪魔、魔皇ヤルダバオトだった。
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(ヤルダバオトがデミウルゴス様だということは、あの時、モモン様……いや、アインズ様は私に嘘をついたのか? だとすると、エントマやナーベやメイド悪魔たちも全員グルだったということなのか? 私は……、アインズ様に騙されていたのか……?)
恐ろしい考えが頭の中をぐるぐると回る。
あの日、ただのゴミクズのように殺された大切な仲間のことを思えば、例え勝てない相手だとしても戦うべきなのかもしれない。
少なくとも、エ・ランテルでアインズに出会う前の自分なら、迷うことなくそうしていただろう。
しかし、これまでのデミウルゴスの振る舞いにも、アウラやシャルティアやアルベド、プレイアデス達の振る舞いにも、特別な悪意のようなものは感じられなかった。自分が危うく殺すところだったエントマですら、あの後、殺意を向けてくることはなかった。
それに……、なによりも、アインズが自分に嘘をついたとは信じたくなかった。
少なくとも、アインズが自分に話していないことはそれなりにあるのかもしれない。だが、これまでずっと自分に対して誠実に向き合ってくれていたと思う。
恐らく、このことだって、アインズに聞けば答えてくれるのかもしれない。
しかし……。
(私は何があってもアインズ様の側にいると約束した。それは、これから永遠に近い一生を、魔導国の、そしてこのナザリックの一員として生きていくということだ。アインズ様だけじゃない。アウラやシャルティア、それにアルベド様やデミウルゴス様とも一緒に。だからこそ、私は……、アインズ様からではなく、ヤルダバオト、いや、デミウルゴス様の口から、その真意を聞かねばならないんだ)
もし、その考えがアインズ様のためにならないと思ったら、その時に命を賭けてでも止めればいい。
「――何故だ? 一体どうして、あんなことをする必要があった? この……ナザリックの力があれば、王国を服従させることなど簡単にできたはずだ。王国だけじゃない。他の国だってそうだ。私が知る限り、今のこの世界で、ナザリックに対抗できるほどの力を持つものなんて、いいところ、真なる竜王くらいなものだ。それなのに、何故あんな事件を起こさなければいけなかったんだ? あの事件のせいで一体どれだけの人間が犠牲になったと思っている?」
イビルアイは恐怖で凍りついた心と身体を無理に奮い立たせ、覚悟を決めると、やっとのことで口を開いた。
「ふむ、いい質問ですね、イビルアイ。やはり、あなたは馬鹿ではないようだ」
「……!?」
一瞬、腹だたしく思ったが、デミウルゴスがその類まれなる知恵でアインズの補佐をしていることは、イビルアイでも知っている。
その口調にも自分を軽んじたような雰囲気はなく、単純に事実を言っただけのようだ。
「あらかじめいっておきますが、私は悪魔ですので、人間などという下等な生物に対して何らかの愛着を持っているわけではないし、いくら犠牲が出ようとも、それで心を痛めるなどということはありません。もっとも、我が敬愛すべき主であるアインズ様はそうではない。それに、私はなるべく綺麗な状態でアインズ様にこの世界を全て差し上げたいと願っています。ですから、これでも被害は最低限にしようと、心を砕いているつもりですけどね」
「……じゃあ、あれは、アインズ様のためだとでもいうのか?」
「もちろんですとも。他に何の理由があると思っているんです? 私の、いえ、私だけではありません。このナザリックに所属する者の願いは唯一つ。アインズ様に永遠に我々の上に君臨していただくこと。それを叶えるためなら、私はどんな手段を使うこともためらうつもりはありません。――イビルアイ、あなたには、我々のこの気持ちはわからないかもしれませんね。アインズ様は我々に残された最後の希望であり、忠義を尽くせる唯一の御方であり、存在意義そのもの。何があっても喪うわけにはいかないのです」
デミウルゴスのその言葉に、イビルアイは動揺した。
アインズを喪う。そんなことがそう簡単に起こるとは思えないが、万が一、そうなったとしたら、自分は正気でいられるのだろうか。
自分の心の奥底に封印したはずの冷たい暗黒がうごめくような気がする。
