今年もまた例年通りに四月になった。桜が咲き散りゆく様を酒に溺れる上司と共に眺める「お花見」という行事をこなしてから数日。俺はいつものように業務を終えて、電車で帰っていた。
世界でも随一の人口密度を誇るだろう我が国の電車には、なかなか慣れない。
押し付けられる体温。首筋にかかる、誰の物だかわからない吐息。原因を挙げればきりが無い。だけれど、この一日で、最もストレスがかかる瞬間を乗り越える方法を、俺は見つけていた。
それはソシャゲをプレイすることである。
学生の頃から初めたこの手のゲームに、社会人になった俺は更にのめり込んでいた。ちょっとした空き時間にプレイすることができるし、何よりお金をぶち込めば、快適にプレイできるところも個人的には素晴らしい。
適度に課金すれば、可愛らしい女の子やカッコイイ男が手に入ったり、強い装備を手に入れたり、仮想とは言え強い自分でいられるのだ。あの札束で他ユーザーを殴り倒す快感は、何事にも代えがたいものがある。
まあ実際、他の人は恋人や友達、更には結婚してできた家族らに使っていることは分かっている。だけれど、俺はそのどれも持ち合わせていない。こっちにつぎ込んだって誰も文句は言わないだろう。
最寄り駅に到着したところで電車を降りる。この後の予定は家に帰る……訳では無く、居酒屋に行くと決めていた。一人飲みだ。アルコールでテンションを上げながら、黙々とイベントを周回する。毎週金曜日になると俺がやっている儀式、というかストレス発散法だ。
好きなものを飲み食いして、好きなだけゲームして、嫌いな洗い物をせずに帰って寝られるとか、控えめに言って最高だろう。この時間があるからこそ、平日に仕事を頑張っていられていると言っても過言ではない。
駅の目の前にある居酒屋に引き戸を引いて入る。カウンター席に陣取ると、メニューを見て心赴くままに注文。スマホを取り出して、イベント周回を始める。
注文した品々をビールと共に摘まみつつ、心の洗濯を三〇分ほど続けたところで、普段とは違う出来事が起こった。カウンターの対極にいた人物がこちらに来て、肩を組んできたのだ。
そんな事をされたのは初めてで、驚いた俺の体がビクッと跳ねた。
「キミもそのゲームやってるの?」
耳元で囁かれる。自分の声よりも数段高いトーン。左を見ると紅色の口紅が目に入った。どうやら女性らしい。アブラマシマシなおっさんじゃなくて良かったと、心の底から安堵した。
でも、突然の事で戸惑っていることは変わりない。どうして女性がこんな隅でスマホを弄っている男に話しかけてくるのかさっぱりわからないからだ。
未だに言葉を発せていない俺に対して、隣の彼女は「あっ」と声を漏らしてから拘束を解く。そして隣の椅子に陣取った。
「いきなりごめんなさい。急にこんな事されたらびっくりするよね」
えへへ、と頭をかきながら彼女は笑う。
距離が取られて、その全体像がようやく把握できた。肩まで伸びる髪は夜空から切り取って来たかのような漆黒。シャープな吊り目、すらっと高い鼻、手足も細く長い。ナイフ、というよりも針状結晶。細く、鋭く、美しい。そんな印象を受けた。
そんな彼女に俺はハッキリ言って見惚れてしまって、口を聞くことができない。
「何か言って貰えない? 流石に無口なままだとコミュニケーションが取りづらいよ」
「ああ、すいません。想像していた相手とはあまりにかけ離れていたもので」
「あら? 今日は、待ち合わせとかしてたの?」
今日は、という部分を強調して言った。俺は首を振って否定する。
「いいえ。そんな事はありませんけど」
「ハハッ、だよね~。
「指差しながら笑わないでください」
目尻に涙がにじむ程に爆笑していた。全く、失礼な女だ。見とれていた俺がアホらしいじゃないか。というか、見られていたとは思わなかった。彼女もよくここに来るのかもしれない。