イビルアイは、自分の中の勇気を奮い起こして影を再び押し込めると、デミウルゴスをまっすぐに見返した。
「――たしかに、気持ちは異なるかもしれないが、アインズ様を喪いたくないのは私だって同じだ。しかし、だからこそ、物事にはやりようがあるはずだろう?」
デミウルゴスの口から軽い笑いが漏れた。
「なるほど、想定していたよりもずっと興味深いですね、あなたは。それだけ聡明なら、ヤルダバオトが起こした事件の意味も考えつくのではありませんか?」
「……事件の意味だと?」
「そうです。リ・エスティ―ゼ王国の事件では、私はこの世界の敵対者として広くヤルダバオトの名前を知らしめることができた。それに、結果的にではありますが、モモン様の名声をより高める一助にもなった。もちろん、それだけではありませんが。全てはアインズ様の御為であり、アインズ様がこの世界を支配するための布石です」
「――アインズ様の? じゃあ、アインズ様があのようなことをお望みになったとでもいうのか?」
「それは少し違いますね。あの事件そのものは、独断で私が計画実行したこと。もともと、アインズ様には結果だけをご報告するつもりでした。ちょうどあなたの目の前で、私とアインズ様は対峙することになりましたが、本来はあの場でアインズ様とお会いするはずではなかった。もっとも、あの後、アインズ様にはご説明いたしましたし、アインズ様のご助力の結果、計画は想定以上に上手く行きました。ヤルダバオトは世界の憎むべき魔皇となり、モモン様はそれに対抗しうる英雄の座に着かれた」
「ああ、そうだったな……」
ヤルダバオトとモモンが激しくぶつかりあった戦いを思い出し、イビルアイはボソリと呟いた。
「そうなったことで、エ・ランテルが魔導国に割譲され、アインズ様がその玉座に着かれる際に大きく影響しました。あなたもその時のことを何か聞いているのではありませんか?」
「……モモン様が、魔導王陛下に立ち向かい、結果、モモン様が魔導王陛下に下ることで、エ・ランテルの安全を守られたという話か?」
「そうです。その原因になったことも知っているのでしょう?」
「……たしか、子どもが……魔導王陛下に石を投げたと……」
自分で口に出したのに、その言葉はイビルアイの胸にも突き刺さった。
以前は、子どもの行動を当然だとしか思っていなかったが、今の自分には、全く別の意味に感じられた。
「その通り。――おかしなことだと思いませんか? イビルアイ。あの慈悲深いアインズ様が王になられるということは、その御手による庇護でこの上なく安全に守られるということです。それなのに……、それを受け入れられない愚か者どもが、一体どれだけいたことか!?」
デミウルゴスの口調はとてつもなく激しく、イビルアイはその中に込められた怒りの大きさに打ちのめされた。
――そうだ。人間はアンデッドを受け入れない。人間だけじゃない。その他の生き物もアンデッドを受け入れない。私だってよく知っていたはずじゃないか……。
「アインズ様は魔導国の民を守るために本当に力を尽くされました。しかし、彼らがアインズ様を受け入れるのに、一体どれだけの時間がかかったことか。今でも、まだアインズ様に対して反感を持っているものもいる。モモン様の御名声がなければ、恐らくもっと時間がかかったでしょう。それに、ヤルダバオトの存在がなければ、この世界自体も、アインズ様による支配を受け入れることはなかったかもしれません」
「それは……」
まさしく事実だった。
そもそも同じアンデッドであるイビルアイだって、最初は魔導王に対して反感や嫌悪しか抱いていなかったのだから。
モモンが誰からも認められる英雄でなかったら……。
ヤルダバオトという世界共通の敵ともいうべき存在がいなければ……。
エ・ランテルの市民が魔導王に抵抗して暴徒と化していた可能性もある。そうすれば、リ・エスティーゼ王国にも、少なくない被害が出ていたことだろう。
バハルス帝国やスレイン法国が完全に魔導国や王国と敵対して大規模な戦争が勃発したかもしれないし、場合によっては、蒼の薔薇の仲間たちもそれに巻き込まれて全滅していたかもしれない。
だが、問題はそれだけじゃない。
世界全てから拒絶されたとしたら、アインズはどうなってしまっただろうか?
あの強大な力を持つアインズが肉体的な傷を負うとは思えない。
しかし、心には恐らく大きな傷跡を残したことだろう。
アインズが生者に対する慈しみの心を喪い、八欲王のように凶悪な力で世界を滅ぼす真の魔王に成り果てていた可能性もある。今のエ・ランテルのように、平和で全ての種族が平等に暮らせる、イビルアイにとっての理想郷は生まれることすらなかったのかもしれないのだ……。
(アインズ様は、まだ生者に対する情を完全に喪っているわけじゃない。でも、アンデッドはいつそうなってもおかしくない。むしろ、私やアインズ様のように、敵意をもたないでいられる方が例外なんだ。そうだ、二百年前のあの時だって……)
イビルアイは古傷ともいえる苦い記憶を思い返した。アンデッド化することで無限の生命を得られても、アンデッドの特性に引きずられてただの化け物に堕ちてしまう、そんな者たちのことを。
それを考えれば、今のアインズは、ある意味奇跡のような存在なのだ。
イビルアイは、左手の指輪からじんわりと温かい熱のようなものを感じる。それは、イビルアイの冷たい身体も温めてくれるような気がした。
(ガガーラン、ティア、すまないな。でも、どちらかしか選べないとしたら、私は……)
確かにあの事件で王都には少なくない被害が出た。イビルアイも大事な仲間を一度は失うはめになった。それを全く何も思わないわけじゃない。
しかし、今のイビルアイにとっては、あの優しい骸骨を守ることのほうがもっと大切だった。
「……確かに、そうかもしれない。いや、間違いなくそうだったろうと思う」
イビルアイは肩から力を抜くと、静かに頷いた。
「あなたなら、きっと理解してくれると思っていましたよ。イビルアイ」
先程までの強い怒りは消え失せ、そこに立っているのはいつもどおりの穏やかなデミウルゴスだった。
長い間脅威としか思っていなかった、あのヤルダバオトの影はそこには既に全くなかった。
「ただ、一つだけ教えて欲しい。独断で、と言っていたが、下手をすればヤルダバオトは……世界中から追われることになったかもしれない。そうなれば、アインズ様にとっても痛手だったのではないのか?」
「そういう可能性が全くなかったわけではありませんが、きちんと手は打っていましたから大丈夫です。それに、それは私にとっての最悪の事態ではありませんから」
デミウルゴスは、まっすぐにイビルアイを見ている。
「私はアインズ様に自分自身の全てを捧げるつもりですし、アインズ様の御為になることであれば、今後も手段は選ばないつもりです。もちろん、アインズ様の御心に反しない程度には。――あなたは、どうなんですか?」
「わたしは……、わたしだってもちろん、そのつもりだ!」
ひどく真剣に問われて、イビルアイはむきになって答えた。
「結構。なら、この話はおしまいということでいいですね?」
「あ、ああ。その、ありがとうございます、デミウルゴス様」
相手が自分よりも高位の存在だったことを思い出し、イビルアイは慌てて軽く頭を下げた。
デミウルゴスは、気にしないとでもいうかのように無造作に手をふり、再び歩き出した。
その後ろ姿を追いかけながら、イビルアイはぼんやりと考えに沈んでいた。
イビルアイには、なんとなくデミウルゴスの気持ちはわからなくはなかった。
(恐らく、デミウルゴス様はアインズ様に必要とされたいんだろう。私だって、アインズ様に必要とされたいし、アインズ様のためなら多分なんだってやると思う。その覚悟だってある。でも、私が出来ることって何かあるんだろうか?)
ナザリックには、力でも知恵でもイビルアイよりも上を行くものがたくさんいる。特技といえば魔法の研究くらいだが、アインズは自分が及ぶべくもないレベルの魔法の大家だ。
側にいると約束はしたし、それをアインズは喜んでくれたようには見える。だけど、アインズの隣に座りたい人は、他にもたくさんいる。おまけに、王であるアインズは後継を強く周囲から望まれているが、自分は子どもを作ることすらできないのだ。
先程まで一緒にじょしかいをしていた面々を思い出して、イビルアイはため息をついた。
(アインズ様はあんなに慕われているし、尊敬するものも多いのに、何故、あの時、あんなにも、不安や哀しみをいだいているように見えたのだろう?)
以前、初めて自分の前にモモンとして現れた時の背中は非常に頼もしく、自分をどんな危険からも守ってくれるように思えた。
でも、自分の故郷の廃墟でのアインズは、まるで打ちひしがれた子どものようだった。
だからこそ、イビルアイは無性にこのひとを守ってあげなければ、という思いにかられたのだ。
今思えば、自分より遥かに大きな力を持つアインズを守るなんておかしな話だけれど。
不意にアインズが優しくしてくれたキスを思い出して、イビルアイは仮面の下で顔を真赤にした。
(それなのに、まったく、アインズ様ときたら! まさか、あんな風に誤解しているなんて思ってもみなかったぞ。でも、そういうところも、好き……ではあるかな……)
見た目はあんなに恐ろしいのに。知れば知るほど中身とのギャップが大きいように感じられる。
一緒にいたいのはもちろんだが、イビルアイも、アインズから必要だと言われたかった。
(でも……。私がアインズ様にしてあげられることって……何なんだろうか……?)
ナザリックの入り口近くでデミウルゴスに声をかけられるまで、イビルアイは深い思念にふけった。
しかし、いくら考えても、答えは出なかった。
佐藤東沙様、リリマル様、誤字報告ありがとうございました。
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次の更新についてなのですが…
次回以降は第四章の核心に入っていくことになります。ある程度ストックはあるものの、
まだ最後まで書き終わっていないので、今後修正が発生する可能性があります。
そのため、この後の部分については、第三章と同様に、
最後まで書き終わってからの公開ということにしたいと思います。
なるはやで頑張ろうとは思っているのですが、年度末なこともあり諸般の事情が重なりすぎているので
当初目標にしていた14巻発売には間に合わないかもしれません。
気長にお待ちいただけるとありがたいです(`・ω・´)ゞ
本当に申し訳ございません。優しい読者の皆様に深い感謝を…