彼女は人差し指で涙を拭ってから再び話し始める。
「いやー、ゴメンゴメン。ツボに入っちゃって……」
「はぁ、それで? 一人の俺に何の用ですか。まさか、笑いに来ただけとは言いませんよね?」
「いやいや、流石に私もそこまで酷い人間じゃないよ。ほら、えっと……。これだよ。これ」
彼女はポケットに入っていたスマートフォンを取り出すと、画面を切り替えてから突き出してきた。
そこには俺がたった今やっていたゲーム『パズル&モンスターズ』、縮めてパズモンのタイトル画面が映し出されている。
「君、いつもここに来てからスマホでゲームしてるでしょ? 日によってタイトルは違うけど」
「やっぱり、見てたんですね」
「うん。私もよく来るから。結構な頻度で近くに居たんだけどなぁ……。気が付いてなかったんだ?」
彼女は再び頭をかいた。そうは言われても、気が付いていない物を気が付いているなんて、言える訳もない。嘘は、付くのも付かれるのも苦手だ。というか……
「俺のことをあれだけ酷く言っておきながら、貴方も一人だったんじゃないですか」
「まあね~。でもいいじゃない。一人、楽しいでしょ?」
「……まあ」
「私も同じよ」
彼女は元の席からジョッキを持って来て、半分以上残っていたビールを飲み干した。
「じゃあどうして、俺の楽しい一人の時間に水を差すような真似をしてきたんですか?」
「うーん。なんでだろう?」
「えぇ……分からないんですか」
首をひねる彼女に呆れる。まあ、酔っぱらいの言うことだ。いちいち正当性を求めるのはどうかと思う。だけれど、自分の時間が邪魔された理由ぐらいは知っておきたい。
彼女は頬杖をついて、俺をじっとを眺めていた。
「いや、理由がない訳じゃないんだよ。説明するのが難しいだけで。そうだねぇ、例え話をしようか」
「例え話?」
「うん。私が君に話しかけた理由を説明するには丁度いい」
ため息をつく。無理に追っ払った所で、まともに取り合ってくれるとは思えない。適当に、話半分に聞いて、彼女が満足してくれることを願うことにした。
「……分かりました」
「ありがとう」
例えば、と彼女は前置きをして、俺が食べていた唐揚げを指差す。
「ある人物は居酒屋で隣の人が食べている物を食べたくなったの。でも、名前が分からない。そういう時、君だったらどうするかな?」
「店主に聞くと思いますよ。『あれが食べたいんだけど、名前なんて言うの?』とか『あれと同じものを下さい』って」
「そうだね。それが普通。だけどその人は食べ物の名前が分かったの。それで注文して、運ばれてきた。でも、肝心な食べ方が分からなかった」
「食べ方が分からない? でも隣で食べているんですよね?」
「勿論。隣で、おいしそうに食べてる。でも分からないんだ。だから聞くことにした。その食べ方、その楽しみ方をね」
これで例え話は終わり。そう言って彼女は言葉を区切った。
俺は彼女の言っていることが分からない。
食べ物は見えた。名前は分かった。だから注文できた。ここまでは分かる。分からなかったのは、隣で食べているのにも関わらず、食べ方は分からない。という所だ。
考えられることは、実は別室だったとか、口元が見えなかったとか、とらえきれない程早く食べてしまったとか。それぐらい。だけれど、そのどれもが本題からそれている気がした。
「全然、全くもって貴方の意図が汲めませんでした。何が言いたいんですか?」
「その『訳が分からない』って感情、かな?」
「何が言いたい……んです」
崩れた口調を立て直す。勝手に話しかけてきて、頭の中をかき回すような話をしておいて、何のつもりだ。そう言いたい気持ちを抑えつつ、再び彼女の話に耳を向けた。
「君には私の追体験をしてもらった。ここ数日の私は、今の君みたいな気持ちの持ちようでね。モヤモヤと霧がかかったような気分を、解消したかった。だから話しかけたの」
俺は今一度例え話を整理する。つまり、客目線での追体験。客が彼女で、話しかけられた隣の客は――
「……俺が、貴方にとっての隣の客ですか」
「そういうこと」
「で、何が聞きたいんですか。こんな隅っこで飯食ってるサラリーマンから」
俺はため息をつく。その後、唐揚げを一つ口にした。アツアツとはいかないが、中身はほんのりと生暖かく、まだ美味しくいただける許容範囲。
俺がそんなに訳の分からない物を注文した覚えはない。そもそも、ここの居酒屋は大衆的な家庭料理が大半で、特殊な物は出てこないはずだ。
「それは最初から言ってるじゃない。ゲームよ。ゲーム。落としてみたのは良いけど、やり方がいまいちわからないの。横から見てても何しているのか分からないし。その癖に楽しそうで、なんか、気になったの」
そう言ってまた最初の時と同じようにスマホを突き出す。
料理はゲーム、食べ方はプレイ方法か。ようやく例え話が理解できた。でも、こんな話しなくても、最初からそう言えば良かったのに。この人、結構回りくどくて、面倒くさいな……」
「ねぇ、ブツブツ言っているの聞こえてるからね」
「おっと、失礼しました。これは聞かなかった事にしていただけませんか」
「いや、できないから! 君結構酷くない!? 懇切丁寧に説明したのに面倒だとか!」
彼女は白い八重歯を見せ、怒りを露わにする。でも、何というか怖くない。怒り慣れていないのだろう。家のオカンとは天と地の差。可愛らしいものだ。
でも、まあ……無意識とはいえ悪口を声に出してしまったのは良くない。俺に非がある。ここは素直に謝っておくべきだろう。
「申し訳ありません」
「むー……」
彼女は一丁前に頬を膨らませて見せる。小学生かよ。俺より年上っぽいのに、幼さを残したような感じは嫌いではなかった。
でもこのまま機嫌を損ねる続けるのは気が引ける。ただですら面倒な人なのだから、これ以上は何されるのか分かったものではない。
「はぁ……分かりました。俺は貴女にゲームのやり方をレクチャーすればいいんですか?」
「え、本当にしてくれるの?」
「ここで放って置くのも後味悪いでしょう。付き合いますよ、それぐらい」
ゲームをプレイするユーザーが増えるのはサービスが続く可能性を上げる。それに自分が楽しい事を他人に教えるのは嫌いじゃない。
「じゃあ、早速だけど――」
それから彼女とゲームをした。まずはチュートリアルからソロプレイ。基本『習うより慣れろ』の精神でやらせつつ、苦戦した所に解説を入れた。
想像していたよりもポンポンと先に進んで行く。さっきの説明からそこまで器用ではないと思いきや、そうでもないようだ。説明するのが下手なだけで、単体としてならば見た目通り『できる女』なのだろうか。まあ、これも予測であって事実ではないが。
ある程度慣れてきた所で、マルチプレイに切り替える。俺もスマホでゲームを立ち上げて、適当に最初のうちでもクリアできそうなステージを選択。彼女を『通信部屋』に呼び出した。
「このプレイヤーが君かな?」
「そうですね」
「随分とレベルが高いね。長くやっているんだ」
「それもありますが……まあ、課金してますからね」
成程、と彼女は頷く。お互いの準備が終わった所で俺はスタートボタンを押した。交互にパズルを解き、モンスターにダメージを与えていく。
俺が二回目のターンを終え、ボスに到達した所で彼女は口を開いた。
「なんというか、気持ち悪い動き方をするね。君の画面」
「いきなり、何ですか。その言い草は……」
「ああ、ごめんよ。悪気があった訳じゃ無いんだ。私にはできない動き方をしたものだから、つい、ね」
「まあ、そう慌てて取り繕わなくても大丈夫です。言われ慣れてます。実生活では何の役にも立たない特技ですからね」
否定されることはよくある。どんなゲームでもやればやるほど、友人が離れていったりする。親に「そんなことして何になる」と言われるのは日常茶飯事だ。思い出すと少しだけ気持ちが重くなる。
彼女はそんな俺の背中をいきなり強く叩いた。
「痛った! いきなり何すんですか!」
「そう悲観的にならないの。良いじゃない、特技が無い奴よりもマシよ。それよりも今の、どうやるのか教えてよ」
彼女は俺の手を握って、グイグイと引っ張った。とっさに引かれた手にじんわりと体温が伝わってくる。こんなことをされたのは初めてで、何だか気恥ずかしい。顔から火が出る思いだ。その気持ちを打ち消すために画面に集中する。
「分かりました。じゃあまず――」
自分の画面を見せつつ指の動きを見せる。彼女はじっと動きを観察すると、自分の画面でそれを実行してみせる。
たった一度見ただけで、ものの見事に決めて見せた。モンスターの攻撃がボスの体力を削り切る。彼女はぐっと拳を握った。
「いえーい。完全勝利っ!」
両手を上げて、はしゃぐ彼女。そして、手を俺に向けた。
その行為に意味を見いだせない。俺は呆然としていると彼女が急かす様に手を振る。
「ほら、ハイタッチ、ハイタッチ!」
「はぁ」
手を差し出す。
「いえーい」
「……イエーイ」
「棒読みだね。嬉しさが感じられないけど……ま、いっか」
彼女の手の平は俺の手をミートする。パチンと乾いた音がした。彼女は指を組んで、真上に伸びをする。「んー」と間伸びた声が唇から漏れた。
「あー楽しかった。今日はここまでかな。終電、無くなっちゃうからね」
時計を見ると、時間もそこそこ。明日は土曜日とはいえ、まともな生活リズムを維持するのなら、ここらが潮時だろう。
「そうですか。じゃあ俺も帰ります」
「ふーん。なら丁度いいや。すいませーん。会計、この人と一緒でお願いしまーす」
「なっ!?」
この女、俺の一人の時間を削った挙句、奢らせる気なのか? なんて女なんだ……。関わらずにとっとと逃げておけばよかった。でも、ここで変にいざこざを起こすと面倒事になりそうだ。ただでさえ相手は女性。それも美人だ。周りの人は俺の様な冴えない男の主張より、彼女の事を信じるだろう。知らない女性に関わるべきではないという経験に、高い授業料を払わなければならないのか……。
そんな思考を巡らせていると、肩に手を置かれた。
「ここは私が持つよ。いろいろと教えて貰ったお礼って事で」
「……本当ですか」
「勿論。嘘は付かないよ」
あれだけ無神経に話しかけてきた割に、常識的、という訳でも無いが、俺に不利になる条件ではない。何か、裏がある。世の中そんなに甘くないはずだ。
「でも、なんでですか?」
「だって、楽しかったからね。不躾なお願いにも係わらず、君は受け入れてくれた。この時間は私一人では味わえない素晴らしいものだった。良いものには、少なからず対価を払いたくなるのは人情だよ。違う?」
「それは、ありがたいですけど……」
予想外な展開すぎてついて行けない、というのが本音だ。戸惑う俺に対して彼女は堂々と続ける。
「だから、私は“君に課金した”って思ってくれればいいよ」
彼女は支払いを終えて、店の入り口である引き戸を開けた。ガラガラと音が立つ。
「じゃあ私はこれで。いつか、また会えるといいね」
柔らかな微笑をチラリと見せて、暖簾をくぐった。
一晩だけの出会い。一度きりの出会い。彼女と出会う事はもう無いと思っていた。
その思考に対する答えは否である。これは序章。彼女とはこの先何度も出会う事となる。それはもう
でも、この時の俺にはそれを知る術は無かった。